• 締切済み

文章のつながりがよくわかりません。

問 人間は、尊重や賞賛を自分なりに分配する場合に一様ではない。彼は、いくつかの価値に不当に敏感であるが、他の諸価値には割合、無関心である。彼は、彼の仕方の中にはめこまれる。そして彼の直接的実感や納得は、彼が意識しないうちに形成された習慣が設定した溝の中を往復するのである。だから価値の自発的「直感」は、どうしてももたなければならないとしても、それは、帰結に関する自分の観察や、帰結の性質や範囲に関する反問による訂正、すなわち、確証と修正の支配をうけるのである。 こうした過程にあたえられるふつうの名前は、熟考である。習慣的になっている道徳的熟考にあたえられる名前は、良心である。この性質は、何らかの行動なり提案された目標なりのさまざまな現実的可能性への周到な注目によって、つくりあげられる。この性質をもつことが、直接的な感覚的欲望や情熱によって不当に支配されたり、慣習的行動の溝に落ち込んだりすることを容認しえない人々の特徴である。じつのところ、「過剰良心」とよばれる性質があるが、これは、悪徳とそれほど大きく違わない。過剰良心は、自分が本当に善であるかどうかについてのたえざる不安を意味し、困惑や行動の自縛や病的恐怖をものがたる道徳的「自己意識」を意味する。それは、ほんものの良心のカリカチュアである。なぜなら、ほんものの良心は、「動機」が善であるかどうかをあばきだすために、動機を気づかわしくせん索すること、行動の内的発条をいじりまわすことではないからである。 僕の要約 人間には敏感になる価値観と、無関心な価値観とがある。直接的実感や納得は、無意識の中で起こるものである。(その後の確証と修正の話は意味がよくわかりませんでした。) 直感の確証と修正は、熟考と呼ばれる。習慣になっている=修正を受けないものは、良心である。熟考も良心も、目標やありえる可能性を目指してつくりあげられる。それこそが、理性的に判断・行動することができるということである。過剰良心=悪徳=道徳的自己意識=ほんものの良心の誇張←自分が善であるかどうかについて悩み、行動にブレーキをかける。ほんものの良心=過剰良心=悪徳=道徳的自己意識は、動機についてはせん索しない。 不明点 ・何の価値に敏感で何の価値に無関心なのですか? ・無意識で彼の仕方にはめられるのに、修正を受けるのですか? ・習慣的になっている道徳的熟考=良心というのが「?」です。 ・突然、「じつのところ、過剰良心という性質が…」とはじまりましたが、直前の文章とのつながりがよくわかりません。 ・自分が善であるかで悩み、困惑や行動の自縛ということと、動機を気づかわしくせん索しないということの、イコール関係がわかりません。むしろ反対のことを述べているように感じます。 選択肢 1.人間は、自分の直接的実感による価値を認めるが、それだけの価値観によると自分が本当に善であるか絶えず不安になり、過剰良心の状態に陥る。 2.道徳的な熟考が習慣化されると良心という性質になるが、この性質は慣習的行動の溝に落ち込まないように、行動の動機を道徳的に正すものである。 3.感覚的欲望や情熱によって行動することは、過剰良心と同様に悪徳であるので、価値判断から感覚的欲望をすべて排除しなければならない。 4.良心は、行動の動機が善であるかどうかをせん索するものではなく、行動の結果に十分に配慮するものである。 5.道徳的熟考が習慣化すると、その熟考に基づく行動の動機は善となり、また、その行動の帰結も道徳的なものになる。

