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ホモソーシャル(ホモフォビア)は自爆装置ですか?
- ホモフォビアを行っていたら、巡り巡ればホモソーシャルそのものが破壊されると感じるからです。
- ホモフォビアは少なくありません。単なるボーイズラブ(BL)作品にすら難癖をつけたりと、なんでもかんでも文句をつけたがります。
- また、ホモソーシャル自体が内包するホモフォビアによって、ホモソーシャルの存在を否定している訳ですよね。
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ホモソーシャルの有名な話として、薩摩藩士の「郷」制度とかがありますね。 10代前半のうちに男性だけの密な関係(男色も含む)を伴った集団を形成し、婚姻相手の女性も「郷」の年長者に選定される。 徹底的な男性至上主義/女性蔑視から生まれ、男性のみの強固な連帯=武力の向上、と捉えられていたそうですね。 (個人的にはこれを、原始的になカニバリズムにも通じるものと思っています。) 「郷」があった当時、男色が禁忌のようにはされていなかったこともあり、薩摩藩士の多くは今日で言う同性愛者とは言えず、異性愛者でした。 ただ、ミソジニー(女性嫌悪)が根幹にあるがゆえに男色なども伴う「郷」は、ホモソーシャルに近い形があると思います。 しかし、ホモソーシャルを日本での文化的な背景のみから考えるのは難しいかもしれません。 個人的な見解ですが、ホモソーシャルの概念に影響を与えているのは、アメリカの学校社会のヒエラルキーだと思います。 アメリカの学校社会での男性のヒエラルキーは、ジョック(Jock:いわゆる体育会、アメフト選手などが代表)と、対極のナード(Nards:日本で言う文化部)に分かれます。 ジョックは、マッチョ(≒マチスモ:強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性を至上とする男性優位主義)を背景に成立しています。 ナード(Nards)が複数形なのは、ジョックがある種単一の価値観/カテゴリであるのに対し、ナードにはギーク(オタク)やブレイン(ガリ勉)など複数のカテゴリが存在し、学校社会のヒエラルキーの勝者であるジョックと、敗者たち全般といった複数形のナード(Nards)になります。 ジョックに属する男性集団は、女性にモテないナードを蔑視します。しかし裏を返して、ナードはジョックたち男性集団を嫌悪します。 要するに、同じ男性集団どうしで嫌悪し対立し合うのです。 しかしジョックは女性にモテて当たり前、と思われている存在なので、いつ自分がナードに落ちるか分からない…つまり、モテない(恋愛経験のない状態≒童貞)を恐怖します。 …と言うのは、女性のヒエラルキーは、クイーンズ、サイドキックス、ワナビー(例えるならAKB48内での序列みたいな感じ)の基本3カテゴリしかなく、それらをジョックらが占有します。つまりナードと同格となる女性のヒエラルキーがありません。 童貞状態が長く続けばジョックとしては不適格なんですね。 ですから、ジョックであっても童貞であると、同性愛者かのようにジョック内でターゲット(イジメの対象)となることも往々にしてあります。 ※ちなみにターゲットもアメリカの学校社会のヒエラルキーに「格」として存在しますが、必ずしもナードに属しているとは限らないです。 今日の日本で思われているよりも、アメリカ全体を見渡した平均値はだいぶ田舎ですので、同性愛者に対する嫌悪も相当なものです。寛容なのは、一部、都市として発達した地域くらいでしょうね。 生来的に、また環境的に同性愛者となってしまえば、ジョックに属していてもナードへと降格してしまう。 ジョックは同性愛者にとっても憧れ的な存在ですから、同性愛者はジョックの格を落とす恐怖の存在でもあるのです。 しかし、同性愛者は必ずしもナードとは限りません。 ナードの理想は、ジョックからクイーンズら女性を奪い取ることですので、ジョックを憧れとする同性愛者を受け入れられる立場でもないのです。 要約すると、ホモソーシャル的なジョックたち体育会男性集団を中心に、ジョックとしての格を安定させるために結束を強める(ホモソーシャル化する)と同時に、「ナードに落ちる危機をもたらす因子」として同性愛者を嫌悪(ホモフォビア)します。しかしこれに、同じく「モテない」がゆえにホモソーシャル的になってしまうナードたち男性集団との対立も重なっていき、ナードらは結束してジョックのホモソーシャル的要素を嫌悪(ホモフォビア)し、また自分たちナードに無慈悲な女性をも嫌悪(ミソジニー)するのです。 ジョックとナードという対立構造によるホモフォビアと、それぞれに固有のホモフォビアとの多重のホモフォビアがあるがゆえに、ホモソーシャルがホモフォビアを内包する、といった矛盾になったのでしょう。 