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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神武東征。最初から大和を目指したのか?)

神武東征:最初から大和を目指したのか?疑問について考察

kwefayaの回答

  • kwefaya
  • ベストアンサー率28% (2/7)
回答No.1

1.豊葦原の中つ国は、高天原から大八嶋を指すときにだけ使われる呼称であり、海岸を葦に縁取られた緑豊かな土地を天上から見下ろしたときの呼び方なのだと思われます。古事記の描写は非常に色彩的・立体的で、霧島山(クシフルシマ)への降臨もヘリコプターを使ったかのようなビジュアルな記述がなされていますね。あたかも宇宙の生命体が地球に到達した時の情景かと思われるほどです。だから中つ国も筑紫島や大和ばかりでなく、大八洲全体を指す呼称ではないでしょうか。 2.ニニギノミコトからウガヤフキアエズノミコトまでの時代は、地上を和す方策として、言向けのような非武力的な方策が取られていたように思います。それはスサノヲノミコトの暴力に怯え、天岩戸に籠ったほどの天照大御神の御神勅によったものではないかと想像されます。その結果、書紀によれば180万年近くの年月が絶ち、先に高天原から下された神々の統治も乱れていたので、いよいよ「神武東征」という武力の発動に至る訳ですが、神武天皇ご自身が英雄として活躍されたというより、多くの神々や動物達の手助けにより、大和に天下統一の拠点を切り開いた、という物語になっていると思います。  神武の漢風諡号も、天皇なる尊号も7世紀に贈られたもので、東征の御名のサヌノミコトのサノは「稻(さ)野」であり、そもそもニニギノミコトが今の鹿児島県‥宮崎県南部一帯を指す日向に降臨されたのは、文字通りに日に向かう国だからであり、初めは軍略的要衝である薩摩半島にかささの宮を置き、次第に薩摩半島南部→大隅半島→宮崎県と平野を求め、稲作を広めていったものと思われます。 3.いわゆる魏志倭人伝に出てくる女王国の南に狗奴国というのがありますが、この狗奴国はクマソの音訳ではないかと思っています。魏志倭人伝を「普通」に読むと、邪馬台国は北九州の南に船で行くように書かれていますし、実際、遣唐使なども北九州から薩摩半島の坊津経由で直接シナに渡っています。九州を南に回る航路は一般的だったと思われる。 そして、人口の多い女王国は広い平野の近く、温暖な稲作の適地にあったはずだと考えると、今の宮崎県か大隅半島の北部にあったと考えるのが自然で、そうなると女王国の南にあるのは大隅半島南部、つまりクマソ、後の隼人と呼ばれる種族の国であったと考える他はありません。(もちろん宮崎県南部や薩摩半島もクマソ、隼人の国ですが) 南九州は戦国末期に島津貴久が統一するまでは乱れに乱れており、下克上は日常茶飯事でした。女王国と狗奴国もクマソ同士の抗争であったのかも知れません。 神武天皇の日向時代、南九州はある程度の和平が成り立っていたかも知れませんが、それは安定的なものではなく、その後も平安時代に至るまでクマソ・隼人は朝廷にたびたに反乱を起こしていますね。いわゆる日向三代の時代は、後の貴久の三州統一のような武力統一ではなく、後の大和朝廷の全国支配と似たような婚姻と言向け和す方策によったのではないでしょうか。

kamobedanjoh
質問者

お礼

早速のご回答有り難うございます。 1.豊葦原の中つ国が大八洲全体を指すとのご意見,承りましたが,豊葦原の瑞穂の国はどのように位置づけたら良いのか迷います。ナギ・ナミ二尊の生みなした大八洲は最初に淡路島(子の数に入れず),続いて豊秋津洲,伊予の二名洲,筑紫洲,隠岐島と佐渡洲を双生に,越洲,大洲,吉備子洲と書かれていますので,幾らかニュアンスの違いを感じます。 2.「大和に天下統一の拠点を開いた」とのご意見,大いに頷けます。 3.「宮崎県南部や薩摩半島もクマソ・隼人の国」で「乱れに乱れていた」と言うことは,その地に居たたまれなくなって逃げ出してしまったものかと考えてしまいますが,それだと,大和の方がより平穏で居心地良く,平定も容易であったと思えます。念のため申し添えますが,鹿児島を薩摩の首府と定めて居城を構えたのは島津氏。それ以前,薩摩国府は現在の薩摩川内市に有りました。 また,クマは球磨川流域,ソは阿蘇カルデラ地域を指すものかと思っていました。 お礼に加えて私見を加えさせて戴きましたが,神代に近い話しは所詮空想の世界ですから,特に論争を目論むものではありません。 ご意見は尊重し,参考にさせて戴きます。 重ねて,有り難うございました。

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