noname#92953
noname#92953

みんなの回答

  • e-z-rider
  • ベストアンサー率18% (9/48)
回答No.1

自分なりに要約してみました 人間の価値観は一様ではない。 一つの例として、彼は、彼の体験的に学んだ彼だけの価値観にもとづく行動しようとする。 つまり彼は、今まで学んだ事と、学んだ事を下敷きにした「直感」をもとに考える。 これを熟考と呼ぶ。 なお、ただの習慣的な道徳にもとづく思考を、道徳的熟考と呼び、良心と呼ぶ。 彼の性質を産み出したのは強力目標意識、使命感などである。 彼や、彼に似た人々は感覚・欲望・慣習などに支配される事を望まない特徴を持つ。 「過剰良心」は悪徳とそれほどの相違は無い。 過剰良心の者は、絶えず自分が善であるかに困惑し病的恐怖のため自縛する。 過剰良心は、道徳的「自己意識」を意味する。 それ、つまり過剰良心を含む一般的良心は、 真の良心の紛い物である。 真の良心とは、行動の内的発条を善であるか詮索するものではないのだ。 と言いたいのだと思います。 ここからがさらに短い奴 人の価値観はそれぞれで、慣習などに縛られず自分の価値観に基づいて生きている人もいる。 そのほかに慣習的道徳、つまり社会性を尊重する人もいる。 後者は、一般的な良心であるが、真の良心ではない。 前者は、ポリシーに基づく思考、行動を第一に置き、それが善かなど考えることなど無い。 前者のポリシーに基づく生き方こそが、真の良心である。 答えになってないかもしれませんが 参考までにお目通し下さい。 いったいどこの大先生の文ですか。 自分は無学な者で、失礼致します。

noname#92953
質問者

お礼

>いったいどこの大先生の文ですか。 出典はテキストです。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • これは絶対善と言えないでしょうか。

    これは絶対善と言えないでしょうか。 私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • 絶対善みっけた

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • 絶対善見っけた

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。 シニアの諸兄はどう思いますか。

  • 動機と功利主義

    「科学者が生物兵器の開発を引き受けようと、良心から拒否しようと、違いはまったくない(副次的効果を無視する前提付で)。なぜならばその科学者が開発を引き受けなかったとしても、他の科学者がやるからだ」、という類の理論は功利主義の立場では論破できません。ならば動機によって道徳の価値を評価する立場からはこの理論はどう議論されるのでしょうか。また、道徳を動機もしくは結果で評価することの問題点はありますか。倫理学や道徳哲学の勉強をし始めたばかりでほとんど初心者レベルです。(すいません)。助言をお願いします。また、倫理学についてお勧めのHPがありましたら教えてください。

