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七福神の信仰に関して

みなさま、初めまして。 宗教カテゴリーがないので、ここのカテゴリーで良いのか悩みましたが、とりあえずご質問。 七福神は、日本の神、インドの神、道教の神等が混在している信仰形態ですが。 神道から生まれたのでしょうか?。 仏教から生まれたのでしょうか? 私的には、民間信仰から生まれたと思っておりますが、解る方申し訳ありませんが、ご教示願います。

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noname#190665
noname#190665
回答No.9

5,6,8です。何度もすいません。 仏教について書くのを忘れておりました。 他の回答者さまも書いておられるように、明治まで神仏は習合されて信仰されていました。 なので、大きな神社には神宮寺があったり、寺の中に鎮守の社があったりします。 神仏習合のベースとなったのは本地垂迹説というものです。 本地垂迹説とは 日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うためにこの世に姿をあらわしたものである、とする考え方です。 そして、日本の神々のもともとの正体である仏教の神のことを垂迹 仏教の神々が衆上を救うために借りにこの世に姿をあらわした日本の神々のことを、化身とか権現などといいます。 京都の北野天満宮では菅原道真を祀っていますが、隣に神宮寺があり「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」と石碑に刻まれていました。 天満宮とは菅原道真のことですので、「天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩」とは「菅原道真のもともとの正体である十一面観音をおまつりしています」というような意味になります。 菅原道真は死後怨霊になったと考えられ、北野天満宮に祀られて神となったのですが、実は道真は十一面観音の化身であったという信仰があったということですね。 このように神道と仏教は密接な関係にありました。 ですので、前回、 >高田祟史さんの説は神道から生まれたものだとも、民間信仰から生じたともいえるかもしれませんが 御霊信仰から生じたものだというのが一番ぴったりくるように思います。 と書きましたが、 神道から生まれたものだとも、仏教から生まれたものだとも、民間信仰から生じたものだともいえる というのが正しいと思います。 都七福神を見てみますと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E えびす・・・京都ゑびす神社(神道) 大黒天・・・妙円寺(日蓮宗) 毘沙門天・・・東寺(真言宗) 弁財天・・・六波羅蜜寺(真言宗智山派) 福禄寿・・・赤山禅院(天台宗) 寿老人・・・行願寺(天台宗) 布袋尊・・・・萬福寺(黄檗宗) となっていて、神社が1であとは仏教寺院となっています。 しかし高田祟史さんの説にもとづくと、そのルーツはやはり御霊信仰となると思います。 高田さんは惟喬親王+六歌仙を七福神としていますが 惟喬親王は実際、御霊として玄武神社などに祀られていますので御霊(怨霊)として恐れられたことは確かだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93#.E5.B9.B3.E5.AE.89.E6.99.82.E4.BB.A3 上記、神道のページには御霊信仰についても記されていますので、御霊信仰とは神道だといっていいでしょう。 七福神は御霊信仰という神道の信仰をもとに生じ、それら7柱の神をそれぞれお寺や神社で祀って七福神としたということになるかもしれませんね。 どうも長々と失礼いたしました。 、

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noname#190665
noname#190665
回答No.8

