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本能寺の変

shirouudaの回答

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  • shirouuda
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回答No.4

秀吉の中国攻めの報告書が信長に届いたのは、5月15日です。ですから、光秀の出陣や信長の6月1日の本能寺宿泊は、5月15日以降に決定されました。本能寺の変は6月1日の深夜から2日の早朝。その間、安土にいたり、丹波にいたり、愛宕権現にいたりした光秀と、どのようにして「黒幕」は打ち合わせをしたのでしょうか?携帯電話はありません。刻一刻と居場所を変えていく光秀に手紙をダイレクトに送ることすら困難。手紙を持った密使は光秀を捜すだけで時間をかなりロスしてしまいます。密使は、「明智殿はどこですか!」と叫ぶことすら困難なのですし。 現代に例えれば、刻一刻と移動する「実行犯」と、手紙だけで「黒幕」は打ち合わせをして、首相暗殺を謀るのです。不可能です。可能なのは、実行犯自身が首謀者であり、標的に信頼されている場合のみ。 黒幕説はいろいろありますが、どれも証拠の無い想像でしかありません。 秀吉軍の多くは、秀吉の家臣では無く、信長の家臣を秀吉に預けられているだけです。ですから、信長の急死は、秀吉軍の解体の危機。普通は、滝川軍のような解体を防ぐだけで手一杯でしょう。 光秀は、本能寺の変後、「50~100日で近国を平定する。」と豪語しました。近江の阿閉氏や若狭の武田氏は光秀に味方し、大和の筒井氏も一度は光秀側で参戦しています。秀吉の帰還後に裏切りましたが。(洞ヶ峠の件は創作) 短期間に、光秀は近国を制覇しつつあり、近江の諸城で、柴田・徳川を足止めすれば、「天下」はどうあれ、「畿内最大の独立した大名」になれる可能性はありました。秀吉が早く帰って来なければ。 毛利宛の密使が秀吉軍に捕まった、という話は甫庵信長記の創作でしょう。織田家の大軍の指揮官で高位の外交官でもあった秀吉と信長近辺の間に、早馬等の連絡手段が確立されているのは当たり前。今日、電話線の引かれてない支店が無いように。本能寺の変を知った後の秀吉のすごさ。 1,秀吉軍の家臣の多くは秀吉の家臣では無い。信長の家臣を借りているだけ。この仮家臣団の解体を防いで、戦国大名として自立する政治的力量。 2,「信長様は生きている」というデマ手紙が残っている。このデマで、光秀の謀反の失敗を印象づける宣伝能力。 3,移動に時間のかかる全軍では無く、一部の足の速い部隊だけで、畿内に帰還し(天正記による)、畿内に残る諸将に、「織田軍の代表は秀吉」と印象づける。摂津の諸将と四国遠征軍を吸収して、数の力で明智軍を圧倒。(天王山も創作) 秀吉は、綱渡りを成功させました。連続ホームラン。しかし、野球に「ホームランを打つ」なんて作戦が無いように、こんな綱渡りの成功を予定した陰謀はあり得ません。秀吉も黒幕では無いということです。 ☆黒田説も×。黒田は有能でしたが、その活躍は黒田家の創作も多く、その伝説は割り引いて聞かねばなりません。臣従した期間と立場からして、蜂須賀以上、秀吉以下の人物でしょう。そんなに有能なら、信長・秀吉に付く前に、独力で播磨を統一してますって。

naoki4865
質問者

お礼

事件で得をした人物が怪しいと思えば秀吉説もすてがたいのですが偶然が重なりすぎているので。。。やはり彼は運も味方だったのでしょうかね?ある意味面白い偶然だと思います。ありがとうございました

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