• 締切済み

無神論者、異なる思想の夫婦のこどもに対する教育は?

宗教とかのカテゴリとどっちがいいか迷ったのですが、あちらは過激な人が多そうな気がしたのと、どちらかというと育児や家庭のことについて相談したかったので、こちらに失礼しますm(_ _)m 新婚夫婦の妻です。子供はまだいません。 私の実家はある程度信仰がある家だったので、子供の頃からそういう環境に触れていました。 とはいえ、特定の○○教の集会に参加したり、布教やお布施に生活を犠牲にしたりするような過激なものではなく、マイルドな感じです。 七五三やお正月には神社にお参りに行ったり、お彼岸にはお墓参りに行ったり、家には神棚も仏壇もあり、、という、少し前の日本ではそれほどめずらしくはない家庭だったと思っています。 一日の終わりに神棚に手を合わせて、一日の感謝の祈りをする習慣があったので、そこはもしかすると少数派かもと思いますが、、 …というわけで、私としては、なにかしらの神様は居て、来世もある(というか、生まれる前も死んだあとも無、と思うと小さい頃から怖くて眠れなくなっていたのもある←今もですが)という思想が自然に身についているのです。 そして宗教とは無関係ですが、実家は縁起物(引越の日が複数から選べるなら大安のほうがいい、とか)など、わりと気にする方です。 一方、夫の実家は、どちらかというと現代の日本というかんじで、特定の宗教に属さず(義理父の代で両親の実家と絶縁のため壇家もない)、夫に至っては無神論者です(科学的ではないという考えと、宗教戦争や某事件などからの偏見がある)。ちなみに七五三のお宮参りも初詣も墓参りもなかったとか。 あ、初詣は友達と行ったりすることはあったようで、交際期間中は夫の誘いで何度か一緒にお参りに行ったりもしました。 ただ、私の中では「神様への挨拶」であるのに対して、夫の方は「何をお願いした?」というかんじだったので、やっぱり意識は違うなと思いましたが。(それにしても今思うと、無神論者なのに、誰にお願いしたのか謎です。。) さて、そんな二人ですが、ある程度歩み寄りながら結婚もしたのですが、先日衝撃的な発言が。 子供は宗教には巻き込まないで。と。 詳しく聞いたところによると、おそらく、集会に参加したり、お経を唱えたりというのは勘弁してほしいというような意味だったのですが、夫の中でもボーダーラインは曖昧のよう。 例えば、実家で祖母が「悪いことしたらダメ。人が見ていなくても、神様が見ているからね」等言うのはどうなのか?→夫「そこは大人の対応をするよ。」 …これって、本心では、神様の存在を示唆するのも好ましくないということです。無神論者の方ってそこまで神経質なのかと驚いたのですが。 ただ、お墓参りやお宮参りのような、カレンダー的な行事はOKみたいですので、NGなのは、特定の宗派の行事への参加や思想のすりこみ、親戚等からの入信の勧誘(団体の名前を出すのも不可)というところでしょうか。 思想のすりこみ、、、というのが、どうも曖昧ですよね。 私自身が、神様は当たり前に居るという環境で育ったため、そうでない家庭ではどのように子育てしているのかわからず、不安しかありません。 例えば、どうして良いことをするのは良くて、悪いことはダメなのか(法律にさえ触れなければ、人の迷惑にさえならなければ悪いことをしていいわけではないはず)。 例えば、私のように、死んだらどうなるのか、生まれてくる前はどうだったのか、というある種 哲学的な問に対する答えは?(死んだら終わりだよとは言いたくありません) 夫も私もまだまだ子供な考えの部分がありますから、知識も考え方も、わかっていないことも多いでしょう。これから成長していく部分で、お互い妥協したりわかりあったり、解決していけるのではとも思います。 でも、やはり今はまだ不安が大きくて。 みなさんどのようにされているのか聞ければと思い、 また、このような夫婦間での習慣や考え方の違いをどのように歩み寄っていけばよいのかなど、アドバイスいただければ幸いです。 宗教のことで質問しましたが、別の例でも、なにかお話が聞けると大変ありがたいです。

