原発における科学とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 福井地裁の原発の運転差し止め判決に対し、科学的検討が希薄であり、科学的議論をないがしろにしたとの批判が存在する。
  • 京都大学の地震工学教授は、新規制基準はリスクを社会が許容できるレベルまで引き下げることを目指しており、福島事故を踏まえて考え得る最大クラスの安全対策を講じている。
  • 科学は人類の知識であり、権威や信頼があるが、過去の事象や傾向から導き出された科学的結論と、現在の科学的事実を区別する必要がある。また、原発に関して社会が許容できるリスクとは何か、皆の意見が分かれる問題である。
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原発における科学とは何か?

福井地裁の原発の運転差し止め判決に対し、今朝の読売新聞では科学的検討が希薄、科学的議論をないがしろにしたと記しております。 また、京都大学の地震工学のある教授は、新規制基準は福島第一原発事故を踏まえ、~中略~考え得る最大クラスのものだと説明し、リスクを社会が許容出来るレベルまで引き下げるのを目指すと表明している、との談話も掲載されておりました。 科学とは、一体何か?地震工学教授が言うように、リスクを社会が許容出来るレベルまで引き下げる事が、科学の役割と言えば言えると思いますが、福島の事故前には科学的に考え得る最大クラスの安全対策を講じていたはずですが、自然災害と最大クラスの準備をしていたはずの人間のヒューマンエラーの両者に、考え得る科学的議論や検討は敗れ去った事は、過去における事実でした。 科学とは、人類のある知識であり権威や信用信頼を得ているものである事は認めますが、現在に限定される原因と結果である以上、不偏的な科学的事実と過去の現象や傾向から導き出された科学的結論とは、分けて考えなければならないと思われるのですが、皆様のお考えは如何でしょうか? 人は生身であり、生活して行く上で、ゼロリスクなどあり得ないですから、ある一定の社会の許容出来るリスクは十分理解出来るのですが、原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か? そして、皆様が許容出来るレベルとは何か? 以上、3つ質問させて頂きます。 お時間があれば、よろしくお願いいたします。

noname#244637
noname#244637

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  • kaxuma119
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回答No.8

原発を考察するにあたり、まず科学と何かを問うことは有意義だと思います。 科学とは何か? 私の知る限りでは仮説と検証からなるシステムです。いかに普遍的な真実に見えても、実験や観察された結果が既存の体系に収まらなければ、体系を再構築するという仕組みになってます。「こうなるはずだ」という想定はあくまで既知の情報に基づいたものであり、新たな情報がでれば想定外になります。 質問者は「不偏的な科学的事実と過去の現象や傾向から導き出された科学的結論とは、分けて考えなければ」とお考えですが、厳密にいえば科学には「普遍的な事実」などないのです。19世紀末には普遍的事実に思われていた古典物理は黒体輻射や光電効果という新たな事実の発見により破綻しました。 そこで、原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か?ということになるんですが、技術が科学に基づくものであり既知の情報のすべてを前提に安全対策をしても想定外が起こる可能性を否定できないという前提で考えなくてはなりません。 1960年代ごろ、原発推進派の人たちは既知の情報をもとに原発事故の確率を隕石による事故の確率と同程度と推論しました。しかし、この想定は破綻しています。これまでに世界で運用された原子炉の基数はほぼ500です。このうちスリーマイル島1基、チェルノブイリ1基、そして福島の4基が重大事故になりました。重大事故の発生件数1%が実績です。私は、人類5千年の歴史で隕石で街が壊滅的打撃を受けたなどという歴史的事実を知りません。 ある程度、事故の確率が見えたうえでリスク・リターンを考えることになります。車に乗る人は事故のリスクを了解して使いますし、事故を起こした時に備え保険に入ります。ひどい事故を起こしても、迷惑をかけた相手にも自分にも経済的破綻が起きないようにしています。社会全体でみると事故はなくなりませんが社会の機能を損なうことがないように車のリスクは管理されているんです。 ところが原子力発電所の重大事故は社会機能の破壊を引き起こします。電力の安定供給というリターンに対し、今回の事故の被害は見合うのか、今後、リスクを担うもの、つまり原発事故時に直接の被害をこうむる人たちと被害を補償する人とが了解できるのかという問題なのです。 福島における補償問題と50年かけても終わらないであろう事故処理という現実を目の当たりにしている今、自分が被害者になるかもしれないということを真剣に考えれば「原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か?」の答えは自明ではないかと思います。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました! 私の知識足らず言葉足らずを、補足して頂き感謝申しあげます。 私は、臨床試験に関わった経験があり、医学科学化学の分析が人間全てに通用しない事を知りました。(あくまで、私が体験した数例だけの話しかも知れません) 原発に関わる確率のお話しは、じつに興味深かったですねぇ。 私は科学とは、今ある事の分析と証明だと単純に考えておりました。 新たな情報が出れば想定外という事は、まさに東日本大震災とリンクしますよね! ありがとうございました!

