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性悪説のほうが正しいような気がする

小中学校での(高校もか)「いじめ」の実態の報告のなかに、仲間はずれの例がありますが、 いじめているほうには、いじめている、という意識がなく、集団帰属に関わる人間的習性(児童たちが属している文化圏の、あるいは全人類的な習性)に基づいているように見えます。 自然に内在する規範を素直に行動に移せば、社会全体が幸福lになるというのが私の性善説の解釈ですが、これが正しいとすれば、性善説は、いささかお気楽すぎる思想のように思われます。 皆様のご意見をお聞かせください ほんっとに暇なときにでも、投稿していただければうれしいです。

みんなの回答

回答No.17

NO7です。まずは、お礼につきありがとうございます。 人間には先天的に備わっているものと後天的に獲得するものがあると思います。前者には、感情・本能欲・脳の働き・遺伝子が挙げられますが、いわゆる人間らしさを表す「社会的なもの(社会的生物としての行動習性・思考・思想)」は後者に属すると思うのです。 では、どうやって後天的なものが決まるかといえば、はじめ(原子社会直前)は先天的なもの(人間脳の特質他)に人間の置かれた環境条件が組み合わさり決して来たのではないでしょうか。そこから人間社会がはじまり年月を重ねるに経て、人間の行動や思考の色=社会色が醸成されて来たとみます。これについて、地域により環境条件は異なるわけですから各文化圏が各々の色を持ちえます。人間以外の生物は当然人間と脳の働き特質が異なるわけですから、人間とはまた違う社会色を持つでしょう。 人間は生まれてから、その数千年以上の流れを汲む社会の中で、その社会色を構成する様々なモノから影響を受け無意識のうちに学習し後の行動思考前提となる基礎原資を獲得していくのです。 ここで質問者提示のいじめ仲間はずれ(=A)について、小学一年生の7歳児を例にとるならば、7歳ということは生後2500日が既に経過しています。これは相当な学習期間です。この間に得た原資を基に多様な応用行動が可能となります。7歳児がA行動を採るに、或いは幼児期にてA体験済みの子からそれを伝授されたケースもあるでしょう。しかしA体験が無くとも、獲得済み原資からA行動は容易い応用行動といえます。嫌いという感情の発生(これは先天的)、少数より多数が強い、無視されると(すると)辛い、これらを結合させるだけですから。 >本能的に自集団にそぐわない固体を識別し、排除しているかのようです そういう錯覚に陥っていると思われます 次に善と悪について。これらは人間が後付けでそう呼んでいるだけの表現です。更に善と悪は(他回答者指摘の如く)可変的であり、絶対的でもなく曖昧なものに過ぎません。そういう風に私は捉えていますので性善説性悪説は私にとってあまり重要でありません。 よりよい社会であるために教育が大切なことは勿論ですが、それ以上に今ここにある(原始社会から脈々と続いている)人間社会色、今から生まれてくる子達にとって貴重な基礎原資となるこの社会色、この色をよりよくすべく我々一人一人の日々の生き様が、仮に人間に社会的なものが先天的に備わっているとしても、更に重要と考えている今日この頃です。

回答No.16

お礼の投稿ありがとうございます。 質問者さんはドーキンス著の利己的遺伝子をお読みになられましたか。なければお気楽に一読されてみてはと。 議論に似たものを感じました。 根元的に遺伝子レベルから生物は利己的な原理だけで今に至るという主張です(彼の狂信者ではない私に言わせるとそれで説明可能、つまり性悪説となります)。幼児がどうとか本能的な議論なさるならそういう事になってくるだろうと思います。情はヒトの為ならず遺伝子の為。 仮に力関係において性悪説が性善説を駆逐するものであれば性善説は存在していない事つまりこの世は性悪説だに結論されます。 嘘つき軽口などを含めて、悪人ほど性善説を唱えるとも言えてきます。なぜなら悪人が強者となるのですからその悪人が唱えない限り性善説が一般化できないからです。 性善説であれ何であれ、主張者が真剣に病魔と戦う気があればガン告知が条件です。嘘も方便など虚飾に頼る解決はそのばしのぎの要領にすぎずこの世の事実を議論する哲学にはなりえません。有益無益は御利益仏教の原理です。現実を悟りたいのであれば無益であっても事実を直視しなければなりません。どう考えても原理を性善説にしようがない現実です。 はっきり言って精神的に弱い者が哲学すると全部宗教化して現実ではない宗教世界に頭を働かせるだけになります。安心感のための哲学は現実把握の役に立ちませんし有害です。つまりは性善説の方が悪質なのですから皮肉の極みです。性悪説の内に入ります。 そんな事実を積極的に義務教育した方がいいかは事実とは別問題です。低俗な性教育を望む連中と同じになります。 それよりも嘘をつくなときつく教育すべきです。性善説も含めて社会は嘘だらけです。フェアでないものは嘘がまことのように通用しているからです。嘘をつかないという簡単な事を徹底するのが学問においても最重要です。 真実とは嘘のない世界です。