  • -ria-
  • お礼率74% (1196/1595)
  • 育児
  • 回答数5
  • ありがとう数9

みんなの回答

回答No.5

現在、我が国ではお母様の家の方が「絶対的少数で」キチガイ、扱いだと思います。 これは別に、「異常」な分けでは無く「欧米」でも「ムスリム」でも「アフリカ」でも同じ、 英語でpeer pressherと言う奴で、長い物には巻かれる、さもないと「余り意味の無い」 軋轢を起こし、精神的にも経済的にも「負担ばかり大きく、家庭が壊れるのは嫌」という ごく「自然な社会的行動です」他のお答にもある様に、クリスマスも新年も七夕も七、五、三 も結婚式もお葬式も「デタラメ」 アメリカなんかややこしい、留学していた時に優秀だった中国系の女性のドクターがインド系の ドクターと結婚した、対立などしない。まずインド系の結婚式をした、次に中国式の結婚式をした 最後に両方の教授も参加してアメリカ式のパーティーだ。どうせ最後の奴以外親がパトロンだ。 半年ほど前にNHKがスンニ派とシーア派の違いって何ですか?と聞いてみたら「自分の 好きな方で良いことになっている、解釈の違いかな?合わなくなったら変えちゃうよ」 だったので私はビックリ仰天した。殺し合ってる奴もいるのだ。これも「もう抜けられ なくなった」だけ。十年程前に上から三番目の叔父が亡くなった、戦後最初の学生運動で 結婚した奥様(イヤ叔母さまだな)、「普通じゃないから」避けられてるが葬式だから、世界的 名医の伯父も来たがビックリ仰天したが、ああそうかい勝手にしろ、だ、祭壇も無けりゃあ 坊主も来ない、一応BGMだけ流すがそれって葬式と何の関係も無い音楽ですが?? 一応寿司が出たがここだけは葬式らしいと思ったのは鉄火巻きが無い。かんぴょうと河童巻 それだけ、死んだ伯父はお棺に寝ている、ほとんど会ったこと無いが、やはり父の兄だ似ている 葬儀屋が来て、時間ですと言うので、斎場だから一応お棺に蓋を載せてそれでおしまい。 ゾロゾロと息子二人と私が父の代わりに出て、一番上の医師の伯父が来てそれでおしまい、 もちろん叔母は居る。ストレッチャーに載せてガラガラ運ぶ。焼き場で一応最後のご挨拶 さえ無い、炉に放り込むとそれで終わりだ、伯父と私は父の心筋梗塞について話しながら とっとと帰る。清々した。都会の葬式はとんでもない地方から出て来て、親は生きていても 来られない、余程偉いまま死なないと昔の部下さえ来ない。父は尊厳死した、最近増えた 「老人病院だ」多少痰が絡むのでそれだけは看護師が抜いてくれる、運悪く個室が一つ しか無いので半月私が付き添った、仕事場から歩いて行けるが車だ、不幸な事に症状が 安定化したので追出され、二人部屋に移された、だがもう待つだけだ、小さい病院だから 家族の部屋もない、看護師が来て「呼吸が止まりました」と言う、尊厳死だからきれいな ものだ点滴一つない、父に頬ずりした、それでおしまい、以前相談していた葬儀屋はバカで 電話がつながらない、看護師が出入りのがあります、と言うからそこにした、これも ストレッチャーで寝台車、どうするのかなーと思って一緒に着いて行った、冷蔵庫が いっぱいだけど形式にこだわらないなら空きがあります、そこで良いや、父は合理的 が大好きな人だった、かなりトンデモナイほとんど倉庫だった。妹が亭主と来て「ご遺体は?」 と当然聞くから、冷蔵庫、と言ったら呆れた。父は曹洞宗の敬虔な信者だが「技術者」 私をしごいた、だから既に認知症の母が健康だった時お茶の仲間で親しくなったお寺 の坊主が来たが、家族葬に慣れて居ないので唖然としていた、かみさんが母の選んだ墓は 暗くてイヤだと言うので「棄てた」、公園墓地を買って放り込んだ、父の宗教観ぴったりだ。

  • tea-toki
  • ベストアンサー率27% (294/1082)
回答No.4

子供が自分で考えられるように。 旦那さんは、行事としての七五三やお正月、葬儀への参列はOKなんですよね。 結婚式はある意味宗教行事すが、それは、問題なくあげられたんですよね。 それであれば、日常は特段問題になることはないでしょう。 これもNGとなりますと、子供が成長したときにマナー的な面で戸惑うことが多くなりますのでね。 行事の意味の説明は、子供向けの行事本などを参考にすればいいと思います。 特定宗教に集中しない感じの説明がなされていますよ。 お子さんへの死後の世界の考え方は、 お母さんはそう思う。お父さんはこう思うとそれぞれの考えを説明すればいいでしょう。 子供がある程度成長すれば、自分で納得する考えを見つけるようになるでしょう。 正解があるものではないので、旦那さんの大人の対応に期待して、あまり突き詰めないのがよろしいですよ。

