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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか)

なぜ生きるのか?ゴータマ・ブッダの思想を考察する

このQ&Aのポイント
  • 人間の存在の意義について問いかけるゴータマ・ブッダの思想は、末法時代においても有効なのだろうか。
  • 生と死の不可解さについて、ゴータマ・ブッダは「生きる理由」や「死ぬ必要性」について言及しているが、これが人間のいのちと存在に対して失礼ではないのか。
  • さらに、寂静や涅槃といった概念についても疑問を投げかけ、ゴータマ・ブッダの思想はどれだけ真実性を持っているのか疑わしさが残る。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

哲学音痴ですが 私の見解も聞いていただけますか? 何故生きるのか? あらゆる生物と同じで、本能的に・・・ ただ、人間はいらぬ知識が有る為、 今回のような議論をよぶのでしょう 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 年頃になれば、Hもするでしょう(おそらくバックで) 子孫が50代目まで行った時言葉は生まれているでしょうか? 農作は始まっているでしょうか 幸せの観念はあるでしょうか、 争いはおそらく起こるでしょう。 争いを戒める為の教えが出てきているでしょうか 共に助けあって生きる教えがあるでしょうか その時に、神が生まれるのでしょうか? いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 解答になってないかもしませんが、 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ちちならべさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  わたしの考えに沿って整理し応答をしてまいります。  ★ ~~~   「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で  人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。  ~~~~~  ☆ おそらくそうなのだろうと思います。  問題は その上で――このような本来の姿が基礎としてあり 現実に生きられているその上で―― 何らかの《生きる意味》を人間は持つようになるのも 実際でありましょうし 《人間の知識により 想像された物(生きる)が今ある》ことも見止めないではいられないことです。  放っておけばよいというのが正解であれば 哲学はその正解の妥当性をも問い続けます。  ★ ~~~~  乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、  彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、  生きる意味も考えることは無いと思います。  ただ単純に生きようとして行くでしょう。  ~~~~~~  ☆ すなわちこの状態から では 生きる意味をどうして問うことになったか? なのだと思われます。  ただちに分かることは 《単純に生きている》とき人は この生きることをも認識するということなのでしょう。生きるという概念が持たれれば その意味をも問い求めるものと思われます。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ そういう習性なのでしょうか。  なぜならその無人島において たとえばキノコがあればそれが食べられるかどうかを知らなければなりません。わるいものを食って消化がわるくなればそれに効く薬草を探したかも知れません。  したがって ひとは 生きることを認識し 単位体としての存在であるわれをも自覚するようになります。  こうして考えて来たとき わたしには人間の心性ないし知性には三つの段階と区分があると見ています。   -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム    0:歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在)   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。      《イリ》なる歴史知性が 《自覚を持って単純に生きている》姿ではないかと思います。それは  ★ 農作は始まっているでしょうか  ☆ というように 農耕を始めることにおいて世界の内に入ったのだと。  狩猟漁労採集で生きていたときから 人為的に食糧となる植物を栽培するという農耕が始まりそこでは その種から実が成るまでの《時間》が経過します。この時間の認識に沿って 世界の認識という行為にも歴史があると見たでしょうし また一人ひとりの存在は かなしいかな やがて死という限界を迎えるという時間過程をも知ったはずです。  世界内存在とは 時間的存在だという意味のはずです。それとしての《わたし》の自覚のはずです。   《ヨリ》なる原始心性のころには アニミズムと現在から見て捉えるのならば 到るところのあらゆるものに精霊を見たのでしょう。みづからの存在の精霊ともつながっていると見たのでしょう。  