• ベストアンサー

奪った命の為に死ぬのは合理的です

まず、私は死刑賛成派ですが、「あなたの家族が殺されても死刑反対と言えますか?」というような事は思った事が無いですね。 第三者の感情なんて、二の次です。問題は 生きる筈の命を 安易に奪ってしまった事への対価だと思います。死んでしまった人に、償いなんてできないのだから、加害者がこれから生きて社会に貢献しても、被害者の為には何もできていません。被害者を蘇らせでもしない限り、結局 加害者と世間の自己満足でしかない。だから、奪った命の為に死ぬのは合理的です。 そこで質問ですが、この考えに問題点はありませんか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • nhhiromi
  • ベストアンサー率12% (11/91)
回答No.6

その論理では、交通事故での過失致死でも死刑です。 奪った命の対価というのは、処罰感情の言い換え

myrtille54
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も そのことには疑問を感じました。

その他の回答 (5)

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.5

> 日本は科学技術とか経済では先進国と肩を並べても、本当の先進国ではないということですね。 「死刑存廃」と言う法律問題から、どんどん離れている様に思いますが・・。 日本が「本当の先進国ではない」と仮定すれば、世界中に先進国と言える国は、ほぼ消滅しますよ。 既に回答しましたが、明治維新と戦後の二度に渡り、法体系は西洋化させていますが、当然、「日本は独自のメンタリティを保有しつつ」と言う前提でしょう。 即ち、日本人にとっての、法律と道徳律などとの関係性は、独自性はあっても、欧米の先進国と同種の構造であって、それが欧米先進国に対し、引けを取るものとは思いません。 また恐らく死刑も、そのメンタリティの中に属するもので、それは「凶悪犯罪者は死刑になって当然」と感じると共に、そう感じると言うことは、法律以前に「凶悪犯罪を犯してはいけない」と言う宗教律や道徳律として存在する証しでは?と思います。 別に、アナタの同害報復的な合理性を批判しているワケではありません。 むしろアナタの考え方には、「同害報復的な合理性がある」と言っているのです。 ただ、「それだけしか無い」ワケで、昨今の国際的な死刑に対する反対的な風潮が欠落しているのは、当然でしょ? 一方で日本は、古くは中国文化などの影響を受け、近代化後は欧米の影響を受けた国であって、イスラム圏との接点は甚だ薄く、世界的にも最もイスラム圏の影響を受けていない国と言えるでしょう。 従い、日本文化とイスラム文化に共通点は少なく、また、たとえ共通点があるとしても、それを同源と考える様な発想は甚だ奇異であって、共通点がある理由は、日本の歴史の中で探るべきであり、それは「日本文化」です。 たとえば我が国とイスラムには、「死」を美化する様な、共通の意識はあるかと思います。 我が国は、たとえ敵であっても、仁義や忠孝に殉じた者を、畏怖したり尊崇する文化ですが、一方のイスラムは、、殉教者は死後、もっと良い世界に迎えられると言う、純然たる「宗教観」です。 言わば「赤穂浪士の最期」と「自爆テロ」を、並列に並べるか?と言うことですよ。 また、赤穂浪士の義に感ず日本人のメンタリティは、世界と共感は難しくても、それを以て「日本は先進国では無い」などと、貶める様な性格では無いです。

myrtille54
質問者

お礼

>従い、日本文化とイスラム文化に共通点は少なく、また、たとえ共通点があるとしても、それを同源と考える様な発想は甚だ奇異であって、共通点がある理由は、日本の歴史の中で探るべきであり、それは「日本文化」です。 でも、人類のルーツはみんな同じですからね。だから、日本文化もイスラム文化も人類の原始的な部分をより多く残しているということじゃないですか?

myrtille54
質問者

補足

外国のサイトにも質問を出してみました。 もし フランス語をご存知ならご覧ください。 http://fr.answers.yahoo.com/question/index?qid=20140114002825AAuwn3Y

