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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか)

なぜ生きるのか?ゴータマ・ブッダの思想を考察する

このQ&Aのポイント
  • 人間の存在の意義について問いかけるゴータマ・ブッダの思想は、末法時代においても有効なのだろうか。
  • 生と死の不可解さについて、ゴータマ・ブッダは「生きる理由」や「死ぬ必要性」について言及しているが、これが人間のいのちと存在に対して失礼ではないのか。
  • さらに、寂静や涅槃といった概念についても疑問を投げかけ、ゴータマ・ブッダの思想はどれだけ真実性を持っているのか疑わしさが残る。

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回答No.23

哲学音痴ですが 私の見解も聞いていただけますか? 何故生きるのか? あらゆる生物と同じで、本能的に・・・ ただ、人間はいらぬ知識が有る為、 今回のような議論をよぶのでしょう 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 年頃になれば、Hもするでしょう(おそらくバックで) 子孫が50代目まで行った時言葉は生まれているでしょうか? 農作は始まっているでしょうか 幸せの観念はあるでしょうか、 争いはおそらく起こるでしょう。 争いを戒める為の教えが出てきているでしょうか 共に助けあって生きる教えがあるでしょうか その時に、神が生まれるのでしょうか? いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 解答になってないかもしませんが、 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ちちならべさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  わたしの考えに沿って整理し応答をしてまいります。  ★ ~~~   「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で  人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。  ~~~~~  ☆ おそらくそうなのだろうと思います。  問題は その上で――このような本来の姿が基礎としてあり 現実に生きられているその上で―― 何らかの《生きる意味》を人間は持つようになるのも 実際でありましょうし 《人間の知識により 想像された物(生きる)が今ある》ことも見止めないではいられないことです。  放っておけばよいというのが正解であれば 哲学はその正解の妥当性をも問い続けます。  ★ ~~~~  乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、  彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、  生きる意味も考えることは無いと思います。  ただ単純に生きようとして行くでしょう。  ~~~~~~  ☆ すなわちこの状態から では 生きる意味をどうして問うことになったか? なのだと思われます。  ただちに分かることは 《単純に生きている》とき人は この生きることをも認識するということなのでしょう。生きるという概念が持たれれば その意味をも問い求めるものと思われます。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ そういう習性なのでしょうか。  なぜならその無人島において たとえばキノコがあればそれが食べられるかどうかを知らなければなりません。わるいものを食って消化がわるくなればそれに効く薬草を探したかも知れません。  したがって ひとは 生きることを認識し 単位体としての存在であるわれをも自覚するようになります。  こうして考えて来たとき わたしには人間の心性ないし知性には三つの段階と区分があると見ています。   -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム    0:歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在)   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。      《イリ》なる歴史知性が 《自覚を持って単純に生きている》姿ではないかと思います。それは  ★ 農作は始まっているでしょうか  ☆ というように 農耕を始めることにおいて世界の内に入ったのだと。  狩猟漁労採集で生きていたときから 人為的に食糧となる植物を栽培するという農耕が始まりそこでは その種から実が成るまでの《時間》が経過します。この時間の認識に沿って 世界の認識という行為にも歴史があると見たでしょうし また一人ひとりの存在は かなしいかな やがて死という限界を迎えるという時間過程をも知ったはずです。  世界内存在とは 時間的存在だという意味のはずです。それとしての《わたし》の自覚のはずです。   《ヨリ》なる原始心性のころには アニミズムと現在から見て捉えるのならば 到るところのあらゆるものに精霊を見たのでしょう。みづからの存在の精霊ともつながっていると見たのでしょう。  シャーマニズムでは シャーマンがその精霊じたいに憑依すると言うのでしょうか 意識という意識を脱ぎ捨て取り除くようにして 《脱自》というのでしょうか それをとおして生活に必要で大事なことのお告げを得ようとしたものと見られます。    やがて《わたし》が自覚されて来るなら 世界は晴れ上がり《精霊》にかんしては 大宇宙と小宇宙とのふたつに区分して捉えたのかも知れません。  梵我一如と言われます。  宇宙の主宰神ブラフマン(梵天)と小宇宙たる人間の〔精霊としての〕アートマン(霊我・真我)とのふたつです。  ただしこれは あくまで《神》の世界での話になります。《思考に非ず 経験に非ず》の世界です。   ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この《非思考の庭》におけるたとえば《梵我一如》なのだと見られます。つまり 信仰の問題です。  《イリ》なるふつうの歴史知性にあっては 《信じる》と《考える》とが・つまりあるいは《神と我れとの関係世界(それは 主観内面の世界)》と《経験世界》とが区別されしかもふつうに使い分けがなされると思います。  そこで《ヨセ》なる超歴史知性の問題です。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《格差》の問題そして《神》の扱いの問題に発していると考えます。束ね寄せるというのですから そういう意味での――イリ歴史知性の神とは少し違った意味での――《神》が発明されたのでしょうし 《格差》としては 一般に二階建て構造から成る国家の問題だと見ます。  ふつうの神とは違うというのは ヨセなり知性の神は すでにヨセなる知性人がその神そのものであるか神のこの世での唯一の代理人であるととなえるところにあります。アマアガリしてしまったのです。  社会が平屋建てから成る家であったときには まだ格差はそれとしてあって それが固定してしまうものでもなく流動的であり 程度問題だったと考えられます。    ところが 主宰神ブラフマンをもっぱら祀る役目をになうバラモン僧(ブラフミン)たちは 四姓なる制度を確立しました。生まれが違うのだと説きました。前世からの因縁であると。あらゆる人は梵我一如なる存在であるがこの現世では 固定された身分制のもとにそれぞれの身分に生まれて来てそのように身分を守って生きるのだと。  いや 生まれは関係ない ただおこないのみが 人生と人格を決めるのだとゴータマ氏は言ったのだと思います。  それゆえ アン‐アートマン(無我)をとなえ 《ヨセ》なるスーパー歴史知性に立ち向かいました。アートマンを否定したのなら ブラフマンをも否定します。よって 《非思考の庭》が ゴータマ説では次のようになっているのでしょう。   ゴータマ・ブッダの信仰:無無一如(空観)     無:ア‐ブラフマン(無梵。無い神)     無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂滅)  ゴータマ説が この非思考の庭を捉えた信仰であるかどうか何とも言えませんが もしこうであるとして そのあとどうなったか?  例の四苦八苦があります。病老死のほかに生も苦であると唱えました。《苦》には 悩み苦しみのほかに 思うようにならないという意味もあるようですが なぜ《生》をこの苦に入れて規定したのか? 苦からの解脱と言えば この身と心をゼロにすることだとなりかねません。ニルワーナと言い始めたのですから。  問題は 《格差ないし固定身分制》としての不自由です。それに対する世界観としての問い求めです。  言いかえるなら 《ふつうに自覚を持って生きている》ことの保持にあります。いかに生きる意味を問うたにしても その基礎ないし基本の《生きる》の持続が すでに目的です。飾りは要りませんし いかに精神のいと高きところを目指すにしても――にんげんが神になるというまでの――アマアガリは 無謀です。  言いかえると ゴータマ氏の説は人気を呼び多くの賛同者を得て今にいたりますが 果たしてそれは どういう《生きる》を目指したかに問題はあります。  どういう歴史知性のあり方を説いたか。  果たしてイリなるふつうの歴史知性にとどまっているか?  ヨセなる超歴史知性にかかわっていないか? バラモンの身分制を揚棄しようとするあまりに その《無我説》において・ということは ワタシをどう自覚し扱うかにおいて ひょっとして言わば別種のだがやはり《アマアガリ》を起こしているのでないか?  ゴータマ・ブッダの神格化のことです。  苦からの解脱あるいは無明からさとりに達し明知を得るに到るというのならば ただ単純に《ふつうに我れを自覚し単純に生きる》というイリ歴史知性に立ち帰るとだけ言えばよいはずです。  また無無一如の無神論も梵我一如の有神論も 信仰の類型としては同じものです。神がいくつかあってはたまりません。ただ呼び名がちがっているだけです。すべて非思考の庭として主観内面において成り立っていますし それとしての動態であるはすです。  考えてみれば この質問がゴータマ・ブッダ論になるのなら もっとたたき台をしっかりとしたものとして用意し 初めから原文にしたがうなどをおこなって くわしいやり取りを展開できるようにすればよかったかと思っています。  まだまだ 粗いのですが これからどしどし発展していければよいと思います。  ありがとうございました。  