  • うつくしさに打たれたきみは だれになるのか

     まづ《善》のお話から始めます。  こんな話題を見かけました。  ▲ 中国人が“無人販売所”に感激 「信頼できる社会って素晴らしい」。 ~~~~    http://news.biglobe.ne.jp/trend/1111/nrn_121111_6823737705.html  中国ではいま、無人の豆乳屋台が話題を呼んでいる。  もともと有人の屋台だったものが無人化してから約10か月が経過したが、こうした商売では必ず起こりそうな“未払い”や“飲み逃げ”といった問題は、これまでほとんど発生していないそうだ。  ・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ ということで もし《良心》や《良識》を善と呼んでよいなら これは 《善》を主題とする美談であるかと思います。  そしておそらくこの良心は――つまり良心というのは 《自由》と同じようにほとんど公理として理屈や哲学的議論を抜きにして想定されているものと思われるのですが―― そのハタラキが発揮されるときには あまりそれを発揮してやろうといった意志を意図的に持とうとして 現われるものではない。  ただし その良心に逆らって何かをしようと思うときには 良心ははっきりと意識されて来る。  つまりそのときには 意志による判断が よいわるい両面ともども 同じくはっきりしたかたちで かたちづくられようとします。  ということは――何が言いたいかと言いますと――:  【α】 この良心をめぐる善のお話というのは     (α‐1) 半ば生まれつきそなわった自然本性のなせるわざである。    (α‐2) と同時に それとともに半ばその自然本性にもとづきつつもその心にも逆らう別の心を持ち得てそれを働かせる人間の自由意志や心つもりのやはり為せるわざである。  とまとめ捉えてよいか?          *  そこでむしろ問いたいのは 《美》についてのもんだいです。    【β】 うつくしさに心が打たれるのは きみの自然本性においてか あるいはそれ以上の存在機能のようなものとしての自由意志によってか?  (β‐1) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか?  (β‐2) 《ある》なら そのワタシは おのれの一応自由になるところの自由意志であるか それとも 意志や意識以前の自然本性そのものであるか?  (β‐3) つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはワタシを《わたし》は見留めているか?  (β-4) それとも その一瞬《わたし》は ないか?  (β-5) けれども・ただし 確かにわれらはその瞬間にはとどまれない。ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか? ここにもどるのか?   (β-6) それとも・むしろ その美を感じたとき(瞬間)にこそ われはわれにかえっていたのか?        *  おまけの問いです。  【γ】 では 真理とは何ぞや?  (γ-1) もし仮りにわれは真理を――つまりは われわれの言語習慣にしたがって言えば 神を――見たと言うとき 仮りにそうだとしたとき きみは 《わたし》があるか?  (γ‐2) ないか?  (γ‐3) なくても やがて《わたし》に立ち戻るか?  (γ‐4) けれども立ち戻った《わたし》よりも 一瞬のうちに消えていた《わたし》のほうが 《もっともわたくしなるもの》としての存在ではないのか? どうなのか?  (γ‐5) それでは 《存在》とは何ぞや?  (γ‐6) われわれの《わたし》たちは 真理ないし《無限なるもの》にじっさいに接しているか? 有限なる存在者に 無限との接点はあるか?  (γ‐7) つまりは 《一切衆生 悉有仏性》なる命題は成るか? 《われわれの身と心はそれぞれ 神の霊のやどる神の宮である》なる命題は 成るか?

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 他者の賞賛や関心を第一に生きてきた

    私は今、自分の生き方に疑問を持っています。 私は幼少の頃から他人の賞賛を得るために様々な物事を考えてきたように思えます。 何をするにしても動機の根源に、他人から見た自分(理想像)があった気がします。 もちろんそういう欲は誰しも多少なりは持っているとは思いますが、私の場合、その欲が、人生の生きる活力のほぼ全てを占めているように思えます。 私の生きる意味はそこであると言っても良いのかも知れません。 こういう欲で突き進んでしまう人も中にはいるのでしょうが、私の場合「熱しやすく、冷めやすい」性質を持っているため、あまり持続しません…。 無遅刻無欠席にしよう!と心の中で決めても、結局それは「無遅刻無欠席である真面目で信頼のおける僕」という他人の評価を得たいからそう決心しているんです。 一体僕は何がしたいのでしょうか…。もうこの欲を価値観に生きていってしまえばいいのでしょうか。 今は気分が良いほうなのでまだいいのですが、関心を得たいためなら犯罪とか、そういうダークで変態的な側面からでも攻めてやってもいいぞという、恐ろしい野心がある気もします。 とても自意識過剰な性格なのですが、このまま生きていっていいのでしょうか。

  • 文章のつながりがわかりません。

    文章のつながりがわかりません。 Later it was Dr. John Ott who made himself a name with Full Spectrum Light when he was about to capture the growth of plants for a Walt Disney production that had to be filmed indoors. Initially the plants would die because of not enough daylight exposure, eventually leading to the creation of a lighting range which was later named OTT Lights specifically for this purpose. で、Initially以下を最初は「一躍有名になりました。当初施設は日光が十分に 当たらないため機能していなかったが、そのことが後にOTTライトと名づけられた 特に本目的のための照射領域の発明につながった」と読んだのですが、良く見ると Initially the plants would dieとあったので、仮定法?と思いました。 しかしeventually leading toもあるので、やはりlighting range which was later named OTT Lightsが順番としては後かと考えたり・・ そして混乱してしまいました。文の構造をご教示ください。よろしくお願いします。