人は知らない。ただからだが知っている

このQ&Aのポイント
  • 思想の内容が使用価値としてあるか無いかが問題なのではない。問われているものはそれが交換されるかどうかなのだ。
  • ただの愚痴と御ふざけから成る意識の排せつ物が市場に出回り、売れるからだ。ひとはこの事実を知らないが、からだで知っていておこないに移す。自己表現は交換価値の追い求めとその流通にある。
  • 箸にも棒にもかからない文章が金に成り、人びとはこの商品にひざまづく。意識の排泄物も豊かな飲み物になる。ひとびとはからだが狂喜乱舞しているのであろう。
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《ひとは知らない。ただ からだが知っている》

 《 Sie wissen das nicht, aber sie tun es. 》 ( K. Marx )  思想の内容が――使用価値として――あるか無いかが問題なのではない。  問われているものは それが 交換されるかどうかなのだ。  かくて ただの愚痴と御ふざけから成る意識の排せつ物が 市場に出回る。売れるからだ。金になる。  ということを ひとは知ってはいない。考えてなどいない。けれどもすでに からだで知っていて おこないに移す。自己表現は 交換価値の追い求めとその流通にある。われは この《商品》の自己運動に貢献する一員なりと 知らずに 振る舞っている。  たとえば フリッツくんと呼ばれる商品である。箸にも棒にもかからない文章が 金に成る。人びとは この神の前にひざまづく。ひざまづいてその文章を擁護する。  意識の排泄物も トンスルなる滋養豊かな飲み物になるのだと。  ディオニュソスの狂い節は ベートーベンの歓喜なりと いとも簡単に検事側の主張がとおる。  ひとびとは からだが狂喜乱舞しているのであろう。  とでも受け留めなければ 世界は解せないのではないだろうか?

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noname#214841
noname#214841
回答No.1