noname#210533
noname#210533
回答No.15

「善」と「悪」って最初からくくる二者択一は、見方を変えれば 簡単に逆転もするし意味消失もします。 いじめは悪い。 だけど、いじめは悪くないとされる社会もある。 例えば、田舎の山奥の学校なんかじゃ一昔前はいじめなんて 概念自体がなかった。 理不尽な暴力はもちろんあったけど、その小さな集落で 持っている力に応じたポジションを決めるためにいじめが 「機能」していたんですよ。 何故って、雪深い山の中では道に迷って行方不明になったり クマが出たりもします。 そんな中で子供たちが身を守りながら 何キロもの通学路を往復するためには、喧嘩の強い上級生や 機転の利く参謀役、逃げ足の早い斥候役と、小さいながらも 軍隊として機能する必要があったからです。 皆が平等な軍隊というものは存在し得ません。 まあ、子供達の社会を軍隊になぞらえたのはいささか 結果論ですけど、自動的に上下に人々が並ぶ、その副作用と して苛めは起こり、本来の機能として小さな社会の運営が なされた。 それは簡潔な事実でしょう。 さしたる産業もない小さな村落で、収穫を皆で配分する時も 皆が平等だったら盗み・抜けがけ、時には暴行してでも 自分は他人より沢山とろうとしたでしょう。 弱者の強い不満はやがて爆発し、殺しあいに発展することも ありました。 村が一つ、殺しあいで滅ぶことだってあったし、 今だって警察が機能を停止すれば忽ち略奪と暴行や殺戮が 始まりますよ。 理性というタガが外れた人間は本当に 恐ろしいものです。 だから、支配される者の欝憤は皆無に出来ないけれど、 組織として社会が運営されるための支配構造の成立は 殺し合いをせずに皆が「平等」に生きていくための 必須条件だったとも言えるのです。 だから、力を持って支配する者と、特技を持って特定の 立場を守るもの、何の能力もなく馬鹿にされ、弄ばれることで 娯楽として存在を許される者などに自然に分類されて 集団は組織となり、全体で一個の意思を持つ存在として 自衛行動を遂行することが可能になったのです。 それによってより強固で負けない組織が出来る。 それによって単独では生きていけない弱者が生きて いける社会が築かれてきた。 さて、先ほどの例ですけど、そんな山奥の村落の子供達に してみれば、喧嘩が弱くて勉強も出来ないミソッカスが 殴られたり家来にされるのは全く問題でもなんでもありません。 異を唱えれば殴られて黙らされるだけですし、喧嘩して勝てば、 ボスが入れ替わるだけです。 それでもいざ危機が目前に迫れば、ボスであるガキ大将は いじめられっこだって見捨てはしません。 だからこそボスです。 でも、仲間組織を否定する異分子の子は、例えクマに食われても 助けようとしないこともあったでしょう。 組織が個人より 社会全体の治安維持や権力機構温存にどうしても動いて しまうのは、全体で一つの生き物だと考えれば理解に 苦しくありません。 誰だって死にたくありませんもの。 自分の爪や膝っ小僧の皮膚の一片より、自分の心臓や 脳を大事にする。 当然と言えば当然のことかも知れません。 ここではいじめだ、とか性善説だの性悪説だのという非現実的な 思考は、まったく何の役にも立ちません。 無意味と言っても いいでしょう。 誰もが平等な世の中を目指したのは戦後の話です。 士農工商は言うに及ばず、日本も世界中のどこの国も、 平等という概念はかなり新しいものです。 戦火が去り、本当の焼け野原になった日本はそのままでは アメリカの一州になっても不思議はなかったし、数十年に 及ぶ内戦が起きたり、東西に分かれて他国に分割統治 されても不思議は無かったのです。 そしたら私たちは 二等国民、下手をすれば奴隷のような虐げられた日々を 送っていたかも知れないんです。 そこから急激に発展して国を滅ぼさないためには、疲弊し めちゃくちゃにされた人々が、どうしても各々の幸福のために 支配されるからでなしに、自分達の家庭の将来を良くする ために、自発的にバリバリ働くことが必要だった。 平等、というのは社会が生み出した富の配分をなるべく 不公平感が少ないように分けようということですし、みんなが 負わねばならない義務、主に税金の支払ですが、それも 昔のようになるべく底辺の人々が搾取される社会格差を 減らそうとすることでした。 それは表面上は愛とか未来とか「もう戦後ではない」との シュプレヒコールだったりしましたが、 要は、無理やり鞭で働かせる位の低レベルの労働力では 奇跡的な復興を成し遂げるには余りに不十分だった。 