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なぜ生きるのか?ゴータマ・ブッダの思想を考察する
- 人間の存在の意義について問いかけるゴータマ・ブッダの思想は、末法時代においても有効なのだろうか。
- 生と死の不可解さについて、ゴータマ・ブッダは「生きる理由」や「死ぬ必要性」について言及しているが、これが人間のいのちと存在に対して失礼ではないのか。
- さらに、寂静や涅槃といった概念についても疑問を投げかけ、ゴータマ・ブッダの思想はどれだけ真実性を持っているのか疑わしさが残る。
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哲学音痴ですが 私の見解も聞いていただけますか? 何故生きるのか? あらゆる生物と同じで、本能的に・・・ ただ、人間はいらぬ知識が有る為、 今回のような議論をよぶのでしょう 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 年頃になれば、Hもするでしょう(おそらくバックで) 子孫が50代目まで行った時言葉は生まれているでしょうか? 農作は始まっているでしょうか 幸せの観念はあるでしょうか、 争いはおそらく起こるでしょう。 争いを戒める為の教えが出てきているでしょうか 共に助けあって生きる教えがあるでしょうか その時に、神が生まれるのでしょうか? いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 解答になってないかもしませんが、 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。
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追伸 正直いって 懐かしいんですよ 若かった頃の自分が 純粋だった・・自分が 信仰に入る前の7年ぐらい前の出来事だった 不思議ですね・・ 信仰に入ってからは なぜ生きる と 問わなくなった 問う必要が無くなったんでしょうかね いつも 見守っていてくださる という安らぎがある 無宗教の人からみれば ごまかし 思い込み かもしれない でも それで いいと思ってる どう見られても いいと思っている もう 生きなくても いいんじゃないか と思う時もあるけど 自分で決めちゃいけない という感じがする (自分を)預けちゃった というんでしょうかね 気楽になってしまった 自力というのか 若い頃のように 自分を問いつめなくなった 何でも どうにかなる という気持ちがある 欲をかかない事なら きっと上手くいく 見守っていてくださるから・・ そんな感じです Bさん 若い頃を思い出させてくれて ありがとう 追い討ちは慣れているから平気だよ・・ そうこなくっちゃ・・ていう気持ちもある また いつかやろうよ ずっと 元気でいてくれ ずっと 暴れまくっていてくれ また ゴジラの雄叫びを聞かせてくれ・・ じゃ。
お礼
この《追伸》を真っ先に回答しなくっちゃ。 ご回答をありがとうございます。 そのやすらかにさだまった心を大前提として 何のために生きるかを問うことが まま あるかも知れないし ときには なぜ生きているのかというあやうい問いまでを持ったこともあったか知れない。――こう説明すれば いいんぢゃん。 ではまた。
- yuniko99
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人間は大概は生きようとするよ しかし何故生きてるのか分からないと 夢中で生きて子共が巣立った後 これでよかったのだろうかと 思ったり 残った自分は何をすればいいのかと空しくなったりしないかなあ? 人間が何故生きてるか知ってるよ。一つは幸せな人生を送る為 もう一つは何かを未来に実現する為なんだ 何かは説明が難しいけど「永遠への存在」と言う名前にしておこうか。 ゴータマ・シッダルタの生誕の日とされる4月8日 御釈迦様自体はスジャータから乳粥を貰って飲んで 悟りの境地を開いた その後いろんな分派がいろんな解釈をつけたんで お釈迦様の思想が その答辞にして悪かったとは言えないのではと思う。物事には実体が無い空相だと言う事 四諦説 12因縁 キリスト教も相だけどイエスの思想が間違ってると言うよりは その当時は意義ある思想だったが 後に曲解されて分派して一つになり得なかった。 今更お釈迦様を責めてもニュートン力学を責める様なもので 我々が参考にすればいいのではないでしょうか。
お礼
ゆにこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まとまったかたちでは 直前のNo.48のお礼欄に 趣旨説明のそのまた根拠のようなことを書き込みました。それを見ていただければ よいかなとまづ思います。 ★ これでよかったのだろうかと 思ったり 残った自分は何をすればいいのかと空しくなったりしないかなあ? ☆ このように これでよいかどうかといった反省は 誰もがいつでも持つと思います。そしてそのことと《なぜ生きるのか》という問いを立てることとは 別のように思います。 前者は 生きているときにその過程でもつ《生きること》の内省です。 後者は あたかもその《生きる過程》から降りてしまおうというヱクトルがあるのではないでしょうか? そしてそれなら どこか話が違う。と思います。 ★ 人間が何故生きてるか知ってるよ。一つは幸せな人生を送る為 もう一つは何かを未来に実現する為なんだ ☆ ということが言えても そうではない場合もあります。つまり すでに生きているという姿をさらに おのれをうんうんと推してすすむように なお重ねてあゆむという場合です。 仕合わせなどの目的を持ってもよいでしょうが 特に持たなくてもよい。と思います。 ★ その当時は意義ある思想だったが ☆ とは ゴータマ・ブッダの場合には 言えないという物言いです。なぜならその思想に中身がないからです。スッカラカンの思想を 評価するもしないもありません。ただただマボロシの思想が いまにまで 受け継がれて来ている。評価を受けている。これは おかしいという物言いです。 (イエスの場合は 別です)。 ★ 「永遠への存在」 ☆ と名づけることが出来るというとき それでも けっきょくその思想の中身はありません。 言ったもん勝ちだとでも言わんばかりに おれはこの上のない智慧のさとりを得たと言った。おかしい。という物言いです。 ニュートン力学ならそれとしての内容があるはずなのですが。
