神武東征:最初から大和を目指したのか?疑問について考察

このQ&Aのポイント
  • 神武(カムヤマトイワレビコ)が日向を発して東征した下りは、記紀における神話的な物語性に富む話題である。
  • ニニギ降臨から大和のイワレの地に至るまでには、相当な年月と闘いがあったと考えられる。
  • 大和の地での反発勢力があったとすれば、その主たる勢力は何だったのか疑問である。
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神武東征。最初から大和を目指したのか?

皇孫ニニギノミコトのまたの孫,カムヤマトイワレビコ(神武)が日向を発して東征した下りは,記紀共に物語性に富む神世語りとして,読者の興味を引く話題であろうと思います。 此処で疑問があります。ニニギの時代以前,アマテラスとスサノオが登場する頃には既に稲作が導入され,良田を相争い,金属製(青銅器)武器が用いられる模様が記されていることから,既に弥生時代の物語であろうと推測されます。 ニニギは早くから豊葦原の中つ国を治めんべく日向に拠点を構えましたが,神武東征の果ての宮処(みやこ)は,大和のイワレの地とされています。 1.中つ国とは,大和の地のことなのでしょうか? 2.ニニギ降臨からここに至るまで,可成りの年月を要し,幾多の闘いを経ていますが,強大な反発勢力があったのでしょうか? 3.反発があったとすればその主たる勢力は? ご意見をお寄せ下さい。

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  • hideka0404
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回答No.3

>>その地には,たまたま事代主の娘ヒメタタライスズヒメという美人が居て ま~たまたまではないでしょうね。 先にも述べましたが、この地は元々沢山妾を抱えて殺されたオホナムチの子孫の支配下地域です。 この時の君主はニギハヤヒであり、ニギハヤヒはニニギの兄のアメノホアカリの子供です。 つまりは、ニニギの時代に後継争いの末、アメノホアカリは東へ亡命したと思われます。 この地には遠縁のナガスネヒコがいて、嫡子ノアメノホアカリに正当性を見たのでしょう。 妹のトミヤビメをあてがい仕えます。 しかし敗戦で、ニギハヤヒが裏切ると、ナガスネヒコは見限ります。 ここで処刑されたことになっていますが、実は陸奥(エミシ)の地を頼って落ち延びたと思われます。 ここからは僕個人の私見ですが、ナガスネヒコはオホナムチの子孫であるので、優れた鉄精製技術の知識があったと推察されます。 ナガスネヒコの氏族の物部氏は武士であり、その後の大和朝廷で、神事から軍事まで行います。 こういう軍事政権化では、時々裏切り者が出てきます。 タカクラジがそうであり、窮地のカムヤマトイワレビコ軍に武器(鋼鉄製の剣)を提供して手引きしたものと思われます。 カムヤマトイワレビコとしては、この優れた軍隊そのものが重要だったのでしょう。 今までの日向の臣よりも厚遇します。 ナガスネヒコは、私はナガ・宿禰・毘古だと思うので、摂政の位の皇族と思います。 ナガスネヒコは当時から交易でエミシと交流があり、関東・東北から鉄鉱石を手に入れていたと思われます。 関東以東は、アラハバキ信仰の為、異種文化圏でしたが、交易で顔が知れていたのでしょう。 ナガスネヒコを祀ったとされる神社があります。 言葉的にも出雲に似ています。 アラハバキ神は、蛇神であり、スサノオに通じるのもがあります。 蛇=鉄は密着関係にあると思われるので、やはり、ナガスネヒコは東北に逃れたのでしょう。 これは、大和朝廷の執拗な蝦夷討伐に現れています。 カムヤマトイワレビコにとって、ナガスネヒコの再起はあってはならない事態だったのでしょう。 これは平安時代まで続く大事業でした。 ああ・・・祀ろわぬ神まで話が飛んじゃいましたねww ま~こういう推測が楽しいですけどね。

