生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?

このQ&Aのポイント
  • 生命は尊いと言いながら牛や豚や鶏など生命を殺して食べている。害虫や害獣は駆除している。森や草原を開拓して生き物の住処を奪っている。
  • 人間にとって生命は精神の器として尊い。植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。生命が尊いのではなく、精神が尊いのだと考えるべきではないか?
  • 人間とはその体よりも精神のことを指しており、仏教などの宗教の教えも一考の余地がある。
回答を見る
  • ベストアンサー

生命が尊いのではなく、精神が尊いのでは?

この考えは昔から人々の間にありましたが 生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか? その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか? と言う事です。 どうでしょうか?現実問題。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#210533
noname#210533
回答No.17

尊い、というのは とっても大切、ということです。 幼い女の子が、大切にしているお人形を 尊いものだと思っている。 それが精神を持たず、命を持たぬものであっても。 トウトイ、という言葉を知らなくても、 大切なもの、なら子供でも分かる。 絶対的に、誰が見ても、と考えると迷宮に 迷い込む。 尊い、という想いはこちらの内的世界の中にある。 自分の中にある尊いという想いと、他人の中にあるそれが とても似ていても、同じものは二つとないしね。 ほんの少しづつ違う点があるけど、総じて似ている ものばかり見ていると、この迷宮に入り込む。 森に迷い込むと、ほんの少しづつ異なる各々の樹木に 惑わされてどこにいるか判らなくなるでしょう? そういうことじゃないかな。 -------------------------------------------------- 絶対的な座標系のゼロ点を指したり、或は 極大値のような無限のかなたにある値だと 考えれば数学的な面白さはあるけれど、 言葉の意味を考えれば至って簡単な、人それぞれの 宝物、という意味に落ち着きます。 そんな視点でも良いと思うのです。 よし、割と短くまとまったぞ。

yuniko99
質問者

お礼

成る程一理ありますねえ お人形でも尊い。生命も尊い。精神も尊い。 つまり何でも尊いものと尊くないもの 尊い命とゴキブリのような命 尊い精神と麻原のような精神 がある訳ですね。 尤もそれを尊いとみなすのは人間精神だと思いますが しかし勉強させてもらった気がします。 どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (16)

noname#208724
noname#208724
回答No.16

お返事ありがとうございました。なんか存在そのものについて問いをたてているように感じましたが、もしそうなのでしたら、今の段階では私たちの慣性系全体での話になりますので、精神が尊いのは当然のことです。というか当たり前です。 私たちの慣性系では、繰り返しが行われますね。そのひとつとして、生きては死ぬの繰り返しがあり、それは当たり前すぎて尊くはないですね。では何が尊いのかというと、困っている人を助けたい、できる限り無駄な殺し合いを防ぎたいと考える精神こそが存在として尊いのは当たり前です。平和を願う精神は、さまざまな問題を解決する努力をするし、その努力を世界に広める作用もあるのですから。 あと、仏教の教えも少しおかしいとのことですが、その通りおかしいですよね。たとえば流行りのファッションなんかだと、とりあえず着てみないことには分からないのに、色即是空だとか言って、コミュニケーションや経済効果を「無」の一文字でまんだらの宇宙へ還元してしまおうとする無謀さが感じられますよね。友達作りの大切さが説かれていない気がします。というか友達がどれほど精神修養に貢献するものかを説かれていない気がします。 原理主義的なものに至っては、それこそ手抜きの法と言わざるを得ないくらいに単純すぎるから、テーゼの破たんを招きます。 ところで、問題は存在論でしたよね。学者先生たちが控えめに研究しているそうですけど、まだ分からないところのほうが多いそうです。ミクロ世界の現象をマクロ世界に引っ張り出すことには一部成功したそうですが、まだ隠れた世界があって、それを見いだせないでいるようです。それが解明されれば、人間にもたらされた精神の二面性についての関連性が与えられるかもしれません。ですから何か新しい発見をするまであと10年くらいかかるかもしれませんね。そしたらこぞって存在論の原稿を書いて出版することにしましょうよ。あと10年くらい生きていられますか? それから、ユニコさんが感じている仏教のおかしいところはどんなところですか? もしよろしければ教えてくださいね。