呪い ですか 呪いは嫌だ 暗い・・ あとがき・・になります。 生きる理由をください・・ という人は まだ大丈夫だと思う 死ぬ理由があるから 生きる理由をください という事だと思う 死ぬ理由が明らかになるほど 生きる理由も明らかになってくる・・はず 死ぬ理由を求めるということは 生きる理由を求める事でもあるようです 命への問いかけ・・というものなんでしょう 問い詰めれば まだ 生きていたい・・・という叫び声が聞こえてくる 私の体験も そんなものです 別に変わったことじゃない そう思います 一番怖いのは 生と死のすり替えが起きてしまう事だと思います 死んだ先に 今以上の素晴らしい世界があると思ってしまう (感性的に)死ぬことが よりよく生きる事になってしまう これが一番怖い 死んで花実が咲くものか・・と言われても・・花実が咲いていると思ってしまう 私の場合は 幸いにも カミナリみたいなものが落ちて 死ぬ理由が 吹っ飛んでしまった 死という愚かな夢が 吹っ飛んでしまった 無くなったわけじゃないけど 心の隅の方に片付けられてしまった そんな感じです で 結果は まだ 生きている 生きているのか 生かされているのか 分からないが とにかく生きている それでいいと思っている とまあ なんですが 私と同じような心の軌跡というか 体験を持っている人は 数知れぬほど いるのではないか・・とも 思います (もう・・) 「生きるんだ」という呼びかけは遠くなってしまったけど 無くなったわけじゃない 心の底にはある・・というか そんな感じもします Bさん 以上で終わりにしたいと思います 長い独り言を聞いてくれて ありがとう この次は ゴジラじゃなくて ドラエもんにしようか? パッと明るく・・ それじゃ お元気で。
お礼
最後に来て何ですが 批判をします。 まづは ご回答をありがとうございます。 わたしは こう考えます。 なぜ生きるのか。なぜ生きているのか。あるいは ★ 死ぬ理由があるから 生きる理由をください ☆ と言うというのは すでにそのときには 《ワタシの生きること。そして仮りに死ぬこと》についてワタシは 自由裁量権があるのだとあたかも見なしています。 死ぬのも生きるのもおれの勝手だと言っていることになります。 果たしてそうか。というのが この質問の趣旨です。 なぜ生きるかは 生きることについての重要な問いであるとか その問いをとおしてさらによく生きることへとみちびかれるとか。そういう問題ではないのです。 すでに次元が違うところで ものを考え何か大事なことがあるのではないかと思うようになってしまっている。その初めの一歩じたいがおかしい。こういう物言いです。 その次元が違うところに行ってしまったことをとがめています。 すなわち 自分の人生だからおれがどうしようとおれの自由だと言っているのではないか。そしてそれは 自然本性としてのふつうの人生とはすでに次元が違うところに行ってしまったのではないか? こう単純に問うています。 ここに還って来いと。 死ぬ理由を得たということは 人間の想像力がそれほど自由で翼を広げてどこまでも飛んで行けることを意味します。 けれどそこは すでに次元が違っているはずですよという議論です。 想像力は 生きているゆえに持ち得て発揮し得るものだからです。 これが きわめて単純な・生きることの理論です。 この理論を離れて行っては 何も始まらないはずだと。 なぜかんたんに分かる理論を去って行ってしまうのか? 誰かの呪いではないか? 亡霊がまだそのたましいの和解を得られ得ずして さまよっている。この亡霊に取り憑かれたゆえにではないか? こういう議論です。 その亡霊に引導をわたすことが 哲学のひとつの仕事なのです。死を死ぬようにさせなくてはならないでしょう。
体験をお話します。 私が20才の頃だったと思います 多感な年頃で、落ち着きがなく、感情の起伏も大きかったと思います いろいろな事を考えては悩み、思いつめる事も多かった と思います まあ 青春の真っ最中 というところだったんでしょう 恋に 仕事に悩み 自己嫌悪に陥って 毎日 死にたい と思うようになっていった 異性との付き合いも上手くゆかず、仕事も社会常識もよく分からない という まあ 内心メチャクチャな状態だった (表向きは平然として 強がっていましたが・・) 毎日 ぼんやりとして 死ぬことばかりを考えていた そんな時に起きた事です。 仕事を終えて 夕方一人で縁側に座っていました 下を向いて ぼんやりと作業靴を見ながら・・ 何で 死ななかったんだ? 死にたかったら 死んだほうがよかったんじゃないか? 死にたいのに 生きていくよりは 死んだほうがよかったんじゃないか? 何で 死ななかったんだ? 自分に嘘をつきながら 生きていくよりは 死んだほうがよかったんじゃないか? 何で 死ななかったんだ? 何で? と繰り返した まあ 自分自身と向かい合ったわけです じっと 下を向いて その問いを繰り返した でも 答えが出てこない 自分をいくら追い込んでも出てこない しまいには 問うこともしなくなって ただ じっと作業靴を見ていただけでした 目の前にあるのは 毎日履いている一対の汚れた作業靴だけ あとは 何も目に入らない 何も聞こえない 何も思い浮かばない そんな状態だった しばらく そうしていると 不意に 何かが走ったような感じがした (走った としか言いようがない) それは 次の瞬間 「生きるんだ」 という言葉となって出てきた 自分の言葉ではないような言葉だった そして その言葉を 二度三度と繰り返すうちに 強い感情が一気に込み上げてきて 涙が止まらなくなってしまった 大げさにいえば 脳天を突き上げるような感じだった 何が起きたのかは分からない なぜ 「生きるんだ」という言葉が出てきたのかも分からない ただ 「生きるんだ」という強い呼びかけに涙ボロボロになってしまった そうして 泣くだけ泣いて 自分からやっと出てきた言葉が 「そうだ 生きるんだ」 「生きるんだ」 という言葉だった やっと返事ができたという感じだった そして 立ち上がって 無心というか ヨロヨロした感じのまま歩き出した・・ 確か そんな感じだったと思います 今思い出せば 懐かしい感じがします 純粋というか 青春の一ページだったんでしょうね その頃は まだ宗教もかじってはいませんでしたから 心の支えも無かった 何にも無い心の内から出てきた 「生きるんだ」という言葉を一つの支えにした ふと 死にたくなった時には その時の事を思い浮かべるようにした 宗教でも信仰でもない 自分の内の声を守った そんな感じだった 生きる事がいいとか 悪いとかではなくて 自分の内の声を守った 今思えば 一対の汚れた作業靴が 私に何かを与えてくれたようにも思います そんな気がしてならない