だから頑張れば頑張っただけ「平等」に幸せになれる社会を 作ろうじゃないか、と高度経済成長期という国を挙げての お祭りをやってのけられたのです。 日本はそうして、世界にも 例のない奇跡的な復興と発展を遂げた。 そこには為政者を始め財界にも言論界にも世論を誘導する 様々な試みがあっただろうことは、恐らく間違いないはずです。 話が逸れたように感じられると思いますが、性善説と性悪説と 二択にして思考を単純化させることで、世論の統合が可能に なった、という政治的な手法でしかない、それが恐らく真実です。 いじめ問題一つ取っても、決して解決できない理想論・空論である 性善説と性悪説の二者択一に世論を誘導してしまえば、支配の 体制批判をかわすことができますし、性善説を撰んだ者には お気楽な愚か者の烙印を押すことで、また性悪説を選んだ者には 善を否定する悪人の烙印を押すことで、互いに戦わせることが できます。 やがて雌雄は決し、敗者は去るか、勝者に隷属するかして 世論の統一が出来る。 適当な段階で優勢な側にこっそり 支援するなり息がかかったものを幹部に据えておけば、 争いが終わった段階で残った勝者を支配することが出来ます。 自由を勝ち取ったのだ、と賛美してお飾りのポストを与え、 民主主義を達成したのだと思い込ませておけばよい。 現実、そうやって世界は動いていますしね。 どのみち社会に属して社会のルールの中で支配を受け入れて 生きるしか、大半の民衆に生きる道はありません。 どうせ考えても無駄だからと盲目的に命令指示を履行する ことも一つの人生だし、例えそうせざるを得ないとしても、 いつの日か、社会の理不尽に一矢報いるために、自分の 考え方をきちんと練り上げておこうという生き方もある。 もしあなたが後者ならば、性善説と性悪説のような、 根本的な矛盾を孕んだ対立する選択肢を鵜呑みにせず、 どちらでもないし、どちらでもあるこんな分かりやすい 白黒分けは、誰が何のためにやってるんだろう?と、 問題自体に答えようとせずに舞台裏やステージの下など、 隠れている者達の目線で状況を捉えなおしてみることを お勧めします。 もしあなたが単なる暇つぶしで考えているなら、この程度で 十分でしょう。 でも、突き詰めて考えていきたいと欲するならば、自分に 出来るわずかなこと、自分という小さな一人の人間が持つ ソースをどう使えば何が達成できるか、そのためには どういうロードマップで生きるべきかという視点で考える べきでしょう。 例えば、官僚になる。 例えば、国連の職員を目指す。 例えば、ユニセフに入って活動する。 例えば、法曹を目指して司法に参画する。 政治家、経団連、為替のトレーダーなどなど、あなたと 同年齢の方でも、具体的に人生航路の羅針盤を見つめて いる者は、こうしている間にも着実に歩を進めているでしょう。 そういう、一歩も二歩も先を行っている同世代の人がいることを 自覚するだけでも人の生き方は少しづつ変わります。 大切なことの一つは、空理空論や形而上的な思索は 哲学者でも目指さない限りはあくまでも思考ゲームと 考えておくこと、自分と社会という現実世界での、 実施戦略と区別して、どちらかに偏らないように バランスよく考えることが要求される、ということです。 社会を現実に動かしている人々に名を連ねようと 思うならば、です。 あなたが学生なら、性善説と性悪説をあれこれ考えるのと 同じだけの思考と熱意を、生徒会に参加するなり いじめ撲滅隊を組織するなりの現実の戦略に裂けて 初めてバランスのとれたまともな思考をしているという ことになります。 現実に行動を起こすことでリスクを予想し、結局何も せずに表題のような二元論をいじりまわしてお茶を 濁すならば、やはりそれは逃避の謗りを免れない ものでしょう。 いじめについて逃避せずに真剣に考えるならば、 性善説云々の前に、何らかの行動を起こすべきです。 でも、自分に出来ることの範囲を超えていることについて 逃避することもまた自由であり、権利です。 でも、逃避した、と言い換えた瞬間に卑劣な悪者然と してしまうじゃないですか。 だから、それらの言葉は単なる恣意的なレッテルに 過ぎない。私はそう思うんですよ。 性善説と性悪説とは、言わば古典的な世論誘導を 目的にしている白ゼッケンと赤ゼッケンみたいな ものに過ぎないと、私は確信しています。 せっかく興味をもたれたのだから、いじめの加害者に 手をこまねいて何もできない多くの「私」や社会というものも 含めて大きく考えてみて頂きたいとおもうのです。 ね?

