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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ボスニアヘルツェゴビナ紛争について)

ボスニアヘルツェゴビナ紛争について

このQ&Aのポイント
  • 旧ユーゴスラビアからの独立をきっかけに起こった、ボスニアヘルツェゴビナの民族紛争。
  • セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の対立が深まり、セルビア人勢力が優勢になり、首都サラエボを包囲。
  • アメリカの介入により、クロアチア人とムスリム人が再び手を結び、セルビア人勢力の弱体化と停戦が実現した。

質問者が選んだベストアンサー

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  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.2

おおまかな所はだいたいそうだと思います クロアチアやボスニアの内戦を激化させた要因の一つは旧ユーゴスラビアの基本的国防方策であるパルチザン戦略にあると思われます パルチザン戦略により国民皆兵により国防軍である連邦人民軍以外に旧式兵器であるが重火器を有する郷土防衛隊が存在した事でしょう ボスニア内戦勃発時にはセルビア人6万人、ムスリム人3万人、クロアチア人1万人の郷土防衛隊が各々兵化しました ボスニアの危機はクロアチア内戦勃発前の1990年のボスニア議会選挙で ムスリム人の民主行動党、ボスニア・セルビア民主党、ボスニア・クロアチア民主同盟の各民族主義政党が多数を占めたことにあります スロベニア、クロアチアの独立によりボスニアには3つの道が残されました ユーゴ連邦に残留するか ボスニアが多民族国家として独立するか セルビア人、クロアチア人両地域が母国に吸収した上でムスリムのみで分離独立するか セルビア人にとっては自らが少数民族に落ちる多民族国家独立案には到底同意できず ムスリム人は連合国家も否定する多民族国家独立案しかなく クロアチア人は多民族国家でも分離吸収案どちらでも良いという体制でした セルビア人は既に91年6月にクロアチア国内のクライナ・セルビア人共和国との相互協力協定を締結し 勝手に5つのセルビア人自治区を樹立 一方ムスリム側も一枚岩でなくボスニア北西部にムスリム人でありながら連邦人民軍やクロアチアにも人脈があるアブディッチが中央政府の混乱につけこんで西ボスニア自治州を独立させました ヴァンス・オーウェン和平案が提示されるとかえって民族間の陣取り争いが激化し クロアチア人とムスリム人間でも戦闘が開始されました アメリカが介入したきっかけとなったのは94年2月のサラエボで起きたマルカレ市場事件です セルビア人部隊が非武装の市民が集まるマルカレ市場を一方的に砲撃し多数の死傷者が生じた事件で アメリカの世論を一気に硬化させました アメリカは表向きの和平交渉はEC(→EU)に任せ、自らは水面下でセルビア人打倒のためにムスリム人、クロアチア人の和解に努めたのです 最終的デイトン合意に至らせたのはNATOの空爆より95年のクロアチア軍による稲妻、嵐両作戦により クロアチア国内のスラボニア、クライナのセルビア人地区を制圧し、ボスニアのセルビア人を孤立化したことでしょう

qpalzmwoskxn
質問者

お礼

詳しいご説明ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11204/34805)
回答No.1

2 マケドニア地方で内戦が始まるのを恐れたのです。 内戦をきっかけに、旧ユーゴ南部のマケドニア地方でも独立運動というのが起きてしまいました。ところがこれが大変にややこしい。「マケドニア」と聞いて歴史好きなら「ああ、アレクサンダー大王の国だよね」と思います。このアレクサンダー大王のマケドニアは今のギリシャ北部にありました。 「マケドニア」という名前の国ができるならば、ギリシャのマケドニア地方も同じマケドニアだから「マケドニアの一部だよね」となってしまいます。実際に、旧ユーゴのマケドニア独立派はそう主張していました。日本でいうなら山陽、山陰地方を「中国地方」というからそこは中国の一部だと主張するようなものです。ましてやかつてそこに「中国」という国があったら当然そういう主張になりますわね。 コトはそれだけに及びません。マケドニアと呼ばれる地方は、他にもアルバニアの一部やルーマニアの一部にもあったのです。そこらへん一帯が「ぜんぶマケドニアですよね」ということになれば、内戦が一気にアルバニア、ルーマニア、ギリシャにも広がることになります。当時アルバニアやルーマニアは冷戦終了による東側崩壊の影響で経済的にも政治的にもそして何より治安が大変に不安定になっていました。だからいつ内戦が勃発する科分からなかったのです。 旧ユーゴスラビアが「ヨーロッパの火薬庫」といわれるのはそういうことです。ていうか、私も当時ニュースを見て実感したんですけどね。一気に東欧全体とヘタすると中欧までが内戦化する恐れがあったのです。 内戦をこれ以上広げないためにアメリカ(NATO)は介入したのです。 ただ、ユーゴスラビア地方への「ちょっとした介入」がきっかけで第一次世界大戦が始まりました(第一次大戦が始まったときどこの国の指導者も「この戦争はせいぜい1ヶ月かそこいらで終わる」と思っていたという話は有名)から、介入の是非に関してはヨーロッパでは非常に議論されていたようですね。

qpalzmwoskxn
質問者

お礼

NATOが必死になった理由がわかりました! ありがとうございます! 勘違いだったらすみません… 独立宣言はボスニアよりマケドニアのほうが早かったように記憶しているのですが、 ほかにも何か理由はあったのでしょうか?

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