ニーチェ『悲劇の誕生』の最初の章では、アポロン的夢幻とディオニュソス的陶酔とは何であるか、その用語解説がなされてゐるのであつて、ベートーベン『よろこび』がディオニュソス的であるかどうかが論じられてゐるわけではありません。ディオニュソス的が何なのかわからない状態において、それは、『よろこび』のやうなものですよ、とニーチェは語ります。ディオニュソス的はこれだ、と決めておいたあとに、『よろこび』が合致するかどうかを論考してゐるのでありません。『よろこび』こそがディオニュソス的の意味なのです、と説明してゐるだけです。 「ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結びあわされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである。」 (『悲劇の誕生』秋山英夫訳 岩波文庫35ページ) 『よろこび』の記述の直前に、ニーチェ自身がこのやうに記述して、その意図を明らかにしてゐます。 アポロン的とディオニュソス的の対比は、「造形」と「非造形」の相違であることを、冒頭で記載してゐますが、アッティカ悲劇をひきあひにだして、決して二元論(二項対立)ではないことも明確化してゐます。私が思ひうかべるのは、別質問に書きましたが、アポロン的な代表は『オイディプス王』で、ディオニュソス的な代表は『蛙』、そして入り混じつたものは『バッコスの信女』です。 私はワーグナーはあまり聴きませんし、ショーペンハウアーは1冊も読んでゐません。『悲劇の誕生』は、30年ほど前に、アリストテレス『詩学』との比較において読んだだけで、さほど印象に残つてはゐません。いづれにせよ、西洋の著作を語るうへで、ギリシャローマの古典は欠かせません。読者にその知識があることを前提にして、文章が書かれてゐます。聖書の影響力についてはこのサイトでもしばしば論じられますが、ホメロス、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス、ウェルギリウス、ホラティウス、ユウェナリスなどについて目にしないのは寂しく感じます。ヘレニズムとヘブライズムの両者の観点から書かれたものとしては、エラスムスがニーチェの表現方法に近いのではないでせうか。ニーチェは古典文献学の専門家といへる人ですので、この視点を抜きにしては語れません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ディオニュソス的はこれだ、と決めておいたあとに、『よろこび』が合致するかどうかを論考してゐるのでありません。『よろこび』こそがディオニュソス的の意味なのです、と説明してゐるだけです。  ☆ はっきりしませんね。  ベートーベンを持ち出していることと その第九の歓喜によってディオニュソス的なるものが少しは理解できるであろうと言っていること これらは確実だと思われます。  そのことが当たっているかどうかを問うています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結びあわされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである。」  (『悲劇の誕生』秋山英夫訳 岩波文庫35ページ)  『よろこび』の記述の直前に、ニーチェ自身がこのやうに記述して、その意図を明らかにしてゐます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この引用されたくだりの直前には こうあります。  ▲ (ディオニュソス的なるもの) ~~~~~~~~~  世には経験不足か 鈍感のせいか こうした現象(* つまり《恐怖と恍惚感と陶酔》の中にあって《群衆が歌いながら踊りながら村から村へと波打って行った》ところの・中世における聖ヨハネ祭や聖ファイト祭)をさも《民衆病》とでもあざけり笑ったり気の毒がったりしながら顔をそむける人々がいる。こんなあわれな人々は ディオニュソス的熱狂者群の燃えさかる生命が彼らのかたわらをどよもし過ぎるとき ほかでもない この彼らの《健全》が どれほど屍色がかって幽霊じみたものにみえるかに もちろんいっこうに気がついていない。   (『悲劇の誕生』 西尾幹二訳  〈1〉)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者の提起する問題は ベートーベンの《歓喜》は じつは・ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。はずだ。というものです。  早い話が 《魔力によって》人びとの人間性とその互いの絆が回復されたことは 果たして健全なのか? です。まだ結着はついていませんね。  ★ アポロン的とディオニュソス的の対比は、「造形」と「非造形」の相違であることを、冒頭で記載してゐますが、アッティカ悲劇をひきあひにだして、決して二元論(二項対立)ではないことも明確化してゐます。  ☆ これは 重要な論点ですね。  けっきょく一度言っていることは ねらいが《アポロン的とディオニュソス的との――かんたんに言うと――弁証法的な総合》だと見ることにあるらしい。(〈1〉の初めから第三パラグラフ。《最終的に ディオニュソス的でもありアポロ的でもある芸術作品 アッチカ悲劇を産み落とすことになる》と)。  そうしてわたしは アポロンひとりの内にそれら二つの要素もそれ以外のものもふくまれているはずだと見ています。いえ というよりは ディオニュソス的なるものが狂気による狂喜であれば それはよほどの例外として捉えておくに過ぎないとも見ます。  つまり早い話は ベートーベンの第九は いまの意味でアポロン芸術であると見ます。  ディオニュソスは お呼びでないという見方です。  質問は 専門家の見解をおしえて欲しいということでしたが いまは 質問者のいだく見解について問うかたちとしました。  ★ アポロン的な代表は『オイディプス王』で、ディオニュソス的な代表は『蛙』、そして入り混じつたものは『バッコスの信女』です。  ☆ よろしかったら その入り混じった作品について 検証してみてください。  ★ ニーチェは古典文献学の専門家といへる人ですので  ☆ その文献学としての著述にはなっていませんね。勝手に羽根を生やして飛んで行ってしまっているとしか考えられません。  ▲ (ニーチェ:自己批判の試み) ~~~~~~~~~  しかし 当時 私の青春の血気と猜疑心とを発散させたこの書物――このなんともありうべからざる書物が これほどまでに青春にそむいた課題のなかから生まれざるをえなかったとは! ことごとく時機尚早の青二才の自己体験から築き上げられた書物。[・・・]  要するに ことばのいかなる悪い意味においても処女作であり その老人じみた問題意識にもかかわらず 青春のあらゆる欠陥 とりわけ 青春に特有の《冗長さ》と《疾風怒濤》とにつきまとわれている書物である。  (書物の末尾にそえられている《自己批判の試み》のくだり)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり この自己批判だけでは足りない。つまり 絶版にするか。マチガイを正しておくか。しなければいけない。――という意味での・いまにおける批判です。

