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母が嫌い、普通のこと?
- 私は統合失調症の35歳で、母子家庭で母と二人で暮らしています。
- 最近、母のことを嫌いだと感じることが増えてきました。虐待ではないけれど、何か嫌なことや変な行動が何度もあります。
- 特に困っているのは、母の私のプライバシーへの侵害と性的な興味です。辛いですが、薬の助けを求めています。同じような経験をしている方がいれば、アドバイスをいただきたいです。
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同じ境遇ではないけれど、私も女性なのでなんとなく想像できます。 質問者さんのお母さんを薄めた感じでなら、私も母親から干渉されたことがありますので。 ご質問ですが、掻い摘むと「母が娘にしてしまう過干渉(共依存)」の話ということですね。同性で自分の血を分けた娘のことを、母親は自己と同一視してしまいやすいため起きてしまうと考えられます。 質問者さんのお母さんは極端だと思いますが、「母親が娘に過干渉になってしまう」のは、わりとよくあることだと思いますが、同時にあまり好ましいこととはいえないです。過干渉も共依存も、母親の方で「娘と自分の自我の領域を混同してしまい、侵食してしまう行為」だから、侵食される側は「自我も自尊感情も削り取られて行く感覚」に陥ってしまいます…。 >虐待とかではないので考えすぎかもしれませんが 質問者さんのお母さんがトイレや風呂を覗きたがるというのは「???」ですね。 干渉も過ぎればトラウマになります。 母親からそんなことをされたら、娘は貶められたみたいに思えるし、所有物扱いされたように思えて気分が悪くなると思います。 >性の芽生えのようなものがあったときに密かに購入した文庫本があったのですが、その本を母のハンドバッグにしまいこんで持ち歩いているところを見てしまったとか。基本的に私の本は盗み見ます。その内容を明け透けにかたってきて、私をフリーズさせるのが生きがいみたい。 >講習会みたいなものに母が行って、「私もう本当にショックだったわ、「経血のついた下着を丸めてしまっておく」なんて、これ私ちゃんのことだわ!と思って、もう…」とのたまう。ちなみに初潮も迎えていませんでした。 娘のプライベートの隅々を把握したがって、まだ起きてもいないことを予見したかのように話すお母さんの様子は妄想じみているし、まるで娘を監視しているみたいです。 ここまでされてしまうとプライバシーの侵害も甚だしく、いつも心が波立って娘は苦痛ですよね。 質問者さんが統合失調症になってしまったことと、お母さんから過干渉を受けたことは無縁ではないように思えます。 お母さんは、まるで娘の自我を自分に取り込みたがっているみたい。 こんなことを言って申し訳ないですが、お母さんはデリカシーのない方です。 >後日「××(父のこと)は児童養護施設にあずけると言ってたのよ」と言ってくる。 お母さんはお父さんと上手く行かなかったから、お父さんを貶めたいし、お父さんよりもお母さんの方が親としてふさわしく立派だと言いたかったんじゃないでしょうか。 これでは「お父さんよりも私、娘よりも私の方が上にいるのよ。私があなたを救ってあげたのよ」と娘に言っているのと同じことです。 娘のことを誰よりも大切に思っているように振舞いながら、やっていることは「自画自賛」です。 >「私ちゃんが若かったから、店の外にまで出て教えてくれたのよね」などと言う。 あからさまなおべっかに聞こえるし、娘を褒めているようでありながら結局は「お母さんの自己満足の様で、気持ち悪い」ということでしょうか。 小さなことでも「まるで自分のことのように喜ぶお母さんが鬱陶しい」ということでしょうか。そういうことだというのなら分ります。 >私しかいないと大股開きで椅子に座ったり、愚痴や悪口の嵐。疲れました。性的に興味関心があるようで、私はひとりのときでも一人になれません 結局のところ、お父さんと上手く行かなかったから、「お母さんは自分のことを女性として魅力が足りないと感じていて、そのコンプレックスを娘さんである質問者さんにぶつけることで解消している」ということなのかと。 質問者さんから見たら、お母さんは女性としても親としても、ちっとも魅力的ではないし尊敬するに値しない人ということなんですよね…。 でも、そのお母さんがいないと生活が立ち行かず、外出もままならないということなのでしょう? お母さんと質問者さんはまるっきり別個の人格なのに、お母さんが干渉し過ぎなので困りますね。 