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その他の回答 (49)

回答No.30

ここまでのやりとり書かれてあるのは、日本語なんだけど… なんか読んでてしっくりこない。とは言え、 しっくりしすぎていたらいたでこれも逆に妙な気持ち悪さを覚える。「ほんまかよー?」と。 なんでかなぁー? キャッチャーが腰屈め、グローブ広げ構え待っている。けれど、投げるボールはグローブを掠めるどころかお門違いなところへと勢いよく飛んでいく。ボールが飛んで行った先に姿なきキャッチャーでもいるのか?と、目をこすって見ても誰もいない。奇妙なキャッチボールだな。なんだろう?この光景は?と首を傾げつつ再度読み返す。あれ?なんなんだろう?「ものは言い様」と言葉が浮かぶ。さらに「言葉は聞きよう」とこれまた言葉が浮かぶ。聞き取り違い、受け取り違い。なんでもないようなことで、齟齬を起こす。これは…もしや…ジャイロボールの練習か?くるくるくる。 「 "ヘア"と"ラビット"の違い 」  http://yomimonokuroneko.sakura.ne.jp/profile/comment-9.html 否定疑問文に対する日本語と独語・英語の考え方の相違 http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/eg1.pdf 【QNo7364127《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?】 http://okwave.jp/qa/q7364127.html?best_flg=true&isShow=open 永遠に生きるかのように学べ、明日死ぬかのように生きろ。 「ものは言い様」「言葉は聞きよう」とこれまた言葉が浮かぶ。 ボールはどこへ飛んでゆく? カーン カーン カーン

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まじめな回答を寄せてくれた人もいます。

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noname#189751
noname#189751
回答No.29

弁慶の仁王立ち・・ ご苦労さまです だいぶ矢の数が増えてきたようですが ご容体いかがでしょう まだ まだ 矢が足りんと 魂の叫びを聞くほどではない と まあ そんな感じでしょうかね (壮絶な最期を期待しているんですが・・) おっとごめんBさん この前、銀の十字架を選ばれたましたね ゴチャゴチャの中から、銀の十字架を選ばれた そのへんから・・ もし 聖書と 銀の十字架のどちらかを選べ と言われたら やはりBさんは 銀の十字架を選びますかね だとしたら 感性的な愛の享受は、概念的な愛の理解に勝る・・と言えるのかもしれない 小さな信仰の「みしるし」は、厚い聖書よりも重い・・ということにもなってくる (無駄な)感性化を必要としない象徴は、直接 心に訴えかけることができる  (そうした有効性というものは、仏教でも同じではないかと思います) 信仰の象徴を持する ということは 持することが、そのまま生きるという事にもなってくる それほどに 信仰の象徴とは大切なものであるように思います ・・こう書いてしまうと ですが Bさんの質問文が透けて見えてしまう といった感じがしなくもない・・ 信仰者の立場からすれば 生きることと信仰とは分けられない・・ その片方を問うことは 両方を問うことになってしまう 生きることを問えば 生かしているものを軽んじ 信仰を問えば 自らの所在を確かめなければならない といった感じでしょうか 胸に十字架を下げ 手に聖書を持って生きる でもそんな 決まりきった姿でなくてもいい せめて 小さな十字架を持っているだけでもいい 自分だけの十字架が なぜ生きる? と問う時に きっと答えを出してくれる 生きることの疑問や嘆きに答えてくれる そんなふうに思います 信仰における象徴の役割というか そうしたところから見た場合を少し言わせてもらいましたが 信仰者は無宗教者に比べて、生きる指針を得るのが早い・・と思います 問題は 「決定打」でしょうね やはり 聖書や十字架だけでは「決定打」にはならない Bさんは 長い長い時間がかかると仰ったが 「決定打」の訪れがいつ来るのか そのへんが問題のようです まあ  長い長い時間とは 「決定打」の後の熟成の期間を指しているとも取れますが・・・ 象徴という感性的サインの有効性については、ごく身の周りに溢れているものですが こちらの面というか、デザイン性から見てゆくと 言葉にしろ、象徴にしろ一種のデザインなわけで なぜ生きる? という言葉もデザインなわけです その示すところの空白に 何を描くか? 信仰を持っている人は 描くのが早いと思います 迷わずに Bさんが 銀の十字架を選んだように・・ まあ、あまり冷たい物の言い方はよしましょう・・ 味気なくなるので それでは、お元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 先回の詩は 途中から転調していると受け取ったのです。だから――いえ まづは ご回答をありがとうございます。――だから 後半の部分のみを取り上げました。  ★ 銀の十字架  ☆ の《銀》はなぜ金や銅ではなくそうしたのかが わかりません。という意味です。  あとは それが《重い》という言葉だけに反応してみたものです。    ★ 象徴という感性的サイン  ☆ だから十字架をえらんだのではありません。  ★ 信仰における象徴の役割  ☆ これは ひとそれぞれですが わたしにはありません。  ★ ~~~  まあ   長い長い時間とは 「決定打」の後の熟成の期間を指しているとも取れますが・・・  ~~~~~  ☆ そのとおりです。決定打はすでにあったあとのことです。ましてや 聖書や十字架が 信仰の象徴として その決定打になるということはないでしょう。何もないはずです。ナゾの何ものかから心の窓をノックする音を聞くときには。  ★ ~~~~  なぜ生きる? という言葉もデザインなわけです  その示すところの空白に 何を描くか?  ~~~~~~  ☆ という発想は わたしにはありません。つまり《なぜ生きる?》という問いそのものも わたしには無縁でした。  ★ ~~~~  自分だけの十字架が  なぜ生きる? と問う時に きっと答えを出してくれる  生きることの疑問や嘆きに答えてくれる  そんなふうに思います  ~~~~~~  ☆ これは その発想自体が わたしには欠けているとお応えしておきます。別世界の様子だという意味です。  ★ ~~~~  信仰者の立場からすれば 生きることと信仰とは分けられない・・  その片方を問うことは 両方を問うことになってしまう  ~~~~~  ☆ そういう議論はあり得ましょうが そうであることのゆえに 信仰があるわけではありません。    そしてその《決定打》を受けて信仰が与えられ始まったというとき その以前と以後とをつうじて信仰も生きることも同じコトとして一体のかたちでつらなっています。  言いかえると 信仰の始点のあとさきをつうじて 生きることは ワタシの精神の軌跡として一本の道としてつらぬかれています。  言いかえると 信仰があたえられたということは それまでの・アヤマチやマチガイに満ちた生がそれでも 肯定されるということです。境地としてそう受け取れるという意味です。  ★ ~~~  生きることを問えば 生かしているものを軽んじ  信仰を問えば 自らの所在を確かめなければならない  といった感じでしょうか  ~~~~~  ☆ というように論理ははこばれますが たぶん違うでしょうね。分ける意味がないからです。  《生きることを問う》と《生かしているものを軽んじる》ことになるだろう そうぢゃないかと言えば たぶんそうなのでしょう。でもそれは たぶん信仰者にとってはその信仰によってあゆむ道から一たん離れてその別の場から道のことをながめた結果そう思われるというようなものです。  ですから《象徴》を持ち出すときには そのような《道から一たんそれた場所に自分を置くこと》以前のことがらです。つまり 信仰の成り立ちとは何の関係もない。という意味です。  ★ ~~~~   信仰の象徴を持する ということは 持することが、そのまま生きるという事にもなってくる  それほどに 信仰の象徴とは大切なものであるように思います  ~~~~~~  ☆ そのような《信仰》のあり方を想い描いたとは受け取りますが おそらくそれは信仰とは別の世界のことだと見ます。  ★ だいぶ矢の数が増えてきたようですが  ☆ でぃーくべくさんからの《矢》は 矢とも思えません。みんな逸れて行ってしまっています。回答になっていません。Bさんよ あんた 感性がにぶったんか? しっかりしてくれよ。