  • ai-aou
  • ベストアンサー率24% (33/136)
回答No.14

性善説も性悪説もバイアスであり、一部宗教が捏造したレトリックだよ。 性善説や性悪説という縛り(幻想)は、ロボット人間を作りだす。『結果追求』が、宗教のメカニズムだから。 性善説が内在の知恵なんではなく、縛り(ロボット人生)からの解放が、知恵という叡知を呼びさます。 いじめの本質は、無知という想像力のなさ。知恵なき愚かなコミュニティーには、共同幻想がある。 早く多くの人類が、叡知に繋がる世の中になるといいよね。

回答No.13

 こんにちは。  ★ 自然に内在する規範を素直に行動に移せば、社会全体が幸福lになるというのが私の性善説の解釈ですが、  ☆ ふつう誰もがそう思っていると思います。  けれども  ★ これが正しいとすれば、性善説は、いささかお気楽すぎる思想のように思われます。  ☆ と言うのは  ○ 規範内容を素直に行動に移せるか?  で見方が分かれるのではないですか?  《お気楽すぎる》と思う場合には その《素直に行動に移す》ということを 子どもにしつけたり あるいは成人する過程で言わば説教したりということがもっと必要になる。という見方を提出しているのではないでしょうか?    つまり 性悪説は 性善説のおぎないのようなものなのではないでしょうか?  素直に行動に移せない場合には 罰則までをあたえるべきだといった意見も出て来るのではないでしょうか?  性善説への《おぎない》は いちおう程度問題だと思われます。  程度問題を超えた場合(?)には もう性善説は影もかたちもなくなっていると見るべきなのでしょうか どうでしょうか?

回答No.12

善悪の分別は一定ではない以上、性善・性悪を問う事は無意味です。 おっしゃられる善は、社会性が発達した場合であり、戦国時代には、 人を殺す事が善(最も多く殺した信長が英雄)であったように、 環境や自己の状態によって善悪も可変なのです。 脳は、生後の環境からの刺激によって配線を伸長させる要素が 大半で、大きなフレキシビリティを持っており、善悪の分別の可変性 とあいまって、性善・性悪を無意味化します。

回答No.11

社会の構成員全員が性善説に立脚する社会が可能であれば、うまくゆくのです。「お気楽すぎる思想」ということもないともいます。 しかし、性善説に立脚する社会に、性悪説に立脚する構成員が混ざるとめんどくさくなります。 混在すると、往々にして性善説を信じている構成員が性悪説を信じている構成員に淘汰されてしまうからです。 豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタンを御法度にしたのは、上記の判断基準からだったと思いますが、これは日本の社会にとって幸いな判断だったと思います。

回答No.10

個人的な見解ですが性悪や性善はないと思います。 ただし、社会の中で、はたらきバチの原理と同じで 何らかの割合で悪を持った人間と善を持った人間が発生するのではないかと 思ってます。 子供の社会でも大人の社会でもいじめとがなくならない現実を見ると、 児童だけに限らない全人類的な習性なのかもしれません。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.9