5,6です。 すいません、質問は「七福神のルーツは神道か、仏教か、民間信仰か」ということでしたね。 まずは民間信仰とは何か、ということを明確にする必要があると思って、調べてみました。 以下、ウィキペディアをまとめました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%96%93%E4%BF%A1%E4%BB%B0 (1)国家の管理を受けていない。 (2)組織化されていない。 (3)日常生活の一部として行われる。 (4)人の生病老死、魂や霊魂、出産、成長、育児、結婚、葬送にまつわる宗教的な習俗、慣習、迷信、呪術。 (5)地域社会や集団に属する人の人生、死生観や運命観から生まれた儀式・祭り・お供え・祈祷・占い。 (6)教義・教則や経典・教本はほとんどない。 (7)確固たる宗教集団を持たない。 (8)原始宗教 (9)アニミズム、シャーニズム (10)神話から生まれ、既存宗教と結びついて宗教行事化したもの。 (11)お盆、おみくじなど。 それでは神道とは何でしょうか。 以下、ウィキペディアをまとめました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93 (1)日本の宗教。 (2)山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。 (3)伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。 (4)明確な教義や教典がなく[、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』などの古典を規範とする。 (5)天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。 (6)他宗教と比べて現世主義的。 (7)神道は、一時期は神仏習合などでその扱いが統合されていた。 (8)明治時代、国民の精神的支柱としてその精神性や倫理性などが見直され、国家形態の一部として採用された。 (9)『宗教年鑑』(文化庁)には約85,000の神社が登録されている。 (10) 皇室神道、 神社神道、民俗神道(民間神道) 古神道(≒原始神道) 国家神道などがある。 (11) 今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。 ウィキペディアを読むと、民間信仰と神道とはかなりかぶる部分があり、明確にどちらであるとは断言できないと思いました。 恵比須は民間信仰の神だといえなくもないと思います。 ですが、神道の神だともいえるのではないでしょうか。(どちらかといえば神道の神としたほうが正しいようにも思えます。) 神道(11) 今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。 とあります。 恵比須は恵比須神社などの御祭神ですから、神道の神といってもいいのではないでしょうか。 また恵比須神社の御祭神は記紀神話に登場するイザナギ・イザナミの神子・蛭子であったり、事代主命とされていることが多いです。 これは神道(4)明確な教義や教典がなく[、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』などの古典を規範とする。 にもあてはまります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%99 恵比須が商売繁盛の神だとされるようになったのは、恵比須とは蛭子のことであり、蛭子は足の悪い神だと記紀には記述があるところから 「お足がでない」という語呂合わせによるものだといわれていますね。 このことだけをとりあげると、 民間信仰(10)神話から生まれ、既存宗教と結びついて宗教行事化したもの。 にあてはまるので、民間信仰ともいえるわけですが。 5,6でご紹介した高田祟史さんの説は神道から生まれたものだとも、民間信仰から生じたともいえるかもしれませんが 御霊信仰から生じたものだというのが一番ぴったりくるように思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

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  • michael-m
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回答No.7

それぞれの神様はインドから中国に仏教が伝わるに従って仏教に取り入れられた神や仏、或いは僧侶です。そして日本に入ってきたときに恵比寿天が仲間に入りました。 つまり神々は頻度や中国からやってきましたが、七福神というグループは日本で結成されたという事らしいです。 「らしい」というのはあくまでも民間信仰なので、いつどこで誰が作ったというわけではないからです。 しかもメンバーもいろいろ入れ替えられてきたようです。 例えるならばE-ガールズみたいなものですね。(私の年代ならゴールデンハーフだけど) ちなみに神道の神の名が入ったのは神仏習合で神道の神を仏に当て嵌める本地垂迹の結果です。唯一の日本の神せある恵比寿も神道の紙ではなく民間信仰の神ですから、神道から生まれたということではありません。 但し、神仏習合では神道と言っても仏教の中の天部という位置になっていますから、仏教の中の神道部会で生まれたということならば新党から生まれたといえなくもないです。

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noname#190665
noname#190665
回答No.6

5です。 文屋康秀が恵比須であるという理由、思い出しました。 恵比須は商売繁盛の神で、 古今集仮名序には 文屋康秀について「商人のよき衣着たらむがごとし」とあるからでした。

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noname#190665
noname#190665
回答No.5