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noname#180711
noname#180711
回答No.28

 人格批判をしている気はありませんが・・・そういうところに反応が来たようです。本当にそう思うなら、もっと丁寧に書いてほしいなあ。そうでなきゃ、ただの誹謗中傷でなかろうか。思わせぶりな書き方は、罪作りです。  しかし、もういいです。あなたの反応を見ていて、あほらしくなっちゃった。自分では論理的に言葉がつなげなくなった。じゃあどうしようか。友達を呼ぼう。そんな感じみたいですね。質ではなく、量で勝負するつもりらしい。こういうのは哲学のすることじゃないです。  呼ばれてきた友達と私が議論を始めても、そもそもが規約違反だし、二対一をやるのは嫌な気持ちです。場合によっては、冗談ではなく、いじめられてしまうかもしれない。顔の見えない相手なので、何を言われるか分かりません。私は通りがかりなので思い入れもないし、切りよくやめたいのですよ。ちなみに引き止めるようなことを書いていたのは、質問者でした。書いておきながら、瞬く間に、引き止める気もなくしたようですが、私が気がつくまでにワンテンポ遅れました。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  次の書き込みについては 無視ですか?  ☆☆(No.25お礼欄) ~~~   あと   ★ 大人において根本的にいじめは不可能から、どのようなことをしても許される、というのですね。   ☆ そのような解釈を生むとは 思っていませんでした。   ☆☆【Q:パワ・ハラ電磁波はアース役が核反応させうるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7847204.html   【Q:《アース力》は 慈悲なるチカラだ。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834459.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~  はい という答えで 切りよくやめられると思います。  そしてそうなら もう投稿がなくてもかまいません。

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回答No.27

bragelonneさんこんにちは。No.25 お礼欄。 >ですから みなさんにお願いがあります。  どなたか 第三者の目でこのやり取りを解説してもらえませんか?  それがいちばんよいと思うのですが どうでしょう? http://ronri2.web.fc2.com/kiben09.html ●詭弁【人格を批判する (対人論証・人格批判)】 対人論証とは、主張の内容ではなく、相手の人格を攻撃することにより、主張・反論の代わりにしようとする詭弁です。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんにちは。しばらくです。ご回答をありがとうございます。  さっそく答えてくださってありがとうございます。  ぴったりしていて ピッタリしすぎると受け取られて またまたさらになお 反発を呼ぶのではないかと苦慮しているところでもあります。  その後の展開を俟ちます。  ▲ (詭弁【人格を批判する (対人論証・人格批判)】) ~~~  次の事例は、テレビ番組「そこまで言って委員会」での議論です。(筆者の記憶をもとに再現)  田嶋陽子 「従軍慰安婦が強制連行されたのは真実です。元軍人の証言もあります。」  勝谷誠彦 「その証言とは、いわゆる吉田証言のことでしょう? 吉田証言は証拠としては不十分ですよ」  田嶋陽子 「私は日本人として、あなたみたいに罪を認めない人がいることが恥ずかしい!」  田嶋氏は「なぜ吉田証言が証拠として不十分なのですか?」と質問すればよかったのです。そうすれば勝谷氏も理由を説明するでしょう。(もっとも、その質問をしたら負けると読み、詭弁に及んだ可能性はありますが。)  ~~~~~~~~~  ☆ なぜかこの単純な事例が気にかかったものですから かかげてみます。  あと 項目を拾っておきたいと思います。  ▲ (同上) ~~~~  対人論証をいくつかの種類にわけて解説します。  ◇ 相手の知性を貶める。   ・ 言外の意味として 頭の悪い方は発言しないでくださいと言っている。  ◇ レッテルを貼る。   ・ 人種、民族、国籍、信条、宗教、思想、性別、障害、職業、社会的地位、経済レベル、外見等の相手の属性をあげつらう、もしくは人格に対し一方的な格付けをし、それを根拠に反論しようとする詭弁です。  ◇ 相手の置かれている状況を根拠とする。(状況対人論証)   ・ 利害関係が強い者の意見は常に誤りという前提を置いてしまっている。  ◇ 次は言動不一致を指摘する「あなただって論法」です。   ・ あなただってこれこれこうではないか だから“主張する資格がない”と言っても 主張する資格がないことと“主張内容が誤りである”ことは全く別のことです。  ◇ 恥をかかせる。   ・ これも人格に対する一方的な格付けの例   ・ 「恥をかきたくなければ同意せよ」という脅迫。多数派が少数派に対してよく使うレッテルです。  ◇ 笑いものにする。   ・ 相手をバカにして笑いものにすることで、あたかも自身の主張が正しいかのように聴衆に錯覚させる手法です。  ちなみに、人格批判は刑法第230条の名誉毀損罪、及び第231条の侮辱罪に抵触します。ただし警察力の及ばない場所では、己の自制心を頼りにしてください。  大事なこと(1): 人格批判はカモフラージュなので、付き合ってはならない。  大事なこと(2): こちらから人格批判を行えば、主張の論理が正しいか否かに関わらず、説得不可能となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ここでも持つべきものは ともですね。  論理学は あともなどすさんにお任せです。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.26

