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一族が滅びる・・・というのはどこまで?
歴史(日本史)の本を読んでいると、「その後、一族は滅びた」という表記が ありますが、実際「一族が滅びる」というのは、どういう状態をさすので しょうか。 ex. 比企一族は、その後滅ぼされた・・・・ 戦いのあと、何をもって”一族は滅びた”と判断されるのでしょうか。 比企という姓は、その後もあるようですが・・・
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定義はされていないと思います。 しかし、たいがいその氏を名乗る者のメイン人物たち(嫡流)とその家臣団が亡くなれば「一族が滅んだ」と言われているように思います。 分家すると「どこどこ(地名)の○○」と言われるようになり、やがて「どこどこ(地名)」を姓にして呼ばれるようになります。 「どこどこ」が姓になると、臣籍降下じゃないですが、もう家臣(重臣)扱いです。 こうなると、もう「一族」の範囲から外れているように見えます。 例えば「平家は滅亡した」ということになっていますが、大繁栄した「北条氏」は平氏です。一族の範囲を広く考えればおかしな話ですが、「平(たいらの)」と名乗らなくなった時点で「平家の一族」ではなくなった、平家と平氏は違うと考えればおかしな話ではありません。 そういうケースは多いですから、私は上記の通り、「一族とは嫡流とその家臣団」のことだと思っています。 余談ですが、私も「比企」を姓とする知り合いがいますが、いわゆる比企一族とは関係ないみたいです。 そんなふうに、たまたま同じ姓を名乗る場合もありますし、逆に滅んだと思っていた一族(嫡流)が姓を変えて生き延びている場合もあります。 鎌倉初期、京都の広元さんが鎌倉に下って政所の別当になりました。大江広元さんです。守護・地頭の制度を提案した人と言われています。 それほど影響力があった大江一族なのに大江家が続いていない(もちろん大江を姓とする人間は今もいるが)。 個人的に、北条一族が全権を掌握する過程で、大江一族全員が京都に帰えされたか、滅亡したんだろうと思っていたのですが、嫡流は越後にあった領地(北条:きたじょう)に来て(逃げて?)、「北条(きたじょう)氏」として上杉謙信に使えていました(景勝を裏切って歴史から消えています)。 非嫡流(4男の家系)は、いったん相模の「毛利荘」へ行き、「毛利」を姓とした後に安芸吉田荘へ移り、後に中国地方の覇者になりました。
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- titelist1
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平清盛の平家一族は根こそぎです。源頼朝の子孫は絶えています。北条一族は親族まで根こそぎです。足利一族は死に体であったので滅びずに衰退です。豊臣一族は秀頼の子も死んでいます。天下を取った一族が滅びる時は哀れなのです。このことを知っていた徳川家康は滅びる時の用意を御三家で準備していたのでしょう。それ以外の下々の一族は本家筋が絶えるだけで分家筋は子孫を繋いでいます。
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天下を取った一族は根こそぎ、根絶やし、下々は本家が絶えるだけ。 絶滅、存亡、衰退・・・・いろいろな表現があって微妙です。 有難うございます。 家康の用意周到ぶりはお見事です。
- yuyuyunn
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その家の本家の跡継ぎがいない場合 滅びたとなると思います http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14103048249;_ylt=A7YWPRE1U6tU.T4AIWVsAPR7?pos=1&ccode=ofv
お礼
後継者、及びその一族の生活の場を奪われることのようですね。 有難うございます。
- qwe2010
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権力にすがっている主な親族が処刑される事でしょう。
お礼
主な親族となると、何親等までかが気になります・・・・ 有難うございます。
お礼
毛利は、豊臣政権、徳川政権のその後、明治維新以降も生き延びているので、 見かたを変えると、勝利者のよう・・・・。 戦国時代が浮かび上がるので、こういう人も大河ドラマで扱ってほしいです。 もしかしたら、過去にあったかもしれませんが。 丁寧に説明してくださって有難うございました。