yuniko99
質問者

お礼

私は特に仏教だけがおかしいと思ってるわけではありません 宗教は大概 旧態依然としておかしいです。 仏教も良いところも多いにあります。 動物としての体は精神としての人間存在を支えるために価値があり尊いのでしょう。 精神がなければ人間としては虚しいと思います。 ミクロの世界をマクロに引っ張り出すというのは?素粒子帝国主義とか^^ 私の主張通りのお答えですね ありがとうございます。 どうも大変ありがとうございます。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.15

生きていてくれることが、何より心の支え。それは、植物人間になっても同じ。生きている、命がある、ということが輝き、光なんです。その上で、人間としての心や精神がある。植物人間になっても、音を聞いていたり、心の中では色々考えたり思ったりしています。 人間も動物も、他の命を食べて生きています。植物だって命ですから。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 一理ありますねえ 植物人間は意識がある人とない人といるのでしょうねえ 意識があるのなら僕は尊厳があると思います 成る程どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.14

こんばんは。 >「仏教は命が大切というあまりに 動物でも蚊でも命が大切というので これも間違い。菜食主義の必要なし。人間の体は野生の王国の中にあるのです。」 「いただきます、ごちそうさま」ですか。 やっぱり、命が大切では、ないですかねえ。 「コレは食べないこと!」というのは、仏教以外でも、ありますよねえ。 >「仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか?」 仏教、以外では? どのような宗教を、想定ですか?

yuniko99
質問者

お礼

宗教は大概おかしいです 少々おかしくてもそれを信じて実行するのが宗教です だから数百年 数千年経っても教えが変わりません。 どうもありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

宇宙に行くことの何が尊いのか理解出来ません。生命はフロンティアを求めて他所へ進出するものですし、宇宙へ行くのもその生命の性分に従ったことでしょう。むしろ、精神が仮に尊いとするならば、その根拠は、諸々の徳にあると考えられます。あくまで精神が人格と結び付いたものとして考えるならですが。

yuniko99
質問者

お礼

仰ることも分かります。精神は徳を積むほどよくなります。 精神は向上するのです。 しかし精神はそれ以外の可能性もあります。 それはあたかもPCのように、徳を積んでバージョンアップするのも大切ですが 音楽を聴いたり、道を調べたり、言葉や有名人を調べたり メールを交換したり 色々出来るのです。精神も徳を積むと同時に様々な可能性を持っているのです。 生命の指向性と精神の指向性もほぼ同じですが。詰まるところ存在すること、存在を実現すること(存続することなど)などがその目指すところです。 どうもありがとうございます。

noname#208724
noname#208724
回答No.12

こんにちは。精神と命の尊さについての二元論ですね。 でも主婦としては、心と体と恋心と物欲と幸運度と見栄の六元論を展開したいところでもあります。 主人が亡くなるとか植物人間になるとか言いますけれど、それにしても大きな遺産を残すわけですから尊いですね。 生きている命については、ほかの命ある者から命を頂いて生きているからこそ、生きている命はやはり尊いですね。 精神については、慣性系に住んでいる私たちの環境でのあくまで感覚器官上の精神のことだと思いますけど、それははたして私たちの環境で発生するのでしょうか? たとえばダブルスリットに向けられた電子が干渉するミクロの世界では、軌道の長さかける電子の質量かける電子の速度は、プランク定数の整数倍であるというような法則に支配されているかのように、規則的であって、私たちの秩序の乱れたマクロ世界とは違ったものの動きをしますよね。それならば私たちのマクロ世界よりも、もっとマクロな世界があるとしたら、そしてその世界から精神がやってきて、私たちの肉体に宿るのではないかと考えるならば、心身二元論は成り立つんでしょうけれども、はたしてどうでしょうか? 私としては、そんなことを考えるよりもむしろお買い物をする時に、洗口液に練チューブのおまけが付いていることが尊いのです。そこには企業努力という、下請け労働者の汗と涙がにじみ出ているからです。たとえ無秩序な精神が入り乱れている私たちの世界であっても、結果として世界に貢献する活動は、すべて尊いと言わざるを得ないです。だからスーパーで値引きのバーコードを貼ってくれてる店員さんたちが尊いのです。 なんか下世話でごめんなさい。