ここに書いたようなことは主治医に相談したことはありますか? もしまだなら、主治医からお母さんに過干渉しないように諭していただいてはどうでしょうか。 闘病中なので別居は難しいと思いますが、「愚痴や悪口の嵐」や「覗き」、「だらしない態度」については、お母さんには改めて欲しいものです。 経済的に余裕があって別居できるなら何よりですが、お母さには過干渉を改めてもらわないと、質問者さんは心が休まらないし、自尊感情が回復しづらくなってしまいます。 気が進まないかもしれませんが、診察にはお母さんも付いてきていただいて、お母さんにカウンセリングを受けていただく必要があるように思えました。 その辺りのことを主治医とよく相談してみてください。
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No.1~4です。 いつも丁寧なお礼をありがとうございます。 少しでも力になれたのなら、嬉しく思います。 コメントをいただいていたので、ご返答させていただきます。 >「統合失調症」というネーミングではぼやけてしまう本質が、 「分裂」、引き裂かれる、という言葉にははっきりあると思いますが、 どう思われるでしょうか。 言葉狩りというのがあります。 差別用語だから表現そのものを変えてしまおうという人道主義に立った思想なのですが、そうすることで却って現実と剥離して、当事者の悩みや苦しみが伝わらなくなってしまうことがありますね。 私の身内は発達障害なのですが、「障がい」とわざわざ害の字を「がい」と書き改めることに差別を感じると言います。私自身もそう考える側の一人です。 実生活に困難さがある以上は「障害」なのに “「障がい」とはなんなのでしょう?” 「がい」とは「外」なのか「涯」なのか…? 文字だけを変えたって、障害がなくなるわけじゃありませんし、なんでもかんでも性格や個性にされても当事者は困惑します。 誰にでも自分の事のように深刻に受け止めて欲しいという気持ちはありませんが、「現実は現実として、そのままを伝え、受け止めることができる名称じゃなければ意味がない」と私は考えています。 ひらがなにしてしまえば意味はぼやけるけれど、障りは障りです。障りはそのままなのに、害だけひらがなに書き改めることは、はたして優しさや思いやりと言えるのだろうか?と。 名称を変えることよりも実際に当事者に起きていることを的確に表現した方が、ずっと支援になると思うのです。 統合失調症には「解離」(自分が自分でない感じ・自分の中に他人の意識が入り込んだ感じ)があると言いますね。それは、「自分は自分のものではないという感覚」ということになります。 それは、おっしゃる通り「分裂」であり、「引き裂かれる」と言う意味であり、「分裂病」の名前の方が当事者の苦しみが切実に伝わる表現であったと思います。 言葉狩りに話を戻しますが、手塚治虫さんの『どろろ』が私は好きで子供の頃も読んだことがあったのですが、古本屋で全巻セットが格安で売られていたのをみつけて、懐かしさのあまり即買いしたのですが…。 この話も言葉狩りで主人公の百鬼丸のセリフが編集されていて、初めて読んだ時のような臨場感も衝撃も伝わって来ませんでした。 百鬼丸の父親が権力を得たいがために48体の魔物と契約をし、生まれてくる子供の体の部位をその魔物たちに与える約束をしてしまい、その結果、子どもである百鬼丸は古事記の蛭子のように全身が欠損した状態で生まれるという宿命を背負ってしまうのですが、その百鬼丸のセリフが編集されていたことで、百鬼丸の苦しみも悲しみも、ぼやけてしまい軽いものになってしまいました。 魔物から失った自分の体の部位を取り戻すべく、少年に成長した百鬼丸は魔物退治の旅に出るのですが、旅の途中で出会った琵琶法師に「俺は“かたわ”なんだよ」と泣きながら訴える場面があるのですが、「俺は体が不自由なんだよ」とセリフが差し替えられていたのです。 百鬼丸の場合は不自由とは程度が違い、決して不自由では済まされないのです。 だって「持っていないのです」から。 「かたわ」という言葉は差別用語だから「体が不自由」という表現に改められてしまったのですが、「持たざる者の悲しみ」が「不自由」という曖昧な言葉で誤魔化されてしまったことで、百鬼丸の慟哭は、まるで被害妄想みたいに取るに足りないことのようになってしまいました。 言葉で誤魔化したって現実は変わりません。 表現を変えたところで、当人に起きている苦しみは何も変わりません。 