どこまでも深く 自分を問う時 必ずヒラメキは与えられる 誰にでも与えられる 「生きるんだ」というヒラメキが与えられる それは 生きる理由のすべてにはならないが 死ぬことの理由を打ち消すのには十分なはずです 生きる事の原点を再び与えられるという事は 新しい人生がそこから始まる という事なんだと思います 内なる声を聞く という事は 新しい誕生日を迎える事なんでしょう また、その先の生きる指針・方向付け というものは 人それぞれのようにも思います なぜ 生きるのか? というだけで終わるのならば 新しい誕生日はやってこない 漠然とした生きる事への消極的な思いだけでは まだ 自分という命と向き合ってはいない だから それは はぐらかし というのか Bさんの言う 「失礼」に当たる 時々 というか 一生の内に何度かは 誰でも真正面から自分と向き合わねばならない時が あるように思います 一点を見つめて 答えを求める時があるように思います 生きる理由は 誰にでも用意されている その言葉を尋ねる時が 誰にでも いつかは訪れる そして 正面から向き合えば 誰でも その言葉を聞くことができる 私はそう思います。
お礼
ううーん。まづは ご回答をありがとうございます。 こういう体験というのは 安易に傍から何かを分かったように言ってはならないと言いますか 言ってもしょうがないはずなんです。本人からは 違和感を感じられておしまいとなるのだと思います。 それでも反応が起きたままをつづるとしますと: 誰かこころよく思わない者がいて この野郎 くたばれとでもいうふうに言わば呪いをかけていた。 それを おれは何で死ななかったんだという問いとして・しかも自分のものとして持った。これを反芻していた。 いつしか その声にあらがい乗り越えるチカラがしっかりと自分の中に現われて来た。 のか それとも 呪いをかけていた者が 自分の心が癒されて和解することができる心の状態になった。恨みが溶けて その溶けたときに こちらでは 生きるんだというヒラメキが得られた。 という解釈が わたしの持った反応そのままのものです。 《関係の絶対性》なる観点からは――というのは 後づけですが―― そのように解釈することが出来るように思います。 まぁ 勝手な見解です。
待たせると悪いので とりあえず 序文を ・ ・ ・ ・ ・ Bさん 長居させてもらって ありがとう 古い日記の一部を 前に見せたことがあったよね 〈 私が定める事が出来ないものを 私は受けている 〉 信仰の決定打みたいなもの その時 Bさんは 《 何で もっと早く出さなかったの? 》 と言った こんなに きれいな受け身のヒラメキを 何で・・・ という事だったんでしょう 本音は Bさんへの置き土産のつもりだった 今回の話は それと違って 信仰以前の出来事です たとえて言えば 小鳥の呟き 薄汚れた雀の呟き みたいなものです 生きる理由を失った時に 生きる理由は与えられる という よかったら 聞いてやってください。
お礼
どうぞどうぞ。 いま茶々を入れるのは気が引けるけれど それをも超えて 話してください。 つまり ★ 生きる理由を失った時に 生きる理由は与えられる ☆ ぢゃあ 初めから《生きる理由》は持っていたということですよね? それは・それが 《生きている》ということと一体の何らかの理由だったのでは? と思うのだけれど この茶々は無視して お話をどうぞ。
無宗教でも 生きる理由の原点は与えられる むしろ 無宗教の立場こそが 生きる事そのものの本質を明らかにできる可能性がある 脚色ゼロの素朴な世界 どこまでも深く 自分に問う時 必ずヒラメキは与えられる 誰にでも与えられる ありふれたヒラメキ ありふれた話 総括はしない事にしました ヒントは言ったので すこし待ってください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 つづいて 質問者の考えにおいてそのまま受け留めて反応してまいります。 ★ 生きる理由 ☆ は もしそれが得られたとしても それはまづ先に《生きている》ゆえにです。 言いかえると いま生きているそのとき その言わば存在理由をたづねてみるということだと思います。 レゾンデートル(存在理由)は エートル(有る・生きている)に先行しません。 ヒラメキは 無条件におとづれます。 無宗教かどうかは 問いません。 自分に問うかどうかも条件ではありません。 いつおとづれるかは分かりません。 夜中の盗人のごとくです。
補足
仮りに《なぜ生きるか》と問うて答えを得たとしましょう。 たとえば 愛だと。 自分の・人間としての愛。あるいは神の愛。・・・ というとき では・それでも この愛は そもそも《生きている》という基礎の上におこなわれるのではないか? あるいはつまり むしろ《生きている》こと自体が 愛なのではないか? ほかの答えを持って来ても だいたい同じではないか。 《なぜ生きるか》と問うことは 生きること・生きていることを すでにおれのものだと決めつけてかかっています。 生きることすらが おれの自由になるのだと思い込んでしまった状態にあります。 その段階でほとんどそれは《生きること》を捨ててもよいという思想に足を踏み入れています。 もしほんとうに《なぜ生きるのか》と問うのならば そのあたりの《存在とはどういうことか》という問いを合わせて考えるようになるはずです。 《なぜ生きなくてもよいか》の答えを出してから 《なぜ生きるのか》を問うてください。 生を苦と捉え 《生きなくてもよい》と考えた。あるいは《無明の火が吹き消されること(ニルワーナ)》――それは おのれが死ぬこと――を この上の無いさとりの状態だとほざいた。・・・この亡霊のもんだいです。
人は なぜ生きるのか? 生きる理由とは 何なのか? 生きることに消極的になり 生きる理由を探さねばならない時が 誰にでもあるのではないでしょうか どうしても 探さねばならない時がある 見つかるまで というか そんな時がある 多くの人が そうかもしれないように 私の体験も そういった事だったように思います ・ ・ ・ ・ ・ Bさん・・ ここまで書いたら 詰まっちゃったよ どうしよう そんなもん 何も無理して話すこたぁねえだろ~ って言われそうな気がする しまっとけよ・・ って言われそうな気もする 大方 察しはつくから いいんだ って たぶん 一度でも答えを出したことのある人には 必要のない話だと思う Bさんにも必要ないかもしれない 回想録なんか ゴータマの亡霊と同んなじじゃ ないかって もう 年なんだから 突きつめた話なんか よせっ ・・って 淡々と 明るく で いいとか いけ とか どう しま しょう ね・・・?