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.4

> 日本の大衆の考えでは キリスト教の「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい」みたいな博愛思想よりは イスラム的な考えの方が支持されているような気がします。 日本の法体系が「キリスト教的」と言う根拠も無ければ、「イスラム教的」と言う根拠もありませんけど、歴史的には、明治維新で西欧化し、WWII後にGHQが深く関わって制定された憲法を持つ我が国の法体系は、「西洋的である」と言うのが事実です。 > だからこそ、世界レベルでは キリス教徒よりもイスラム教徒の方が多いのも頷けます。 いわゆる「先進国」においては、イスラム教国は少ないです。 イスラム教国の長所は、法律に宗教律が深く関わっており、宗教律が国民生活にも浸透し、法的などの規範にもなっている点が挙げられるかと思いますが、それは同時に短所です。 先進国では、法律と宗教律は別個のものになっており、二重の規範(宗教律や道徳律は、法律の内側で個人を律するもの)なので、犯罪抑止などにはより効果的かと。

myrtille54
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >いわゆる「先進国」においては、イスラム教国は少ないです。 日本は科学技術とか経済では先進国と肩を並べても、本当の先進国ではないということですね。

回答No.3

>そこで質問ですが、この考えに問題点はありませんか? 私も死刑存置派です。 その理論の問題点は、人を一人殺した場合と、複数殺した場合の刑罰の差。でしょうか。 一人殺した場合は、安楽死的な死刑、複数なら絞首刑などの殺し方で差をつけるのも厳しい気はします。 となると、「人を殺しても死刑にはならない」ケースがどうしても出てきてしまいます。 その辺の折り合いはどうするのか?と言う点でしょうか。

myrtille54
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >その理論の問題点は、人を一人殺した場合と、複数殺した場合の刑罰の差。でしょうか。 1+1+1=1なんでしょうか。これも、死刑賛成派の人が感じる矛盾の一つですね。実際は無意味でしょうけど、死刑を原則廃止して 懲役刑にすれば 表面上の形式的な辻褄は合わせられますね。 更に突っ込むと、裏返しに考えれば、もともと死刑を覚悟しているのなら 何人まで人を殺していいのかということにもなります。 ですから、もっと大きな問題点は 人を一人殺したら あとは抑止力が利かなくなることです。むしろ、口封じのために連続殺人を誘発しやすくなるとも言えます。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.2

> 奪った命の為に死ぬのは合理的です。 イスラム法の様な、同害報復(同害賠償)的な合理性は認められますが、我が国における死刑存置の考え方とは、必ずしも相容れません。 事実、我が国の刑罰は、更生を旨としており、殺人罪でも更生の余地が認められたら有期刑で、現実もそうなっています。 しかし質問者さんの理屈では、「漏れなく死刑にすべき」ですから、我が国の刑罰の考え方や実情とは違います。 問題点としては・・・たとえ「合理的」であっても、こと先進国においては、「非人道的」な考え方に分類されるであろう点に、収斂すると思います。 「法治」と言う考え方そのものは、合理性を好む傾向はあるとは思います。 しかし「法」そのものは、必ずしも合理的にドライである必要も無く、血が通った部分も必要かと思いますし、法の施行や司法判断にも、そう言う部分があっても良く、その必要性があるのでは無いでしょうか? 「〇〇違反」すれば、何でもかんでも逮捕とか裁判するのは、合理的ではありますが、事情や状況などにより、現場の司直とか個人の裁量やアローアンスなども働く社会の方が、多様性があるし、住みやすいですよ。 人間が理性や合理で生きる生物なら、それでも良いでしょうけど、根底は正反対の感情などを基調とする生物です。 それゆえ、法で縛る必要が生じるのでしょうけど、その法で縛る対象も、「壊れたらスクラップ」と言うワケにも行きませんし、スクラップにするかどうか?と判断するのも、完全には合理的では無い人間です。 「非人道的」と言うより、完全には合理的では無い人間の「人間性を無視している」と言えるかも知れません。 あるいは、直接的には「死んでしまった人に、償いなんてできない」は正論でしょうけど、間接的には可能だし、直接的以上の成果を上げる例だって有り得ます。 そもそも「直接的」のみを「合理的」と考えるのは、質問者さんの主観であって、必ずしも合理的とは思えず、それが質問者さんの感情論では?とも感じますよ。

myrtille54
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >イスラム法の様な、同害報復(同害賠償)的な合理性は認められますが、我が国における死刑存置の考え方とは、必ずしも相容れません。 でも、日本の大衆の考えでは キリスト教の「右の頬をぶたれたら、左の頬を差しだしなさい」みたいな博愛思想よりは イスラム的な考えの方が支持されているような気がします。だからこそ、世界レベルでは キリス教徒よりもイスラム教徒の方が多いのも頷けます。

回答No.1

死刑囚の多くが殺人犯ではありますが、 殺人(あるいは致死)と死刑とは直接の関係はありません。 死刑になりうる罪 http://www.geocities.jp/waramoon2000/tsumi.html

myrtille54
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 奪った命の為に死ぬのは合理的でないですか?