kamobedanjoh
質問者

お礼

再度のご回答有り難うございます。 「東日流外三郡誌」から引用頂けるとは,思いもよりませんでした。 一寸見解の相違がありそうなのですが,書紀によると,ニギハヤヒは天神族であり,ナガスネヒコを殺して,その手勢を率いて神武に奉仕し,その勲功で物部氏の遠祖と奉られる事になったようです。武士を「もののふ」と読むのも,ここから来ていると思います。 ナガスネを殺したと見せかけて,その実は逃がしてやったのかも知れませんね。 ただ,鉄鉱石を手に入れても,製鉄技術を持ち合わせたかどうか? 大和の地で,製鉄・錬鉄工房跡など発見される日が楽しみですね。 倭人伝によると,倭人は盛んに鉄を買い求めていたとか。 日本の製鉄技術はカンナ流しによる砂鉄採取と,タタラ製鉄が主体でした。 アメノハハキリの剣はスサノオが八岐大蛇を斬ったもの,大蛇の尾から出た剣がクサナギ・別名アメノムラクモの剣でした。 鳥取・島根県境にある船通山は,記紀に「鳥上の峰」とも記され,東に流れる日野川と西に向かう斐伊川の源流,両川の中程を安来市に流れる伯太川,これらの水系には,少なからぬタタラ製鉄跡が現存します。この製鉄技術は,スサノオが半島からもたらしたものと解釈しています。 安東氏が十三湊を拠点に中国と交易していた記事には,信憑性が窺えます。十三湊が虚構で無かったことは,遺跡発掘で証明されましたね。鉄器も交易で入手していたかと思われます。

その他の回答 (2)

  • hideka0404
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回答No.2

時系列敵にまアマテラスの時代から百数十万年経っているので、どの時代がどうということではないでしょうが、万年を年ぐらいのスパンで考えれば合点がいく。 ニニギの生誕前に、出雲のオホナムチがヤマトに東征され、山陰から北陸までの出雲国がヤマト(中つ国)に組み入れられたが、その子供の枢軸国は、まだ東夷に存在していた。(関東までを指す) ニニギの時代までは四国を支配下に治めるまでしか至らなかった。 カムヤマトイのワレビコに世代交代した時に、紀伊半島から東に、豊穣の土地(濃尾平野)があると伝え聞きカムヤマトイワレビコは宮崎から出立し、四国・淡路島を経て浪速に上陸した。 しかし、ここで旧出雲のオホナムチの子孫のナガスネヒコの軍に敗走させられる。 戦術的に?であるが、カムヤマトイワレビコは船で紀伊半島を迂回して、津方面から大和を経て、浪速に出る。 背後から急襲されたナガスネヒコ軍は油断していたのか総崩れになり、ナガスネヒコは捕らえられる。 そこで、カムヤマトイワレビコと同祖だと知る。 と読めるので、大和地方は、あくまで関東から九州までの中間という意味で、いちいち宮崎に戻っては治世が立ち行かないので、立ち寄った際に目を付けたのではないかと推察されますが・・・どうでしょう?

kamobedanjoh
質問者

お礼

ご回答に感謝します。 「紀伊半島から東に、豊穣の土地(濃尾平野)があると伝え聞きカムヤマトイワレビコは宮崎から出立し」と言うことは,濃尾平定こそ東征の目的であり,最初に目指した地であったということでしょうか。 「大和地方は、あくまで関東から九州までの中間という意味で」便宜上,たまたま大和に拠点を据えたと解されますね。 その地には,たまたま事代主の娘ヒメタタライスズヒメという美人が居て,正妃としたのでしょう。 小生の意見としては,出雲権力との政略結婚のように思えるのですが。 NO.1さんへのお礼にも,私見を加えさせて戴きましたので,宜しければご一瞥下さい。 無限に解釈可能な大古代の伝説の解釈についてですので,論争する気は毛頭ありません。 視野を広げるための質問です。ご意見は参考にさせて戴きます。 本当に有り難うございました。

