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本能寺の変

そもそも明智光秀が信長を襲った理由とは何なのでしょうか? やはり怨恨説でしょうか? それならば、何を恨みに思っていたのでしょうか?

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  • eroero1919
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回答No.6

本能寺の変は戦国最大のミステリーであり、その謎が解かれることは永遠にないでしょう。通常、明智光秀の単独犯行説が最も広く知られている説でしょうが、これはJFK暗殺がリー・オズワルドの単独犯行だとする説くらい信用できません。 この話についてはまるまる本が一冊書けるくらいですが、分かりやすくするためにいくつかのことを書きます。 ・光秀は明らかに謀反を予告している 光秀が信長に命じられて秀吉の応援に向うとき、有名な「時はいま、雨がしたしる皐月かな」という句を詠んでいます。雨は「天」に通じ、まさに今が絶好だぜというように聞こえます。実際、その場にいた僧侶が慌てて関係ない意味になるような下の句をつけています。 ・明智軍から誰も逃亡兵が出ていない よりにもよって天下人にリーチをかけている人物への謀反です。しかも明智軍は夜間に移動しています。誰かが逃亡して信長へ通報してもおかしくないですが、信長とその近習は全く気づきませんでした。さらに、突然の方向変換と謀反の決断に光秀の家臣団が動揺した様子が全くありません。少なくとも、光秀の側近にとって「敵は本能寺にあり」は事前に知っていたことなのです。そして光秀の側近から光秀への裏切りは一切出ていません。 ・公家の動きが明らかに怪しい 光秀はかつて足利義昭の家臣であり、京都政界(足利家や公家、天皇など)に非常に強い人脈を持っていました。謀反後は、京都で公家と会い、その公家の記録によると「謀反について大いに語り合った」とあります。公家衆は、少なくとも光秀謀反に対して敵対心や恐怖心は持っていなかったことが明らかです。後に光秀が山崎合戦で敗れて秀吉が京都に乗り込んでくると日記を改ざんしたり破り捨てた公家がいました。 ・家康の動きも明らかに怪しい 本能寺の変当時、大阪にいた家康は変を知るや直ちに伊賀ルートで三河に帰国します。いわゆる「神君伊賀越え」です。しかし、行動を共にしていた旧武田家家臣の穴山梅雪は変の混乱で暗殺され、家康はまるで用意されていたかのような速さで脱出します。家康は変の直前に光秀に会っています(有名な饗応役)し、伊賀は信長にかなり徹底的に攻められた「反信長感情の強い土地」でした。それはある意味家康にとって安全なルートだったのかもしれません。 他にもいろいろありますが、本能寺の変は明らかなクーデターであったと思います。光秀はその実行役であり、裏に黒幕がいたことは間違いないと思います。ではそれが誰だったのか?それは永遠の謎です。 本能寺の変の直前、織田信長は突然官位を返上しています。つまり本能寺の変のときの信長は朝廷の位を持っていませんでした。もちろんそれゆえに天皇と面会することはできませんが、逆にいえば信長は天皇の家臣でもないということです。朝廷は慌てて藤原家の最高官位である関白、平家の最高官位である太政大臣、源氏の最高官位である征夷大将軍のどれでも好きなものを持っていけといい、信長はどれも要らないと断っています。 日本史上天皇家から好きな官位を持っていけといわれたのは私が知る限りは信長だけです。しかも、それを信長は断っています。超ドライで超合理主義者の信長にとって官位をもらうということは自分が天皇の部下であることを認めること、そして実際の天下人は自分であるということだったと思います。そこから先信長がどう考えていたか知りません。しかし、安土城には本丸の隣に立派な宮殿があったことが判明しており、その宮殿の規模から考えるとそこに住むにふさわしい人物はひとりだけのようです(ちなみに信長は本丸内で生活していた)。

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  • jamiru
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回答No.11

どうなんでしょうかね。 恐らく、多くの情報が錯綜して一体誰が味方で誰が敵なのか分からなかったのが本能寺の変だったと思います。 ただ、分かりやすかったのが明智光秀だった。 「み、光秀の謀反じゃ!!」は誰が言っても説得力があった。 タイミング良く大軍勢を引き連れてなんて流言されればオシマイです。 織田信長が小粒にやられたとは言えない。 もっと強大な敵に倒されなければならない。 その強大な敵を倒してこそ織田信長の後継者と天下に知らしめることが出来る!! 本能寺の変で最も近くに居た大名クラスで優秀な人間は光秀以外に存在しない。 しかも、織田軍団において最も出世がすさまじいばかりか謀反する力も持っているし、謀反を起こす動機も無いわけではない。 頭の良い明智光秀が理解できぬはずは無い。 頭が良い故に謀反人であると自ら信じ込ませて突き進んだのかもしれません。