シャーマニズムでは シャーマンがその精霊じたいに憑依すると言うのでしょうか 意識という意識を脱ぎ捨て取り除くようにして 《脱自》というのでしょうか それをとおして生活に必要で大事なことのお告げを得ようとしたものと見られます。    やがて《わたし》が自覚されて来るなら 世界は晴れ上がり《精霊》にかんしては 大宇宙と小宇宙とのふたつに区分して捉えたのかも知れません。  梵我一如と言われます。  宇宙の主宰神ブラフマン(梵天)と小宇宙たる人間の〔精霊としての〕アートマン(霊我・真我)とのふたつです。  ただしこれは あくまで《神》の世界での話になります。《思考に非ず 経験に非ず》の世界です。   ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この《非思考の庭》におけるたとえば《梵我一如》なのだと見られます。つまり 信仰の問題です。  《イリ》なるふつうの歴史知性にあっては 《信じる》と《考える》とが・つまりあるいは《神と我れとの関係世界(それは 主観内面の世界)》と《経験世界》とが区別されしかもふつうに使い分けがなされると思います。  そこで《ヨセ》なる超歴史知性の問題です。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《格差》の問題そして《神》の扱いの問題に発していると考えます。束ね寄せるというのですから そういう意味での――イリ歴史知性の神とは少し違った意味での――《神》が発明されたのでしょうし 《格差》としては 一般に二階建て構造から成る国家の問題だと見ます。  ふつうの神とは違うというのは ヨセなり知性の神は すでにヨセなる知性人がその神そのものであるか神のこの世での唯一の代理人であるととなえるところにあります。アマアガリしてしまったのです。  社会が平屋建てから成る家であったときには まだ格差はそれとしてあって それが固定してしまうものでもなく流動的であり 程度問題だったと考えられます。    ところが 主宰神ブラフマンをもっぱら祀る役目をになうバラモン僧(ブラフミン)たちは 四姓なる制度を確立しました。生まれが違うのだと説きました。前世からの因縁であると。あらゆる人は梵我一如なる存在であるがこの現世では 固定された身分制のもとにそれぞれの身分に生まれて来てそのように身分を守って生きるのだと。  いや 生まれは関係ない ただおこないのみが 人生と人格を決めるのだとゴータマ氏は言ったのだと思います。  それゆえ アン‐アートマン(無我)をとなえ 《ヨセ》なるスーパー歴史知性に立ち向かいました。アートマンを否定したのなら ブラフマンをも否定します。よって 《非思考の庭》が ゴータマ説では次のようになっているのでしょう。   ゴータマ・ブッダの信仰:無無一如(空観)     無:ア‐ブラフマン(無梵。無い神)     無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂滅)  ゴータマ説が この非思考の庭を捉えた信仰であるかどうか何とも言えませんが もしこうであるとして そのあとどうなったか?  例の四苦八苦があります。病老死のほかに生も苦であると唱えました。《苦》には 悩み苦しみのほかに 思うようにならないという意味もあるようですが なぜ《生》をこの苦に入れて規定したのか? 苦からの解脱と言えば この身と心をゼロにすることだとなりかねません。ニルワーナと言い始めたのですから。  問題は 《格差ないし固定身分制》としての不自由です。それに対する世界観としての問い求めです。  言いかえるなら 《ふつうに自覚を持って生きている》ことの保持にあります。いかに生きる意味を問うたにしても その基礎ないし基本の《生きる》の持続が すでに目的です。飾りは要りませんし いかに精神のいと高きところを目指すにしても――にんげんが神になるというまでの――アマアガリは 無謀です。  言いかえると ゴータマ氏の説は人気を呼び多くの賛同者を得て今にいたりますが 果たしてそれは どういう《生きる》を目指したかに問題はあります。  どういう歴史知性のあり方を説いたか。  果たしてイリなるふつうの歴史知性にとどまっているか?  ヨセなる超歴史知性にかかわっていないか? バラモンの身分制を揚棄しようとするあまりに その《無我説》において・ということは ワタシをどう自覚し扱うかにおいて ひょっとして言わば別種のだがやはり《アマアガリ》を起こしているのでないか?  ゴータマ・ブッダの神格化のことです。  苦からの解脱あるいは無明からさとりに達し明知を得るに到るというのならば ただ単純に《ふつうに我れを自覚し単純に生きる》というイリ歴史知性に立ち帰るとだけ言えばよいはずです。  また無無一如の無神論も梵我一如の有神論も 信仰の類型としては同じものです。神がいくつかあってはたまりません。ただ呼び名がちがっているだけです。すべて非思考の庭として主観内面において成り立っていますし それとしての動態であるはすです。  考えてみれば この質問がゴータマ・ブッダ論になるのなら もっとたたき台をしっかりとしたものとして用意し 初めから原文にしたがうなどをおこなって くわしいやり取りを展開できるようにすればよかったかと思っています。  まだまだ 粗いのですが これからどしどし発展していければよいと思います。  ありがとうございました。  

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その他の回答 (49)