ぼやけた表現にして、現実を誤魔化して、当事者が被害妄想になっているような、たいしたことは起きていないかのような曖昧な表現に改めるのは、やさしさとも思いやりとも違っているように思います。 「統合失調症」や「発達障がい」と表現する側の人には差別意識はなくて、今は時代が変わったから、表現も改めて行こうということなのでしょう。 でも、直感的に伝わる表現の方が現実を言い当てていたり、当事者の気持ちに沿っていることはありますね。 当事者が自分自身の実情に合っている方の表現を使う分には、何も差別にはあたらないと思いますし、卑下とも違うと思います。だから、当事者には表現を選ぶ自由が合って良いと思います。 >私は昔から、私以外の人によって精神的なサンドバッグでした。 「思慮深くしていなければいけないんだと」いう刷り込みが早くから出来てしまった結果じゃないかと思います。 子どものうちから周りの人より早く大人になって、辛い思いを沢山なさってこられたのではないでしょうか。ご家庭で空気を読むことを強いられたので、周りの子よりも状況が見えて言葉を沢山飲み込んで、そのまま成長し、相談者さんはそのポジションにいるのが当たり前と周囲も思い込んでしまったのでは…。 でも、相談者さんはもう幼い子供ではありませんので、違うと思ったときは反論しても良いのです。 反論は攻撃ではないし戦意の表明でもありません。立派な意思表示の方法の一つです。 違う意見を言うとナーバスになる人が身近にいたので、自分の考えを封印する癖がつき、人が怖くなってしまったんだと思いますが、質問者さんの言葉を狩る権利は誰にもありませんので、少しずつでも意見を言えるようになると良いですね。 質問者さんの自我は質問者さんのものなのですから、心から自分で自分を認められる、心を自由に解放できる日が訪れますように…。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、言葉狩りの一時期がありましたね。「片手落ち」という言葉を使えないとか、「はだいろ」という絵の具や色鉛筆のひょうきを「ペールオレンジ」に変えるとか…。 差別はそんなことを考える人の心にあるもので、言葉にあるわけではないのに…ですよね。 「どろろ」は少しだけ読んだことがあります。でもそのときに言葉がどのように扱われていたのかについては残念ながらおぼえていません。ただ圧倒的な世界観で、すごい物語だな、と思ったことは覚えています。一度好きになった物語が、作者の意思と無関係に様変わりしてしまうのは、不快なことだと感じます。 自分で自分を認める、認められる…私の「自分」とは今となっては掴みにくいものです。薬でぼーっとしているからでしょうか。自分、と読んでみて自分が振り返るものかどうか分りません。自分を思い浮かべてみてももやもやした何かが出来るだけで、とても頼りないです。 でもそんな頼りないものこそが自分なのだとしたら、心から自分を認められる、心を自由に解放できる日もあるのかもしれません。 ありがとうございました。
何度もすみません、No.3の投稿にタイプミスがあったので再投稿です。 ×「誰かが自分に同調してくれないと不満やるかたなし」とはならないのです。 ○「誰かが自分に同調してくれないと憤懣やるかたなし」とはならないのです。 ______ 一般に女性は、話をよく聞いてくれる人に依存しやすいものなのです。 それは母親も然りで、夫婦仲が良いケースだと母親はあまり娘には依存しませんが、夫婦仲が悪いと娘に固執してしまう傾向が高まります。別れてしまえば尚更でしょう。 娘に固執する気持ち、それは、結局は寂しさや喪失感からだと思います。 娘の愛情や優しさが居心地が良いし、伴侶であった質問者さんのお父さんのように自分を傷つけないことを知っているから、お母さんは娘さんに依存してしまうのでしょうね。 けれども、娘と自分は違うんだ、娘は自分とは別の人格を持った存在で、娘の人生は娘のものであり、個性とは尊重されるものなのだとお母さんが自分で気が付くことが出来たのなら、お母さんは変われます。だから本当には、お母さんがカウンセリングを受けることが出来たら良いのになと思っています。切っ掛けがあれば人は変われるからです。また、主治医にお母さんに切っ掛けを与えるだけの力量が備わっていれば良いのになとも思っています。 質問者さんも、お母さんを避けたくなる自分の気持ちを無理に抑え込もうとしないで、お母さんに正直に何が辛かったのか話すことが出来るようになれれば、変わることが出来ます。お母さんに自分の気持ちを伝えることが怖くなくなれば、外の世界の人たちも怖くなくなりますよ。 質問者さんの方で本当に限界になれば、お母さんには、どうしたって胸のつかえを吐露することになると思います。…だって、肉親ですからね。 分って欲しいというのは母親だけではありません、娘だって同じです。 そういう気持ちに上下はないし、平等だと思います。 上手く伝えられたか分りませんが、私からアドバイスできることはここまでです。 無責任なようですが、あとは名医の主治医にお任せしたいと思います。