回答No.3

母が宗教関係者です。他家族はありません。 父親が宗教を嫌い子供への介入を許しませんでした。毎日仏壇に向かいお経を上げてました。その辺は良いのですが、勝手にありがたい名前を付けられたり、活動資金集めのために保険勧誘したりは子供心に嫌でした。普段の生活では特にありませんね。 今、結婚し妻は風水好きです。好きを通り越して信じてるそうです。引っ越し、旅行等のイベントでなんか不明瞭な理由で先伸ばしすると思ったら、風水が理由でした。子供は居ますが、風水と育児はあまり関係無さそうです。ただ、方角で志望校決められないかとの心配はあります。 止めて欲しいこと 一番嫌だったのは、午後学校から帰宅したら誰も居ない事です。共働きなら学童に預けたりしますよね。まさか宗教で学童行かされたら私でも怒るでしょう。その他、勧誘、相手側親族への宗教的な接触、子供の勧誘(私も嫌です)。 この先予想されるトラブル 質問文からの想像ですが、子供の躾にやたらと神様が出て来そうです。良いことは神様だろうが母親だろうが良いことなのです。神様が見てなかったらいいの?神だろうが悪魔だろうがダメはダメです。旦那様にとって、一般人が口にする「神様が見てる」と、宗教関係者であるあなたが口にするのは別物です。おそらく神経質になるでしょう。トラブル回避のためには「親は親、子供は子供」と区別すべきです。あなたは特に子供を入信させたい訳ではないのですよね? 出産後、あなたの宗教活動にはどうしても幼いお子さんが同伴しますよね。旦那様が嫌な顔しないか心配です。私も幼い頃は同行した覚えがあります。ただ、親は親、子供は子供で別のような雰囲気で、お経あげをしたりはしませんでした。

-ria-
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 経験者の方からの回答、参考になります。 おっしゃるとおり、子供を入信させたくてという考えをもっての質問ではなく、どちらかというと、一般的に宗教とは無縁の子供はどこのラインまで無縁なのかとか、そういう疑問からの質問なのです。 一般人が口にする「神様が見てる」とは別物というご意見に、なるほどなと思いました。夫と話していて、どうしてもこちらの意図が違うように受け取られるように感じられたのは、その辺りの理由だったのかもしれません。 心配な点として挙げていただいた活動のことですが、基本的にはまずは家庭あっての世界というか、あまり布教活動に熱心な信者でないこともあり、子供を置いて奔走というようなことはないと思います。 ただ、表現の仕方などには気を配って、いまからいろいろ勉強しておかねばとおもいます。

  • rex33
  • ベストアンサー率11% (15/135)
回答No.2

どちらに合わせての生活が好ましいか・・・だけです あなたの信仰が深ければ深い程 旦那さんに合わせる事が可能になります 無神論者に宗教を幾ら語っても喧嘩になるが 信仰が深い人は 無神論者を受け入れられる・・・という事です 子供さんは 貴女達 親を手本にし 自分なりに考える事が出来る様になれば 宗教が良いと思うなら その道に進みます もしかしたら 貴女と異なる宗教に 自分の道を見つけるかも知れません 子供さんの事よりも 貴女達夫婦の円満さが 今は大切だと思いますよ

-ria-
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね。今回、私の予想以上に夫の考えが内心では頑なだった(それでも歩み寄ってくれていた)ということが発覚して、気づいていなかった自分や今後のことを考えて必要以上に不安に苛まれて、○か×かと考え悩んでしまっていましたが、冷静になってみれば、そのとおりです。 >もしかしたら 貴女と異なる宗教に 自分の道を見つけるかも知れません なんだか、この1行で、とても気が楽になりました。まだ見ぬ我が子、ではありますが、そうですね、しっかり自分の道を開いていける力を信じようと思います。

回答No.1

Q、こどもに対する教育は? A、親の思想・宗教観と子育てとの直接的な関係はありませんよ。 >子供は宗教には巻き込まないで。 当然のことですよ。 子供は、親の思想・宗教観の影響を受けない自由な環境で育つ権利を有しています。 結果として、子供が親とは異なる思想・宗教観を獲得することもあります。 ていうか、それが普通で当たり前のことではないでしょうか? 私は、それで良いと思っています。 子供らも、「それが当然だ!」と考えているようです。 >無神論者、異なる思想の夫婦のこどもに対する教育は? このような発想、見方・考え方をして悩む必要性が現実にありますか?

-ria-
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 質問のところに書こうと思って、書きそびれていましたが、私自身も、こどもに宗教を強要するようなことは反対で、もしも宗教に属す属さないという話になるとしても、きちんと自分で判断が下せるようになるまでは無理と考えています。 ただ、どうしても少なからず、親の思想や環境は子に影響を与えると思うので、そこの兼ね合いはどうなのかなという疑問があるのがひとつ。 そして、必ずしも、ときが来るまで完全にシャットアウトするのが善なのかと考えた時に、ある程度の多様性は理解していないと判断材料がなく、間違った道(極端な例ではありますが、たとえば詐欺まがいの団体に傾倒したり)にすすむ危険性があり、そこから守るのも親の役目ではと思い、その差が??ということもひとつ。 今回のことでいろいろ頭の中がぶわあーーっとなってしまっていた次第です。 考えすぎて、少しAかB!?という考えに固執してしまっていたようです。 今回のことはそういうことではないですものね。気づかせてくださって、感謝です。

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