  • kwefaya
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回答No.1

1.豊葦原の中つ国は、高天原から大八嶋を指すときにだけ使われる呼称であり、海岸を葦に縁取られた緑豊かな土地を天上から見下ろしたときの呼び方なのだと思われます。古事記の描写は非常に色彩的・立体的で、霧島山(クシフルシマ)への降臨もヘリコプターを使ったかのようなビジュアルな記述がなされていますね。あたかも宇宙の生命体が地球に到達した時の情景かと思われるほどです。だから中つ国も筑紫島や大和ばかりでなく、大八洲全体を指す呼称ではないでしょうか。 2.ニニギノミコトからウガヤフキアエズノミコトまでの時代は、地上を和す方策として、言向けのような非武力的な方策が取られていたように思います。それはスサノヲノミコトの暴力に怯え、天岩戸に籠ったほどの天照大御神の御神勅によったものではないかと想像されます。その結果、書紀によれば180万年近くの年月が絶ち、先に高天原から下された神々の統治も乱れていたので、いよいよ「神武東征」という武力の発動に至る訳ですが、神武天皇ご自身が英雄として活躍されたというより、多くの神々や動物達の手助けにより、大和に天下統一の拠点を切り開いた、という物語になっていると思います。  神武の漢風諡号も、天皇なる尊号も7世紀に贈られたもので、東征の御名のサヌノミコトのサノは「稻(さ)野」であり、そもそもニニギノミコトが今の鹿児島県‥宮崎県南部一帯を指す日向に降臨されたのは、文字通りに日に向かう国だからであり、初めは軍略的要衝である薩摩半島にかささの宮を置き、次第に薩摩半島南部→大隅半島→宮崎県と平野を求め、稲作を広めていったものと思われます。 3.いわゆる魏志倭人伝に出てくる女王国の南に狗奴国というのがありますが、この狗奴国はクマソの音訳ではないかと思っています。魏志倭人伝を「普通」に読むと、邪馬台国は北九州の南に船で行くように書かれていますし、実際、遣唐使なども北九州から薩摩半島の坊津経由で直接シナに渡っています。九州を南に回る航路は一般的だったと思われる。 そして、人口の多い女王国は広い平野の近く、温暖な稲作の適地にあったはずだと考えると、今の宮崎県か大隅半島の北部にあったと考えるのが自然で、そうなると女王国の南にあるのは大隅半島南部、つまりクマソ、後の隼人と呼ばれる種族の国であったと考える他はありません。(もちろん宮崎県南部や薩摩半島もクマソ、隼人の国ですが) 南九州は戦国末期に島津貴久が統一するまでは乱れに乱れており、下克上は日常茶飯事でした。女王国と狗奴国もクマソ同士の抗争であったのかも知れません。 神武天皇の日向時代、南九州はある程度の和平が成り立っていたかも知れませんが、それは安定的なものではなく、その後も平安時代に至るまでクマソ・隼人は朝廷にたびたに反乱を起こしていますね。いわゆる日向三代の時代は、後の貴久の三州統一のような武力統一ではなく、後の大和朝廷の全国支配と似たような婚姻と言向け和す方策によったのではないでしょうか。

kamobedanjoh
質問者

お礼

早速のご回答有り難うございます。 1.豊葦原の中つ国が大八洲全体を指すとのご意見,承りましたが,豊葦原の瑞穂の国はどのように位置づけたら良いのか迷います。ナギ・ナミ二尊の生みなした大八洲は最初に淡路島(子の数に入れず),続いて豊秋津洲,伊予の二名洲,筑紫洲,隠岐島と佐渡洲を双生に,越洲,大洲,吉備子洲と書かれていますので,幾らかニュアンスの違いを感じます。 2.「大和に天下統一の拠点を開いた」とのご意見,大いに頷けます。 3.「宮崎県南部や薩摩半島もクマソ・隼人の国」で「乱れに乱れていた」と言うことは,その地に居たたまれなくなって逃げ出してしまったものかと考えてしまいますが,それだと,大和の方がより平穏で居心地良く,平定も容易であったと思えます。念のため申し添えますが,鹿児島を薩摩の首府と定めて居城を構えたのは島津氏。それ以前,薩摩国府は現在の薩摩川内市に有りました。 また,クマは球磨川流域,ソは阿蘇カルデラ地域を指すものかと思っていました。 お礼に加えて私見を加えさせて戴きましたが,神代に近い話しは所詮空想の世界ですから,特に論争を目論むものではありません。 ご意見は尊重し,参考にさせて戴きます。 重ねて,有り難うございました。

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