  • kimari14
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回答No.10

この質問、過去に何度ここに登場したことでしょう。 市場の歴史作家も歴史読み物作者もいろいろの仮定で書いていますよね。どれも本当かもしれませんし、どれもカスッていないかもしれません。これだという資料がのこっていないからですが、光秀が詠んだ句がそれを表しているとか、折檻されたとか、今の領地を没収され、波多野に人質として出していた母?を信長のために殺されたとか、怨念のせいだとかね。折檻なんか秀吉もしょちゅうでしょ、領地没収もなんら問題ありませんし、四国の窓口としての顔を秀吉に取られたとか、いろいろかかれていますが、江戸時代の主君と家来の関係ではなく、下克上の風情が色濃く残っている時代ですから、隙があれば、終わる者でしょう。 信長の民政は郡を抜いて優秀ですので(自由市場経済)、民の声に答えるためのものではないことだけは確かですね。 いわゆる権力闘争でしょうかね、朝廷は武家とはいつも仲が悪いですから、100年のこどく、政権奪取は妄想していたでしょう。ですが、当時の信長に歯向かう骨のあるものは見当たりません。ただひとりだけ上げるなら、近衛前久ぐらいでしょうか。 信長を騙殺したい輩は星の数ほどいたでしょうが、鍛え抜かれた馬廻り親衛隊(7000騎)世話者を加えますと、28000人規模の直属部隊を擁する王に、織田方面軍のだれも太刀打ちできません。 今と違って、誰がどこにいるということも、わかりませんからね。 本能寺に討ち入った福知山の兵の中に本城惣ェ衛門という武士が、後日の取調べでの供実調書が残っていますが、それに拠りますと、本能寺にいる家康を殺すためと、光秀の弟の明智秀満、斉藤利三にいわれていたそうです。最初から最後までです。敵は本能寺にありではなく、信長の盟友家康を亡き者にするという、たれでも納得のできる理由を兵に通達していたということです。 それから、この武士は首を2つほど取って秀満にその場で槍を褒美貰ったともいっています。もちろん夢にも右府様がいるなどということは思いもよらなかったともいっています。 本能寺の真向かいは京都所司代の村井定勝の屋敷もあり、本能寺を取り囲んだものの、すぐ討ち入ったのではなかったようです。肝心の光秀が現場におらず、探すのに時間がかかったようです。現場は相当混乱していたはずで、定勝もなにがなんだかわからず、それらの兵に混じりながら二条城へといっています。京都は今のように密集していづ、閑散としていたはずですのに、なんとしたことでしょう。 なんかの手違いか、手違いを装うように、仕組まれた策謀でしょうか、 光秀が首謀とはとてもおもえません。

回答No.9

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>やはり怨恨説でしょうか?それならば、何を恨みに思っていたのでしょうか? そうですね。「怨恨説」は有名な話ですね。 (1)天正10年(1582)3月、甲斐の武田勝頼を滅ぼした際、光秀が、 「我々も骨をおつた甲斐があった」 と、戦勝を祝った時、信長が、 「貴様が甲斐で何をしたのか」 と、光秀の頭を欄干に打ち付けて諸将の前で「ハジ」をかかせた。 (2)同じく天正10年、織田家の家臣の稲葉一鉄の家臣であった斎藤利三は主人の稲葉と意見が合わず浪人となった。しかし、その利三を光秀が召抱えたところ、稲葉一鉄は急に惜しくなり、信長を通じて、利三を返すよう訴えた。そこで、信長は光秀に、 「光秀、利三を稲葉に返せ」 と、言ったが、光秀は、 「私は、一国を失っても、大切な家臣を手放すつもりはありません」 と、答え、信長は怒って、 「わしの命令が聞けぬのか!!」 と、一喝、それでも光秀は、 「返しませぬ」 と、言い切ると、信長は、 「聞けぬのか!聞けぬのか!」 と、光秀の髪をつかんで床の間を引きずり回したあげくに、廊下の柱に何度も顔を打ち付け、居並ぶ諸将の前で、またしても「ハジをかかせた。 (3)天正10年5月15日、家康が安土城を訪れた際、接待役として光秀が任命されたが、光秀は当時、亀山城の城主で、琵琶湖湖畔でめずらしい「鮒鮨(ふなずし)」を膳に乗せて出した。 この「鮒鮨」は、鮒と塩とご飯を混ぜて、重しを乗せて醗酵させたもの。味は美味なのだが、いかんせん、匂いが「腐った匂い」がする。 初めて食べる信長と家康は、顔をしかめる。そして、信長は、 「このような腐ったものを出すとは何事か!」 と、怒鳴り、光秀の顔を扇で殴る。 「いえ、これは琵琶湖湖畔の名物の品でございます」 と、光秀が応戦。 丁度、その頃、秀吉が備中の高松城攻めにてこずって、援軍要請の書状が届き、信長は、光秀を接待役から降ろし、 5月21日、 「秀吉の援軍として出陣せよ。なお、その方の亀山の領地は召し上げる、その代わり、因幡の毛利の所領を与える」 と、下知。 因幡の毛利豊元は信長が次に攻める相手。 つまり、光秀には、毛利を倒したら、その領地を与える、というもの。 光秀は、この時点で領地はなくなってしまった。 これらを怨恨として、本能寺の変が起きた・・・。 と、まあ、天正10年だけを取り上げても、このような「推測」がされています。 まだまだ古くからの「推測」はあり、真しやかに語られていますが、「真意」は誰にも分からないのがミステリーで良いのではないでしょうか。 また、 「信長は明智光秀に殺されたのではない!!」 という説も、ささやかれています。 (1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。 <1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。 <2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。 <3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。 <4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。 <5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。 <6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。 <7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。 <8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。 <9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。 <10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。 と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。 <11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。 (2)では、誰が信長を殺したのか。 <1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。 <2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。 <3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。 (3)では、なぜ、イエズス会だったのか。 <1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。 <2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、 「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」 と、ある。 <3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。 信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、 「この石を神と思え、わしと思え」 と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。 (4)本能寺の発掘調査が物語るもの。 <1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。 <2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。 <3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。 <3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。 (5)イエズス会のバックボーン。 <1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。 <2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。 <3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。 (6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。 <1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。 <2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。 <3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。 あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。