お礼
生きることの中軸は 意志です。 みづから死ぬということは この意志を抹殺するという意志です。 人間のこの意志は 自由意志と呼ばれるように・またそう呼ばれるまでに《自由》です。 つまり《意志ないし自由》を抹殺するまでの意志と自由があたえられているということだと思います。 生きるとき 何をして生きようと考えることがありましょう。 あるいは 何のためにと。 あるいは このまま生きていても仕方がない。いっそ死のうかと考えることもありましょう。 この場合は だいたい 死んで花実が咲くものかというところで引き返します。 けれども 《なぜ 生きるか》は 言ってみれば おあそびです。 その答えが得られたからと言って 《生きること》にほとんどかかわりません。 なぜなら 《なぜ生きるか》と問うことが出来るのは 生きているからです。 もしこういう問題でないのなら それはせいぜい先ほどの《いっそ死のうか》の問いまでです。 * ▲ (ピンダロス:巫女祝勝歌III》) ~~~~ 愛する魂よ 不滅の生を望まず 力の及ぶところを究めよ ● (テレンティウス) ~~~~~ 汝の欲するもの起こり得ぬゆえに 汝の能うものを欲せよ ◆ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~ ・・・テレンティウスが賢明にも 汝の欲するもの起こり得ぬゆえに 汝のなし能うものを欲せよ と語った・・・。 この言葉の凱切なるを誰が疑い得ようか。しかし これは悲惨な人に いよいよ悲惨ならざらんため与えられた助言なのである。 ところが すべての人がそうあることを欲する幸福な者には 汝の欲するものが起こり得ぬ と言うのは正当でもなく真実でもない。なぜなら もし彼が幸福であるなら 彼が欲することはみな起こり得るからである。 それというのも彼は起こり得ないことは欲しないから。 けれども このような生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。 ■ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~ * 《可死性》が 有限性であり 《不可死性》が無限性のことであるとするなら。 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。 ▼ (P.ヴァレリ:カイエについて) ~~~~~~~~~ * 《自己》を主張したと言われる。 ・・・私はこのしごとを・・・一つの試みとして そしてこの試み自体を こういうものをひとが試みたことはまだないということに私が気づいたときに私が抱いた驚きのしるしとして 提出する。 もし自分の制作が無価値でなければ――それは大いに貴重であり 自分はそれを自分のためのものとして取っておく。もしそれが無価値なら――それはなんのためにもなんの値打ちもないわけだが 自分はそれを――誰のためでもなく 取っておく。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっとだけ・・ ヒラメキを なぜヒラメキというのか? ヒラメキとは それ自体は言葉ではない 言葉ではないから ヒラメキというのでしょう 言葉以前の直観に伝わったものがヒラメキです 言葉とは 直観が(一度得た)ヒラメキに対して検索し、照合し 意志による確定を経て生み出されたものです 受動態におけるヒラメキと 能動態におけるヒラメキというもの (お忘れでしょうか・・ ) 受動態は説明不要でしょう 能動態の一例を上げてみましょう 色不異空 から 色即是空へ 異ならず というのは言葉(概念)で分かってはいても まだ そのものを得てはいない 即・すなわち というのは そのものを得た事を表している この場合 前者の「異ならず」というのは 概念的結果であると同時に、そのものに対する想定を表している より深い段階に対しての想定がなされている 概念の感性化を行う意志により想定がなされている つまり 意志によって 概念的結果の確認と、それに伴う直観の働きを促している 意志は直観の働きを促している・・ と 見ることができるわけです 能動態におけるヒラメキとは このようにして得られた結果なのでしょう 意志によって得られたヒラメキ(そのもの)を悟りと言い その意志を菩提心と言うのでしょう 意志の無いまま得られたヒラメキは 悟りとは言わない どこまでも深く求めて止まない意志が 直観を通して得たもの はるか遠い昔に 一人の人間が到達しえたもの・・ Bさん もう ゴータマの悪口を言うのは止めにしましょうや・・
お礼
Aさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 言葉以前の直観に伝わったものがヒラメキです 言葉とは 直観が(一度得た)ヒラメキに対して検索し、照合し 意志による確定を経て生み出されたものです ~~~~~~ ☆ ほぼイメージだけのヒラメキを 《直感》と言い 何らかの言葉や意味につながるヒラメキを《直観》と言うようです。 ○ 世界におけるヒラメキの位置づけ:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやと言うほどでしょうが これを簡略にしたのが 次です。 ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《感性》というのは ひとつ前の図解において それは《身の五感》として 全体にわたって控えている。と見るのが よいかと考えます。 ★ 概念の感性化を行う意志 ☆ これは 分かりません。むしろ意志〔のもとにはたらく悟性ないし理性〕は 感性を概念化するものです。 感性において知覚したそのたとえば味覚という感覚 これが 或る種のイメージとなって 甘いなら甘い 辛いなら辛いという言葉につなげられ概念として認識するようになります。 たしかに 梅干しという言葉つまり概念を 思うことによって口の中に唾液が生じるような事例を取り上げるなら 《概念の感性化》と言えるかも知れません。