その他の回答 (10)

回答No.11

原発における科学 今日の某新聞にドイツ政府の原発問題倫理委員会委員、ベルリン自由大学教授のミランダ・シューラーズさんのコメントが掲載されていました。 美味しんぼ事件と同様に、ドイツでも、「原発の周辺の住民に発ガン率が高い」という研究発表がなされることがあるそうですが、それに対して政府が否定したり抗議したりすることはないそうです。 健康被害について、「東電と政府は今回の問題提起(美味しんぼ)を受け、事故による人体的影響はないと科学的に証明しなければならない責任がある。市民の健康被害を払拭する調査やデータ提供を最優先すべきだ」 しかし、政府は具体的データを示さず、健康不安を訴えている避難者に 「放射線との因果関係は無い」と言っている。 政府はチェルノブイリを引用していますが、 福島のデータ(放射線、患者)をつき合わせて、ほんとに因果関係がないのか、調査結果を発表していませんね。 科学とは、文献を引用するのではなく、自ら考えることでしょう。 >原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か? 人工のものは、やらなければ避けられるので、1ベクレルでも拒否すべきでしょう。 >そして、皆様が許容出来るレベルとは何か? 人工のものは、1ベクレルでも拒否します。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 人はオギャ~と生まれる前からリスクを背負っております。 そして、好むと好まざるに係わらず、様々なリスクに対峙せざるを得ません。 親の立場にしても、自我を持ち自立した立場になっても、出来るだけリスクを排除したい、ましてや人工的なリスクは御免被ると言うご意見を、私は何ら否定するつもりはありません。 人は社会的動物であり、言わば自然環境や社会環境に適応しながら生きております。 しかし原発は日本に実在し、過酷事故が起きてしまった事も現実なのです。 私の地元(30キロ圏内)でも原発がありますが、建設に反対しながらも建設させてしまった事に、忸怩たる思いがありますが、賛成派の大多数の意見がある以上、それに従わざるを得なかったという現実がありました。 然しながら、原発の安全性に関しては、言わば詐欺みたいなものでしたねぇ。 そのリスクマネージメントの甘さを、我々は見抜く事が出来なかった、ないしは信用し過ぎたという事なのでしょう。 事故当時から、政府や東電が情報をコントロールし、開示しなかった事を国民は知る事となりました。 自分達の都合の悪いものは流したくない。 開示することにより、パニックや風評被害が起こる事を危惧する。 上記のような動機が考えらるのですけど、事故後3年が経過し、おそらく政府は様々な情報を持っていると思われますが、その数値の本当の因果関係が解らない断言出来ないものを積極的に発表してないのではないでしょうかねぇ? また、サンプリングのマジックと言うか、ある種の意思や誘導も懸念されますねぇ? 回答者様が主張されるように、全ての情報は開示されるべきです。 それを分析評価する学者や学説が分かれようとも、選択することはあくまで国民に委ねるべきだと思いますねぇ。 人が生きるという事は、選択の連続でもあります。 理解しようが出来まいが、息をして食べて寝て生きております。 理解しようが出来まいが、現状を受け入れています。 故に、せめて疑問に思う人や理解出来ない人達が、もっと声を大にして訴え続ける必要があると考えます。 自分自身のため、自分達の愛する人達のため、そして、将来の子孫のために… ありがとうございました。

回答No.10

原子力は分からない事だらけ、分からないから科学する、分からないから怖い、だから停止。廃炉も出来ない者が何を言うかです。前例にしているのはチェリノブイリだけ、それだけで参考になるのか、科学してから造れよと云いたいです。判らないのに許容レベルってなんですか。石炭全盛の昭和元年の大気を基準してみたらどうでしょうか。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 原発問題でも反対意見を言うと、思考停止に陥っていると賛成派に批難されます。 当方は、別に思考停止しているつもりはないのですけど、それでは代替案を出せという。 自然エネルギーはコスト高、供給不安定を指摘され、計画停電の頃を思い出し真摯に節電を心がけ、発電コストの経済的圧迫も甘受すべしと言うと、日本経済を弱体化させるつもりか?お前は反日勢力だと誹謗されます。 一方、高効率ガスタービン発電や二酸化炭素除去装置に関しては、ほとんど反応がありません? 「科学してから造れよ」、私だって本音を言えば全く同感ですねぇ。 反対していても、安全運転安全管理に間違いないと、出来てしまったのです。 確かに我が新潟県では、過酷事故は起こっておりませんが、福島の人達も安全だと説得された方々も多いのではないでしょうか?(私の想像、私見です) 私なんか、直接の被害を受けていないから、許容レベルなどと言えるのかも知れませんが、我々の子孫のためにも真剣に考えなければならないと思うのです。 原発は停止しておりますが、各原発には未使用及び使用済み核燃料棒が多数存在しております。それらの管理や地震対策も、もっと問題にして頂きたいと思います。 更に、今だに流出する汚染水も、現状ではタンクに貯蔵するだけであり、アルプスで除去した汚染水は良いとしても、除去した物質は結局貯蔵しなければならず、そのアルプスも不具合が続出しております。 凍土壁の効果も、実は作ってみないと、どれほどの効果があるか判らないと技術者は言っています。 それに伴う地下水汲み上げによる地盤沈下や建屋内汚染水流出の危険性など、東電と原規会では評価が分かれているようで、科学はどこに行ってしまったのでしょうか? 回答者様がご指摘のように、新たに起きてしまった事に対し、分からない事だらけ出来ない事だらけというのが、放射能の過酷事故の実態でしょうね。吉田調書も何が書いてあるか分からないし… ご回答ありがとうございました!