これは同時に、女性の所有権をめぐる争いゆえでもあり、男性の格で付き合う女性も必然的に決定されてしまうことから、女性側の選択権を剥奪している女性蔑視でもあります。 ちなみに、アメリカの学園モノの映画は、こうしたヒエラルキーを背景につくられているので、非常にわかりやすいです。 往々にしてナードがクイーンズ(学校一の美女)を、ジョックから奪う、といった構造が描かれ(または、当初はナードに冷たかったクイーンズが、事件などをきっかけにナードに惚れる、など)ますし、同性愛者が登場する場合は、ジョックでもナードでもなく、ワナビー(女性ヒエラルキーの下位≒日本で言うならギャル集団の取り巻き、という感じ)らの仲良し、という立ち位置に描かれます。 まあ、たまにジョックに属してしまっていることで同性愛をカムアウトできずに悩む、といった描写や、ナードの中に描かれるというのもあったりしますが、同性愛者の立ち位置自体が、アメリカの学校社会では不安定かつ安定を崩す存在として認識されているのでしょう。 日本のホモソーシャルの例である「郷」などは、ミソジニーゆえのものであり、当初はホモフォビアを内包していませんでした。 が、マッチョ文化と学校社会のヒエラルキーを根底に持ったアメリカ的価値観が徐々に浸透し、今日の「矛盾した」ホモソーシャルへと変化しました。 男性同士が熱い抱擁をする、といったシーンは、日本もアメリカも本来であれば「男の友情」として美徳とされていたかもしれません。 しかし、これを嫌悪するナード的立ち位置の人々は「ホモ・ゲイ」と言って嫌悪します。 こうした嫌悪をされないよう、例えるなら体育会男性たちも、そうした姿を表すことを否定的に捉えます。 長々、勝手な持論を展開してしまい申し訳ありません。 >強いては、女性至上主義ばかりを唱えて、男はキモイキモイとことさらにストレートをアピールしようと言いまくってる変な男も居ます。 女性至上主義、という言葉自体は、概念的にそれほど強い定義はなく、男性至上主義に対応して新たにつくられた言葉であり、必ずしもそこに対称性はないと思います。 背後にはある種のホモフォビア(例えばボディビルダーや男性の体毛などの肉体的「マッチョ」への嫌悪、など)があるように思います。ですから女性至上主義というより女性崇拝の方がいいかもしれません。ホモソーシャルは、女性獲得という男性の願望が背後にありますから、女性渇望による女性崇拝がふさわしいのかもしれません。もちろん、ホモソーシャル自体にミソジニー(女性嫌悪)もありますが、ある種、これは女性崇拝の裏返しか、と。 >ホモソーシャル自体が内包するホモフォビアによって、ホモソーシャルの存在を否定している訳ですよね。 ホモフォビアがホモソーシャルの存在を否定するもの、と言うより、ホモフォビアによりホモソーシャルはより一層強まっていく、という感じだと思います。 ホモソーシャルの根底には男性至上主義があります。男性が女性を性の対象とすべき、といったいわゆる通例的な「男らしさ」に反する同性愛を嫌悪する、ことで「男らしさ」の優位性を高めていく…という感じです。 ただ、ホモソーシャルの男性集団の異常なほど強固な連帯感が同性愛的要素を表出させている、ということが分かっている人から見れば、ホモフォビアを行う人は、自身のホモソーシャルを自白していることになりますね。そういう意味で自爆装置というのは正しいと思います。 ただ、再び個人的な見解ですが、ホモフォビアに至る人は、ホモソーシャルゆえに、とも言えますが、中には同性愛者に「なりそこなった」経験を持っている人もいるように感じます。 自身に、ある種、同性愛的嫌疑をかけられた経験、また自身を同性愛者かと疑問を抱いた経験などを背景に、そうした自己を否定するために他者(同性愛者)を批難するなど、自己否定の裏返しでの攻撃性といった感覚も見受けられます。 まあ、そういう意味でも、極端なホモフォビアは、ホモソーシャルのカミングアウトですし、ホモフォビアを行う人自身のホモソーシャルをより一層強めていくのですから、自爆していますね。 長々申し訳ありません。 個人的に、興味深い質問だったもので、つい。
お礼
ありがとうございます。 確かにホモソーシャルのホモフォビアって、自爆行為に当たりますね。 前からおかしいなと思っていました。 しかし、アメリカの学校ってともすれば日本以上に、男性の間での「スクールカースト」というものがあり、それがどんどんと個々の価値観をねじ曲げて行き、端から見れば矛盾していておかしい物を主張したりすることになるんですね。 ちなみに個人的な話しですが、僕は男子校出身だったので少なくとも恋愛絡みのスクールカーストに関しては殆ど無縁だった為、スクールカーストの恐ろしさを改めて感じました。