yuniko99
質問者

お礼

>洗口液に練チューブのおまけが付いていることが尊いのです 確かにそれも尊いですが、その下請けの人の知恵を出す精神がなければ おまけも付いて来ない訳で ミクロの世界は法則通り動いており分かり易いですが マクロの世界は法則も完全ではなく 概してこの様な事が言える 程度ですから そうでなければ資本主義や共産主義ももっと上手く行くはずです。 今はどちらも問題多いですねえ。 共産主義も理路整然としてる様で 案外単純過ぎたのでしょう。 そのような中で生きていく為にも、ケースバイケースで対応できる精神が必要なのです。 精神がなければバスも走りませんから。 どうもありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.11

シュバイツアー博士は「生命の尊厳」を説きましたが、質問者様と良く似た境地に達したようで、自分を刺した蚊を殺すことをせず、逃がしてやったそうです。これはいささか常軌を逸した思考だと私は思います。 生き物はまず自分が生きることに専念するべきだし、それがすべての根源だと思います。釈迦だってキリストだって漁師猟師の生き方を認めました。北杜夫氏は、残酷だというのなら、大きく実った果実に歯を立ててばりばり噛み千切ることだってずいぶん残酷なしざまだ。それらは生命なのだからと書いていました。 生きることに生き物の存在理由があるので、そこから出発することで生起する様々な矛盾葛藤が哲学の悩みに通じるのだと思います。人間が自然を尊重する理由は人間がよく生きるためなのであり、それが基本としてあるべきだろうと思います。 精神と体は一体です。どちらが上だとか下だとか言うものではないと思いますよ。むしろ精神はからだにこきつかわれるツールだとすらいえると、私は思います。

yuniko99
質問者

お礼

精神と体は一体というわけですね 人間は自然を尊重すると言いつつ 海の幸山の幸を取り尽くしつつあります 果実を噛み切るのも残酷なさまだというのも 面白いですね どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

yuniko99様、こんばんは。 >「生命は尊いと言いながら 牛や豚や鶏など 生命を殺して食べてるではないか 害虫や害獣は駆除しているではないか 森や草原を開拓して生き物の住処を奪っているではないか と思います。 その理由を私は 人間に於いても生命は精神の器として尊いのであって 精神がなくて生きているだけでは尊いとは言えない 植物人間になったら家族は悲嘆に暮れる。 むしろ生命が尊いのではなく精神が尊いのだと考えるべきではないか? 私の思うに人間とはその体よりも精神のことを人間というのではないか?」 「弱肉強食」ということですね。キリが、無いと思います。 >「その点仏教などの宗教の教えも少しおかしいのではないか?」 凄いところで、引き合いに出されてしまいました。 仮に、「弱肉強食」が「正」なら、仏教はおかしい? そうかもしれないですね。

yuniko99
質問者

お礼

人間の体も動物です。野生の王国に在ったのです。 野生の王国では弱肉強食が進化論的発展に繋がり より強い個体が残っていったのです。 ただし 人間の精神は弱肉強食ではいけません。精神は学習、思考、経験で発展するのですから 精神に於いては動物の真似をすることはないのです。 仏教は命が大切というあまりに 動物でも蚊でも命が大切というので これも間違い。菜食主義の必要なし。人間の体は野生の王国の中にあるのです。 どうもありがとうございます。

