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互換性という概念の起源について

互換性という概念は西洋起源だと思いますが、大量生産と関係があって、出てきた概念なのでしょうか。あるいは困難な状況下でやむなく行った修理などから出てきたものなのでしょうか。

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

アメリカの発明家が自分の工夫した拳銃を早期に大量生産するために、ばらつきの少ない部品を高価な工作機械で作ってインラインで組み立てる方式を成功させたのが工業生産における互換性という概念の最初だと聞きました。その拳銃はコルトの回転式(リヴォルバー)だったと思います。戦前の日本軍需工場ではエンジンなども現物どうしの組み合わせで、まだそこまでいっていませんでした。

kaitara1
質問者

お礼

歴史的には大量生産の発想から出てきた概念ということになりますか。ご教示ありがとうございます。日本では小手先細工という言葉があって、これは互換性ならぬ、非換性でしょうか。

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その他の回答 (5)

  • foomufoomu
  • ベストアンサー率36% (1018/2761)
回答No.5

>私の印象では互換性と規格化とは違う概念のようにも思えるのですが・・・ >精度と規格は同じ意味だとすると部品の規格化が互換性を生むということでしょうか。 互換性の出発点が規格化ではないでしょうか。 まず、ISO JIS IEEE のような統一規格を作らないことには、互換性は得られないと思います。 日本では、工業技術の原点といえる建築分野で、畳寸法を基準にした規格が自然発生し、それが日常品にまで波及したようです。 ただ、これが西洋に影響したわけではなく、西洋は西洋で工業規格を19世紀になって作り始めた、ということのようです。 日本人にとって、工業規格はあたりまえすぎる存在だったので、出島にやって来た西洋技術者たちもそのことに気が付かなかったのか、あまりにも違いすぎる日本の生活習慣、工業技術についていけなかったのかと思います。

kaitara1
質問者

お礼

あまりにも身近にあるとかえって、そのありがたみがわからないということがありますが、興味深いことだと思います。ご教示ありがとうございました。

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noname#215107
noname#215107
回答No.4

No.1です。 >矢の場合にはどうなのでしょうか。ピストルの弾のようなものだと思いますが、ピストルの各部品を交換してもピストルが打てるようになるということと少し違うように思います。規格化とは違うようにも思います。 銃の弾でも「互換性」 という用語を使います。 たとえば、5.56x45mmNATO弾は、元々米軍で制式化されましたが、陸上自衛隊の89式5.56mm小銃をはじめ、各国のライフル、小銃、機関銃と互換性があります。 これはおっしゃる通り「ピストルの各部品を交換してもピストルが打てるようになるということ」とは違いますが、「互換性」という用語が使われています。 また「互換性」と「規格化」は別のことです。

kaitara1
質問者

お礼

弾の場合も互換性という言葉が使われるのですか。ありがとうございました。 英語でも同じinterchangeabilityなのでしょうか。

kaitara1
質問者

補足

互換性と規格化の関係はどのようにお考えでしょうか。

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  • foomufoomu
  • ベストアンサー率36% (1018/2761)
回答No.3

前の回答の訂正 建築家ル・コフビジェ → 建築家ル・コルビジェ それから、たとえば、洋服の寸法は人の体の大きさに合わせて作るので、どれも似たような大きさになりますが、こういうのは「規格化」とは言いません。

kaitara1
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。

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  • foomufoomu
  • ベストアンサー率36% (1018/2761)
回答No.2

日本では互換性(規格化)の起源は古すぎて誰にも分からないものです。 たとえば、畳、和紙(障子紙が起源)などは、太古から大きさはどれも同じ(関東と関西で多少違う程度)に作られ、それは約90cmの倍数を基本としています。 一方、西洋の互換性の起源は、私が聞いたところでは、タイプライターができた時、それに合う紙の大きさを決めたのが始まり、だそうです。 1943年にフランスの建築家ル・コフビジェが日本の畳のような基本寸法を提案して、(日本人から見れば、「いまさら?」という感じの話ですが)世界中が驚いたそうですから、西洋の規格化の遅さに驚きます。 http://www.geocities.jp/yossy_the_rat/modulor.html

kaitara1
質問者

お礼

ご教示ありがとうございます。私の印象では互換性と規格化とは違う概念のようにも思えるのですが、改めて考えてみたいと思いました。精度と規格は同じ意味だとすると部品の規格化が互換性を生むということでしょうか。

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noname#215107
noname#215107
回答No.1

交換部品に互換性が必要な道具でしょうね。 古くをたどると、一万年以上前から使われてきた弓矢の矢などは良い例ですね。複数の人数で狩りなどを行う場合に、 矢が共有できれば、非常に便利です。

kaitara1
質問者

お礼

ご教示ありがとうございました。互換性というのは複数の部品からなる製品の各部品を交換しても同じような完成品ができるということだと思いますが、矢の場合にはどうなのでしょうか。ピストルの弾のようなものだと思いますが、ピストルの各部品を交換してもピストルが打てるようになるということと少し違うように思います。規格化とは違うようにも思います。

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