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ボスニア紛争で、結局セルビア人もクロアチア人もムスリム人も独立できなか
ボスニア紛争で、結局セルビア人もクロアチア人もムスリム人も独立できなかったのでしょうか? そして、原因として旧ユーゴスラビアがさまざまな民族が入り混り多様性を内包していたということは考えられますか?
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1番の方がすでに答えられているように、旧ユーゴスラビアからはセルビア・クロアチアといった国が独立しており、セルビアではセルビア人、クロアチアではクロアチア人が過半数以上の多数派となっています。 一方ボスニアですが、ムスリム人(1番の方はムスリム民族というのは存在しないとおっしゃられていますが国勢調査ではムスリム人という区分が存在し、宗教を理由にしながらも事実上の民族として成立しています)とクロアチア人が居住する連邦とセルビア人のテリトリーであるスルプスカ共和国のふたつに分かれています。二つの統治機構を併せたものが現在ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と呼ばれるものですが、最高権力はボスニア議会や大統領評議会議長が有するものではなく、EUから派遣された上級代表と呼ばれる他国人にゆだねられています。 というわけで、ボスニア国内のセルビア人・クロアチア人・ムスリム人はわれわれの考えるところの「独立」とは異なった状況に置かれているとみなしてもよさそうです。 紛争の原因としては多民族国家である事ばかりにとらわれる必要はないかと思います。多民族により国が構成されていても平和な国(スイス・ベルギー・ザンビアなど)はありますし、紛争が発生してもボスニアのような破滅的な事態を回避したケース(マケドニアなど)もあります。 着目すべきは民族構成比が拮抗している(ムスリム人44%、セルビア人33%、クロアチア人17%)事により、主導権をとる民族が存在しなかった事、こうした状況を過去に利用された事(第二次世界大戦のドイツ)、そして共産主義統治下で過去の民族間殺戮に関する情報が抑制された反動を利用して自身の権力強化に結びつけた政治家(ミロシェビッチやツジマン)の存在、そして非常に重要なのが正教つながりでセルビアとの連携を強めるロシアに対抗しようとして、拙速にクロアチア・ボスニアの独立を認め、セルビア人の危機感をあおったドイツなどの西側諸国の外交手法に目を向ける必要があると思います。 民族同士の交流・通婚はサラエボやバニャルカといった都市部では進んでいましたが、田舎では村や集落によって民族ごとに分かれていたといった状況だったみたいです。
- zep19
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ボスニア・ヘルツェゴビナはもともと政治単位としての歴史が古くなく 1878年にオーストリア・ハンガリー帝国がオスマン帝国のボスナ州の7県の内6県を占領してから政治単位としての歴史が始まりました 当時のオーストリア・ハンガリー帝国はオーストリアとハンガリーの国家連合的政体で オーストリア、ハンガリー双方に首相を頂点とする内閣、独自の憲法、国防軍が存在しました 二重帝国の外交、財政等共通的政策を行うため両国閣僚と 共通外相、共通蔵相、共通陸海軍を配下にもつ共通陸相、参謀総長が皇帝とともに出席する共通閣僚会議で決定されました 共通宰相は存在しません ボスニア・ヘルツェゴビナ占領に関しては皇帝と軍が強く併合を求めましたが オーストリア、ハンガリーとも自国のスラブ民族の割合の増加を恐れ、双方とも編入に反対したため オスマンの宗主権を残し、二重帝国が施政権と軍駐留権を有する中途半端な形になり なおかつ施政管理はオーストリア・ハンガリー帝国の共通蔵相が行い、そこに駐留する軍も 共通陸海軍やオーストリア、ハンガリー国防軍双方にも属さず、共通蔵相直接指揮下の軍になりました そのオーストリア・ハンガリー帝国の共通蔵相となったカーライが人工的にボスニア人という民族を創成しようとしました しかしご存知のようにボスニア・ヘルツェゴビナには宗教の違う三つのグループが存在し それは民族宗教だけでなく社会的身分の違いも色濃かったのです ムスリムは地主層が圧倒的に多く、クロアチア人は自営農民の割合が多く、セルビア人は逆に農奴が圧倒的でした クロアチア人はカトリックで自営農であるため当然二重帝国の庇護を必要とし ムスリムは是認されたその地主層という社会的身分を守るためには二重帝国に擦り寄らざるを得なかった しかしセルビア人たちはその社会的身分の不満に加えセルビア王国で反墺政権が成立すると 公然と時には暴力的なテロも含みムスリムやクロアチア人を攻撃するなど対立は根深いものでしたから たかだか1世紀程度で解消される対立でなく統一した独立思想が芽生えるのは単純な感情論から歴史的経緯まで考慮すると困難でしょう 長文になって申し訳ありません
- sudacyu
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最初の質問には、No1の方が答えておいでですので、2番目の質問について少し詳しく書きます。 <<原因として旧ユーゴスラビアがさまざまな民族が入り混り多様性を内包していた>> 誰もがそれを原因として挙げています。 <ユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と表現された。> ユーゴスラビアが一つの国としてまとまっていたのは、第二次世界大戦の英雄でカリスマ的指導者であるチトーが、大統領としてまとめあげていたからです。 彼が死去した途端に、国家が崩壊してしまいました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2
- eroero1919
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セルビアはセルビア・モンテネグロという国になり、今はそれぞれ別の国になっていますね。クロアチアはずばりクロアチアという国があります。 ムスリムはムスリム民族という民族がいたわけではなくイスラム教徒ということです。現在は旧ユーゴスラビア独立国でムスリム国家はありませんが、サッカーのオシム前監督の母国であるボスニア・ヘルツェゴビナが最もムスリムが多いようです。 ボスニア紛争つまり旧ユーゴ内戦の原因は、明らかに様々な民族が入り乱れている「民族のモザイク」といわれた国ユーゴスラビアが民族主義で無理やり独立しようとした矛盾からくるものでしょう。