    まず、私は死刑賛成派ですが、「あなたの家族が殺されても死刑反対と言えますか?」というような事は思った事が無いですね。 第三者の感情なんて、二の次です。問題は 生きる筈の命を 安易に奪ってしまった事への対価だと思います。死んでしまった人に、償いなんてできないのだから、加害者がこれから生きて社会に貢献しても、被害者の為には何もできていません。被害者を蘇らせでもしない限り、結局 加害者と世間の自己満足でしかない。だから、奪った命の為に死ぬのは合理的ではありませんか?

  • 命は命で償える?

    一応、死刑賛成という前提で考えます。 死刑賛成者の多くは 被害者遺族の身になって 奪った命は 自分の命を差し出して償うのが当然という考えがあると思います。 しかし、宅間守や加藤智大なんかは 死刑は当然なのに 喩えようのない やるせなさを感じるのではないでしょうか? 宅間は裁判で 「お前らの子供8人は わしが殺して わしが死刑になるために生まれてきたんや。」とか言ったそうです。 遺族としても 宅間を生かしておくのは 言語道断だけど、死刑にしたら 宅間の思い通りになったようで、特に 宅間が言ったように 自分の大事な子供の命が あんな外道の命の 1/8しかないことを認めるようで 非常に悔しい思いをしたと思います。 それに、遺族たちも いざ 宅間の死刑が執行されてみて、区切りはついただろうけど、虚しさを感じ、宅間の最後のセリフが頭に蘇り、自己嫌悪に苛まれたんではないかと察します。 命は命で償うというは、逆から 考えれば 最初から自分の命を差し出すつもりなら 何人殺して構わないということにも なりかねません。 死刑賛成派の論理だと 命はどれも同じ長さで 数本束ねても長さは変わらないということになるかと思いますが、死刑反対派の人からみて、命は命で償うことの最大の不条理は何だと思いますか?

  • 命の値段。

    人命は地球よりも重い。 この言葉によって、日本は世界中の失笑を買ったわけですが、 実際のところ人命って人によって値段が違うと思うのですよ。 正直、社会にとって必要な命もあるし、あってもなくてもどうでもいい命、無いほうがいい命。 質問なんですけどね、 日本って死刑制度を維持してる、世界中でも珍しい国らしいんですいけど、 死刑の基準ですけど、 どうして、複数の無辜の命を奪ったやからしか死刑にできないんですかね。 最高裁の判例って言うのが司法判断の基準として使われているそうですけどね、 人を複数殺してはじめて死刑になるって言うことは、 加害者の命は、被害者の命よりも価値があるということですか。 僕は逆だと思うのですが。 落ち度の無い、あるいは低い被害者の命のほうが、 犯罪行為によってその被害者の命を奪った加害者の命より価値があるじゃないですか。 そうすると、一人でも殺したら死刑でいいじゃないですか。 それでも、被害者の命と、加害者の命が同等ということになりますよ。 何でこんなことを質問したかというと、 犯罪の加害者って、 民事賠償をしてないやつが多いらしいですよ。 殺されてその賠償もしてもらえないのに、 さらに複数殺したやつしか死刑にしないなんておかしくないですか。 判例ってそんなに重要ですかね。 どうもよくわかりません。

