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江戸時代の江戸という街

時代劇が好きなので大岡越前の再放送ドラマなどを良く視聴します。 大岡裁きで、江戸10里四方所払いなどのお裁きがあるのですが 当時の江戸の街はどっからどこまでだったのでしょうか。 江戸時代と言っても巾が大きいので、大岡越前の居たころの徳川吉宗の頃の江戸で 江戸の街の広さを知りたいです。

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  • ultraCS
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回答No.4

江戸の範囲は、品川、板橋、千住、四ッ谷大木戸の内より追放です。 なお、所払いは、今済んでいる町内から追放される(住めないだけで入るのは自由) http://www.page.sannet.ne.jp/e-furu/komonjyo/mamechishiki.htm#%8D]%8C%CB%82%CC%8CY%94%B1 他にこんな区分もあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%82%84%E3%81%99 この「かねやす」のある本郷三丁目交差点から本郷通りは北に向かって緩やかに一旦下がってから、上がっており、それぞれ見送り坂、見返り坂と呼ばれています。太田道灌の時代はここが北限だったようです。 http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a050166.htm

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  • hekiyu
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回答No.3

はっきりしなかったのです。 中国の都市というのは、城壁に囲まれた 範囲、ということで、はっきりしていたの ですが、江戸の場合は、そんな壁はありません。 江戸城築城以来どんどん拡張していって、 その境がはっきりしませんでした。 それで地図に朱色の線を引いて、ここから こっちが江戸、と定めました。 1818年のことです。 これを「朱引(しゅひき)」と言います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BC%95

noname#185504
noname#185504
回答No.2

江戸は、千代田区を中心として、18世紀の頃は、おおよそ東は亀戸(かめいど)、西は新宿、南は大崎・南品川、北は千住・尾久(おぐ)辺りの範囲内、らしいです。ざっと、半径5kmぐらいだとおもいます。 一里=4kmとすると、十里=40km、ざっと十里四方を半径20kmとすると、江戸の街の外れから15kmは離れなければならないので、江戸の街が直径10kmであることを考えると、江戸の街の外れから、さらに、軽く江戸の街一つ分以上、最低でも離れなければならないことになるのではないでしょうか。江戸の街に近づくこともならぬ、という御沙汰なのでしょうね。

回答No.1

神田や日本橋、八丁堀までが江戸の中心街で、江戸の中期には隅田川の「川向う」と呼ばれた本所・深川(現在の江東区、門前仲町周辺)を大開発して江戸が発展したようですね。 大江戸という広い地域は、八百八町といわれ、北は千住の宿場から南は品川宿までを含んだようです。 ===引用=== 東…中川限り 西…神田上水限り 南…南品川町を含む目黒川辺 北…荒川・石神井川下流限り これは、寺社勧化場(2)と札懸場(4)の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。 現在の行政区画でいえば、次のようになります。 千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区 ===引用終わり===

参考URL:
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm

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