いろんな説があるようですね。 おもしろいのは、小説家・高田祟史さんの、七福神は六歌仙からくるとする説です。 「六歌仙の暗号」という小説の中で、次のように記されていました。 (手元に本がないので、記憶をもとに書きます。記憶違いがあるかもしれません。) 以下、ネタバレ ●7は死を意味する数字である。 旧暦ではお盆は7月15日を中心とする行事で7月7日はお盆の入りの行事であった。 人が死んだ際の法要も初七日、二七日のように七日毎に行いますね。 ●七福神というがもともとは福神ではなく、怨霊であった。 古には神と怨霊は同義語であったのが、時代を経るにしたがって別のものだと認識されるようになった。 例えば平安時代に流行った疫病は菅原道真の怨霊の仕業だと考えられていたが、 道真の怨霊が祟らないように神として祀った結果、現在では学問の神として信仰されている。 ●六歌仙とは古今和歌集仮名序において名前をあげられた6人の歌人であるが、古今和歌集仮名序をよむとほめているように思われない。 逆にけなしているようでに思われる。 た古今和歌集仮名序はたいへん抽象的でわかりにくいのですが、私なりに訳してみました。 僧正遍照・・・歌の様はできているが、真実が少ない。絵に描いた女を見て、無意味に心を動かしているかのようだ。 在原業平・・・心が大きすぎて言葉がたりない。しぼんだ花の色があせてにおいだけが残っているかのようだ。 文屋康秀・・・言葉はたくみに使っているが、その様子が身についていない。いはば商人がいい着物をきているかのようだ。 喜撰法師・・・言葉がわずかではじめと終わりがはっきりしていない。秋の月をみていると暁の雲にかくされてしまったかのようだ。詠んだ歌が少ないのでよくわからない。 小野小町・・・古の衣通姫の流である。趣があるようで強くない。いい女は悩み多いものだがそれに似ている。強くないのや女の歌だからだろう。 大友黒主・・・姿が卑しい。薪を背負った山人が花のしたで休んでいるかのようだ。 原文はこちら→http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm ●現代人は六歌仙とは歌のうまい6人の歌人のことだと思っているが、仮名序は決して彼らを褒めていない。 むしろけないしているように読める。それなのに、なぜ彼らは六歌仙と呼ばれているのか。 歌仙とは神に近い言葉である。そして神と怨霊は同義語であった。 六歌仙とは怨霊であったのではないか。 ●六歌仙を調べてみると、当時の権力者、藤原氏と確執のあった人物ばかりである。 喜撰法師・・・紀名虎または紀有常のことだという説がある。 紀名虎の娘・静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産んだ。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたが、藤原良房の娘・明子も文徳天皇に入内して惟仁親王を設けていた。 どちらを皇太子にするかでもめたが、惟仁親王が皇太子となった。 遍照・・・桓武天皇の孫だが臣籍降下した。仁明天皇の寵臣だったが藤原良房にすすめられて出家した。 在原業平・・・平城天皇の孫だが臣籍降下した。紀氏の女性を妻としていて、紀氏側の人間だった。 文屋康秀・・・文屋は文室ともかく。文室宮田麻呂の子孫か?文室宮田麻呂は無実の罪で流罪となっている。 大伴黒主・・・藤原氏の他氏排斥の犠牲となった大伴氏の霊か? 小野小町・・・よくわからないが、惟喬親王は隠棲後に小野の里に住んでいるので、惟喬親王と関係のある女性か? ●立太子争いに敗れた惟喬親王は御霊(怨霊)として、玄武神社などに祀られており、怨霊と畏れられていたことは確か。 ●六歌仙+惟喬親王の七で北斗七星の神として祀ったのが七福神である。 七福神は北極星のまわりを永遠に回り続けることで、怨霊封じとした。 毘沙門天・・・・惟喬親王/玄武神社の御祭神だが、玄武は北方を守護する聖獣で毘沙門天も北方守護の神である。 弁財天・・・・・・小野小町/紅一点 大黒天・・・・・・大伴黒主/大と黒が同じ 布袋尊・・・・・・喜撰法師 「わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと 人のいふなり」と歌を詠んでいるが 宇治は都の巽ではなく、辰の方角である。 従って、 「わがいほは みやこのたつ 【みしか】ぞすむ」と詠むのが正しい。  【みしか】は【み鹿】で【弥勒(みろく)】という謎々である。 布袋は弥勒の化身とされている。 恵比須・・・・・分屋康彦/理由忘れました。すいません。 寿老人・・・・・在原業平/在原業平は呪いを込めた歌を詠んでおり、呪老人であった。 福禄寿・・・・・遍照/寿老人と福禄寿は同じ神とされるが、業平は桓武天皇の曾孫、遍照は桓武天皇の孫である。

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  • chiha2525
  • ベストアンサー率10% (245/2384)
回答No.4

どちらかって言えば仏教でしょうね。 神道と仏教、誰だったかが言ってましたが、仏教=見せる宗教、神道=隠す宗教。 仏教ってデッカイ建物たててデッカイ仏像つくって、これ見よがしにすごいんだって主張するんです。五重の塔なんて中に人が入れないのに、あんな高いものを昔っから建てて自慢してるんです。 対して神道、御神体とか見せません、見せても50年に一度とか。でもって見せても紙にくるんである。その中身もただの木の板。でもそれで良いのです、それはタダの依代で本体ではないのだから。 振り返って七福神、どう見ても見せる宗教=仏教です。

