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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?)

親鸞の義なきを義とすは神の依怙贔屓か?

このQ&Aのポイント
  • 親鸞の《義なきを義とす》は、神の依怙贔屓を意味しているのか疑問です。
  • 親鸞は他力と申しており、義なきを義とすると述べています。
  • また、親鸞の言葉によれば、称名念仏は修行や思考を経ずに信じることが求められるとされています。

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  • titelist1
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回答No.1

親鸞の徹底した他力には本物感があります。私は浄土があるとは思っていないのですが、観念の世界ならば阿弥陀如来の事も無義の義の事もどのように考えても自由です。悪人正機とまで言っているのですから、修行も善行も悪行も関係ないのでしょう。親鸞は観念の世界に自分を置くことによって、精神の自由を得ていたのだと思います。 私は創造の神は信じていないのですが、所詮は人間が神を創ったものですから、人間のようにえこひいきをしても不思議ではありません。神に帰依した者としない者を同等に扱っては神の値打ちがありません。この考えも人間らしいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ちてりすと1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  こちらも思いっきり自由な対話ということで 考えを突き合わせてまいります。  ★ 悪人正機とまで言っているのですから、修行も善行も悪行も関係ないのでしょう。  ☆ 親鸞学として世界の最先端を行こうと思いますので まづこれを取り上げます。  《悪人正機》。これは 意外感をあたえて しかも中身も納得のゆく深さがある思想のように考えられます。  考えられますが やはりおっしゃるように 《修行も善行も悪行も関係ない》。  ようく考えてみれば この場合として すくわれるのに《善人》も《悪人》もない。はずです。両者をくらべることは 一応おもしろい論点であるように見えて 再応としては意味がない。なぜなら 例外をつくるようなら 神ではないからです。  例外が仮りにあるとしたら それは その人の一生のうちに心が癒され 世間と和解しおのれみづからとも和解するということが実現しえなかったという場合だと考えられます。死ななきゃ直らないというよりも 死んでも直らない場合があるかも知れません。それは その本人がそうのぞんだということで 仕方がありません。つまり 例外ではありません。  ですから 《全人正機》でなくてはならない。  さらにしかも じつにこの《すくい――世界とわれとの和解――》は それを一応理屈としてかかげたとしても その理屈にまどわされることはない。というのが 親鸞であり わがシントウの心であり 神ながらの道なのではないか。こう考えています。  従いまして おっしゃるとおり:  ★ 親鸞の徹底した他力には本物感があります。  ☆ と思われると同時に この《他力》にしてみても いくら絶対他力だと言ってみても その自力・他力うんぬんなる議論は すでにとっくに突き抜けてしまっている。こうでなくてはならない。と考えます。  《徹底》をも突き抜けてしまっている。と。  ★ 私は浄土があるとは思っていないのですが、  ☆ それはそうでしょうね。人間が思ってどうにか成るとも どうも成らないとも 分からないことだと考えられるからです。  ★ 観念の世界ならば阿弥陀如来の事も無義の義の事もどのように考えても自由です。  ☆ まぁ いちおう合理的に理論をまとめるとは思うのですが 観念である限りで その理屈にはとどまってはいない。  ただし  ★ 無義の義  ☆ については これは《くせもの》です。というよりも これだけでは まだその意味内容がさだまっていません。  《はからひ無きをよしとする》と解釈したとしても まだ定まりません。なぜなら ハカラヒを交えないというときには 交えないという意志行為すなわちハカラヒがともなわれるからです。  これは いまはここまでとして保留しておきます。  ★ 親鸞は観念の世界に自分を置くことによって、精神の自由を得ていたのだと思います。  ☆ 率直に申せば これは どうでしょう。むしろ反対ではないでしょうか。  あるいはつまり もっと上へ突き抜け もっと遠くへ飛んで行ってしまっているのではないでしょうか。  なぜなら 《精神と身体 つまり 身と心》の問題を考えるに すでに《義無し》と言い切ったのなら それらをめぐる思考や観念の世界とは――それに頼るべきものとしては――オサラバしていると考えられるからです。  観念の世界には 身をおいていない。身を――したがってわが実存を――置いているのは ただただ《いま・ここ》であるはずです。この娑婆世界そのものだと考えられます。別にどこへも行かない。その場で アミターバ・ブッダと相対している。もしくは そのような神なる対象は 何もない。いっさい何もない(見えない)ところで――なぜなら 所詮は神のエコヒイキゆえに―― ひとり立っている。  ▽ 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄)  ☆ とも言っている。この場合は ブッダが心の目の前にある。矛盾があるようで 経験事象としての《ある・ない》はこれをすでに超えている。ものと考えられます。  ★ 私は創造の神は信じていないのですが、  ☆ これは 勝手に解説におよびますが 神は《非知》です。  非知は 非経験の場ゆえに 経験的な相対世界を超えている。つまり 絶対です。無限です。  つまり 《絶対》から――説明のための思考をほどこして―― 擬人化して《絶対者》なる概念を得る。  この絶対者から 全知全能の存在がみちびかれ 話としては・物語としてはこれが 世界の創造主として表現された。――これだけのことです。  創造の主体や対象ということが そのまま歴史事実だとは決まらない。ということだと思います。    ★ 所詮は人間が神を創ったものですから、  ☆ その表現による物語は 人間がつくったものですが 神が非知であるということは これは 想定です。無限は二で割っても三で割っても やはり商は無限ですが この無限が 非知のことであり 神のことです。そのように想定されるものです。なぜなら 《神》という言葉は どの民族語にも持たれているからには それの説明が 哲学としては必要です。  ★ 人間のようにえこひいきをしても不思議ではありません。  ☆ と見られると同時に――微妙だと思われることには―― えこひいきをしていないと あとで人間にも分かる結果が得られるかも分かりません。そういうたぐいのモノまたはコトであるのではないか。なにしろ天をも突き抜けてしまっているというお話ですから。  ★ 神に帰依した者としない者を同等に扱っては神の値打ちがありません。この考えも人間らしいです。  ☆ という見方と同時に――あるいは そういう側面が捉えられると同時に―― 別の見方や側面がないとも限らない。のではないでしょうか。  というより《神に帰依した・していない》といった区分を 煮詰めて行ったところでは やはり突き破ってしまっている。と考えられるからです。  神を信じる・信じない あるいは言いかえると 有る神を信じる・無い神を信じる この区別も何の意味もない。つまり 無義の義となる。のではないでしょうか?  世界最高峰の思想を 親鸞および縄文と弥生からのシントウイスト日本人たちはつちかって来た。と言えますまいか。  

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