その他の回答 (2)

noname#214841
noname#214841
回答No.3

回答番号1,2のplapotiです。コメントの意味がわかりかねるのですが、ニーチェの書いてゐるとほりに読めばいいのではありませんか。後の著作とは異なり、かなり素直な文章です。(だからおもしろみに欠けるのですけれど。)ねこさんのやうに、ワーグナーを聴きこんでゐる人には興味深い内容なのでせうが、私はギリシャ古典への批評として読んだだけで、物足りなさを感じました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが レトリックとして俯瞰法を用いるというのは もっとも悪く解釈すれば 全体主義のやり方だということになります。  その保守のための ゲシュタポの機能を果たしている。  それが ニーチェという商品の擁護・弁明にあたっている。  そのために俯瞰の絵図が動員されている。  これが わたしの率直な受け留めです。  主題についての問い求め 互いに自由な実存を求めつつ対話を推し進めること そのような心つもりは 見られない。こういう意味です。  たぶん 資本主義の――と言いますか 資本主義は むしろもっともっとあたらしい思想をも積極的に受け容れる動きなのですが したがって《商品》崇拝の・つまり何ものをも商品として価値を持たせこの仕組みを保守するという商品の論理を身をもって現わすところの資本主義の――いわゆる物象化の姿なのだと考えます。すでに刷り込まれているものと見ます。  人間が・その心が・その知性が 《商品の流通という物象と化したすがた》 その姿としてのみ自己表現をおこなっている。  こういううたがいです。

noname#214841
noname#214841
回答No.2

回答番号1のplapotiです。コメント拝見いたしました。 >この自己批判だけでは足りない。つまり 絶版にするか。マチガイを正しておくか。 私もさう思ひます。若いころ『悲劇の誕生』を読んだとき、おもしろくありませんでした。笑ひが足りません。ニーチェはやはり『ツァラトゥストラ』です。ただし二元論(二項対立)は表現上のものにすぎない、などといつた基本姿勢を知るうへでは重要な書物であると思つてゐます。 >その入り混じった作品について 検証してみてください。 ニーチェの頭の中には、たとへばこのやうな作品があつたのではないかと推測するだけで、検証するほどの材料があるわけではありません。ソポクレスの悲劇では、アポロンの定めによつて、人間の善意の行動がすべて裏目にでて、破滅へと、規律ただしく進行してゆきます。アリストパネスは、笑ひによつて何でも容認してしまひます。エウリピデスのバッコスは、優しさと恐ろしさを兼ねた神です。 >ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。 これは反対ではありませんか。ディオニュソス的なものを非難する人たちが、みづからは「健全だ」と主張してゐるだけに読めます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  修辞学は 哲学の誇りとするところではないと考えます。  白黒をつけないことと 字面で白黒をつけないかたちで表現しつつ みづからの持論や前からの意見を少しも変えないこととは 別です。後者の手口が見て取れます。これは 修辞学の問題のみとして対話がおこなわれていることを表わしています。  だから 《商品の論理》が身と心とに染みわたっているのではないかという問いになります。  さて:  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~   質問者の提起する問題は ベートーベンの《歓喜》は じつは・ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。はずだ。というものです。   早い話が 《魔力によって》人びとの人間性とその互いの絆が回復されたことは 果たして健全なのか? です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに答えておられるとは到底思えません。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。  これは反対ではありませんか。ディオニュソス的なものを非難する人たちが、みづからは「健全だ」と主張してゐるだけに読めます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 中世の村でおこなわれたディオニュソス風の祭を《民衆病》だとしてあわれんだふつうの人びとの《健全》の側に ベートーベンの《歓喜》がある。なぜなら 一見《そのようなディオニュソス風の祭をとおして人間性を取り戻し互いの絆を回復したと思われるのは あくまで〈魔力によって〉である》と考えられるからである。  つまりこれだけでは話が不案内だとすれば それゆえ《恐怖と恍惚感と陶酔》といった要素を取り上げて質問をしてます。それらの要素を持つディオニュソス的なるものが 第九の歓喜と共通であるのか? と。  もし それでも結果として《人間性やまたその自然のあり方が取り戻される》というとすれば それは ディオニュソスの問題ではなくアポロンのほうだと問題提起しています。ですから ディオニュソスはお呼びではないのだと。  ディオニュソスの要素があったからアポロンによる対立物の総合があったというのも 噴飯ものです。要らないのです 恐怖と恍惚感と陶酔は。そういう契機が 人生にはあるというだけの問題なのです。  ★ ソポクレスの悲劇では、アポロンの定めによつて、人間の善意の行動がすべて裏目にでて、破滅へと、規律ただしく進行してゆきます。  ☆ ですから アポロンには 考えられる要素のぜんぶがあると申し上げています。  そして  ★ ただし二元論(二項対立)は表現上のものにすぎない、などといつた基本姿勢を知るうへでは重要な書物であると思つてゐます。  ☆ というその相い対立する二項を ディオニュソスはその一項として成さないという問題です。  もっと議論を継ぐなら 推理小説の題材にはなるかも知れません。その狂気と狂喜がです。    けれども 考えてみてください。現代ではそのようなディチュランボスは けっきょく例外だとされています。つまり 生活のどこかにあってもらわなければならない要素であるのではなく あってもらっては困るものであり 要らないものなのです。昔にどこかの谷川にでも流して来たものです。  その例外なる要素が引き金になって 事件が起きたとします。それを 推理小説が扱うといういまの話ですが けれども現代人は――ノンフィクションと言えども 虚構作品として書きドラマ化するわけだからでもありますが――けっきょく何とか《ふつうの健全な心と生活態度を踏まえてその上で 魔が差したとか辛い体験を味わったことから来るその反動が行き過ぎたのだとかといった情状酌量の調味料をふりかけて表現するようになっています。  そういう意味において《例外》です。要らないものです。ディオニュソス的なるものは まだ《わたしがわたしであること》を知らない昔の人間の話です。《わたし》が自覚されても マチガイは起きますし そのマチガイを起こす原始心性がまったく無くなったわけではありません。ありませんが その取り扱い方が 違って来ています。  たとえば 機械ないし器械に名前をつけてあたかも自然の生き者であるかのようにあつかう態度 このようなところにその原始心性は 《生き延びて》いると言えばそうであるのではないでしょうか? けれどもその要素は すでに(あるいは元から) 言ってみれば《アポロン》の中にそなわったものです。  《トンスル》を飲み《試し腹》なる習俗をもしいまも保ちおこなっているとすれば 或る意味でディオニュソス的なるものでしょう。それが 現実にあるということに確かになります。しかも それらは 生活のひとつの要素だとはわれわれは 見ないのです。三途の川に捨てて来たものであり その亡霊が出ても 意に介しません。(実害が出れば それとして対処しますし それだけのことです)。  議論の中身は一向に放っておいて ただただレトリックで話をすすめておられる。(今回の手は 《俯瞰図を描く》という奥の手であるようにお見受けします。俯瞰するその視点に立てば まだまだネバレルと思ってのことでしょうか?)。 何かと紛糾したように見えると その夢幻境にのがれて行かれる。のではないですか?

