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自力聖道門と他力易行道とは 次元が違う。
こうです。 信じる: 他力(絶対他力) 考える: 自力聖道門(時にラッキーな易行道) その上でまづふたつの文章を見てください。 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~ 自然といふは 《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 《然》といふは しからしむといふことばなり。 しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 * 爾(に・じ):しかり。そうである。 ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~ 自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法進みて自己を修証するは悟りなり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち《如来》を持ち出すのは いわゆる――広く取ってください――有神論です。 道元の言う《万法(森羅万象 またそこに見られるという法則)》のさらにその背後になおアミターバ・ブッダと呼ぶ神を想定しているのが 親鸞であるのではないでしょうか。 つまり道元は いわゆる無神論です。 ところが その《無い神》をけっきょく 親鸞のアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と同じ位置に立てていると帰結されるかのように 道元も《自然法爾》だと言っています。道元が 言っているのです。 つまり そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。《おのづから》であり 《行者のはからひにあらず》と言い切っているからです。 つまり 一般に神とわれとの関係――これが《信仰》のはずですが――については 無神論の道元のほうも 決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。そう言ってよいでしょう。 自己の能力と努力は 経験的なことがらについては大いにまじめにおこなうのですが こと信仰にかんしては あちらからのおとづれを俟って成り立つと言っています。 親鸞・・・・・・・・・・・・道元 _______________________ 信じる: 他力(絶対他力) 他力 :《はからひ無き》 考える: 自力 自力 :意志行為である。 こうでしょう。どうでしょうか?
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「絶対他力のもとにあってその中での自力 ということでしょうか? それは 自由におのれの意志行為としておこなわれる自力だと思います。 つまり その場合には 周りの人びとの相対的な他力と自分の自力とが関係し合い交錯しあうかたちになるのだと見られます。 言いかえると 絶対他力は そのような人間の為すそれぞれの自力行為を超えている。ということではないのですか?」 「「絶対他力」より評価されるより無い」、これが成立しますと、 ・・・かえって、「自力」に走ってしまうことも、あるのでは?
- kurinal
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B様、ありがとうございます。 >「つまり もし単純に《他力》という言葉で表現されてしまうというときには その他力なるチカラは 自分のチカラではなくても誰かほかの人間のまたは社会的なもしくは自然的なチカラとして 自分におよぶことがあると言っていることになります。だから そうではないのだと言うために きちんと絶対他力なのだとことわっているわけです。 人間や人間関係としての社会やそして自然のそれぞれのチカラは あくまで経験的で相対的なものです。それらを超えたチカラが 絶対です。」 では、その中での「自力」とは??
お礼
絶対他力のもとにあってその中での自力 ということでしょうか? それは 自由におのれの意志行為としておこなわれる自力だと思います。 つまり その場合には 周りの人びとの相対的な他力と自分の自力とが関係し合い交錯しあうかたちになるのだと見られます。 言いかえると 絶対他力は そのような人間の為すそれぞれの自力行為を超えている。ということではないのですか? ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんばんは。 「絶対他力」とは、どんなに頑張っても所詮は「他力」とされてしまう、ということでしょう?