知れませんが こういうことは その言葉を聞いて思わず起きる出来事なのであって 意志が必要に応じて一般におこなう事柄であるとは思われません。 そのことを見ておいて 次の説明の全体について検討します。 ★ ~~~~~ 能動態〔におけるヒラメキというもの〕の一例を上げてみましょう 色不異空 から 色即是空へ 異ならず というのは言葉(概念)で分かってはいても まだ そのものを得てはいない 即・すなわち というのは そのものを得た事を表している この場合 前者の「異ならず」というのは 概念的結果であると同時に、そのものに対する想定を表している より深い段階に対しての想定がなされている 概念の感性化を行う意志により想定がなされている つまり 意志によって 概念的結果の確認と、それに伴う直観の働きを促している 意志は直観の働きを促している・・ と 見ることができるわけです 能動態におけるヒラメキとは このようにして得られた結果なのでしょう ~~~~~~~~ ☆ いえ。おそらくですが もし仮りに《概念の感性化》がおこなわれるとして ★ ~~~~ 意志は直観の働きを促している・・ と 見ることができるわけです ~~~~~~~ ☆ としたとしても そのことがそのまま ★ 能動態におけるヒラメキとは このようにして得られた結果なのでしょう ☆ とは成りません。 《直観のハタラキを促したこと》と《意志によって=能動態において ヒラメキが得られたと主張すること》とは別です。 前者から後者へのあいだには はっきりとした隔たりがあります。 ヒラメキの起こることを意志がうながしたとき そのままヒラメキが仮りに得られたとしましょう。 もしほんとうにそうなら 次の二点について 説明をしなければならないはずです。 1. 意志は どういうヒラメキを促したのか? ヒラメキ一般の起こることをか? すでに問い求めている主題についての何らかの答えについてのヒラメキをか? もしこの一連の意志行為の中でヒラメキが起こったとするのなら その答えは すでに自分の中で芽生えて来ていた内容と同じものではないか? (→ その場合には 非思考としてのヒラメキではなくなります。自分の思考にかかわる成果としてのヒラメキです。つまり 意志の産物としてのヒラメキは 非思考のヒラメキではなく 思考の産物としてのヒラメキです)。 2. もし意志の促しに応じてヒラメキが得られたとするのなら 理論上ヒトという生物にあっては つねにそのような能動態におけるヒラメキが可能だということになる。 禅定などの状態をつくりその能動ヒラメキの条件づくりをする意志行為が必要だと見るよりは ヒトは生まれながらにして その意志行為によって人間がそしておのれが予想もしていなかったような中身のヒラメキを それとしての条件がととのえば(=という意味は おそらくたとえば自性清浄心=ブッダターがほかの何かに妨げられなければ)つねに 起こさせこれを得ることが出来る。となります。 つまり早い話が ヒラメキは――自性清浄心のもとでは―― 自由自在に得ることができる。となります。 それでよいか? (→ この場合も 前項の最終的な問題がまったく同じかたちで生じます)。 これらふたつの試験を通らねばならないでしょう。 ★ 意志によって得られたヒラメキ(そのもの)を悟りと言い その意志を菩提心と言うのでしょう ☆ それは だいたいの場合 独り善がりの観想を得たというぬか喜びでしょう。 《意志》がそこまでのハタラキを有するのなら――つまり上の二つの関門を合格のうちに通ったとするのなら―― すでにヒトはそのままで 理論上は 神です。 ★ 意志の無いまま得られたヒラメキは 悟りとは言わない ☆ それは 問題ではありません。つまり ヒラメキはつねに その中身が勝負です。誰れの・どういう場合におけるヒラメキかは 問題にはなりません。 ★ ~~~~ どこまでも深く求めて止まない意志が 直観を通して得たもの はるか遠い昔に 一人の人間が到達しえたもの・・ ~~~~~~ ☆ これは ただの文学的修辞です。神通力といったたぐいのカテゴリに属します。 ★ ~~~ Bさん もう ゴータマの悪口を言うのは止めにしましょうや・・ ~~~~~~ ☆ A さん もう ゴータマの亡霊を持ち出して 人びとのあたまの中をモヤモヤにした状態にしておくのは やめにしましょうや。
こんにちわBさん 体験をお話したいと思いますが その前に 前回のやり取りの内容について触れておきます 意志が直観に命ずることについて ですが 私がその可能性を申し上げたところ Bさんは明確に否定なさった 私は その根拠を問いませんが これから お話しようとする体験の総括において必要と思われるので 思うところを一応述べておきたいと思います・・ 通常の精神活動の状態においては 感性全体、すなわち感覚と直観は密接な関係にあり、切り離すことができないものです ですが 「禅定」と呼ばれる(特殊ともいえる)状態においては違ってくるように思われます 感覚を意図的に遮断することにより、直観の働きを自由に解放し、活用させようとしているように見受けられます 通常の状態では把握できないものを、直観の働きを最大限に活用して得ようというものです この場合、禅定の深まりの、それぞれの段階において 直観が捉えうるものが変わってくるようです (また、直観に命ずる意志のあり方にも変化が生じてくる) そんなふうに思います 浅い段階の禅定では 種々雑多であり、中には魔障といわれる(意志を)惑わそうとするものもあります つまり 何が入ってくるのか、何が飛びこんでくるのか分からない しかし 深い段階に至れば、魔障は消えて、より高度なものを捉えられるようになってくる (この辺のことは仏書に多く語られていると思いますが・・) ともかく 禅定に熟達すれば 意志による直観の制御が可能になる 直観というレーダーの捕捉範囲を 全方位にすることもできれば、局所的にすることもできる また、その感度の調整をすることもできる といった感じです そうした 直観の制御の内容については 先人が既に数多くの事を試され、実践されてきたのだと思います すこし背伸びをした言い方になりますが・・ 只管打座と呼ばれる黙照禅は、直観の働きを全方位の状態に保つことに重点を置いたものでしょうし 