  • dragon-man
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回答No.9

No.3です。 >福島の事故原因が、完全に究明されていると回答者様はお考えになられていらっしゃいますか? 対策は別として、事故原因は完全に究明されています。津波による電源喪失と冷却システムの損傷です。なぜそう言う脆弱なシステム設計であったかは未だに定かでない部分がありますが、事故の原因自体は明々白々です。まったく同じシステムで、震源地により近かった福島第二原発はまったく被害を受けていません。整斉と運転停止しています。理由は、同じ強度の地震と津波を受けていたのに、第一のように電源喪失せず、冷却システムも損傷しなかったからです。この違いを見ても、事故原因は明らかです。 福島第一の場合も、もう一系統無傷の電源があり、原発の命である冷却システムが福島第二のようになんとか持ちこたえていたら、メルトダウンや水素爆発は起きませんでした。無傷とは言えないまでも、なんとか運転停止に持ち込めたはずです。そうなっていたら今の福島第一の悲劇は存在しません。 福島第一で得られた貴重な教訓は、いかなる事態になっても、電源が確保され、冷却システムが止まらなければ原発は安全と言うことです。これを生かさない手はありません。残る全国49基の原発にこの対策を施せば安全と言うことは、福島の教訓で分かっているのです。 政府や関係官庁、企業が責任のなすり合いばかりしていて、こういう抜本対策を講じないのが不思議です。原発一基あたり100億円の費用をかけても4900億円しかかかりません。10倍の1000億円かけてもたかだか4兆9000億円です。なぜやらないのか、切歯扼腕です。

noname#244637
質問者

お礼

全く同感です。 しかし、冷却のためのパイプの破損は、津波による流入物や建屋内部の破損物による損傷と断定出来ているのでしょうか? また、当方は新潟地震以上の地震は、まず起こり得ないと科学者に言われた後に中越地震が起こり、中越地震が起こったから余震はあるだろうが、本震以上の地震はないと言われた後で、中越沖地震が発生しました。 福一は電源喪失せずに、冷却さえ出来ていたらメルトダウンや水素爆発もなかったでしょうけど、建屋そのものが崩壊し冷却ポンプや給水パイプが破損していたとしたらアウトでしょうね! また、ベントするにしても建屋の崩壊に伴う破損は、やはり致命的と言えますよね? 本当に抜本対策をしてこそ、再稼働申請をして欲しいものですねぇ。 再度のご回答ありがとうございました!

