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法華経について

hokekyou333の回答

回答No.3

哲学からの宗教の清算、宗教改革を考えている者です。 その視点から言えば、法華経自体は寓話にすぎません。 私がその法華経を信じているのは、その寓話から日蓮上人が「妙法蓮華経」という現代文明人の左脳にバランスをもたらす最高のシンプルな言葉が隠されていることを見出したからです。 しかし、例えば、法華経の中ではその日蓮もそうなのですが、仏様たちは、何億年のさらに何億年培のその何億年培の…とこれが何十も続く昔から生きていた仏様だと語っているわけです。 人類の歴史を80万年前にアフリカのタンガニーカ湖畔の猿の脳に物事を見つめる脳が宿った時から始まったとして、それも気の遠くなるような昔ですが、日蓮が最初に仏となったのはブラックホールの生まれるはるかはるかはるかな昔^^ということになってしまいます。 これは明らかに言葉だけではとても語れない何か大切なものをなんとか語るための寓話の一つであると考えられます。 多くの宗教で寓話や神話、たとえ話や方便が抽象的に語られていますが、そのすべてが言葉では語りがたい真実を語らんとしたものではなくて、道徳の権威づけのためにその多くが語られたのだとしても、その奥にその真実を解釈することは、解釈する人間によっては可能ともなるところ、法華経の場合は、確かにあまりにも今を生きる私達にとって大切な宝を含んでいた仏典だったということです。 ですが、 キリストの場合は、直接に罰とか審判(神の裁き)とかの》おどし《を語っていないと思いますが、日蓮の場合は直接に罰を語ってしまっています。 おそらくですが、法華経の中に隠されていた「心の宝」が、現代人にとってあまりにも大切なものだったため、そしてその意味合いがあまりにも奥深く、とても説明自体は難しいため、それでもなんとかその宝を多くの人が手に入れて欲しくて、それで、罰という宗教の伝統的な考えをそのまま使ったのだと思います。 実際には、あくまで罰などという裁きを仏や仏の眷属とされている存在が行うわけがないのです。 これは、物事の因果を深く知っている人間なら普通の人ですら、どんな悪人をもその過去に関してはすべて許しているはずのところ、まして、人生を深く修行し心に関してはその因果のすべてを知っている知恵者たちが、人の過去を裁くなどということはありえようがないからです。 しかし、その仏様と言われている人たちが仏教ではいやにその罰論を語ると思いませんか? 特に日蓮の場合は、念仏無間地獄などというふうに、かなりはっきり阿鼻地獄を語ってしまっています。 五逆罪と法華経誹謗の罪の結果は、死後の阿鼻地獄というふうにもです。 想像力の世界にすぎないとはいえ、そう想像すること自体無慈悲そのものと思えてきませんか? これは、日蓮もそうなのですが、仏教でそのへんが物語られる時には、仏という存在があまりにも至福の境地に入り込んでいるため、つまり「涅槃」というあまりに深い安らかな幸せの境地であるため、一般の境涯をその脳がすっかり忘れているためだと解釈できます。 佐渡の極寒の地獄の中でも、地獄即寂光の、幸せの境地で満ちていた日蓮の心にしても同じでしょう。 宗教が歴史の中に出てきた時には、一応に道徳の必要が出て来ていた時です。 その道徳に権威をもたらす方途として、宗教はどの宗教も昔は罰という方便を語りました。 仏教の歴史でも、仏陀がそれを直接語ったとは私にはとても思えませんが、その罰論の伝統は昔から語られてきてしまったわけです。 その仏教の中に「妙法蓮華経」という宝が隠されていたことから、日蓮は人間の苦についてはむしろ忘れ去っていながら、あきらかに抜苦与楽の実現の宝と信じて、それをともかく「「「なんとしても、大勢の人に伝えたかった」」」のだと思うのです。 そのために、仏教の伝統への感謝の心からも、罰論をそのまま使ってしまったのだと私は思っています。 》非常に狭い物の見方であり危険だと思います。これではまるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです《 日蓮信徒たちが、そのまま原理宗教的に徒党を組めば、それはたしかに危険だと私も思います。 しかし、ほんとうは「妙法蓮華経」の意味合いを心から理解し、納得して、なるほど考えて考え抜いた自分の哲学や磨きに磨きぬいた自分の感性をはるかに超えた心の世界を、こんなシンプルに五文字で語っている世界があるなら、それに対して謙虚にならざるを得ない、という意味での信仰ならば、それは狭いものの見方どころか、その真逆の人類史的な広さを持った教えがそこにあるのです。 でも、罰論をかかげて、集団催眠状態で、功徳の実証、体験を語る世界というのは、実はキリスト教の新興宗教の中にも似た怖い状態の宗教がありますが、その場合、それ以上に怖い宗教団体になる可能性があるからです。 その人たち自体は真剣で純真でも、その純真さや真剣さに盲目性をさらに強めるような権力者が入り込み、それが国立戒壇という宗教と国の権威との合流を目指した場合、いままでのどんな恐怖政治よりも怖い秘密警察による締め付けがまかりとおってしまうからです。 本当に国家権力による政治ではなく、「正しい法のみ」による仏法政治を求めるというのなら、理性的に本当に謙虚になれるところまで考えた上での信仰による仏法の世界でなくてはならないということです。 難しいですけど、私はそれを目指しています。 天台大師も、仏教の歴史の中では一番現代心理学者たちから絶賛されている「阿頼耶識論」を取り上げ、そこから法華経の奥にやはり「妙法蓮華経」という宝を見つけた方ではあるのです。 しかし、その仏典も、あらゆる感情や人間の欲望の描写とともに、五感の奥の自我の世界を7識と8識に分けて、その奥に仏界を説くという哲学的文面とはなっているのですが、その分類法自体はかなり雑多です。 その「阿頼耶識論」は、多くの人が書いていますが、そんな論理的であらんとした仏典の中にすら、その一つには神秘性が入り込んでいたりするのです。 また、華厳経で言われる本当の仏陀の意図は華厳経に説かれたという論理も、日蓮の信徒たちの言う五綱判という最高の教えを判断する基準も、論理や基準というよりも、自分たちが正しいという説を自分たちで組み立てて、その中で語っているので、基準や論理として成り立っているわけではありません。 ここには、どうしても、哲学による本当の信仰の在り方やその理解が必要なのだと思います。 本当はここには、「妙法蓮華経」の意味合いをこそ書きたいです。 しかし、なるほど素晴らしいと納得してもらえるだけの地点まで書くだけでも、さすが紙数は足りません。 でも、これで日蓮上人への少なくとも誤解の一部は解けたのではないかと思いますがどうでしょうか? 自我というのは、自分の内部に向かう心的身体的両方のエネルギーを持っていて、その殻は強固です。 というよりその殻は実は破ることは出来ません。 でもその殻は簡単に電波のように突き抜けてしまうこともできるようになっています。 その電波の中心が仏の世界であり、「中道」の世界です。 「中道」というのは、ですので単なる2つ以上の志向性の中間ということではなくて、もっともっとはるかに深いバランスの世界を意味します。 摂受 折伏 末法という言葉も、本来はその深いバランスと関わる深い言葉として解釈されるべきところなのです。 末法というのは、論理脳の発達で感性脳が押さえられている人たちの多い時代というふうに考えると解りやすいでしょうが、あとはご自分で考えられてみてください。 すべての人の心に事実として仏界はあります。しかし罰は事実としては、どこにも存在などしていません。安心して人間的にこそお互い生き抜いていきましょう。 苦悩を突き抜けて考えた人が正しい人間性を身につけられるのだと思います。 迷うこと、疑問を持つことはすばらしいことです。 そこを少しでもお互い突き抜けて行けたらいいですね。

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