公案を用いる看話禅は、言葉を用いて直観の働きを局所的に集中させる といったものだと思います また、密教では さらに、さまざまな観想や、それに伴った真言という複数の要素を同時に用いて、速やかに直観の制御を図っていく・・ といった感じでしょうか いずれにせよ そうした手法の違いはあっても 禅定においては、意図的に直観のコントロールがなされている事は間違いないと思います また、一般に禅定の最終段階といわれる 想受滅は精神活動の完全な停止とされていますが これは、意志と直観が切り離された状態だとも思えます そうした状態の確認すらできない という 意志が全く存在せず、完全に自由な直観のみの状態になったことを指しているように思います 感性の深まりというか 直観の深まりにおいて、意志そのものの有り様にも変化が生じてくる 六段階の禅定とは、そうした事のように思います 以上の事柄を含めた視点から見れば 「通常」といえる、普段の私達の状態も、一種の安定した禅定の状態である と見る事もできそうです また、そこにおける直観の働きは その大部分を感覚に依存した状態でもあるようです 「通常」という この安定した状態からの離脱は 一見すると容易ではないように思えますが 私は案外、そうでもないのではないか と思っています 座禅という決まった形以外での禅定体験というものを その程度の差こそあれ、誰でも体験している・・と思うのです 意志による 「通常」という禅定の変化は いくらでも起きている、ありふれていると思います 私がこれからお話しようとする体験も そうしたありふれた事です 多くの人が体験しているかもしれない ありふれた事です すこし間を置いて 次回お話させていただきます Bさん お元気で。
お礼
あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 微妙ですね。微妙ですよ。 ★ 直観の働きを自由に解放し、活用させようとしている ☆ その結果 ヒラメキは そのような意志行為の効果が現われその意志行為の直接の結果として 意志によって得られた・・・のか? たぶん違いましょう。 禅定の状態に入って 直観が得られやすいようにしたことと 直観がじっさいに得られることとは つながりがありません。 言いかえると 禅定に入る・入らないは ヒラメキのおとづれることと 何の関係もありません。 ★ 座禅という決まった形以外での禅定体験というものを その程度の差こそあれ、誰でも体験している・・と思うのです ☆ なるほど ヒラメキ体験は 普遍的な出来事であり このようにひろく一般に開かれていると見ることにそのまま同意しますが でも考えてみるなら 要するに禅定体験をわざわざ持ち出さなくても ヒラメキは起きている。こう見たほうが よりいっそう開かれた見方である。ということになります。よ。
お礼に対して返答いたします。 確かに仰る通りで「なぜ生きるか」という問いが発生する場合、生きる主体が自己に問う場合と、他人が他人に問う場合に別れます。そして前者は失礼ではない。それなら後者はどうなのか。 これもまた、失礼に当たるものではないと考えます。 もしもこの他者というのが、「生きている」存在ではない場合、つまり「生きている」からこそ「なぜ生きるか」と自問自答したことがない存在である場合、確かにこれは失礼にあたると思います。しかし相手が同じ「生きている」存在であるなら、相手もどうように自分の生に対して疑問を持っている。その疑問を解決するために、他人にもそれを問う。これを私は悪いこととは思えません。 また、悟りを開いた人間が、つまり「生きている意味」が分かってしまった(或いは分かったと錯覚しているだけ)人間が、分かっていない(或いは気付いていない)人間に対して「なぜ生きるか」と問う場合、これを厚かましく失礼だと、質問者さんはお考えになっているのだと察します。しかし私はこう思います。悟りを開いた人間は、つまり生きている意味を理解した人間は、もはや人間とは考えにくい。生まれた疑問に一生囚われ続けるのが人間であるとするなら、つまり生まれた疑問を一生考え続ける義務を負ったのが人間であるとするなら、そこから一抜けしたサトリビトは人間ではありません。そんな人間に、同じ人間の痛みが分かるはずがない。 これを失礼と捉えるなら、確かに失礼かもしれません。 ですが悟った人間は悟った人間で、大変なんだと思います。 自分の生きる意味を理解してしまったら、もう人生で問うものがない。これほど空虚な生涯を何で埋めるのか。 だから他人に問いてしまうのではないでしょうか。 自分を救えないから、人を救うんです。
お礼
いるぜるぜさん ご回答をありがとうございます。 今回は 共通の土俵が出来上がって 話し合いはかなり簡単にすすめられるのではないでしょうか。 すでに結論から 応答いたします。 ★ 悟りを開いた人間が、つまり「生きている意味」が分かってしまった(或いは分かったと錯覚しているだけ)人間が、分かっていない(或いは気付いていない)人間に対して「なぜ生きるか」と問う場合、これを厚かましく失礼だと、質問者さんはお考えになっているのだと察します。 ☆ ええ。たしかにこれです。 ★ ~~~~~~ しかし私はこう思います。悟りを開いた人間は、つまり生きている意味を理解した人間は、もはや人間とは考えにくい。生まれた疑問に一生囚われ続けるのが人間であるとするなら、つまり生まれた疑問を一生考え続ける義務を負ったのが人間であるとするなら、そこから一抜けしたサトリビトは人間ではありません。そんな人間に、同じ人間の痛みが分かるはずがない。 これを失礼と捉えるなら、確かに失礼かもしれません。 ですが悟った人間は悟った人間で、大変なんだと思います。 自分の生きる意味を理解してしまったら、もう人生で問うものがない。これほど空虚な生涯を何で埋めるのか。 だから他人に問いてしまうのではないでしょうか。 自分を救えないから、人を救うんです。 ~~~~~~~~ ☆ ここはいくらか複雑ですが すなわち 次が 最初に確認した結論です。 ★ ~~~~ そこ〔* 生まれた疑問 生きる意味を問うこと〕から一抜けしたサトリビトは人間ではありません。