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.9

生命も精神も絶対的に尊いと決まっているわけではないのです。 単に現代の日本などの文化において社会的な共通認識として生命を尊いと決めているだけなのです。 江戸時代とか昭和初期くらいまでの日本の田舎の農村などでは子供はただの労働力という扱いだった価値観もあります。 そこに子供の生命なり精神なりが尊いという価値観はありませんでした。 労働力として役に立つか立たないかが重要だったわけです。 生命が尊いか、精神が尊いかは文化や個々人の価値観によりけりであってどれが正しいとか正しくないとかそういう問題ではないのです。 生命を尊いと決めるか、精神が尊いと決めるか、どちらが自分たちが暮らす社会において利益のある考え方なのかが重要なのです。

yuniko99
質問者

お礼

心が傷ついても いいのでしょうか? 心は大切にしたいですねえ。 もちろん体が傷つくのも良くないです、その時は心も傷つくでしょう。 人間の尊厳を認めるか否か。昔はこうだったでは現代は分からないですよ 子供の心とか 徒に傷付けてはいけない様に思いますが どうもありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.8

精神は、いたずらに汚れ仕事を生命に押し付けて、自分は高尚であるといいながら生命に寄生している、そのようなものだろうか? 生命を綺麗だとは思わないが、精神に特権を与えるには理由に乏しいと思う。下賤な精神を持っている人もいれば、高貴なこころを発揮する人もいる。 一般に精神は尊いと言い切るのは怠惰だと思う。

yuniko99
質問者

お礼

生命の世界では実に様々な動植物が地上や海に君臨しています 昆虫もいればウイルス?までいます。 その中でも精神は可能性が抜きん出ています 宇宙にまで出ていきます。環境を作り変えて人間化しました(良いかどうかは分かりませんが) 人間は70億人にも迫る勢いで増えいています。破壊力は水爆まで作りました 生命力は医療で目覚しく寿命が延び 鶴や亀にも負けません 生体質量?ではNo1ではないでしょうか? 精神は知識を持っています。学習し研究し考えます。 可能性としてはウイルスやゴキブリや蟻以上だと思います。 生命も尊いですが精神はそれ以上に可能性があります。それ以上に尊いのです。 どうもありがとうございます。

回答No.7

 こんにちは。  《存在》が とうといのです。  人間の場合 存在とは 経験事象として《身と心とから成る自然本性》です。  そこにさらに経験事象を超えている《非経験の場》を想定するなら それが 《生命》です。つまり《神》のことです。そういうチカラでありハタラキを言います。  自然本性を広く生物に広げるなら その生き物としてのチカラを――つまりこの場合には 経験事象としての生きるチカラを―― 《生命・いのち》とも呼びます。  つまり 《いのち》のあるものを・つまり動物なり植物なりを ほかの動物と同じように人間は 食います。  これは 経験事象としての《生命》にストップをかけています。  経験事象を超えた《生命》には 何もしていません。  《精神》は 自然本性としての《身と心》の心のことです。

yuniko99
質問者

お礼

お考えは深いと思いますが 存在が尊いのなら何でも存在しますから 何でも尊い という事になります。 実を言うと私もそう思います しかしその中にあって「人間の尊厳」と言われる様な尊さは 精神故 心ゆえではないかと思うのです。 人間の体は弱肉強食の食物連鎖の中に在りあます。 人間の体は動物なのです 唾も吐けば 糞尿も流します。それを隠しているのです。 尊厳死というものは 精神の尊厳の為に生命を閉ざすことです。 これを考えればよくわかるのではないでしょうか? どうも大変ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 生命の尊さについて(長文です)