お礼
私は昔から、私以外の人によって精神的なサンドバッグでした。 聞こえよく言えば「柔和でおっとりとした」、手頃なストレス解消マシーンだったのです。 ぶつけてこられる悪意、自我に汚物にまみれるような屈辱を味わい、 黙り込んだものです。そして自分に「あんな人間にはなるまい」と誓い、 繰り返すのです。 こんな私が変われるかと言うとなぞでしたが、 actonis921さんの仰った「限界が来れば我慢できなくなる」というお言葉が、 とても強く私に響きました。 変わらなくても時が来ると思えば、少し楽です。 ありがとうございました。 重ねて謝意申し上げます。
No.1,2です。お礼をありがとうございました。 >母は世話焼きと言うか過干渉だけど、「主体となって人生を歩めない」とはとても思えないほどバイタリティーがありますので、何だかすとんと腑に落ちない気持ちです。 大変以外に思われるかもしれませんが「過干渉というのは実は主体性がない」ということにります。主体性があれば、別に相手をコントロールしなくても、自分の生き方や考えに満足できている(=自己実現できている)ので、相手のプライベートを探ったり、あれこれ指摘しなくても良いのです。だから、共依存に陥ることはありません。 主体性があれば自分に目が行きますし、自分に関心が行くのです。 けれども主体性が無ければ、自分の周りにばかり目が行って、相手の行動がすごく気になってしまいます。そして、自分にとって一番身近に感じている人に対して、あれこれ指図するようになってしまうのです。それはつまり、自分で自分の人生を築き上げるのではなく、身近な人に手伝わせてしまうということなのです。 私はこのことを指して、「度を越した世話焼きタイプ(共依存者)は自分が主体となって人生を歩むことには生き甲斐を見いだせない」とNo.2で表現しました。 主体性のない人にとっては、生き甲斐も生きる意味も自分の中にあるのではなく「相手の中にあります」。つまり「身近な人に過干渉することが生き甲斐であり、それが生きる目標になってしまっている」のです。 これって、自分を生きていること(=主体性を持っていること)にはならないと思うのですよね。 >母は世話焼きと言うか過干渉だけど お母さんの行為は娘にとっては過干渉だし、傍から見ても過干渉です。 けれども、お母さんが質問者さんが秘密にして読んでいる本をチェックしたり、初潮をテーマにした講習会らしきものに参加したくだりや、言わずとも良いのに、わざわざ当事者の質問者さんに向かってお父さんが娘さんを児童施設にあずけると言っていたという話を聞かせたり、店員さんに道を訊ねたときの反応などから察するに、「お母さんは自分のことを娘に対して世話好きだとか思いやりが深いと思っている節がある」と感じられました。 お母さんは、それらのことを自分では善意からの行為であると考えていらっしゃると思います。 お母さんには、娘さんをコントロールしているつもりはなかったとしても、過干渉してしまう深層心理には、「相手をコントロールしたい、自分に引き付けておきたい」という思いがあると考えられます。 あれこれ口うるさく構い過ぎて、娘さんのあなたが迷惑をこうむっていても、お母さんとしては善意からの行動なので、娘に迷惑を掛けていることをなかなか認めたくなくて >ついこの間、13年間母に言われ続けた(母から兄へ、母の友達へも含む)嫌味を「嫌だからやめて」と言ってやっとやめてもらえました。それでも嫌味や当てこすり、「知ってるわよ」と言う態度が改まるわけではありません。 と、なってしまったのでしょう。完全譲歩してしまうとお母さんは自己否定したことと同じことになってしまうから、それだけはしたくないのでしょう。 悪口を言ったり、そうすることで同情を引こうとしなくても、お母さんが自分の生き方に対して心から誇りを持っていれば、自尊感情が他人に振り回されるようなやわなものではなくしっかりとしたものであれば、お母さんは自分で自分を認めることができ、真の意味で主体性のある生き方が出来るのです。 お母さんには主体性がないから他者評価ばかりを気にしてしまい、自分を持ち上げるようなことを娘さんにわざわざ話したり、「愚痴や悪口の嵐」を娘さんにぶつけてまで自分を守ることをしてしまうし、あなたをその中に引き込もうとしてしまうのだと思います。 