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

>宗教カテゴリーがないので、ここのカテゴリーで良いのか悩みましたが まぁ~どこまで議論というか、回答をお求めかで変わるかと思います。 社会→カルチャー→伝統文化・行事のジャンルとして考えましょう。 >神道から生まれたのでしょうか?。 >仏教から生まれたのでしょうか? 二者択一であれば、仏教でしょう。 >民間信仰から生まれたと思っておりますが 民間信仰と神道の関係がややこしいです。 現在神道と言うと、吉田神道とよばれる室町時代に考え出された理屈に基づいたイメージで受け取られます。 その前はどうだったの、とやらないと解らなくなってきます。 七福神というのは、いつごろから始まったの?と言うとだいたい皆さんは室町時代頃とお答えになられます。 何で、吉田神道も七福神も室町時代なの?ということにヒントがあります。 次に七福神の「神」ってな~に? 仏教にはお坊さんが「天」と呼んでいる仏様の御家来というか眷属がいます。 柴又帝釈天とか四天王寺とか呼ばれている「天」です。 これが、ヒンズー教などインドの神様が仏様の世界に加わったときに「天」と呼ばれました。 鬼子母神のように初めから「神」と呼ばれた方もおられます。 七福神も大黒天、毘沙門天、弁財天とおられても七福神すなわち「神」としてまとめられてしまっています。 日本語の「神」という言葉が便利なようで不便なのは、何でもかんでも「神」で片付けてしまいます。 ヒンズー教も仏教もバラモン教と呼ばれるインド古来の宗教から別れたもので、実は沢山の共通点があります。 結果として、インドの神様というのは、仏教の神様=天でもあります。仏様である場合もあります。 日本には古来から田の神様とか山の神とか海の神と呼ばれる神様が沢山いました。 その一方でお伊勢さんや出雲の神様のように、特定の神様もいました 更に、八幡様のように外来の神様もいました。 これ等の神様を大切に伝えてきたことを民俗信仰と呼ぶのかどうかです。 特定の神様については、室町時代までは朝廷が中心となって大切にしていました。 室町時代になると、朝廷の権威が下がってしまいます。 武家政権である幕府も、将軍をくじ引きで決める、なんて、いい加減なことをやっていました。 一方で、貨幣経済が盛んになり民間が強くなってきます。 この余裕を持ち始めた民間の人達を相手にしていた神主さんの一人で吉田兼倶という人が、バラバラだった日本古来の神様を纏めて整理して理屈付けしたのが今の吉田神道です。 七福神も同じように民間の人達が、幸福をもたらしてくれる神様を選びました。 仏教だろうが道教だらろうがそんなことには一切無頓着です。 このときに相談を受けたお寺のお坊さんがまぁ~こんなもんでしょうと選びました。 当時は神仏習合とか神仏混淆と呼ばれる時代ですから、神仏の区別はありません。 お坊さんだから色々理屈をつけました。 この時の理屈を書いたものが残っていないので、今でも大学の先生を悩ましています。 江戸時代までは、お寺も神社も同じ敷地の中にありました。(神仏混淆) 場合によっては、お坊さんが神主さんを兼ねていることもありました。 明治政府が無理矢理分けました。 結果として、七福神はお寺にいたり神社にいたりします。 江戸時代までは、別に神社だお寺だと分けていた訳ではありません。 以上が超概略の説明ですが、答えになりましたでしょうか 大和から一人乗り込む宝船

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  • rokometto
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回答No.2

諸説あるようで断言はできないです。 民間信仰が有力みたいですが。 七福神 起源 で検索かけるだけでもたくさん説が出てきますから。

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  • customar
  • ベストアンサー率17% (68/392)
回答No.1

民間信仰でしょ。 福禄寿は見た目キャラで合格でしょ。 私のクソ携帯で全員漢字変換できました。ヴィトンもロレックスも予測変換できます。そういう貧乏性向けの候補として昔からある民間ブランド。 思想の欠片もないでしょう、ノンポリ文系教員同様に。

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