    私は職業上、動物を殺めて動物を救うという世界に身を置いています。 この仕事についてから、自分がしていることが正しいのか、ずっと疑問に思っていました。 例えば、化粧品などは、その安全性や毒性を動物実験で試しますよね。また、新薬の研究などにも同様に動物が使われています。前者はまったく人間のためだけに動物が犠牲になっているように思えますが、はたまた後者では、それで画期的な新薬が開発されて、いずれ世界の多くの人間を救うことができるかもしれません。 また、畜産関係では、牛や豚、鶏などにワクチンを打ったりして、食肉としていずれ人間の口に入り、人間の血や肉となっていくわけですが、このワクチンの製造でも牛や豚、鶏の犠牲のうえに成り立っているのです。そして、これも最終的には人間のためだと思えてなりません。 というか、人間のためなんだと思いますが…。 かといって、私は牛肉や豚肉を食べないかというとそういうわけではないんです。 矛盾しているけど、この自分のおかれている状況を、人に説明してわかってもらうのはすごく難しいと感じています。 人間が生きているのはどれだけの動物が犠牲になっているのかの認識や、それについてどう思っているのか、皆さんの意見をお聞かせいただきたいと思って質問しました。 どんな意見でも結構です。 うまく意見がまとまらず大変わかりにくい文章になっています。補足にもお答えいたします。 昼間は仕事をしていますので、お礼が遅れるかもしれませんが、ご了承ください。

  • 生き物を56す仕事をしなければならないとしたら

    下記の中で一番やりたくないのはどれでしょう。 1 牛・豚などの屠殺人   牛・豚に罪は無いが、おいしい食材を提供できる。 2 死刑執行人   凶悪犯を天に代わって成敗する。というヒーロー気分が味わえるかも。 3 害虫・害獣の駆除   スズメバチやネズミ、熊等は危険で市民の安全を守るため仕方ないが、動物だと反撃される危険もある。 4 鮮魚の活き造り   意識があるかわからないが、皿に盛りつけしてまだピクピクしてる魚を見ると一番残酷に感じるかな。

  • 生命の尊厳

    こんにちは。昔から疑問に思っていたことを質問させていただきます。 人の命と蚊の命、差はありますか? 蚊は殺してもよくて人は殺してはいけないという理由を教えてください。 また、釈尊の弟子(舎利佛だったかな、、、)が釈尊に 「殺生はいけないというけれど、生命は他の生命を犠牲にせずに生きてはいけない。 人間も魚や牛、豚などを食べていきているが、どう説明するのか」 という趣旨の質問をした時、釈尊が 「それは殺す心を殺せばいいのだ」 と言ったとききましたが、この意味を教えてください。

  • 四つ脚動物を食べるな?

    20才を過ぎたら 四つ脚動物、つまり、豚や牛の肉は 食べない方がいいと 頭が良くて物知りで健康な ひいおじいさんに教えられました。 動物性タンパク質は魚がよい。 人間から生物の系統が近い豚と牛は 共食いになるから血を汚す。 この教えは、現代でも通用しますか? 教えてください。 よろしくお願い申し上げます。

  • クジラやイルカや牛や豚や鶏や羊や鹿などを人間が都合よく殺すことについて

    クジラやイルカや牛や豚や鶏や羊や鹿などを人間が都合よく殺すことについて、神様や仏様はどう思っているのでしょうか。 たいへんすばらしい行為だと思っていらっしゃるのでしょうか、たいへん間違った行為だと思っていらっしゃるんでしょうか、人間の自由意志だからしょうがないと思っていらっしゃるんでしょうか。