  • 命は命で償うのなら

    日本人は 大半の人が死刑に賛成ですが、その根底には 人の命を奪ったら 自分の命で償わなければならないと という考えが根底にあると思います。しかし、中には “「自分の命を差し出せば、人を殺してもいい」ということですか?” と反駁する人もおりますが、それは「加害者の屁理屈」と言って良いかと思いますので、いくつも反論が可能です。 簡単なところでは、「罪」と「罰」は因果関係であって、「罪」が無ければ「罰」も存在し得ません。 言い換えますと、そもそも罪と罰には可逆性は無く、逆方向で考えること自体に無理があります。 あるいは、もっと判り易い話しで言いますと、「私の全財産を支払うので、この世で一番美味いモノを食わせろ!」みたいな、無茶な要求と考えてみて下さい。 即ち、「自分も死刑と言う膨大なコストを支払うのだから、何をしても良い」などと言う理屈は成立しませんし、「私の全財産」と「この世で一番美味いモノ」が等価かどうかも判らないのです。 「自分の命を差し出せば~」の場合、「自分の命」と言う、自分としては最大のコストを、一方的に支払ったところで、それは「捨てても良い命」であって、他人の命と等価では有り得ません。 せいぜい「自分は死刑になって良いから、死刑囚を殺させろ!」くらいじゃないと、等価じゃありません。 更には、所詮は「加害者の屁理屈」ですから、前提が「自分の命を差し出せば」である必要さえありませんね。 もっと値切って「無期懲役」とか、食い逃げ的な「バレなきゃ」「捕まるまでは」でも、何でもアリです。 「殺す」と言う動機に対して、加害者が「どういう屁理屈を付けるか?」に過ぎず、死刑の悪用にもなっていないでしょう。 みなさんは どう思いますか? この考えで 不備な点、矛盾している点を ご指摘ください。

  • 死刑は自らの命で償うというオトシマエの問題

    殺人の被害者遺族の中には、死刑を望まない人もおります。しかし、大半の遺族は苛烈な処罰感情に苦しんでいます。 犯罪被害者遺族の会の記事なんか読むと、加害者が死刑にならない 限り、自分達は再出発できないと言ってます。 しかし、そもそも被害者の遺族感情は死刑の是非と論じる根拠にして はいけないと思います。 死刑は、利己的な動機で罪のない人の命を奪った罪に対して、自らの 命で償うというオトシマエの問題です。 例え、被害者遺族がバリバリの死刑反対派で、死刑だけは止めてくれ と泣いて頼まれても冷徹に執行されるべきだと考えます。 みなさんは、どう思いますか?

  • 命を奪えば 生きる資格はないといえます。

    遺族の気持ち を考えれば死刑は唯一最大の復讐の砦”だと言う人もおります。 しかし、例えば殺意なく殺してしまった。 往来でぶつかったら打ち所が悪くて死んでしまった、これは死刑にするほどひどい行為でしょうか? 例えば何人も殺した。死刑は当然とは思いますが、命には命で詫びるべき、という考えなら一人の命に一人の詫びる命、となれば二人目からどうなるのでしょう?二人の命に一人の、となれば三人目からは?やっぱり一人殺しても死刑にはならない? 論ずる観点がずれていると思います。犯罪に対する量刑はやはりその犯罪行為の内容により決まる、と考えない限り矛盾は大きくなると思います。 最高刑は死刑であり、死刑を超えるような凶悪犯罪の刑は死刑でしか収められない問題は残りますが、一人殺された時、単純に死刑ではなく、殺意の有無、計画性、残虐性などを加味して量刑が決まる現在の手法で良いと思います。 また、死刑肯定の論旨を、命の償いを命でとしてしまうと、先ほど書いたような問題もあるし、 命を人間が裁くのか、では裁きで命を奪った者はどうなんだ…… など迷走するばかりです。 こういう罪を犯したら、このくらいの罰。 一番重いのは死刑。故意に、悪意を持って人を殺したらたいてい死刑だから。 と決まっているんだから、死刑になりたくなかったらやらなければいいだけ。 自分は死んでもいいと思っている人には抑止にならない、なども言われるが、 そんなのはどんな罰にしたところで変わらないわけだから意味のない意見。 今現在はそう決まってる。 それだけで済む話です。 そこで質問です。みなさんは 死刑に存在意義について どう思いますか?

  • 死刑制度に賛成ですか?反対ですか?