noname#246942
noname#246942
回答No.7

相手が、科学的科学的と、「科学」を振りかざしているのだから、「その科学とは何か?」と質問しても別に不思議ではない訳で。。。 「科学的」と言われると、さももっともらしい事のように聞こえますが、さて、本当に「科学」「科学的」とは何なんでしょうね? ウィキによると、 『「科学」なるものが何であるかについて論ずるのは、歴史的なコンテクストに依存していて、容易なことではない。 一言で言えば、歴史とともに「科学」の意味は変遷してきている。 また、どのような知識内容が「科学的」であるか(あったか)を定めるそれなりの基準を設定しようと努力することはそれなり意味はあるが、厳密な境界設定は実際上はほとんど不可能である、ともされる。』 とあるのですが、それにも関わらず、「科学的検討」「科学的議論」という言葉を全面に押し出すとは、何とも剛毅なものですな。 もっとも、「科学」単独ではなく「科学的」と言う言葉について言及すると、 (1) 論理的・客観的・実証的であるさま。 (2) 特に、 自然科学の方法・成果などに関するさま とありますね。 では、今の時点で、地球上、最も「科学的」に「実証、確定されている事実」とは何か? 「放射性物質は、世界中、どこを探しても今の科学力では、分解除去、無毒化は出来ない」と言う事です。 これは、きっとどんな科学者、研究者を探しても、「否定出来ない事実」だと思いますけどね。 だからこそ、あの福島の事故が起こるまで、国は原発を立地する予定の自治体や県に対して、絶対的な「安全神話」を謳ってきた訳です。 現代の日本において、「原発事故が起こったら」と言う「前提」は、原発を立地する時点で「大きな矛盾」となっておりましたね。 その本質は、今も変わっていないのかも知れません。 本当に、原発の再稼動に対し、科学的検討、科学的議論が必要だと言うのなら、安全面は当然の前提とした上で、全ての原発に対し、「万が一」「福島原発クラスの事故が起こったら」という仮定の元、その際の事故処理方法、対応を、各電力会社や国が率先して示すべきではないでしょうか? 福島の事故を機に、新しく出来た原子力規制に関する骨組みは、新たに原発の事故処理対応が加えられたものの、その中身はと言うと、今の対応に少し毛が生えた程度のものでした。 しかし、あれが限界なのかも知れません。 もしそこに加えられた内容が、本当に完璧であるとすれば、今現在、福島の原発事故はとっくに終息しているはずでしょうからね。 さて、質問に戻ります。 >原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か? なぜか「自動車事故」のリスクと比較されている方が多いですが、本来、「原発のリスク」で物事を考えなくてはいけないのではないですかね。 自動車事故のリスクを背負いたくないのであれば、車に乗らなければいい話ですし、車に近付かなければ良いのです。 しかし、「そういう訳にも行かないのが現実」ですので、だからこそ、そこで初めて車を利用する事の「メリット、デメリット」を考える事が出来るのではないですかね? では、原発の近くで生活を営み、そこで反対している方々の「そう言う(再稼動しない)訳にも行かない現実」とは、一体何なのでしょうか? 「原発が動かなければ、日本経済が困窮する、生活が苦しくなる。」 それは、誰のリスクですか? 原発に関して「社会」と言う言葉を使うには、あまりに広義的過ぎるように思います。 原発で何か起こった時、その影響をモロに受ける近隣住民と、原発の影響をほぼ受けない方々とでは、「稼動停止している際のリスクは同じ」でも、「再稼動した際のリスク」はあまりに違い過ぎます。 自動車のリスクを考え、安全面をどう考えるかは、個人の責任と選択の自由であると同時に、原発に対してのリスクを考えた場合は、せめて、一番先にその被害を被る事になるであろう方々の、「稼動に反対する権利」を、社会は許容すべきではないかと考えます。 そうでなければ、「(再稼動が)嫌ならば、そこから出て行け」と言っている事と同じであるような気がします。 >皆様が許容出来るレベルとは何か? 「原発事故が直接の原因で亡くなった者は一人もいない」と豪語する人がけっこうおりますね。 それは事実でありますが、「原発事故のせいで」亡くなった方は、自殺も含めたくさんおりますね。 では逆に、今の時点で、「原発が動いていないせいで」亡くなった方はおりますかね? いたとしても、因果関係の立証は難しいかも知れませんね。 「生活」は「命」です。 「死者が出ていないから良いだろう」と、この原発事故に巻き込まれた方々の「生活」を切り捨てるのであれば、自分達も原発が動かない事で、生活が困窮するぐらい、我慢すればいいだろうと思います。 自分が許容できるレベルとは、そういうレベルです。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました! 私の背景は、おそらく良くご存知でしょうから、お礼の言葉にはかなりの省略が含まれる事をご了承ください。 私も表題に科学という言葉を使う事に、多少の抵抗がありましたが、質問のきっかけが読売新聞記事でしたので、自分の疑問の原点にそって質問させて頂きました。 科学とは何か?という命題にも様々な回答がされるはずであり、むしろ哲学カテに属する事なのでしょうかねぇ? 今まで、このサイトにおける原発問題に関する質問や回答を拝見すると、経済と安全のどちらが大事なのだろうと、思わざるを得なかったですねぇ。 最近の憲法問題を見ても、戦争する出来ると言う事、宣戦布告するまでにはならずとも、前線で生命の危険をかけて対応する人間の事を、本当に解っているのか?を疑問に思っておりました。 言うだけならば、ネットを始めいくらでも好きなだけ言えるけど、自分自身が矢面に立った時、果たして同じ事が言えるだろうか?と思う訳です。 その理由づけのために、科学や為政者の都合の良い言葉だけが利用されていないか?と、ついつい考えてしまうのです。 思想や宗教や科学までが、為政者に利用され続けて来た事は、歴史が証明しております。 だからと言って、安倍総理が私利私欲のために、日本という国を誘導しているとは私は思いません。 戦後レジームからの脱却は、もしかして総理や我々の年代の悲願なのかも知れません(あくまで私見です)。 過去の事象や悲劇を現在の現実に鑑み、同じ過ちを繰り返さない事のために、科学や思想と言うものがあるべきなのではないでしょうかねぇ? そこには、恐れや懐疑や謙譲の心がなければ、慢心とも言える結論ありきの方向性になってしまうのではないでしょうかねぇ? 人間は、今日生きている事に、何ら疑問も感じず当たり前の事と捉えているのですよね。 今日、もしかして死ぬかも知れないなどは、病気でない限り考える事もないでしょうし、今日生まれ育った故郷を追われるなど考えていないでしょうね。 そう言う人間が現実にいるという事と、過去にいたという事実を踏まえ、日頃の生活に追われながらも、自分自身の身に起きかえ、日本人は考える時期に来ているのではないでしょうかねぇ。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