お母さんは自分一人では、それが乗り越えられずに、ものすごくあなたに依存しています。 それはお母さんに主体性がないからなのです。 主体性があるというのは、我儘とも自己中心的であるということとも違います。 主体性とは、「自分の意志・判断によって、自ら責任をもって行動する態度や性質」のことを言います。 ですから、「誰かが自分に同調してくれないと不満やるかたなし」とはならないのです。 よって、ぐちぐちと不満を自分よりも弱い立場の人にぶつけたりしないのです。 主体性がある人は「自分は自分、人は人」という考えに立つことができます。 だから、相手が自分の意のままにならずとも、あれこれ口うるさく干渉しませんし、ひとのプライベートを何もかも把握しようなどとは考えません。 適度な距離というものを重視しますし、相手を意のままに動かそうとすることよりも、それぞれの生き方、その人が輝ける生き方の方に重きを置くことを考えます。 話が逸れてしまいましたが、質問者さんとお母さん、それぞれが自分らしく輝くためには、共依存という癒着は障害になっていると思います。なので、お母さんが、あなたに固執することをしないで、それぞれの個性を貴ぶようになってくださればなとも思います。 質問者さんは気が付いていないかもしれませんが、お母さんは、あなたに相当依存しているし甘えていますよ。だから、 >私しかいないと大股開きで椅子に座ったり、愚痴や悪口の嵐。 をしてしまうのでしょう。 >性的に興味関心があるようで それで、娘のトイレや風呂を覗くのでしょうかね…。 お母さんは実は、娘さんにいろんな役回りをさせてしまっているのかな。 ふと思ったのですが、お母さんに両想いの交際相手が出来たら、娘に対する過干渉は収まるのでは。 お母さんが再婚なさったら、案外落ち着くのかもしれませんね。 バイタリティーがあると仰っていましたが、お母さんは愛情を注ぐ対象を強く欲しているのでしょう。 それが理解しがたい形で娘に向いてしまっているのかな…。 お母さんはどうも人に関心があり過ぎるようですから、介護とか福祉など、人を構うことがプラスに働く方面でエネルギーを発散出来たら良いですね。 そういう方面にはお母さんは関心はないのでしょうか? お母さんが生き甲斐を外に向けてくれるなら、何よりなのですけれども。 >最近よく悪夢を見てひどい気分でおきることが重なったので、さらに続くようならそのことについても相談しようと思っています。 是非そうしてください。家にいても休まらないので疲労してしまったのでしょう。 図書館とか、コミュニティーセンターとか、近所の喫茶店とか、ここなら一人でも出掛けられる場所というのが一つでも開拓できると良いですね。 独りになれる場所があれば、幾らか気持ちにゆとりが持てると思いますので。 あまりお力添え出来ませんでしたが、お母さんの話はあまり親身になって聞かないで、話半分に聞いたり、つらいときはその場から離れて構わないと思います。 邪険にすると可哀想だとか、お世話になっているんだから合わせてあげることが娘の務めだなどとは考えずに、お母さんの言動に縛られないように心を強く持ってください。 お母さんを嫌いだと思っても、それは仕方のないことです。そのことで、自分を責めたりしないでください。 愛情と意のままになることは別ですので、例え母親が相手でも、「共感することはあっても “同調はしなくて良い” 」のです。へその緒で繋がっていた事実はあっても、魂は一人に一つ、別個なのですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「魂は別個」という言葉はその通りだと思います。 母といるとよくそのことについて考えています。 一緒なのに余計淋しく、孤独だからです。 この間「分裂病」という昔の病名について考えていたのですが、 それがとてもぴったり来ると思いました。 その魂が引き裂かれてしまうのです。 母用の私と、私しか知らない私、のふたつに。 病気の私と「私を病気と言う私」ともいえると思います。 「統合失調症」というネーミングではぼやけてしまう本質が、 「分裂」、引き裂かれる、という言葉にははっきりあると思いますが、 どう思われるでしょうか。