さほど興味もなくほとんどの回答群を読み飛ばしていますが、どちらかのお礼欄が目にとまり、 「息をしない」とお書きの修行について、ブラジュロンヌさんが、死ぬことに引き寄せた印象を持っていると思われたので投稿します。 内丹法と呼ばれる古い修行のなかに、瞑想にともなう胎息といわれる状態があります。 シッダールタよりも時代が遡り、インドではアーユルヴェーダ、中国では古仙道に始まり道教で発展した陰陽五行思想で扱われます。 端的に言えば、長く水に潜って何十メートルも息継ぎせずに泳げるような節約を行うものです。それが苦しくないというわけです。 宗教というよりは養生か医療か生命科学の領域に入る概念です。息は止めたままにはせず、鼻呼吸に戻しますので生きていられます。 この内丹法は、身体の自由度や精神の自由度が増すといったことから、くびきを離れてより生をすこやかに循環的に営むよう促すもので、死ぬことや死んだ状態に注目するわけではありません。 さて、仏教では輪廻を持ちだして生きる苦しみの構造を説きますが、迷いの宇宙をさまよって生きたり死んだりぐるぐるするのだという話になっています。 この構造そのものの外部に出れば涅槃だということになっています。 果たしてこれが、比喩なのか方便なのか先端物理学なのか宇宙科学なのか数学なのかもっと別のものなのか、わかりません。 西洋では、蒸発と雨の水の循環になぞらえた魂の錬金術思想が、やはりぐるぐる観を醸成しています。 金属が素材から精錬へと向かうように、汚れた地の水が空から純水になって帰ってくるように、 苦しみ悶えた肉体が死んでウジ虫に食われて滅びた後には、なんだかいいものに成り変わるというわけです。 なぜ生きているという質問には、人間の限界における地に足がついた状況によって回答するわたしですが、人間が生きるのに、上記の二つの文化でさえ、仕組みを与えてこういう機構になっているんだぞというわけですね。 これは、なぜ死なないの、という事柄とはやや趣を異にしているだろうと思います。 仏教では、迂闊に死ねばぐるぐる迷う宇宙でまた生きるだけですから、生き方にも死に方にも方法がいりますし、 また、西洋では、黄金になるべきものでなければ黄金になりようがないのですから、信仰をもって清く生きてからウジ虫に食われねばならないと知らしめます。 つまり、いずれにしても、死は生の対としてあるものではなく通過儀礼的なのですね。 なぜ生きるの、とは、むしろ、なぜ死ぬの、を内に包んでいる機構への質問と考えられるわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 きわめて微妙で まだ別の観点があったのかと思わせるご回答を寄せていただきました。あまがっぱさん ありがとうございます。  さて 微妙とわたしに思われることは わたしの観点から見て 《生きる》という世界における議論であるか またはその世界の境界からさらに一歩想像力の足を踏み出したのではないかと思われる議論であるか。これが 微妙に入り組んでいる。こう思われたからです。  ★ なぜ生きるの、とは、むしろ、なぜ死ぬの、を内に包んでいる機構への質問と考えられるわけです。  ☆ もしそうであれば 《なぜ生きないのか》という問いにつながり わたしの言う《生きる》世界に落ち着いた議論であります。  《もしそうであれば》について これから質問者なりに検討いたします。  《生きる議論》と《生きるを超越する議論》とに分けてわたしの場合吟味することになります。《生きる論》《〔生きる〕超越論》と言うことにします。  ★ つまり、いずれにしても、死は生の対としてあるものではなく通過儀礼的なのですね。  ☆ これだけでは 生きる論と超越論との区別はむつかしいです。《死は生の対としてある》かどうか わかりづらいです。  《死が通過儀礼的なもの》でありそのあとさらに何らかの《生きる》があると想定されているのならば それは 《生きる超越論》です。よね?  ★ また、西洋では、黄金になるべきものでなければ黄金になりようがないのですから、信仰をもって清く生きてからウジ虫に食われねばならないと知らしめます。  ☆ これは死ぬまではよく生きると言っています。ゆえに《生きる論》です。そのあと《うじ虫》に食われて ワタシはどうなるのか それについての見解で 前項のように《生きる論》の境界を超えて《生きる超越論》にも 入って行っていると思われます。  すなわちさらに詳しく次のように説かれています。  ★ ~~~~  西洋では、蒸発と雨の水の循環になぞらえた魂の錬金術思想が、やはりぐるぐる観を醸成しています。  金属が素材から精錬へと向かうように、汚れた地の水が空から純水になって帰ってくるように、  苦しみ悶えた肉体が死んでウジ虫に食われて滅びた後には、なんだかいいものに成り変わるというわけです。  ~~~~~~  ☆ 《ウジ虫に食われて滅びた後には、なんだかいいものに成り変わる》というのは 《超越論》です。それは 《魂》の導入において 生と死(死後)とをまとめてつらぬくような存在を想定した。ことから発していると思われます。  その《ぐるぐる観》を或る種の生きる《機構》としてあたまの中に入れているならば 《生きる論》にとって有益な発想になるかも知れません。  ★ ~~~~  さて、仏教では輪廻を持ちだして生きる苦しみの構造を説きますが、迷いの宇宙をさまよって生きたり死んだりぐるぐるするのだという話になっています。  この構造そのものの外部に出れば涅槃だということになっています。  ~~~~~~  ☆ このように述べられた命題はこれも 微妙ですね。    無明=煩悩=渇愛を明知に変換しうれば――つまりブッダとよばれる目覚めた状態になるなら――輪廻(があるとすればですが)を断つことができると言うわけですから 微妙ですね。  それと   ★ 〔迷いの宇宙におけるぐるぐる過程なる〕この構造そのものの外部に出れば涅槃だということになっています。  ☆ このニルワーナ観も微妙です。なぜなら この世すなわち《生きる論》の内にとどまってこそブディストは使命を果たすという《無住処涅槃》の理論があるからです。  粗い議論として言えば 往相還相という一種のぐるぐる過程があって しかもこれはあくまでこの世に還って来るという還相が大事であって やはり《生きる論》を決して出ない機構になっています。(特に親鸞に顕著だと見ます)。  《ぐるぐる機構》の外部とは何か?  ★ 果たしてこれが、比喩なのか方便なのか先端物理学なのか宇宙科学なのか数学なのかもっと別のものなのか、わかりません。  ☆ どうもお見受けしたところ 現代にも有効な世界観の一環であると見ておられるようです。  生もしくは《生と死の全体》に対して その《外部》とは何か?  わたしは それは想定するものであり そうでなければ現代人の経験合理性を満足させるものとは思えません。  言いかえると もはや《経世界の内と外》を人間が認識し規定しうるものではありえなく ただただこの経験世界を超えた場(またチカラ)(*)として想定するもの すなわち 昔からの言葉で《神》のことだと見ています。  そしてもしそうだとしたら この神は 人間の成りうる状態ではない。と帰結されましょう。  《生きる論》と《超越論》との峻別が大事だと思っています。    * 経験世界を超えた場:これは 因果関係から自由な存在を想定すると       いう意味です。        その場合には この《神》は むしろ経験世界の《内》にもその       チカラを及ぼすかも知れないとなります。決して人間には その作       用が認識出来ないのですが。        ゆえにワタシの主観内面においては――信教・良心の自由のもとに       ―― この神が言わば霊としてこの世に《遍在》するという見方をも       持つことがゆるされます。  ★ 内丹法と呼ばれる古い修行のなかに、瞑想にともなう胎息といわれる状態があります。  ☆ そうでしたか。そして  ★ この内丹法は、身体の自由度や精神の自由度が増すといったことから、くびきを離れてより生をすこやかに循環的に営むよう促すもので、死ぬことや死んだ状態に注目するわけではありません。  ☆ ということなんですね。ならば《生きる論》だと見られます。  ブッダのいうニルワーナに関しては その修行の実態についてあまりよく分かりません。たとえば次のような解説を見て議論しています。  ◆ (藤本 晃(慈照):仏教的に正しい禅定の作り方 ) ~~~~  http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html  5ー4 滅尽定は悟りの体験   樹下で想受滅(=滅尽定の段階)に入っていたあるお坊様を見た町の人が、そのお坊様が亡くなったのだと思い込んで火葬にしようとして、動かない身体の周りに薪を積んで一昼夜燃やし、翌日骨を拾いに行ってみたら、ちょうど想受滅から出定したお坊様が身体に付いた薪の灰を払い落としているところに出くわして腰を抜かしたという出来事がお経に記録されています。  想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 正直に言ってわたしなどは だから何なのと言いたいのですが  ◆(同上) ~~~~~~  悟った人は最長七日間、想受滅の状態のままで居続けられるそうです。  想受滅の間は何の心のはたらきもありませんから、その最中にそろそろ出定しようかなどと考えることもできません。  どのくらいの時間想受滅に入っているか、いつ想受滅から出定するか、想受滅に入る前に予め決めておきます。時間が来たら、レンジでチーンとするみたいに自動的に心がはたらき始めて、また欲界の日常の心にまで戻るのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ だそうです。  独断と見られかねない粗い議論ですが ひとまづこのように考えますし このようにお応えすることになります。

