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本能寺の変がなかったと考えてみる

明智光秀が京都との密約に失敗して本能寺の変が なかったか、あるいはさらに先送りされて結局の ところ信長が死ななかったとしたら織田幕府が出 来ていたでしょうか。 信長なら鎖国などしなかったと思いますが、今の 日本はもっとと言うか違う方向でアジアに優位を 保っていたでしょうか。

みんなの回答

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.6

信長が本能寺の変のときが奇しくも49歳。当時の年齢を考えれば寿命は15年くらいでしょうか。 信長は確かに極めて優れた先進性と合理精神の持ち主でしたがそれはあくまで「信長本人だけ」の話です。信長という人はいつの時代に生まれてきたとしても早すぎた人です。400年たった現代でも、ほとんどの日本人は信長の超合理精神にはついていけません。 他ならぬ信長イズムを最も身近で見ていた秀吉でさえ、豊臣政権となるとキリスト教の禁止などの措置をとります。日本人の精神性には本質的には一神教はそぐわないんです(日本で布教していたキリスト教も神(デウス)を大日如来と訳することでようやくまともな布教ができるようになりました)。 おそらく、ですが、信長の死後にいわゆる織田幕府が徳川幕府のような長期政権になったとしたならどこかで徳川幕府と同じような鎖国政策にシフトしていったと思います。日本人そのものがそこまで活発に植民活動をしたがらない民族性だからです(引きこもりは日本独特であるとか)。 現代でも、日本人は移民をアレルギー的に嫌がります。ですから、仮に信長イズムによって諸外国との交流が盛んになったとしても、どこかで保守への回帰現象が起こって鎖国化への路線をとったのではないかと思います。つまり、改革路線は信長一代で終わったと思うのです。小泉改革が今はすっかり終わって保守福田内閣になったように。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.5

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。  信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられます。  天下布武の思想からは、幕府という武家連合政権よりも、中央集権国家がよりふさわしいと思われます。  信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。  宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。  商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。  農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。  今の自由主義に基づく、貿易・経済活動を目指していたと思われます。  また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開したと思われます。  更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。  信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)  新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。  

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

>織田幕府が出来ていたでしょうか。 について、とんでもないと答えますが、その理由は下の方で書きます。 先ず明智光秀について、彼は日本の産み出した最大の悪人と見る見方と、人類の産み出した大英雄と言う見方の両極端の見方がありま得ます。 先ず、なぜ大悪人かと言うと、信長の先進性は抜きん出たのもがあり、その当時日本は海外にどんどん進出して、インドネシアまで行っておりました。信長の積極性から見て、もうちょっとでオーストラリアを日本人が発見出来たかもしれません。もしそうだったら、今頃オーストラリアには日本語を話す人達が、ちょうどアメリカがイギリスから独立したように、日本から独立して、大国家を造っていたかもしれません。そうすれば、後からやって来たイギリス人等がオーストラリアを手に入れるチャンスは無かったはずです。そんな機会を光秀のお陰でなくしてしまったので、光秀は日本史上最大の大悪人だと言う説です。 一方、光秀はなぜ人類の大英雄かというと、日本は鎌倉時代以降全国的にドングリの背比べで、絶対的な権力を握った豪族が出て来ませんでした。そこで、こんな互角な豪族をまとめるために、中国にも朝鮮にも存在しない、幕府制度という「封建制度」を自前で発明しました。封建制度とは、中央集権制度のように一国にたった一人の王や皇帝がいる制度ではなくて、ドングリの背比べの王を司る、王の王(日本では将軍と呼ばれている)と言う王がいる制度です。 封建制度では、各王なり豪族は、その土地や住民を直接所有しており、これは決して王の王に属しては居りません。したがって、封建制度下では王の王に代表される国家権力でも介入出来ない「私有財産権」と言う概念が出て来ます。これは、中央集権制度のように全ての国民が直接王や皇帝に属している制度では、出て来る概念ではありません。 注目すべきことは、私の拙い知識によると、少なくともここ2000年の歴史の中では、この封建制度を安定期に存続させたのは日本と西欧だけらしいのです。これは、人類史の中で例外の例外に属し、他の民族はどうやらほとんど全てが、中央集権制度でやって来たらしいのです。そして、近世にこの例外に属する西欧と日本だけが、私有財産権をその中心概念に置いた資本主義社会として目覚ましい成功を収めてきました。この成功は、これらの社会がそれ以前に、中央集権ではなくて、封建制度としてやってきたことに深く関係してると考えております。 このドングリの背比べを破って、平安時代以降の天皇制による中央集権的国家統一の崩壊後、日本を中央集権国家に復帰させる実力を持った者が現れた唯一の機会が、信長だったと思います。幸運にも光秀によって、信長の野望は夢半ばで破れ、織田幕府ではなくて、天皇家に取って代わる織田天皇による中央集権国家という、世界で何処にでもある中央集権国家の成立を防いでくれたのが、光秀だったとも考えられます。 その結果、明治以降、西欧に期して、ロシアなどの西欧国家を戦争で破り、アジア人のみならず、全世界の被植民民族の人々に希望を与えることの出来る日本が出来たと言う意味で、光秀は人類における大英雄の一人だと言うことも考えられます。 ですから、光秀の暗殺が無かったら、織田幕府など出来ず、天皇家断絶、そして織田天皇が出来ていたと考えます。

  • komes
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回答No.3

信長が死ななかったら、おそらく織田政権ができたでしょう。 これを幕府とみるか、織田朝とみるかは論議の対象で不明です。 海外貿易は莫大な富をもたらすので徳川幕府の鎖国はこれを独占する意味もあったのです。 したがって信長の経済感覚から見て彼もいつかは鎖国的政策をとったとおもわれます。

回答No.2

豊臣秀吉も徳川家康も国際貿易はむしろ奨励していたほうだと思います。 鎖国政策はその後に固まっていったものなので、織田信長が不老不死で 無い限り、その没後には鎖国にならなかったとは言えないと思います。 織田信長が将軍職を狙っていたかというとその辺は要検討だと思います。 一説では朝廷が武士に官位官職を与えることでその権威を保とうとする 体制に必ずしも従順でなかったことが信長が誅殺された要因という説も ありますから。

noname#140971
noname#140971
回答No.1

「歴史の法則(必然)は偶然なる事件を媒介にして実現していく」を考えれば、結局は同じことに。 そもそも、江戸幕府の鎖国政策は幕藩体制の財政的基盤を確立するための政策。 薩摩藩などに自由貿易を許せば、それは諸藩の財政的基盤が強化されるのは必定。 ですから、鎖国政策も相対的に幕藩体制を強化する諸策の一つでしょう。 貿易権限を諸藩から奪い幕府の専権事項とするなんてのは、まあ、当時の封建政府の常套手段。 ですから、結局は同じことになったと思いますよ。 織田信長という一人の武将のキャラクターよりも歴史の法則(必然)が優先すると考えるのが筋。 そういうことじゃーないでしょうか?

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