回答No.9

>末法人にとってもガンではないか?  いちのさんもそざんいさんをしれついのたいょしうにならん。  どこのびうょんいにいっても末法人はがんでにうゅいんしていないぞ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《呪い》ではないとおっしゃる。  ぢゃあこう見直してはどうですか?  つまり がんで入院していない状態こそが ゴータマ・マジックにかかっていて 症状すらも分からなくなっていると。    もし病院に入っているのがほんとうだというのならば そのわたしだけが ブッダ・ヰルスに感染していないのだと。  それとも けっきょく変な免疫が出来たとでも解釈するとよいでしょう。

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noname#181644
noname#181644
回答No.8

素人の私には対応しきれないのですが、物事、言葉には背景がありますから、 背景を理解しないと、その言葉ないし物事を理解したことにはならないと思います。 諸思想にも、背景があるのでしょう。私からはこの辺りで、失礼します。

bragelonne
質問者

お礼

 どうぞ。ご意志を尊重します。  書いてあることについて反応すれば:  ゴータマ氏の思想にあるその《背景を理解》すると 身がほろぶにいたる考えを持ちそれを実行に移すことについても 妥当な根拠があるはずだとおっしゃっています。  そうは考えませんが そういう覚え書きをしておきます。

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回答No.7

おまえみたい社会に貢献せず暇潰しばっかしてんのをうんこ野郎ていうんだろうな。 なぜ、いのちに失礼もくそもあんねん?なんもねえ。本来生きるも死ぬも勝手だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 本来生きるも死ぬも勝手だ。  ☆ そのとおり。どうぞ。  しかも 哲学はそこをさらに問い返します。  人間と社会の理論としては どうか? と。  その段階にまで進んだ上で考えないのは すっとこどっこいでしょうね。

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noname#181644
noname#181644
回答No.6

これは聴いた話ですが、仏には魂がなく(散らした)、諸仏の請願がある、ということですから、 魂に生きることを是とする人々とは別な生き方であるということのようです。 以下は私見ですが、質問者さんは他の人の考えや生き方を軽んじている節があるように見えます。 自分の過ちをどのように受け止めるかで、器の大きさが決まる気がします。反省しましょう、というのは、 質問者さんの度量がその程度でしかないことを暴露しているようにも受け取れるのです。 口でいうだけでは埒があかず、身以て示して初めて説得的と言えるのでは。 ところで、なぜ生きるのかという問いは仏教特有ではありません。なぜ仏教に対する質問を立ち上げられたのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 れいんとーくさん ご回答をありがとうございます。  ★ ところで、なぜ生きるのかという問いは仏教特有ではありません。なぜ仏教に対する質問を立ち上げられたのですか?  ☆ ひとつに 《なぜまだ死なないのか》とまで解釈されうる《なぜ生きるのか》という問いを発することは どうもおかしい。  そしてもうひとつに それでもおかしくないという感覚や通念があるとすれば それは《煩悩から解脱するためには 身をもほろぼす》というまでの思想と生き方が ゴータマ・ブディズムにはあるようだ。  これらふたつの側面を取り上げての質問です。  ★ 口でいうだけでは埒があかず、身以て示して初めて説得的と言えるのでは。  ☆ 意味がよく読み取れませんが ここは対話をとおしての質疑応答の場ではないでしょうか? 別に身をもって何かを示すところではないと思います。  ただしわたしの場合は すでに生活態度として生きて来た思想内容で問うたり応答したりしています。    ★ 以下は私見ですが、質問者さんは他の人の考えや生き方を軽んじている節があるように見えます。  ☆ 売り言葉には――わたしは ほとんどつねに―― 買い言葉で応じます。  もしわたしが《軽んじている》とすれば それは ミラーニューロンの作用であるごとく まづは相手が《軽んじている》結果です。それ以外にはありません。そのようにこの数年ここで振る舞って来ています。つまり身をもって示しています。  ★ 自分の過ちをどのように受け止めるかで、器の大きさが決まる気がします。  ☆ あやまちは つねにその場でみとめ わびて来たはずですが どういう問題や事例を取り上げておられますか?  ★ ~~~~  反省しましょう、というのは、  質問者さんの度量がその程度でしかないことを暴露しているようにも受け取れるのです。  ~~~~~~~  ☆ 意味が取れないのですが。つまりどういう《度量》をおっしゃっているのか。分かりかねています。  たとえばトップを走るには 憎まれっ子になるのも一法です。  さもないと みんなが同じレースをしたがらなくなるか。それとも 英雄視し果ては神格化をして あほらしい(進展をはばむような)情況がつくられておしまいです。  つまり《なぜ生きているのか?》と応答するほうが 相手をバカにしていると思われ 度量も狭いのでは?  ★ ~~~~  これは聴いた話ですが、仏には魂がなく(散らした)、諸仏の請願がある、ということですから、  魂に生きることを是とする人々とは別な生き方であるということのようです。  ~~~~~~~  ☆ 《仏には魂がなく(散らした)》というところが 分かりづらいです。  そもそもゴータマ・ブッダのそのブッダぶりについては・つまりさとりについては 中身がないではないかとも問うています。  縁起説つまり因果関係の理論は あまりにも一般的すぎます。ゴータマ氏の専売特許ではないでしょう。  さとりを得ると 《魂がなく》なりあるいは《魂を散らした》ことになるというのは 残念ながらよく読み取れません。  この質問は:  《仏には魂がなく(散らした)、諸仏の請願がある》という立ち場であれ あるいは《魂に生きることを是とする》立ち場であれ 《なぜ生きるか》という問いを立てるのは 人間のいのちと存在に対して失礼ではないか?  です。  前者つまり《魂に生きることはしない》場合には 《いのちと存在に対して失礼になる》ことも辞さないということでしょうか? そういう立ち場もありうるのだから 批判することはない。こういう意味でしょうか?  それは マチガイでしょう。つまり自分が勝手にほろぶのはかまいませんが いのちと存在をないがしろにすると唱えることは 哲学として成らない。という命題を提出しての質問です。  いのちをないがしろにしてもよい。そういう場合もある。こういうご見解でありご回答でしょうか?  だとしたら 仮りに面と向かっていまの対話をしていたとするなら 途中で自分は――まさか相手のいのちを断つことはしないと思うのですが―― 自分のいのちを断つというのもありだという意味でしょうか?  わけが分かりません。  念のためですが ニルワーナというのは その修行において 息を制御するといったことをおこない 実際に呼吸をしない状態になったりするということだと思います。そういう《文化》があるから 《なぜ生きるのか?》という問いが 何の疑問も引き起こすこともなく 通って行くのではないでしょうか?  哲学としてどうお考えになりますか? という問いです。