私には中国人の知人友人が沢山いるのですが、 彼らは例外なく性悪説に立っています。 朝日北京支局の記者の話ですが、道でお婆さんが 転んだので、助け起こそうとしたら、怒鳴られた。 「お前、私の財布を盗むつもりだね!」 知人の中国人が来日して、日本企業で働いたが、 もっとよい会社があったので、勤めている会社を 辞めることにした。 その会社の社長が出来たひとで、真面目に働いて くれたから、ということで、金一封を渡したところ、 その中国人は激怒した。 「これは嫌みに違いない」 靖国問題では、親日の中国人ですら、あれは中国に対する 嫌がらせでやっているのだ、と信じています。 中国の社会は、こういう人達によって構成されて います。 そして、中国人は皆、日本より不幸です。 それは経済の問題だけではありません。 性悪説に立っているので、片時も油断出来ないからです。 家族すら、敵、という民族です。 だから彼らが来日すると、心が癒やされるそうです。 私の親友の中国人などは、日本人に悪人はいない、と 真面目に信じています。 そういう訳で、性善説はお気楽過ぎる、ということは ありません。 性善説の社会の方が間違い無く、住みやすくて幸福です。

su-darabusi
質問者

お礼

回答の投稿、ありがとうございます (お礼の遅れたことをお詫び申し上げます。急な出張で、インターネットどころか電気さえも ままならない僻地にいましたもので) >性善説の社会の方が間違い無く、住みやすくて幸福です そう思います。しかしながら、「どのようにあるべきか」と「どのようになっているか」は別問題であります 「性善説がいい」と皆が主張するだけで世の中がうまく運営されるものではないでしょう 「性善説がいい」と主張する前に、その説の根拠、妥当性を考えなくてなりません (ずいぶんと長い歴史的時間がすぎ、これからも、まだ結論がでそうにもありませんが、慌てることは ありますまい)

回答No.8

こんばんはです。 質問者さんは、《性悪説》をちょっと誤解してない? 荀子さんのいう《悪》は欲望くらいの意味。 ───────── 人之性惡,其善者偽也。今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順是,故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲,有好聲色焉,順是,故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性,順人之情,必出於爭奪,合於犯分亂理,而歸於暴。 荀子・性悪 http://ctext.org/xunzi/xing-e/zh ───────── 我々人間は、欲望によって好きとか自己の利益になるというような考えが起きて、争ったり盗んだりする。だから、欲望を人為的に抑え、ココロを矯正しなければならない。 これが、荀子さんの主張。 荀子さんがこういったかどうかは分からないけれど、  「人」+「為」→「偽」!! 荀子さんは、 「其善者偽也」、つまり、「善は《偽》だ!!」 とまでいいは放つのだ。 そして、 善は欲望、つまり、善は《性・自然》に反しているので、《偽》・《偽(いつわ)り》だ。しかし、人間は《人為・じんい》的にそれを抑えることができる、 と、荀子さんは言っているのよ。 その《偽り》に真の《人間性》を見ている。 「《惻隠の心》などに代表される《善い心》をもっていない奴は、人間とは呼べない」という点では、性善説の孟子さんの考えと一致しているのよ。 だから、イジメをする奴は人間ではない。人の皮をかぶったケダモノ。 それを見て見ぬふりをするヤツも、ケダモノ次元の心性だ~。 イジメは、如何なる理由があろうとも、絶対に認めてはならないのだ!! ☆性悪説の方が正しい気がする ◇ですね。 人間は本能やそれに基づく欲望を生まれながらにもっているので。 しかし、これは《性悪説》の一面しか見ていないと思います。 荀子さんの主張の主眼は、《性悪》ではなく、この前提にから導かれた結論の方なので。 いやまぁ~、人間は本能や欲望といったものの他に、 脳にミラーニューロンとか共感機能を有していますので、 まったくの《性悪》だとは思いませんけれど。。。

su-darabusi
質問者

お礼

回答の投稿、ありがとうございます (お礼の遅れたことをお詫び申し上げます。急な出張で、インターネットどころか電気さえも ままならない僻地にいましたもので) >質問者さんは、《性悪説》をちょっと誤解してない? そうかもしれません。凡人の悲しさで、一人で考えたり調べたりしていると必ず脇道にそれます。 >欲望を人為的に抑え、ココロを矯正しなければならない これを大義名分として戦時中にどのような教育が行われたかを考えると、「性悪説の方が正しい気がする」ものの、主張はしたくないという気もします。 (凡人らしく、話が脇道にそれました・・・笑)

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