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noname#180711
noname#180711
回答No.25

 あなたはお年寄りらしいですが、口の利き方というものを学んできていないようですね。 >No.1の回答者の ぬる_おさんさんとそしてあなたとを足して二で割るとよいかも知れませんね。  放言だと自分で書いていますが、すごく嫌な気持ちです。あなたはいい気持ちかもしれませんが、嫌ですねえ。放言だと書けば許されるんでしょうか。ホント、自分勝手だなあ。 >あなたの理論は 成人一般についても影響関係をそれが起こりうるとみとめて保護せよというものです。  そうです。しかし  >関与などはみとめられないのですから   関与は認めています。認めていないのは、あなたの方ですよ。  そのあとの理屈は、文意がとれませんでした。関与の方を罰したいとは何でしょうね。関与そのものを罰するということか。うーん。  次に、関与を被った側を情状酌量で? いや、関与を被るとは被害者であるということです。情状酌量とは加害者に対して行うものです。全然文意がとれん。何か打ち間違ったのか知りませんが、困っちゃうな。 > 《いじめ》の場合にはこう言うときびしいものがありますが 一般論として言えば その理論は 要するにわれわれは互いに互いを甘やかせ合いましょうと言っています。  ほう。私が甘やかせよと言っていることになるんですか。極めて常識的なことを言っているつもりなのですが。 > ★ しかし〔悪魔がおれに指図したのだと弁明するなどという場合は その悪魔というのは〕人間の比喩であるとすれば、殺人教唆が成り立つでしょう。  ☆ これは 弱みを握って本人や本人の身内などの生命(また社会的生命)に危害を加えるぞという脅しがある場合を除けば いくら教唆されたとしても ひとはその本人が否まなければなりません。そういう問題です。  もし《教唆》に引っ張られるとしたなら それはひとつに《無我・無私》の思想(???)が影響しているであろうと見ます。  まず悪魔とは何のつもりで書いているのかから明らかにしないと、意味が分からないです。取り合う気がしないです。 > ☆ ですから 《弱みを握られて自分や自分の身内などの生命(また社会的生命)に危害を加えるぞという脅しがある場合を除けば》 教唆が成り立ち情状酌量が与えられるという見解は 甘すぎると見ます。つまりそれは《霊が取り憑いて来た》という言い逃れにひとしくなってしまいますという見方です。  そのときには 《はあ? 頭どうかなってるの? という反応しかできません》というのはこちら側のものです。  おや。あなたは不思議な考え方ですね。脅迫された場合には、減刑が認められると思いますよ。そのくらいすぐにわかるんだから、ごめんなさい、間違えましたと私にいえばいいじゃないですか。哲学以前の振る舞いです(ムカつくでしょう? あなたが私にやったことですけれど)。 >いいですか? 人間どうしのあいだにもし《関与》が成り立つというのなら それは 仮りにいまわたしが 《でぃーくべく氏よ ただちにご自分の見解を捨て わたしの見解を受け容れたまえ》と言ったときにその内容がそのまま成就するということを意味するのですよ?  意味しません。あなたの定義する「関与」とは極めて特殊ですね。関与=精神から何から何までに影響を与え、操作する、ということのようです。そういうものは「関与」とは呼びません。マインドコントロールとか、何か別の言葉を当てはめるのが適当です。あなたは、そのあとでは「強要」という言葉を使っていました。その通りです。そして、あなたはいろいろ弁解していたけれど、今、私の指摘を受けて、自分の「関与」の定義が特殊であったと気づいたものと私は勝手ながら推測しています。 > このように 子どもという特殊な場合や責任能力がないと見なされる心神喪失の場合などを除けば  ☆☆ ~~~~~   >★ 生き死にという重要なものに、匿名の自分たちが関与できるはずがない。いや、そもそも肉親であったとしても、他人が関与などできない。そういう話に思います。    ☆ これは そのとおりに考えています。そしてそこからの出発であるとも。  ~~~~~~~  ☆ となります。  子供やいじめの場合だけ、特例化しましたね。しかしそれは成り立ちません。大人の場合でもいじめはあるし、ハラスメントはあります。あなたのお話だと、大人の世界では「いじめ」はないことになってしまいます。 >じっさいにわたしの《加害》行為を取り上げて批判すればよいではないですか。  そこまでのことは言っていません。よく知りもしない人ですし、私は通りがかりの投稿者なのですから。ブログを見たら、いろいろあるみたいですけれど、私は関係ないです。図らずもその話に波及しているかもしれませんが、私の意図ではありません。ただ私のお礼欄の記述を読んで、あなたの性根がいじめっ子なんだなあと思ったので、話を振ってみたということはあります。 >たぶんあなたは 人間は弱いものだということをしっかりと捉え自覚したことがないのではないでしょうか。この弱さを突き詰めて考えていくなら ここまでは弱いながらも強くあるのでなければいけないというコトガラがはっきりと分かって来るのではないでしょうか。  変な考え方ですね。弱いものだと認識したなら、他人も弱いものだと分かるはずです。弱いものを壊さないように丁寧に扱おうと私は思います。弱いと自覚したら、強くなろう、というわけですか。それはあなたの場合であり、あなたの世代が犯した間違いだと申し上げておきます。それが間違いである証拠は、いじめという問題が今現在、どのように捉えられているかを学んでみてください。弱ければ強くなれ、は通用しない考えだとして、批判されています(これは私が根拠を示さないでも、興味があって調べればすぐ分かると思います)。説教される筋合いはないので、嫌な気持ちです。 > いじめる人間とも いじめられる人間とも そしてほかの誰れとも あなたは人格が違います。みながそしてつまり社会は そういう人間関係として成り立っています。  いじめを受けた人たちに《同情》を寄せても何にもならないということを――したがって人間の弱さであると同時に そこまでは強くあらねばならないということを――知らねばなりません。(情感の共同性なる情況を否定するのではありません)。 > ★ いじめは可能か?  ☆ この視点・この問題意識・この問いの立て方 これらにわたしには違和感があります。すべて《人間化》の過程で起こるマ(間)の違いだと考えます。  大人において根本的にいじめは不可能から、どのようなことをしても許される、というのですね。ホント、あなたの考え方は酷すぎます。いや、あなたの世代の考えは、というべきか。