>不偏的な科学的事実と過去の現象や傾向から導き出された科学的結論とは、分けて考えなければならない 理解しにくい文章ですが、普遍的理論的な科学的推論と、過去の証拠などから実証できる科学的結論とは一緒にはできないということでしょうか? つまり大飯原発で日本で起こったこれまで最大の地震が起こる可能性(直下型地震)が起こり、しかもこれまで起こっていないその振動で原子炉が破壊するという可能性まで考えていたら、原発自体が作れないことになる、つまり今度の結論が非科学的だということへの批判ととったのですが、あっていますでしょうか。私もその通りだと思います。 >原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か? 要は事故時の拡散放射能レベルをどこまで社会として許容するかということだと思います。私は今の反原発派の主張はナンセンス、あるいは神経症だと思うものの一人です。フクシマには人が住めます。妥当な新しい安全基準で進めてほしいと思います。 >皆様が許容出来るレベルとは何か? ラドン温泉大好き人間です。年間200ミリシーベルトまでいいのではないでしょうか。私はすでに3週間に1回、医師の指導でレントゲンをとられていますし、CT、MRI だって受けています。いたって健康です。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました! 残念ながら、私の私見は違います。 私の質問の根底には、現在の科学は現在知り得ている情報によって分析されているものであるという考えがあります。 いたずらに不安を煽るつもりはありませんし、現在与えられた条件の中で人類がトライする事に、私は異論はありません。 しかし、想定外で済まされる事と済まされない事があります。 それが、進歩するための犠牲の範疇であるか否か?を、お聞きしたかっのです。 許容出来る範囲を、放射能や放射線で捉える事を、私は当たり前な事だと思っておりますが、原発30キロ圏内で原発に反対している人間もいるのです。 間接的な恩恵を受けているかも知れませんが、直接的な恩恵を受けておりませんし、例え両方の恩恵があろうが、私は積極的な受け入れをしている訳ではありません。 反対しつつも電源喪失や過酷事故はあり得ないという言葉と、日本のために必要不可欠という言葉を疑いながらも信じて参りました。 福島に住めとは申しません。 ご自分の意思に反して、ご自分には何ら落ち度がないにも係わらず、ご自分が生まれ育った土地に骨を埋めたいと当然のように考えていた人間が、生まれ育った土地を捨てざるを得ない人間の気持ちなど、新潟県の私にはわかりようもありません。 家族同様に暮らしていたペットや牛や馬や山羊を残して避難した人間の気持ちなど、放射線しか気にしている人間にはわからないし、私にもわかりませんねぇ。 今回は、人格権という概念が採用されておりましたが、幸福追求権という概念もありますよね? 日本人の大多数の幸福のために、どれほどの犠牲が必要と言えるのでしょうか? その根拠となる科学的議論や根底は、何でありどこまで容認出来るものなのか?それを疑問に思い質問させて頂きました。 ご回答ありがとうございました。