そんな人間に、同じ人間の痛みが分かるはずがない。 これを失礼と捉えるなら、確かに失礼かもしれません。 ~~~~~~ ☆ そしてもしゴータマ・ブッダと呼ばれる人の場合を当てはめるなら この人は 長年の修行の末に《さとりを得た(ブッダなる目覚めた状態になった)》と公言したのですが 伝えられるところによると そのさとりの中身は ついぞ明らかにしなかったようなのです。そういう場合 《なぜ生きるのか》とほかの人たちがそれぞれ自身に問うようにと声をかけるのは やはり失礼だと考えられます。 その場にいた・のちに弟子になる人たちは よほどそのゴータマ氏のオーラにでも圧倒されてしまったのか 何だか分かりませんが あぁ そのブッダなるさとりは ほんものですねと同意しその《法》を人びとにおしえることに参加したようなのです。 ★ ~~~~ ですが悟った人間は悟った人間で、大変なんだと思います。 自分の生きる意味を理解してしまったら、もう人生で問うものがない。これほど空虚な生涯を何で埋めるの か。 だから他人に問いてしまうのではないでしょうか。 自分を救えないから、人を救うんです。 ~~~~~~ ☆ 《自分を救えないから、人を救うんです》か? ああ もう自分を救う必要はなくなっているという意味ですね。 でも さきほど触れたように《さとり》の中身は明らかになっていないのですし 他人にオシエを説いてすくったと書いてあるわけですが その中身は 一向に明らかにならない。こういう状態であり 情況にある。と思われます。 生きることは 思うようにならない・つまり《苦》だと言います。それは 世界が見えていない無明あるいはどうしようもなく自分の欲するものを手に入れたがる渇愛または煩悩などなどが 根本的な原因だと。 では その無明を明知へと転換するには どうするか? ニルワーナに達すればよい。つまり死ねばよい。煩悩は 身と心から出るのだから その身と心なる存在をほろぼせばよい。これが ニルワーナであると。 たしかに 身がほろべば もう六道輪廻をわづらうこともなくなるのでしょうか。 けれども これが さとりでしょうか? すくいでしょうか? それよりは もし仮りに《なぜ生きるのか》と問うとしたばあい その場合にも ★ 生きる主体が自己に問う場合 ☆ のほうが うんとすこやかで ふつうに自然でかつふつうに知性的人間的なのではないでしょうか? ヨコから・あるいは上から目線で この問いを持ちたまえなどと茶々を入れて来るのは どうも《失礼》にあたるとわたしには思われます。 このようにしつこく反応いたします。ほかの回答者の方々とのやり取りでも 同じようにガンコをつらぬいています。 参考: ● (【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>) ~~~ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 【 第一 蛇の章 】 <1、蛇> --------------------------------------------------- 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、≫怒りが起こったのを制する≪修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、≫すっかり愛欲を断ってしまった≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 3 奔り流れる≫妄執の水流を涸らし尽して余すことのない≪修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ~~~~~~~~~
お礼
ちちならべさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。 わたしの考えに沿って整理し応答をしてまいります。 ★ ~~~ 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。 ~~~~~ ☆ おそらくそうなのだろうと思います。 問題は その上で――このような本来の姿が基礎としてあり 現実に生きられているその上で―― 何らかの《生きる意味》を人間は持つようになるのも 実際でありましょうし 《人間の知識により 想像された物(生きる)が今ある》ことも見止めないではいられないことです。 放っておけばよいというのが正解であれば 哲学はその正解の妥当性をも問い続けます。 ★ ~~~~ 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 ~~~~~~ ☆ すなわちこの状態から では 生きる意味をどうして問うことになったか? なのだと思われます。 ただちに分かることは 《単純に生きている》とき人は この生きることをも認識するということなのでしょう。生きるという概念が持たれれば その意味をも問い求めるものと思われます。 ★ ~~~~ いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 ~~~~~~ ☆ そういう習性なのでしょうか。 なぜならその無人島において たとえばキノコがあればそれが食べられるかどうかを知らなければなりません。わるいものを食って消化がわるくなればそれに効く薬草を探したかも知れません。 したがって ひとは 生きることを認識し 単位体としての存在であるわれをも自覚するようになります。 こうして考えて来たとき わたしには人間の心性ないし知性には三つの段階と区分があると見ています。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0:歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在) +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 《イリ》なる歴史知性が 《自覚を持って単純に生きている》姿ではないかと思います。