bragelonne
質問者

お礼

 でぃーくべくさん ご回答をありがとうございます。  ですが わたしとしては なお問い質して来ておられる疑問についてはすでにお応えしていると思っています。  どこかで食い違いが生じて来ているもののようです。  ですから みなさんにお願いがあります。  どなたか 第三者の目でこのやり取りを解説してもらえませんか?  それがいちばんよいと思うのですが どうでしょう?  あと  ★ 大人において根本的にいじめは不可能から、どのようなことをしても許される、というのですね。  ☆ そのような解釈を生むとは 思っていませんでした。  ☆☆【Q:パワ・ハラ電磁波はアース役が核反応させうるか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7847204.html  【Q:《アース力》は 慈悲なるチカラだ。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834459.html

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noname#189751
noname#189751
回答No.24

どしどしフルボッコ(?)でいってみよう・・ なぜ生きる? 我れとは何か なぜ生きる? 意味がない なぜ生きる? なぜ死ねない なぜ生きる? 希望 なぜ生きる? 終わりにすべきだ なぜ生きる? まだ早い なぜ生きる? 死ねない なぜ生きる? 約束 なぜ生きる? 光 なぜ生きる? 分からない なぜ生きる? あなたは誰だ? なぜ生きる? 生きた者だけが なぜ生きると問う なぜ生きる? 過去という告別式は終わった なぜ生きる? 悩め なぜ生きる? 考えろ なぜ生きる? 出てこない なぜ生きる? 持っていけ なぜ生きる? 手の掌の十字架 なぜ生きる? お別れだ なぜ生きる? 握りしめろ なぜ生きる? 私の代わりだ なぜ生きる? あなたが生きることは 私が生きること 私が生きることは あなたが生きること なぜ生きる? 与えられたものを知るため なぜ生きる? 訪れる時を知るため なぜ生きる? 十字架に聞くがいい なぜ生きる? 銀の十字架は重い なぜ生きる? 子供達が待っている なぜ生きる? 声が聞こえる なぜ生きる? 声なき声 (ゴジラは なんて言うかな・・) (そろそろ 悪魔の会議が始まるので・・失礼)

bragelonne
質問者

お礼

 A さんよ。軽い食中毒で昨日まるまるダウンしていました。  ご回答をありがとうございます。  ★ 銀の十字架は重い  ☆ 何で《銀》か?  《重い》と見えるけれども 《軛は軽く 荷は負いやすい》そうです。  《頸木》は あぁ なるほど首のまわりにあるなとは感じられ しかも それは 言わばワーチュアルなものです。その前に《引き受ける》という意志が決まっているので 宇宙旅行に出た気持ちにもなるようなものです。  だから《荷は負いやすく》また軽いのですが 問題によっては 長い長い時間がその解決に必要になる場合があります。

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  • kurinal
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回答No.22

いいよ、いいよ

bragelonne
質問者

お礼

 そうっか。そうっかなぁ。

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回答No.21

「なぜ生きるのか?」という質問が必要になるのは、 逆に実際に生きていながら、何のために生きているのか 自覚せずに“生かされている”からです。 お金や出世や他人への虚栄心や即物的衝動といった “目の前のニンジン”によって他律的に生かされていながら、 結局そうした自己中心的な生の結果が、必ず死によって 終わるという絶対的な限界に対して、悟りであれ愛であれ、 個人的な肉体を超えた意志に救いを求めるのです。 生と死は対立するにしても、「より良い生」は「より良い死」を 包含するのです(遺伝子は細胞分裂回数を制限しており、 死による世代交代による交配(異性愛)や育成(親子愛)は 可能になっているのです)。