  • 仏教では、どの宗派でも「怒り」を捨てれば幸せになれると教えているのですか。 

    上座仏教についての本を読んでいます。 仏陀の教えを、そのままに伝えているそうです。 原始仏教とも言われています。 そこでは、幸せになる道は一つだ。 「怒り」を捨てなさい。 どんな悪人に対しても、慈しみの心を持って接しなさい。 全ての人の幸せを願いなさい。 そう書いてあります。 それが、仏陀の教えだと。 頭では理解出来るものの、実際これを実践するのはかなり難しいのではないかというのが、正直なところです。 誰にでも「怒り」の感情はあります。 私にもあります。 身内に二人ほど、「怒り」の対象となる人間がいます。 冷たい態度、キツイ言い方、思いやりのない態度、礼儀知らず、素直でない、心から感謝しない、などなど。 こういう人間に対しても、「怒り」を捨てなさいというのですか。 怒らずに、慈しみの心を持って接しなさいと。 そして、その人間の幸せを願いなさいと。 たしかに、いつまでも怒ってばかりいると、こちらの精神がダメージを受けることもあり、精神衛生上良くないのは理解出来ます。 だから、今後は出来るだけ怒らないように心がけるつもりです。 それで、こちらの心の平安が保てるのなら、そうした方が得だと思います。 怒らないのは、まあいいとしても、慈しみの心を持ってその人間の幸せを願うというのは、そうとう修行を積んだ人でないと出来ないのではないですか。 すでに書いた身内の人間に対して、そうしなさいということは、要するに「許しなさい」ということですからね。 たとえ許したとしても、そういう人間はそのことに感謝するどころか、自らの態度を改める気など全然ないし、平気な顔をしてますますええ気になるだけですよ。 少なくとも私にはそう思えます。 それでも、そうしなさいというのが仏陀の教えなんですか。 上座仏教では、そう書いてあります。 では、他の宗派の教えはどうなんでしょうか。 やはり同じ教えなんですか。 それとも異なる教えなんでしょうか。 元は仏教という点では同じですから、「怒るな」「許しなさい」「慈しみの心を持って接しなさい」という教えは同じですか。 浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗などではどうなんでしょうか。 そこのところが知りたくて質問しました。 よろしくお願いします。

  • 生命倫理は哲学のテーマなのか

    いま巷では物騒な事が現実化しよーとしている。 生きた人間の新鮮な臓器をえぐり取り、これを別の人間の腐った臓器と入れ替える臓器移植である。 もちろん人間の脳ミソでさえ、移植できるのであれば移植されることになるはずである。 現在は研究段階であるが、一部では隠れて実験が行われており、近いうちに現実のものとなりそーな雰囲気である。 しかしこのよーな行為は生命倫理に反すると見做すのが従来からの社会一般の通念である。 ところがこのよーな現実の問題に対して哲学は何ら明確な答えを示すことが出来ない。 宗教に至っては何らの答えを持っていないどころか、この問題に関わろーとさえせずただただ逃げ回っている始末である。 仏教もキリスト教ももはや人を導く精神的パワーを失ったのである。 哲学が生命倫理に答えを持たないのは何故なのか。 生命倫理は哲学のテーマではないからなのか。 それとも哲学はあらゆる意味において役目を終え、既に存在しないからなのか。  

  • 殺処分される犬猫について

    殺処分される犬やネコが報道されると そのたびにかわいそう、などの意見がでます。 こういう意見にすこし疑問が感じます。 しかし、レバ刺したべたいと言っても あれは、牛を殺して食べてるわけで ほかにも、豚や鶏も殺しては美味しい美味しいと言ってたべてるわけですが。 私自身も動物はすきです、 しかし、死ぬまでの面倒はみれないので 飼うことはしません。 人間の都合で生かされたり、殺されたりはかわいそうとおもいますが ネコやイヌの処分はかわいそうといいながら 焼き肉を食べてる方はどのようにおもわれてるのでしょうか ご意見きかせてください。

    • 締切済み
  • 動物を殺すことについて

    もし,食肉加工をしてくれる人がいなくて,自分自身で手に入れるしかなかった場合,あなたは動物を殺せますか?(牛は?豚は?鶏は?魚は?境界線があるなら教えてください) ※ 職業的な差別を意図した質問ではありません。動物の命の価値と人間の命の価値の違いについて,ずっと悩んでいて,みなさんのご意見が聞きたいのです。

  • 精神存在する為に生き、存在・存続する事が目的?

    この世界 存在しない事には始まりません。 まず 存在する事が目的であり 存続する事が目的であり 未来に新たな存在を実現することが目的なのでは? 人間は生きてるだけでは人間とは言えません。心や意識がないと生ける屍です。 人間は人間存在(精神)する為に生きているので 人間存在を可能にしている 人体を殺すことは良くないことです。殺人です。しかし牛や豚を食べることは 人間存在とは関係がないので、生態系の食物連鎖の一部です。 存在存続することが目的であり、価値であり、意味であり、正義であり 存在を求めることが愛です。 そう思いませんか?みなさん?