noname#102013
noname#102013
回答No.8

素人の色んな話のお取り寄せですので、宜しくです。 ○近衛前久<コノエサキヒサ>が、黒幕説?! ○足利将軍家の隆盛の為には、信長が邪魔だから。 ○明智家の先祖:土岐<トキ>一族の復興の為にと、天下統一の目論見。 <時は、今>の句は、<時→土岐>となる。 ○家康か、秀吉の差し金。

回答No.7

理由は嫌いだったからでしょう! 戦国武将と言うと何かと超人的なイメージで話されますが、知能などは現代人の方が遥かに高いわけで、もっと単純に考えるのがいいと思います。 『嫌い、ムカつく、チャンス、怖い』などの入り混じった感じで襲撃を決行したんではないでしょうか。 江戸時代の人間と現代人の情報量の例えで、江戸時代の一生は現代人の1日といわれますが、それ以前の戦国期ですのでよくある下剋上でしょう。 他の武将の下克上は流されるのに対し明智だけは必要以上に妄想が多いと思います。 連歌の会の明智の発句は、連歌師が専門家の目で見ると良く言われている謀反の予告を含ませている句には見えないらしいですし。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

本能寺の変 四二七年目の真実 明智 憲三郎 (単行本 - 2009/3) これが面白かった。 最近の本では、だれも怨恨説なんて唱えていないように思うが。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.4

畿内の大名の指揮権を与えられていました。 そこに世辞の上手い家康が登場し 光秀は大大名とおだてられ、知略と武術の双方を賛辞され 取れると誤認したんです。ーー;

  • mrps
  • ベストアンサー率20% (14/70)
回答No.3

わたしはズブの素人ですが、、、、 秀吉に嵌められたんではないのですか? 光秀も信長も  そのあたりの証拠は焼失して もうないので答えは皆謎のままでしょうが 単純にその後 だれが得をしたか? なんで秀吉が猛ダッシュで本能寺にいけたのか? (単純に八百長してたとすると納得いくのですが)  容疑者としたら やはり秀吉で  光秀の動機は だまされたから  が素直なところなのでは?

  • j-kachimi
  • ベストアンサー率35% (48/136)
回答No.2

難問です。例えば光秀の気持ちが書いてある自筆の手紙でも発見されれば別ですが、これは日本史の永遠のなぞですね。 私は単純に天下を獲れるチャンスがあったからばくちに出たのではないかと思っています。この時代の人はみんなそうだったんではないですかね。 江戸時代なら主君を裏切るのは悪いことですが、戦国時代ですから食うか食われるかです。そういった倫理観はまだ無かったと思います。 怨恨説は小説的には面白いけど否定的な意見が多いですね。

  • matumotok
  • ベストアンサー率35% (431/1203)
回答No.1

こんにちは。 実に面白い質問です。他の方の回答もとても楽しみです。 さて、私の根拠の無い妄想を展開したいと思います。他の回答者の方に叩かれることを承知の上で。 私はどうも光秀が自己の感情で動いたようには思えないのです。自己の感情で動くのであれば、もう少し用意周到にたちまわったような気がします。でも、実際には何の計画性も無く、家康も誰もかもを明確に敵に回す行動を取りましたよね? 勝てるはずがありません。キンカ頭はそんなに馬鹿だったとは私には思えません。 足利将軍家あるいは公家から、信長が本能寺に入った隙をつけとの急な命令でも入ったのでしょうか? その命に従わないことは、(愚直な)光秀にとってはあり得なかったのかもしれません。さらに、成功の折には丹羽、柴田、滝川そして細川が貴殿(光秀)の味方をするように話をつけてある、と言われていたりして。信長の言うことは信用しなかった光秀でも、公家や足利から言われたことは盲目的に信じきったのではないでしょうか。もちろん丹羽柴田滝川が翻意するなどなかったことは歴史が証明していますがね。細川は、、、うーん、微妙です。 以上、学が浅い者の妄想でした。他の回答者の方のご意見が楽しみです。

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