bragelonne
質問者

お礼

 ぷしゅてくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  さて微妙に見解を異にしますので――あるいはまた この《生きる》について問うこと自体が微妙であると思われますので―― 出来るだけ詳しく考えてまいります。細かすぎるかも知れませんが そこのところはご容赦ください。  ★ 実際に生きていながら、何のために生きているのか自覚せず  ☆ 途中で切って この表現での内容だけについて考えます。  (1) 《実際に生きている》というとき 《生きている》ことについては誰れもが自覚している。――まづこう捉えてもよろしいでしょうか?  (2) たぶんよろしいと思いますので その上でさらに問いますが まづおそらく《生きている》なら たとえば仕事をして生活のためにや自分をふくめた家族のためにその生活をゆたかなものにしたいと思って 生きているはずです。つまり《何のために》という問いは ささやかながら だいたい誰れにでも持たれているとまづは思われます。  (3) それでもこの《何のために》をなお問うということは おそらく生活の個別的な事柄としての仕事なら仕事そのものの中にあるところの・もしくはその仕事をとおしてかかわっているところの何か目指すものがあるのではないか。こういった問い求めをおこなうということでしょうか?    そこで  ★ 実際に生きていながら、何のために生きているのか自覚せずに“生かされている”からです。  (4) というのは どういうことか? 自分や家族の生活のためでありその生活をゆたかなものにするという個別の事象そのものとしての目的だけではなく 前項で捉えようとした何か確乎としたまた人にとって普遍的な目的があると見て その《自覚》が大切なのだということでしょうか?  (5) たぶんそういう趣旨だと思うのですが その前に この《誰れもにとって言わば納得が行きさらには讃えられるべき目的》を自覚せずにいると 《生かされている》ことになる。ということですが それは どういうことか?   つづくくだりで 次のような説明があります。  ★ お金や出世や他人への虚栄心や即物的衝動といった“目の前のニンジン”によって他律的に生かされていながら  ☆ つまりさらに説明はつづきますが まづこの部分についてどういうことかを捉えたい。  (6) まづ《お金》を得ようとして仕事をすることは 《気高き目的》の自覚がなく《他律的に生かされている》ことであるのか?  (7) 自分の仕事をもとめてたとえば就職し 給与を得て生活を安定させ家族とともに暮らす――だけでは 足りないというご見解でしょうか?  (8) 早い話が その気高き大目的を知り自覚するならば 生活も人生も違って来るということでしょうか?  (9) 生活が安定しさらには家族ともども少しはゆたかになったというような小目的の成就は 《他人への虚栄心》に引きずられて生きているだけだというご主旨でしょうか?  (10) 自分の仕事をきちんとこなし まづは曲がりなりにも一人前になることが かなしいことに 《即物的衝動》に動かされているのだという趣旨でしょうか?  (11) それら《お金や出世や他人への虚栄心や即物的衝動》は 馬にとっての《“目の前のニンジン”》としてはたらいている。ということでしょうか?   (12) それが 《他律的に生かされている》ということなのですね?  (13) それでもこのとき《大目的》を自覚するなら よいということでしょうか?  自覚するなら 考えやおこないが 変わって行くということなのでしょう。そう捉えて続く箇所を考えます。予想されることとしては 《自律的に生きる》ようになるし それはよいことだという趣旨であるとは まづ思われます。  ★ 結局そうした自己中心的な生    (14) ということは 崇高な目的を知り自覚するならば いまの生が《自己中心的な生》でなくなる。ということですね?  ★ 結局そうした自己中心的な生の結果が、必ず死によって終わるという絶対的な限界  (15) そうしますと 《自己中心的でなく 他律的に生かされているのではなく そうではなく 崇高な目的を知ってこれを自覚しその内容に沿って生きる》なら 《必ず死によって終わる》ことはなく《絶対的な限界》を知ることもない。それほど気高き目的が人間にはあるし これを自覚して実行しなければいけない。――こういう趣旨でしょうか?  (16) すなわちそのような《生きる大目的を知らない》場合にはその生がやがて迎える死という  ★ 限界に対して、悟りであれ愛であれ、個人的な肉体を超えた意志に救いを求めるのです。  ☆ ううーん。どうでしょう? ここで明らかになったことは もし《生きる大目的を知り自覚した》場合には 《悟りや愛》には《救いを求める》ことはない。また そこで求める《救い》というのは《個人的な肉体を超えた意志に》だということになってしまっている。これです。  (17) 《肉体を超えた》なる概念と《〔個人的な〕意志》なる概念とは 明らかに矛盾でしょうね。矛盾あるいはマボロシに《救い》を求めることになるのが 《他律的に生活を送っているだけ》の人生でありその知性なのだと。  ★ 生と死は対立するにしても、「より良い生」は「より良い死」を包含するのです。  ☆ ん?  (18) すなわち(15)によっても分かることは 《自己中心的でなく 他律的に生かされているのではなく そうではなく崇高な目的を知ってこれを自覚しその内容に沿って生きる》なら 《「より良い生」》を生きることが出来るようになり 《「より良い生」は「より良い死」を包含する》のだから 《必ず死によって終わるという絶対的な限界》をまぬかれる(!?)。のだと。  さらに説明が添えられています。  ★ ~~~  (遺伝子は細胞分裂回数を制限しており、  死による世代交代による交配(異性愛)や育成(親子愛)は  可能になっているのです)。  ~~~~~  ☆ 人間にとっての《死》という限界は ヒトなる存在における生物学的生理学的な細胞活動によって 配偶者を得て子孫を生みその世代間の関係つまりは家族としてのかたちにおいて 乗り越えられる。のだと。  (19) そうしますと    (2) ・・・まづおそらく《生きている》なら たとえば仕事をして生活のためにや自分をふくめた家族のためにその生活をゆたかなものにしたいと思って 生きているはずです。つまり《何のために》という問いは ささやかながら だいたい誰れにでも持たれているとまづは思われます。  という事態とどう違いますか? 配偶者を互いに得て子どもとの血筋のつながりのことを この(2)でははっきりとは示していないことが まづいですか?  (20) 《「より良い生」は「より良い死」を包含する》とはまったく言っていないゆえ まづいでしょうか?  (21) 《「なぜ生きるのか?」という質問が必要になる》とは 質問者の趣旨においては言っていない。ぎゃくに要らないと言っている。ゆえに 違いが生じていますか?  (22) なお《なぜ生きるのか》なる問いと《何のために生きるのか》とは おそらく根本的に違いがあります。後者は 《生きる》ことが大前提になっています。前者の問いは この大前提をもくつがえす勢いを持っています。

bragelonne
質問者

補足

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noname#180711
noname#180711
回答No.20