お礼
いいえ 違います。 ご回答をありがとうございます。 つまり 《絶対》という規定を知らなさすぎます。 人間のチカラも何もかものチカラもが まったくその絶対に対しては効かない。歯が立たないということでなくてはなりません。 つまり もし単純に《他力》という言葉で表現されてしまうというときには その他力なるチカラは 自分のチカラではなくても誰かほかの人間のまたは社会的なもしくは自然的なチカラとして 自分におよぶことがあると言っていることになります。だから そうではないのだと言うために きちんと絶対他力なのだとことわっているわけです。 人間や人間関係としての社会やそして自然のそれぞれのチカラは あくまで経験的で相対的なものです。それらを超えたチカラが 絶対です。
- titelist1
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仏の教えを浄土門の他力で知る方法と聖道門の自力で知る方法があるとされています。いずれも教義の奥で教えを信じるところでは一致するとされています。浄土門には浄土宗、浄土真宗、時宗があり、聖道門には法相宗、華厳宗、天台宗、真言宗、律宗、臨済宗、黄檗宗、曹洞宗、日蓮宗があります。 浄土門には浄土の存在を信じることが必要です。それがあればこそ他力になれるのです。現在では浄土の存在を本心で信じている人は少ないと思います。それを敢えて浄土門も自力であると主張されているのですね。そして聖道門の自力も所詮は他力だと主張されているのですね。 それは浄土真宗が他力であると言われることが不本意であると思っているからではありませんか。同じことを親戚の浄土真宗の門徒衆から言われた経験があります。他力と言うと人任せのようですので、それも分らないではありません。私の家の宗派は聖道門ですが、自力で仏の教えの真髄を知ることは容易ではありません。自力である方が格式が高いと思わされているだけです。信心深いおばあちゃんは門徒衆は百姓の仏教だと言っていましたが、格式からそのように思っていたのでしょう。私はもはや自力も他力も形骸化していると思っています。 ところで、道元は禅は仏教にはないと言っています。彼が学んだ中国の禅は仏教ではなかったからです。無神論と表現されていますか、当たっていると思います。壁に向かって禅をしているのですから。しかし、禅宗が日本に同化するなかで仏教的になって行ったと思っています。
お礼
ちてりすと1さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ それを敢えて浄土門も自力であると主張されているのですね。そして聖道門の自力も所詮は他力だと主張されているのですね。 ☆ そうですね。《次元》がちがうというところが キモだと思うのですが どうでしょう? 信じる: 他力(絶対他力) 考える: 自力聖道門(時にラッキーな易行道) 経験世界における経験事象にかんしては 人間が自分で考えこれを行動に移す。所詮 《自力》です。それ以外にあるとすれば 運よく何もしないで欲しいものが得られたといった場合だと考えられます。 けれども 信じる問題は 自力でどうあがいても 泣いても笑っても 所詮とどきません。とどいたらそれは《信じる問題》ではなくなっています。《自力の考える》事柄についてこそ おのれの努力でその目指すところに届いたということになるのだと考えられるからです。 ですから きわめて単純で簡単なことを言っているつもりです。これまで こんな当たり前のことが ないがしろにされて来た。だけの話であると考えています。しっかりと みんなで検討しあって 結論が出るものなら出しておけばよい。なお間違っていたら また直せばよい。こんなふうに考えます。 ★ 自力で仏の教えの真髄を知ることは容易ではありません。 ☆ じつは このお考えについては その概念の用い方が 微妙なところだと考えます。 《オシエ》はまづ措いておきますが 《知る》というのは おそらく《考える そして人間のみづからのチカラで得ようとする》ことではないでしょうか。つまり 《知る》のは すべて自力のはずです。(棚からぼた餅のようにして得られる場合は 別としてよいでしょうから)。 (棚からぼた餅の場合というのは 他力だと言われるかも知れません。だとすれば 《信じる問題》にかんしては 自力ではあり得ないと言いましたが これをただ他力とするだけではなく 絶対他力と捉えればよい。と言えるはずです)。 つまり オシエは 信じる対象ではなく 考えるものなのです。概念をもとに思考します。けっして鵜呑みにするごとく信じる(受け容れる)ものではありません。 こんなふうに考えています。
お礼
★ ・・・かえって、「自力」に走ってしまうことも、ある ☆ でしょうね。 しかし いわゆる中間の安定層の人びとは そこで――そうではなく―― 《きよらかなおそれ》を胸にいだくようになるでしょう。 ★ 「「絶対他力」より評価されるより無い」、これが成立しますと ☆ そういうことになるという意味です。 つまり 人びとの中には その《成立》で 自分の心も気持ちももう要らないと思ってしまって《おそれを抱かない〈自力〉に走ってしまうことがある》ということでしょうよ。 ご回答をありがとうございます。