お礼をありがとうございます。No.1です。 >「共依存」とはどういうものなのでしょう。 直リンクは先方のサーバーに負担が掛かり迷惑になるようなので、URLの頭の “ h ” を抜いてのご紹介になりますが、共依存については、こちらの説明が分りやすいと思います。 【共依存】ttp://trauma.or.tv/1kouisho/6.html なお、トップページはこちらになります。 ttp://trauma.or.tv/index.html (~ 家族という名の強制収容所 トップページ ~) ________ 私の言葉で共依存について説明させていただきます。 「共依存と言うのは、度を越した世話焼きタイプとその人に支えられている人がいて成り立ちます」。世話焼きタイプの方は大抵の場合、自分が献身的な愛と自己犠牲で相方を支えているという信念を持っていて、そんな自分に存在意義や価値を見出しています。自尊心(高慢と言う意味ではなく、自分自身の在り方、一人一人の在り方を尊重する気持ち)が低いので、自分以外の人間に深く干渉してしまいます。 度を越した世話焼きタイプ(共依存者)は、自分が主体となって人生を歩むことには生き甲斐を見いだせないので、相方のプライベートに深く干渉し、常に頼られる状態を保とうとしてしまいます。それには、相方の関心を自分に引き付けておくことが必要なので、行き過ぎた言動を取ってしまうことがしばしばあります。 人のことで気を揉むことがアイデンティティーと強く結びついてしまっているので、相手を信じて見守るということが出来ない性分なのです。 世話焼きタイプの共依存者は、相方が成長することや自立することを願っているようでありながら、深層心理では自分が独りになることを恐れています。 独りになるということは、本当の自分と向き合うことを意味するし、自分の欠点をみつめることになってしまうからです。そんな風になるぐらいなら、相方のことであれこれ気を揉んだり、指摘している方が自分を保つことができるので、そこから抜けられなくなってしまうのです。 そうしていればプライドが傷つかなくてすむので、世話焼きタイプは相方の粗探しをするように、ますます世話焼きにのめり込んで行ってしまいます。 そうして行くうちに、世話焼きタイプの共依存者は相方の自立心を萎えさせたり自尊感情を奪うような言動をして、相方をコントロールしてしまいます。つまりは「相方を自分に依存する人=共依存者にしてしまう」のです。 自分が共依存者であるという自覚がない世話焼きタイプの場合は、相方にこそ問題があると真剣に考えていることが多々あり、自分の欠点には目を向けないことがよくあります。共依存の場合、支えられる側にだけ問題があるとは言い切れず、世話焼きタイプが相方の成長や自立心の妨げになっていることにも目を向けないことには問題の先送りになってしまうのです。 >主治医の先生は信頼しているので、今度母のいないときにでも相談してみようと思います。 はい、それが良いと思います。 ここでお伺いしただけでも、お母さんの世話焼きは度を越していると思いますので、次回の診察のときにでも主治医にお母さんのことを相談してください。 共依存の件についても主治医に相談すると良いと思います。 実践的なアドバイスをしていただけると思いますよ。
お礼
再びの回答ありがとうございます。 母は世話焼きと言うか過干渉だけど、「主体となって人生を歩めない」とはとても思えないほどバイタリティーがありますので、何だかすとんと腑に落ちない気持ちです。 主治医については、とても優しく誠実なお医者さんですが、個人で開業されている為なのか(?)とても忙しいときとそうでないときがあるようで、タイミングを掴まないとならないと思います。でも、最近よく悪夢を見てひどい気分でおきることが重なったので、さらに続くようならそのことについても相談しようと思っています。 丁寧なご説明ありがとうございました。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 「共依存」とはどういうものなのでしょう。聞いたことぐらいはありますが説明できるほど詳しくないので、あとで調べてみます。 現在通っているクリニックはとても小さいところで、素晴らしいお医者さんなのですがカウンセラーはいないのです。 以前ほとほと疲れて母に「カウンセリングを受けて」と頼みましたが結局私が受ける羽目になりました。(カウンセリングルーム。現在は通っていません) ついこの間、13年間母に言われ続けた(母から兄へ、母の友達へも含む)嫌味を「嫌だからやめて」と言ってやっとやめてもらえました。それでも嫌味や当てこすり、「知ってるわよ」と言う態度が改まるわけではありません。 ごめんなさい、言葉がまとまりません。でも、主治医の先生は信頼しているので、今度母のいないときにでも相談してみようと思います。 ありがとうございました。