  • at9_am
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回答No.5

科学とは何か、というような大上段に振りかぶる前に、少しだけ考えてみましょう。 「何らかの判決を出す根拠として、事実に基づく必要がある」 このことを否定する人はほとんどいないでしょう。そして、現在までに起こった事実ではなく将来起こるかもしれない危険性を考える場合には、事実ではなくて科学的根拠のある具体的な危険性であるべき、というのも、否定する人はほとんどいないでしょう。 判決文を読むと、例えば「基準以上の地震が来ても問題無かった」という関電側の事実の指摘に対して「基準値以下でも壊れないという絶対の保証がないからダメ」ということを言っています。他にも、外部電源が断たれて非常用電源が使われた場合について「(非常用電源が使われるのは)非常事態であることは明らか」としながらも、なぜかその後の論の中では非常用電源が働かないことが前提になっていたりします。 地震についても、はるか離れた東北地方で4000ガル超が観測されたことを指して「大飯で起こらない保証がない」といっていますが、起こるという合理的な根拠もありません。 更に、揺れ自体で重大事故を起こした原発も存在しません。福島第一原発の事故は津波の影響が大きいというのは、よく指摘される事実ですが、判決文には津波についての言及はほとんどありません(法廷で争われなかったのかね?)。 色々な事態に対する対応を練ってある、と関電が主張しても、「それ以外のことが起こらない保証はないでしょ」とほとんど評価していません。 更にいえば、百歩譲って判決が主張するようなリスクが妥当だとして、再稼働を止めたら判決が主張するようなリスクがなくなるか、といえば、変わらずに存在するわけです。リスク回避のために再稼働差し止めをするけれども、再稼働を差し止めてもリスク回避が出来ていないのです。 ということで、再稼働差し止めが妥当かどうかという結論はさておいて、判決文が事実と科学的な知見に立脚したものであるとはほとんど思えません。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました! すみません。 題名については、少し悩みました。 科学とは何か?という命題については、科学そのものについての定義が、現在様々なものがあるという事は知っていたのですが、私の質問の元となったのが、読売新聞記事の科学的検討議論という事でしたので、敢えて使わせて頂きました。 よって、科学の許容レベルという言葉を使わせて頂きました。 しかし、科学って何なのでしょうかねぇ? 千年なかった事が、今年起こったら500年に一回になり、10年後にまた起こったら333年に一回になりますねぇ。 富士山の爆発や関東地方の直下型地震などは、過去の傾向から考えていつ起こってもおかしくないと、科学的見地で警鐘が鳴らされております。 批判を覚悟で敢えて言うならば、地面をいくら掘っても、過去に断層がないというだけで、この先地殻変動がないと断言出来るのでしょうかねぇ? 地下のマントルや異常気象による高波と地震による津波がリンクしたらなど、ない可能性が高いのかも知れませんけど、最近の異常気象など、過去の分析では予想出来なかった事が起こったのは事実であります。 偏西風の蛇行や、潮流の変化など、現象が現れてからその原因が究明されていたり、原因がわからなかったり、衛星で地球の表面が解明されつつあるにも係わらず、わからない事が多いのに、地球の中のマントルや海底の事などは、現在の科学でどこまで予知出来ているのか? 富士山噴火にしても、地表の変化で予知している訳であり、人間の自然の力に対する科学の奢りのような、原発稼働ありきのような議論を私は感じてしまうのですよね? 私の知見は、現代の地質科学を否定するようなものですが、科学的知見とはあくまで現在もちうる情報に対する結果であり、それらが及ぼす影響被害に鑑み、疑わしきは罰っせずならぬ、疑わしいからこそ国民の生命財産を守るべしという司法の判断だったと、私は理解しております。 私の私見では、単純ですが経済性を取るか、一定の危険性を容認するかの国民の選択だと考えております。 それは、憲法問題とある意味同じかとも思えますねぇ。 如何に自分自身の問題と、捉えられるかどうかにかかっているか?ではないでしょうかねぇ?

回答No.4

千年に一度の大地震に起因した誰も予測する事の出来ない大津波が福島原発事故の原因。 同時に無能な民主党政権であった事もそれに輪を掛けた。 科学に限らずこの世のあらゆる事象に絶対は有り得ないと思いませんか? 千年に一度の大地震で起こった福島原発事故は恐ろしいですが毎分毎に起きている交通死亡事故の方が遥かに恐ろしいと思う。 だって幾ら大騒ぎしたからと言って福島原発事故での死亡者はいったい何人? 人の生命の安全だけを論じるので有れば 業務に関係しない一般市民の自動車利用を禁止したらいったい何万人の生命が奪われなくて済むのでしょうか? 今回の判決の様な論旨で物事を考えれば自動車や飛行機等の交通手段に限らずガスや電気、それに付随する器具や製品すらも火災の原因となり、危険な物だから絶対的な安全性が保たれる迄「販売を差し止める」になりかねません。 医療含めて科学全般に言える事は「多くの犠牲の元に進歩する」って事だと思う。 美味しいフグ料理も数知れない食中毒犠牲者の上に確立された料理、医療に於ける術式や新薬も多くの患者の犠牲の元に確立されて来た。 原発事故にしてもそれらと同様で日本の科学が乗り越えて行かなければならない犠牲だと思う。 事故が、犠牲者が出たからと言ってゼロにするなら日本や日本国民は自らが進歩する事を拒否し諦める事になります 回答になってなければごめんなさい。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました! 千年に一度の災害では、誰も予想出来なかった事でしたでしょうか? 実際は、危険を予知した人達は存在していました。 科学とは何か?と同時に、それを利用する立場によって、科学の真実が脅かされかねないという事も、如実になった事例だとも思います。 批判も了解したご回答だったと思います。 本当にありがとうございました! 先のご回答にも、お礼で述べさせて頂きましたが、進歩には犠牲がつきものであります。 その犠牲を人知を持って、科学の力で如何に最小限に抑えるかという問題と、個人の社会的環境における能動と受動の問題(言い変えれば選択の問題)で捉える事が出来ると考えています。 病気になるかも知れないと思いつつ、不摂生な生活を続ける人と、食中毒など感染で病気になる人。 利便性のために車を利用し、不本意ながら事故を起こした人。 自動車免許が無く、自転車や歩行者の立場で貰い事故にあった人。 これらの違いは、自ら選択したものが原因であるかどうかの違いです。 いわゆる、他人のミスによって被害を受けたとも言えますが、ミスを犯すのは個々人の過失であり、ミスさえ犯さなければ社会的には認められた事でもあります。 しかし、被害を受けた人間に取っては、たまったものではありません。 原発誘致を受け入れたし、それなりのメリットもあったのだから、しょうがないだろうと言う意見もありますけど、誘致される時点で科学と政府は過酷事故はないと、太鼓判を押していたのです。 進歩のための犠牲が必要ならば、もしあなた様やあなた様のご家族がその対象になったとしても、あなた様は容認出来るでしょうか? 私は子供を作る年齢でもありませんし、子供や孫達のためならば、やぶさかではありませんが、日本の未来のために、どれくらいの犠牲が容認出来るかなんて、誰も答えられないとは思いますが、勇気あるご回答ありがとうございました!