それは ★ 農作は始まっているでしょうか ☆ というように 農耕を始めることにおいて世界の内に入ったのだと。 狩猟漁労採集で生きていたときから 人為的に食糧となる植物を栽培するという農耕が始まりそこでは その種から実が成るまでの《時間》が経過します。この時間の認識に沿って 世界の認識という行為にも歴史があると見たでしょうし また一人ひとりの存在は かなしいかな やがて死という限界を迎えるという時間過程をも知ったはずです。 世界内存在とは 時間的存在だという意味のはずです。それとしての《わたし》の自覚のはずです。 《ヨリ》なる原始心性のころには アニミズムと現在から見て捉えるのならば 到るところのあらゆるものに精霊を見たのでしょう。みづからの存在の精霊ともつながっていると見たのでしょう。 シャーマニズムでは シャーマンがその精霊じたいに憑依すると言うのでしょうか 意識という意識を脱ぎ捨て取り除くようにして 《脱自》というのでしょうか それをとおして生活に必要で大事なことのお告げを得ようとしたものと見られます。 やがて《わたし》が自覚されて来るなら 世界は晴れ上がり《精霊》にかんしては 大宇宙と小宇宙とのふたつに区分して捉えたのかも知れません。 梵我一如と言われます。 宇宙の主宰神ブラフマン(梵天)と小宇宙たる人間の〔精霊としての〕アートマン(霊我・真我)とのふたつです。 ただしこれは あくまで《神》の世界での話になります。《思考に非ず 経験に非ず》の世界です。 ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この《非思考の庭》におけるたとえば《梵我一如》なのだと見られます。つまり 信仰の問題です。 《イリ》なるふつうの歴史知性にあっては 《信じる》と《考える》とが・つまりあるいは《神と我れとの関係世界(それは 主観内面の世界)》と《経験世界》とが区別されしかもふつうに使い分けがなされると思います。 そこで《ヨセ》なる超歴史知性の問題です。 ★ ~~~~ いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 ~~~~~~ ☆ 《格差》の問題そして《神》の扱いの問題に発していると考えます。束ね寄せるというのですから そういう意味での――イリ歴史知性の神とは少し違った意味での――《神》が発明されたのでしょうし 《格差》としては 一般に二階建て構造から成る国家の問題だと見ます。 ふつうの神とは違うというのは ヨセなり知性の神は すでにヨセなる知性人がその神そのものであるか神のこの世での唯一の代理人であるととなえるところにあります。アマアガリしてしまったのです。 社会が平屋建てから成る家であったときには まだ格差はそれとしてあって それが固定してしまうものでもなく流動的であり 程度問題だったと考えられます。 ところが 主宰神ブラフマンをもっぱら祀る役目をになうバラモン僧(ブラフミン)たちは 四姓なる制度を確立しました。生まれが違うのだと説きました。前世からの因縁であると。あらゆる人は梵我一如なる存在であるがこの現世では 固定された身分制のもとにそれぞれの身分に生まれて来てそのように身分を守って生きるのだと。 いや 生まれは関係ない ただおこないのみが 人生と人格を決めるのだとゴータマ氏は言ったのだと思います。 それゆえ アン‐アートマン(無我)をとなえ 《ヨセ》なるスーパー歴史知性に立ち向かいました。アートマンを否定したのなら ブラフマンをも否定します。よって 《非思考の庭》が ゴータマ説では次のようになっているのでしょう。 ゴータマ・ブッダの信仰:無無一如(空観) 無:ア‐ブラフマン(無梵。無い神) 無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂滅) ゴータマ説が この非思考の庭を捉えた信仰であるかどうか何とも言えませんが もしこうであるとして そのあとどうなったか? 例の四苦八苦があります。病老死のほかに生も苦であると唱えました。《苦》には 悩み苦しみのほかに 思うようにならないという意味もあるようですが なぜ《生》をこの苦に入れて規定したのか? 苦からの解脱と言えば この身と心をゼロにすることだとなりかねません。ニルワーナと言い始めたのですから。 問題は 《格差ないし固定身分制》としての不自由です。それに対する世界観としての問い求めです。 言いかえるなら 《ふつうに自覚を持って生きている》ことの保持にあります。いかに生きる意味を問うたにしても その基礎ないし基本の《生きる》の持続が すでに目的です。飾りは要りませんし いかに精神のいと高きところを目指すにしても――にんげんが神になるというまでの――アマアガリは 無謀です。 言いかえると ゴータマ氏の説は人気を呼び多くの賛同者を得て今にいたりますが 果たしてそれは どういう《生きる》を目指したかに問題はあります。 どういう歴史知性のあり方を説いたか。 果たしてイリなるふつうの歴史知性にとどまっているか? ヨセなる超歴史知性にかかわっていないか? バラモンの身分制を揚棄しようとするあまりに その《無我説》において・ということは ワタシをどう自覚し扱うかにおいて ひょっとして言わば別種のだがやはり《アマアガリ》を起こしているのでないか? ゴータマ・ブッダの神格化のことです。 苦からの解脱あるいは無明からさとりに達し明知を得るに到るというのならば ただ単純に《ふつうに我れを自覚し単純に生きる》というイリ歴史知性に立ち帰るとだけ言えばよいはずです。 また無無一如の無神論も梵我一如の有神論も 信仰の類型としては同じものです。神がいくつかあってはたまりません。ただ呼び名がちがっているだけです。すべて非思考の庭として主観内面において成り立っていますし それとしての動態であるはすです。 考えてみれば この質問がゴータマ・ブッダ論になるのなら もっとたたき台をしっかりとしたものとして用意し 初めから原文にしたがうなどをおこなって くわしいやり取りを展開できるようにすればよかったかと思っています。 まだまだ 粗いのですが これからどしどし発展していければよいと思います。 ありがとうございました。