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noname#181644
noname#181644
回答No.5

つまり、なぜ死ななきゃいけないんだよお、俺、何か悪いことしたのかよぉ、という問いまでいくと、 自分がうやむやにしてきた過ちにアクセスできるようになるんです。 ひととして根本的に立ち直りたいと思うので、そういう問いが出るのであって、 思わない人にはあまり関係ない問いなのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 れいんとーくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 自分がうやむやにしてきた過ちにアクセスできるようになるんです。  ☆ ぢゃあ 《反省しましょう》とだけ言えばよいはずです。よ。  わざわざ《なぜ生きるのか?》となぜ言わなきゃなりませんか?  ★ ~~~~  ひととして根本的に立ち直りたいと思うので、そういう問いが出るのであって、  思わない人にはあまり関係ない問いなのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ 《根本的に反省しましょう》とか《エポケーしましょう》と言えば 《根本的に立ち直りたい》ときのうたい文句になるのではないでしょうか?  わざわざ《なんで死なないのか?》と言わなければならない理由は なんでしょう?  もっとも質問者は 回答No.4の文章に対しては 《すでにたましいが死んでしまっています。よ。》という応答をしていますが。

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回答No.4

釈迦の思想が「無我・無私」で終わっていると考えるのは浅はかすぎます。 数々の投稿が妄言である事を喧伝しているに過ぎない。いい加減、カウンセラーに 診断を受けた方がいいよ、あきらかな病気ですから。

bragelonne
質問者

お礼

 すばる_はせがわさん こんにちは。中身のない回答の連投ですが まづはご投稿をありがとうございます。  ★ 釈迦の思想が「無我・無私」で終わっていると考えるのは浅はかすぎます。  ☆ では その無意味な仮説をくつがえす理論が あとで出て来ていましょうか?  だったら あの成道のとき すでに誰のどんなさとりにも劣らない最高の目覚めを得たというのは ウソだったのですね?  なおる兆しはないようですから 診断を受けたほうがよろしいですよともわたしは言いません。  あきらかにたましいが死んでしまっています。よ。