  • dragon-man
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回答No.3

>不偏的な科学的事実と過去の現象や傾向から導き出された科学的結論とは、分けて考えなければならないと思われるのですが、皆様のお考えは如何でしょうか? 不偏的(不思議な言葉です)科学的事実などと言うものは存在しません。今現在人間が事実と思えることしかありません。科学的結論とはそれに準ずるものでしかありません。例えばハンセン病はかっては不治の病と考えられていましたが、今はそうではありません。薬で簡単に完治します。それが常識で、かつ科学的結論です。 >原発に関して社会が許容出来るレベルとは何か? 想定できる原発事故の被害と、原発無しで生じる被害とのトレードオフです。今のところ後者の方がはるかに大きいです。今後もそうでしょう。だから許容できます。福島では事故の直接的原因による死者はゼロですが、癌発再稼働しない場合、経済的困窮で死に至る人の数は計り知れないでしょう。 >そして、皆様が許容出来るレベルとは何か? 今現在も許容できています。理由は先に述べたとおりです。今後科学的対策が進めば、リスクはどんどん少なくなるでしょう。その意味で福島は日本人にとって良い教訓になりました。生かさない手はありません。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 理論整然と冷静なご回答ありがとうございました。 私は原発反対の立場ですけど、やみくもに反対している訳ではありません。 国際状況が、不穏さを増している中、経済の重要性は理解しているつもりです。 原発反対派は、よく将来の子供たちを人質に取ってというような意見も耳にします。 今を生きている人がいなければ、将来もない事になり、違った意味で未来の子供たちは悲惨な目に会うかも知れません。 失敗は成功の母であります。 人は数々の災害や事故を教訓として、尊い犠牲を無駄にすまいと、思想や科学や医療を発展させて来ました。 言い変えれば、尊い命の犠牲の上に、現代人は文明を享受出来ていると言えます。 危険予知という言葉が使われ出してから、まだ歴史は浅いと思われますが、福島過酷事故の影響は現在進行中ですね。 科学的医学的見地において、今のところ健康被害は見られないと政府は公表しております。 しかし、今のところの話しであって、現在の科学医学レベルではという注釈つきです。 過去に克服出来なかった事を、人類は克服して来ました。 しかし、克服するまでにはタイムラグがありました。 福島の事故原因が、完全に究明されていると回答者様はお考えになられていらっしゃいますか? 先日、やっと汚染水の漏洩箇所の一つが発見されましたが、パイプの破損が地震によるものか?津波によるものかさえ解っていません。 それでは、今解っている事だけでも参考にして、稼働させたとして、科学者が考えうる最大の基準で安全である事を、誰が担保してくれるというのでしょうか? 万が一の時は、科学の発展や経済のためにやむを得ない犠牲だったという事になるのでしょうか? それ故、どのくらいのレベルまで容認出来るのかを質問させて頂いたのですが、福島の教訓を活かさないのでは、災害でお亡くなりになった方々や避難されている方々に申し訳ありません! その教訓の活かし方こそ、我々は真摯に考えるべきだと思います。 原発の地元の声も聞こえてきます。 原発を止めている事で人生を狂わされた人もいれば、事故で狂わされた人もいる訳ですが、この先日本経済のための原発が、これらのような人達を作らない科学の力を期待しています。