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    問 人間は、尊重や賞賛を自分なりに分配する場合に一様ではない。彼は、いくつかの価値に不当に敏感であるが、他の諸価値には割合、無関心である。彼は、彼の仕方の中にはめこまれる。そして彼の直接的実感や納得は、彼が意識しないうちに形成された習慣が設定した溝の中を往復するのである。だから価値の自発的「直感」は、どうしてももたなければならないとしても、それは、帰結に関する自分の観察や、帰結の性質や範囲に関する反問による訂正、すなわち、確証と修正の支配をうけるのである。 こうした過程にあたえられるふつうの名前は、熟考である。習慣的になっている道徳的熟考にあたえられる名前は、良心である。この性質は、何らかの行動なり提案された目標なりのさまざまな現実的可能性への周到な注目によって、つくりあげられる。この性質をもつことが、直接的な感覚的欲望や情熱によって不当に支配されたり、慣習的行動の溝に落ち込んだりすることを容認しえない人々の特徴である。じつのところ、「過剰良心」とよばれる性質があるが、これは、悪徳とそれほど大きく違わない。過剰良心は、自分が本当に善であるかどうかについてのたえざる不安を意味し、困惑や行動の自縛や病的恐怖をものがたる道徳的「自己意識」を意味する。それは、ほんものの良心のカリカチュアである。なぜなら、ほんものの良心は、「動機」が善であるかどうかをあばきだすために、動機を気づかわしくせん索すること、行動の内的発条をいじりまわすことではないからである。 僕の要約 人間には敏感になる価値観と、無関心な価値観とがある。直接的実感や納得は、無意識の中で起こるものである。(その後の確証と修正の話は意味がよくわかりませんでした。) 直感の確証と修正は、熟考と呼ばれる。習慣になっている=修正を受けないものは、良心である。熟考も良心も、目標やありえる可能性を目指してつくりあげられる。それこそが、理性的に判断・行動することができるということである。過剰良心=悪徳=道徳的自己意識=ほんものの良心の誇張←自分が善であるかどうかについて悩み、行動にブレーキをかける。ほんものの良心=過剰良心=悪徳=道徳的自己意識は、動機についてはせん索しない。 不明点 ・何の価値に敏感で何の価値に無関心なのですか? ・無意識で彼の仕方にはめられるのに、修正を受けるのですか? ・習慣的になっている道徳的熟考=良心というのが「?」です。 ・突然、「じつのところ、過剰良心という性質が…」とはじまりましたが、直前の文章とのつながりがよくわかりません。 ・自分が善であるかで悩み、困惑や行動の自縛ということと、動機を気づかわしくせん索しないということの、イコール関係がわかりません。むしろ反対のことを述べているように感じます。 選択肢 1.人間は、自分の直接的実感による価値を認めるが、それだけの価値観によると自分が本当に善であるか絶えず不安になり、過剰良心の状態に陥る。 2.道徳的な熟考が習慣化されると良心という性質になるが、この性質は慣習的行動の溝に落ち込まないように、行動の動機を道徳的に正すものである。 3.感覚的欲望や情熱によって行動することは、過剰良心と同様に悪徳であるので、価値判断から感覚的欲望をすべて排除しなければならない。 4.良心は、行動の動機が善であるかどうかをせん索するものではなく、行動の結果に十分に配慮するものである。 5.道徳的熟考が習慣化すると、その熟考に基づく行動の動機は善となり、また、その行動の帰結も道徳的なものになる。