    【日本の現行の死刑制度に賛成ですか?それとも、反対ですか?】 非常に難しい問題であると思いますが、皆様からの御投稿をお待ちしております。 さて、私はと言うと…死刑制度には【賛成】です。 そのように言うと、死刑囚(加害者)の【人権】はどうなるのだ…という御意見も出るかとおもいますが、では逆に、「被害にあってしまい殺された人達(被害者)の【人権】や遺族感情はどうなるのだ 」と言うことも出来ます。 何人まで人の命を奪ったら死刑、どのような方法・動機で人を殺めたら死刑という【基準】となるものが存在していません。実際、ひとりの人の命を奪うということ自体、人として、人間としての道にそれることであるわけです。決して、許されることではないわけです。 つまり、何人の人の命を自らの犯行によって奪ったから死刑を求刑されるという【基準】があること自体、私は大きな疑問を感じるわけです。 ひとりの人のかけがえのない命を奪うという行為自体、同じ人間として、断じて許されることではありません。 【死刑=贖罪】であると、私は考えます。 この問題に関しては、賛否両論に分かれると重々、承知しておりますが、皆様からの御意見・御回答をどうぞよろしくお願い致します。 最後まで読んで下さって、ありがとうございます。

  • 辞任や切腹は責任をとったという事なのでしょうか?

    辞任や切腹は責任をとったという事なのでしょうか? 私は責任とはなんとかする事だと認識しているので、辞めてしまうのは寧ろ責任を取っていない取ることが出来なかったと感じるのですが。 死刑についても被害者の意識や制度としてはともかく、加害者に償いはさせていない気がします。

  • 命は 個人の所有物か?

    私も以前は 折り紙つきの死刑賛成派でした。しかし、死刑制度に 反対とまではいかないまでも 殺人の被害者遺族などとも接し、色々経験したり考えているうちに 疑問が出てきました。 日本では死刑賛成派が圧倒的ですが、これは 命は個人の最も大事な所有物という考え方が前提にあるのではないでしょうか? そして、命を失えば全てを失い無に帰します。だから、人の最も大事なものを奪ったら 自分も最も大事なものを差し出すことで償いになるという考えでしょう。でも、この考えだと 自分の命はどうしようが自分の勝手で、自分の命を粗末にするものは他人の命も粗末にするんじゃないかと思います。暴走族なんか その典型でしょう。暴走運転をすれば 自分の命も危険に晒すし、シンナーだって 人に迷惑をかけていないという意識から罪悪感も薄いんでしょう。そして、そういう不良が大人になって 自分の命の尊さを認識する時には、もう殺人を犯していて 自分は法廷に立っていることも多いです。 そうなれば もはや手遅れですね。また、本来 命は 最も大事なものであるはずなのに、要らなくなる人もおります。日本では 年間 3万人近くが自殺しますが、異常な数字です。そして、中には ただ自分の命を どぶに捨てるのは勿体ないと考える人もいるでしょう。人の命を奪ったら 自分の命を差し出さなければならないのなら、最初から自分の命を差し出すつもりであれば 他人の命を奪っても 許されるという 論理が成立します。命を命で償うのが正しいのなら 自爆テロも容認されることになります。 それで、私は 命というのは 天から預かり受けたものではないかと 考えるようになりました。なぜなら、私たちは 自分の意志で生まれてきたわけではありません。それでも、天から命を預かり受けたことを感謝しなければならないと思うようになりました。 おそらく、この質問を読んでいる人は昔の私と同じような考えで、たった 数100字で考えが変わる人はいないと思いますか、命とは何だと思いますか?

  • 死刑制度をどう思いますか?

    オウムの麻原、どうなりますかね。 今の法務大臣は「人の命に関する事だから慎重に判断しなければいけない」とかもっともらしい事をのたまっておりますが。。。 一応、個人の意見はどうであれ、日本では死刑制度があると決まっているのだから、法務大臣になったからにはちゃんと仕事しろと思います。 嫌なら、最初から法務大臣などならなければ良いとも思いますし。。。 逆に、しっかり仕事をして死刑執行の判子を押している法務大臣は、さも「死神」のように言われていますよね。 あれも、いかなものかと思います。 皆さんは実際、日本の死刑制度について反対(廃止)ですか?賛成(継続)ですか? 自分としては、賛成です。 理由としては、人が殺意を持って人を殺す事と、死刑で人の命を奪う事が、どうしてもイコールで結ばれないからです。 例え、自分、身内が被害者、加害者の立場になっても、賛成には変わりないと思います。 どうか、お手数ですが、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。 よろしくお願い致します。