  • WW-9
  • ベストアンサー率19% (4/21)
回答No.2

2012年の日本における交通事故による年間死亡者数が4500人。(死亡確率0.0035%) 日本における自然放射線レベルの年間1mSvの被曝による死亡者が年間8500人。(死亡確率0.0065%) どちらが大きいか、数字が読めれば誰にでも分かりますよね。 福1原発事故がありましたが、それによって発生した人工放射能による被曝は、場所によっては自然放射線レベルの数倍~十数倍にもなります。 そんな所で生活すれば被曝によって、交通事故で死ぬ確率の数倍~十数倍、、場合によっては100倍を超える死亡率になります。 しかし原発事故で誰も死んだ人はいない… と愚かにも豪語する人もいる。 田母神俊雄がそうですし、青山繁晴なんかもそうらしいですね。殆どが右翼、右傾の政治関係者ですね。それとネトウヨさん達も。 現実を知らずに願望的妄想で世界観を形成する人が多い。 それが普通の人間というものなんですが、そういう人達は科学や科学論を語る以前に、現実を正しく認識する必要があります。 日本の原発関係でもそうじゃないですか。 「絶対安全神話」を意味もなく作り上げて、原子力村はその妄想の上に乗っかり、安全性度外視の妄想原発を運転していた。 事故が発生して大災害を起こした後もその妄想癖がおさまらず。 それと、あなたは「少しだけ危険」な原発のすぐそばに、無報酬で一生住めます? 私は、「絶対安全」であるか、或いは「1兆円の報酬」を貰えるか、どっちかでないと原発の脇には住みませんよ。 原発の「少しだけ危険」っていうのは、事故が起これば「大災害」になってしまいますよ。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 簡単にリスクとして質問させて頂きましたが、リスクマネージメントにおいては、あくまで国を始めとする公的機関が主導すべき問題であり、同時に各個人の選択の問題でもあると私は考えております。 しかし、それが公的な強制力を持った時や、個人の社会的環境面で逃れる事が困難だった場合、人はどこまでリスクのレベルを許容出来るのか?が疑問になりました。 ちなみに、私は刈羽柏崎原発から30キロ圏内の長岡市に住んでおり、核のゴミの処理が未解決と言う観点から建設当初から反対の立場におりましたし、その後の管理体制や事故隠しに不信感を募らせておりました。 今も、その考えは福島の過酷事故後に、更に増したと言えます。 しかし、原発が日本経済にとっても必要であるという事も、事実だと思います。 あくまで私の私見ですが、現実を正しく理解するためにこそ科学というものがあるのではないでしょうか? 情報が錯綜し学者によって結論が180度違う中、情報リテラシーが取り沙汰される割には、結局皆自分達に都合の良い考えを理論武装の盾にしていないでしょうか? 結局、私のような知識のない一般市民は、世間的に権威のあるもの頼らざるを得ないでしょう。 よくwHOなどの世界基準ではとか、よく耳にするのですが、地震多発国であるとか、ホットスポットの分布の大小など、気候食文化など個々の国では違うはずで、もっと日本に特化した科学的検討が為されても良いと思うのですが… ある科学者がPM2.5が原因による病気に対し、韓国では少なく日本で多いのは、人種の違いによる影響の違いがある可能性を否定しないと述べておられました。 今、解っている事しか言えず現在進行形である以上、過去と同じサイクルで未来が同じ結果をもたらすものか? 近年の異常気象を経験する度に、どこまで今の科学の許容レベルに委ねるかを、皆様がどのようにお考えなのかを、お聞きしたかったのです。 ご回答ありがとうございました。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

厳密な基準なんてあり得る筈はありません。自動車は日本だけでも1年数千人、恐らく世界では一年に百万人単位の死亡者を出しながら許容されています。ところが原発では福島事故を含めて死者がゼロであるにも係わらず、過剰な核アレルギーに影響を受けた議論が支配的です。それを決めるには大多数が認める有識者を選び、その判断に任せるという方法しかないのではないでしょうか。その結論の是非を議論することは勿論自由ですが、それを採用したことに対する是非を言い出すとキリのないことになってしまいます。国会という組織はそのような考えによってできたもので、そこでできた法律を云々するのは自由ですが、その法律を適用することに異を唱えるのはブチ毀しになりますよね。同じです。

noname#244637
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 議会制民主主義における国会は、いわゆる国民が選択した代表の集まりであります。 その国会が決めた事に異議を唱える事は、天に唾する行為なのか?自分達の意を汲んでいないと批判する事は、有権者の権利であると考えるか?は、それぞれの判断、選択に委ねるとして、ご回答からは国会や専門家に任す事は、混乱を避けるベターな事であると受け取らせて頂きました。 また、リスクだけを考えれば交通事故や病気の方が高いというご意見もある事も存じております。 そこで、皆様が個人的レベルで、どれくらいのリスクならば原発を許容出来るか?を質問させて頂いたのですが、ご回答から専門家が提示するレベルという事ですよね? 私は、元々東京電力を信用しておりませんでした。 それは、我が新潟県の刈羽柏崎原発で、度重なる事故隠しが続いていた事と、他の原発でも管理の不具合があったためです。 専門家と言われる科学者や政治家が、電源喪失や過酷事故は世界最高レベルの技術を持つ我が日本では、ありえない安心してくださいと説明されて参りました。 それを、私は自分自身の耳で聞かされておりましたので、彼らを信用することが困難であり、皆様がどのようにリスクに対して考えておられるか?が知りたくて質問させて頂きました。 早速のご回答、ありがとうございました。

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