  • ハラスメントは 観念の運河をゴンドラでやって来る

     〇 パワハラ・セクハラは 人びとのあたまの中にすでに歴史的に穿たれた観念の運河(共同幻想)をクウキなるゴンドラに乗ってやってくる  1. 玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  ――共同なる観念 または 幻想。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年千五百年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  2. では このクウキは 何で出来ているか?  3. 思うに マクロとして アマテラス公民のお上としての無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波である。両者は 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の二階建て構造として 互いに相似形を成している。  4. いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出て来る。意識のウンコである。虫の居所がわるかったか。あるいは 虫の居所によってクウキの香りもよくなる。  5. ゴンドラを漕げば 国民も右へ倣えでそれにしたがう。反対してもよいが 反旗を掲げても 同じ運河を通るしか自己表現することがむつかしい。運河の一画を通せんぼしてみるわけだ。  6. かくて パワハラもセクハラも この水路をすすむ船を同じくするかぎり いかに反対をさけんでも むなしい。・・・  7. ・・・か? 哲学は何と言うか?

  • 先進国になるほど少子化が加速、少子化対策がされているのは何か理由がある

    先進国になるほど少子化が加速、少子化対策がされているのは何か理由があるのでしょうか? 日本では今や少子化が問題となっています。 しかし、その流れは、日本が経済成長期半ばで、まだ先進国の仲間入りをしていなかった時に、その当時の先進国の間で問題化していた事と思われます。 子供を育てるのに金銭的に乏しく、少子化が進んでいるのではなく、精神的な構造や価値観の違いから少子化が進んでいるようにも思います。 今、育児手当など金銭的な解決を模索しているようですが、裕福な家庭こそ、少子化が進んでいると思うのです。 少し昔の人々の価値観と今の子育て世代の価値観とは、多くの隔たりがあり、結婚=出産とは考えられない、子供が欲しくない家庭が増え続けているように思います。 子供に手がかかるのが嫌だ、親の時間が子供に取られるのは嫌だ、夫婦間でも互いに束縛されたくないとか・・・只、籍を入れているだけの関係の夫婦も多くなってきているようです。 それらは、先進国になればなるほど見られる傾向で、抜本的な意識改革がされない限り、少子化は解決に向かわないものと思います。 しかしながら、意識の改革は、全て個々の個人の自己判断であり、他からの圧力や強制により成り立つものではないと思いますのでとても難しい問題でもあり、全ては自然の流れに任せるしかないとは思いますが、このままでは近いうちに移民の割合がとても多くなりそうにも思います。 日本人の子供を国内で増やすにはどうすれば良いと思いますか?