 私は用がありますので、今日でいったん引き上げさせてもらいますが、相変わらず、驚いてしまっています。そして噛み合っていると言ったにせよ、考え方が全然違うということが分かったというにすぎません。特に知恵を出し合おうということもないように思います。自己弁明を行ったというだけです。それじゃあ、つまらないですよ。 >言いかえると 他人の言動が自分に《関与》して自分はその関与のままに行動したという言い訳のことです。これは 通りません。ダメです。心神喪失など責任能力が問われる場合を別にすれば この《関与》による弁解は とおりません。無理です。  こういう細かいことを素人同士で言い合っても意味がないかもしれませんね。しかし私は、通ると思いますけれどね。判例を読んでみてください。周囲にいじめられ、惨めな環境にあって犯罪に走ってしまった人に情状酌量が与えられませんか。 >《情状酌量》は 当人の生活の歴史などがかかわっているのではないでしょうか。  当然そうだと思います。悪魔がとか書いていますが、そういう荒唐無稽な例は、想定していませんでした。しかし人間の比喩であるとすれば、殺人教唆が成り立つでしょう。いずれにせよ、情状酌量になってきます。霊が取り憑いてというのは、認められないでしょうけれど、私は全く信じていないので、そういう話を引き合いに出されても、はあ?頭どうかなってるの?という反応しかできません。 >★ 生き死にという重要なものに、匿名の自分たちが関与できるはずがない。いや、そもそも肉親であったとしても、他人が関与などできない。そういう話に思います。  ☆ これは そのとおりに考えています。そしてそこからの出発であるとも。  ちょっと信じられませんね。本当にあなたがいじめっ子の典型例に見えてきました。別に仲良くするつもりは最初からなかったのですが、ますます、嫌だなあとも思います。加害者になっておきながら、「加害」という概念とは何かなどと問い直して、自分は無罪だと主張する口なのでしょう。そうしたいならご自由ですが、仮に友人となれば、みっともないからやめてもらいたい、と私はいうと思います。そして自分が害を加えられた時に抗議したら、見当違いの返事が来そうです。これも嫌です。だから、あまり仲良くなれないと思います。  もっとも、いじめ問題はこのテーマから少しそれます。気が向くなら、別で質問を作って、皆の意見を募ってみてください。「いじめは可能か? そもそも他人に関与することはできないから、いかなる批判(いじめ)を加えても、人を死に追いやることはない」など。皆からフルボッコにされると思います。ともかく、力加減を間違ったあなたが、言葉の力で人を殺してしまわないようにと思っています。私から見ると、今までのあなたはラッキーだっただけじゃないでしょうか。幸い、生命力の強い相手に当たった。それだけじゃないかなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 各論において違う事情を顧慮せねばならない場合があるではないか。すべての場合についての理論を示せ。と――おっと ご回答をありがとうございます。――おっしゃっているように思います。  でも  ★ 周囲にいじめられ、惨めな環境にあって犯罪に走ってしまった人に情状酌量が与えられませんか。  ☆ という場合が成り立ったとしても その問題と《他人の言動がひとの思惟や行為に関与しさらにそれらを左右するまでになる》問題とは別です。  それに《いじめ》は特殊です。  特に子どもの場合には 判断力がまだ弱い。他人からの影響がかなり大きく生じます。影を落とし 同じような響きをひびかせるようになってしまいます。  思想が質の問題として子どもに植えつけられるなら そのまま一辺倒になってしまうといった問題が生じるはずです。量の問題が質に変わるという《影響》関係も 頻繁にあると見られます。  だけれど未成年は 情状酌量と同じような趣旨でそれとしてその《影響関係》にかんがみて 罪に問われるそのあり方がきちんと考慮されます。  言いかえると ひとつに 《影響関係》と《左右し合うまでの関与》とは別である。そしてもうひとつに 大人と子どもともやはり別です。  あなたの理論は 成人一般についても影響関係をそれが起こりうるとみとめて保護せよというものです。  関与などはみとめられないのですから そうなります。出来るなら関与のほうを罰したい。出来ないなら 関与をこうむった側を 情状酌量で保護せよと。  《いじめ》の場合にはこう言うときびしいものがありますが 一般論として言えば その理論は 要するにわれわれは互いに互いを甘やかせ合いましょうと言っています。  ★ 周囲にいじめられ、惨めな環境にあって犯罪に走ってしまった人に情状酌量が与えられませんか。  ☆ もし大人の場合だとして考えるなら 《アース役はつらいよ》という全国的な大合唱をするとよいでしょう。この問題は ちょうど回答No.3に寄せられています。  そして情状酌量については 次のようにしるしました。  ☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~  自由意志にもとづく自己表現としての行為だという見方に立ちます。立たねばなりません。関与は基本的にあり得ないという見方に立ちます。  《情状酌量》は 当人の生活の歴史などがかかわっているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ しかし〔悪魔がおれに指図したのだと弁明するなどという場合は その悪魔というのは〕人間の比喩であるとすれば、殺人教唆が成り立つでしょう。  ☆ これは 弱みを握って本人や本人の身内などの生命(また社会的生命)に危害を加えるぞという脅しがある場合を除けば いくら教唆されたとしても ひとはその本人が否まなければなりません。そういう問題です。  もし《教唆》に引っ張られるとしたなら それはひとつに《無我・無私》の思想(???)が影響しているであろうと見ます。  ★ 霊が取り憑いてというのは、認められないでしょうけれど、私は全く信じていないので、そういう話を引き合いに出されても、はあ?頭どうかなってるの?という反応しかできません。  ☆ ですから 《弱みを握られて自分や自分の身内などの生命(また社会的生命)に危害を加えるぞという脅しがある場合を除けば》 教唆が成り立ち情状酌量が与えられるという見解は 甘すぎると見ます。つまりそれは《霊が取り憑いて来た》という言い逃れにひとしくなってしまいますという見方です。  そのときには 《はあ? 頭どうかなってるの? という反応しかできません》というのはこちら側のものです。  いいですか? 人間どうしのあいだにもし《関与》が成り立つというのなら それは 仮りにいまわたしが 《でぃーくべく氏よ ただちにご自分の見解を捨て わたしの見解を受け容れたまえ》と言ったときにその内容がそのまま成就するということを意味するのですよ?  アマエが過ぎます。  このように 子どもという特殊な場合や責任能力がないと見なされる心神喪失の場合などを除けば  ☆☆ ~~~~~   >★ 生き死にという重要なものに、匿名の自分たちが関与できるはずがない。いや、そもそも肉親であったとしても、他人が関与などできない。そういう話に思います。    ☆ これは そのとおりに考えています。そしてそこからの出発であるとも。  ~~~~~~~  ☆ となります。  つまりそのとき あなたはただちに  ★ ちょっと信じられませんね。本当にあなたがいじめっ子の典型例に見えてきました。  ☆ という見方を当てはめる結果となっている。といったふうに各論や除外例を錯綜させて問題を捉え議論をすすめていると見られます。  ★ 加害者になっておきながら、「加害」という概念とは何かなどと問い直して、自分は無罪だと主張する口なのでしょう。  ☆ とまで言うのでしたら じっさいにわたしの《加害》行為を取り上げて批判すればよいではないですか。  たぶんあなたは 人間は弱いものだということをしっかりと捉え自覚したことがないのではないでしょうか。この弱さを突き詰めて考えていくなら ここまでは弱いながらも強くあるのでなければいけないというコトガラがはっきりと分かって来るのではないでしょうか。  《影響関係》においては慎重にということ。(仮りに影響を受けやすいのなら 多くの異なった考えの持ち主から影響を受けるようにするということ)。  そして人間どうしのあいだで《左右し合うというような関与》は ない。とわが自己同一性を自覚し保つということ。《わたしはわたしである》という文体――自己表現の動態――を確立するようにすればよいでしょう。  いじめる人間とも いじめられる人間とも そしてほかの誰れとも あなたは人格が違います。みながそしてつまり社会は そういう人間関係として成り立っています。  いじめを受けた人たちに《同情》を寄せても何にもならないということを――したがって人間の弱さであると同時に そこまでは強くあらねばならないということを――知らねばなりません。(情感の共同性なる情況を否定するのではありません)。  いじめをおこなう人間は 自己の人間化をすすめるにあたって 他人の存在や行為を当てにしていて 何とか《あたたかくてきびしいさとしとみちびき》が欲しいと言っています。またそのように勝手に行動します。  敢えて次の回答例を出してみましょう。その回答者にはわるいかも・つまりイジメになるかも分かりませんが わたしが責任を取ることにして 考える材料にしたい。  ◆(回答No.1) ~~~~  あなたがそう思うのならそれでいいんじゃないですか?  哲学の本質は実践です。  他人への強要も無ければ、他人からの強要もありません。  自分がどう考え、どう生きる(行動する)かが哲学です。  他人がどうかは余り関係ありません。  彼らはそう考えた・・・というだけのことです。  あなたがそれをどう思い、どう行動するかはあなたが決めることです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ あなたなら おそらく《強要》と《関与》とは違うと言うかも知れません。  でも同じでしょう。そしてこの場合に問題になることは 哲学は――またそれとしてのふつうの生活態度としては―― 互いに対等で自由な《批評・批判》は 答責性の相互了解に立ち おこなってよいと考えるのですし 行なわねばならないモノゴトもあるとも考えます。こういうことです。(社会性としての人間存在です)。  No.1の回答者さんは 《関与・強要》はあり得ないとみとめながら それゆえに・かつしかしながら 《他人の思惟や行為は どうでもよい》という《影響》をおよぼそうとしているかたちです。  ★ いじめは可能か?  ☆ この視点・この問題意識・この問いの立て方 これらにわたしには違和感があります。すべて《人間化》の過程で起こるマ(間)の違いだと考えます。  No.1の回答者の ぬる_おさんさんとそしてあなたとを足して二で割るとよいかも知れませんね。とまで放言してしまいました。  さいわいおふたりとも  ★ 幸い、生命力の強い相手  ☆ でよかった。

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  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?