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noname#176801
noname#176801
回答No.3

生きてて当たり前。ふざけた事言わないでくださいよ。 だったら、私の人生も有って当たり前ですか?嘲笑の言葉、誹謗中傷、罵詈雑言、非難と批判の声にまみれて、こちらの気持ちに共感の言葉も同情の言葉も無い。 それが、「人として生きる事」の当たり前のあるべき姿ですか?冗談じゃないですよ。私の人としての尊敬はどこに有るんですか?人として扱われない人の人生も「当たり前の事」ですか? 世の中、人として生きる値打ちの無い人間、生きてる事が当たり前じゃない人間がここに存在するんですよ。まるで周りのおもちゃや便利な道具として扱われ、感じてる事を主張する事も、いやものを感じる自由すら奪われ、自己主張が始まれば、その感性の全てを批判されて、まるで壊れたおもちゃをゴミ置き場に捨てるように捨てられる。 その人生のどこに人としての尊敬が有るんですか?まるで周りのピエロのように生きる事だけを使命とされて、自我を持つ事を許されない。そんな人として扱われない人間の人生も当たり前だと思えって言うんですか?私の人としての尊敬はどこに有るんですか?無いでしょ?認めないでしょ?あなた方他人は。親だろうと兄弟だろうと心理カウンセラーだろうと精神科医だろうと教師だろうと。私に周りの言いなりになる役を押し付けて、言う事をきかなくなったら、肥溜めにすてように投げ捨てる。そんな人間の生き様も当たり前ですか?尊敬を認められない、人間らしく生きる事を許されない人間の生き様も当たり前ですか?冗談じゃないですよ。ふざけんじゃないですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 かいんなしゅ62さん 初めまして。ご回答をありがとうございます。  お怒りのようです。  わたしの筆のちからが及ばないので 請け売りになります。  ▲(パウロ:コリント前書 4:7-) ~~~~  7:あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。  いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。  もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。  8:あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、  わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。  いや実際、王様になっていてくれたらと思います。  そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。  9:考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように  最後に引き出される者となさいました。  わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。  10:わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、  あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。  わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。  あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。  11:今の今までわたしたちは、飢え、渇き、  着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、  12:苦労して自分の手で稼いでいます。  侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、  13:ののしられては優しい言葉を返しています。  今に至るまで、わたしたちは世の屑、  すべてのものの滓とされています。  14:こんなことを書くのは、  あなたがたに恥をかかせるためではなく、  愛する自分の子供として諭すためなのです。  15:キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、  父親が大勢いるわけではない。  福音を通し、  キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。  16:そこで、あなたがたに勧めます。     わたしに倣う者になりなさい。  17:テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。  彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、  至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、  キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、  あなたがたに思い起こさせることでしょう。  18:わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことは  ないと見て、高ぶっている者がいるそうです。  19:しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。  そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。  20:神の国は言葉ではなく力にあるのですから。  ~~~~~~~~~~~~~  この質問が遅くなってすみません。わたし自身の筆では 次のようです。よろしかったらどうぞ。  アース役のおつとめ おつかれさんです。ただしわたし自身は その役においては先輩です。  【Q:観念の運河をクウキなるゴンドラは今日もゆく(続)】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7345854.html

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回答No.2

すべては幻です。 人間も人生も世界も幻です。 仏陀の考えも幻です。 ですが、人間の心と言うのはそれで 割り切れるものではありません。 何か理由が欲しいのです。支えが必要なのです。 あなたが、自分の考えをここに公表して 賛同を得ようとするように。 仏陀もキリストも、そんな人間の弱みに つけ込もうとしたペテン師だったんでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ばぐす3さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  仏陀もキリストも、そんな人間の弱みに  つけ込もうとしたペテン師だったんでしょう。  ~~~~~~~  ☆ ゴータマ・ブッダがペテン師であるという命題に同意します。ここでも触れていますが ほかの質問でも多くの主題や論点でみなさんと問い求めて来ていますから。  キリストの場合は どうでしょう?  分かりにくいのとペテンをはたらくのとは 違うように思います。  そして確かにキリスト・イエスの場合にも《おのがいのちと存在を無にする》といった表現が聖書にも見られます。それゆえ ちょうどいま開いている質問でも  【Q:《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7975495.html  という問題を追究しています。  その途中ですが 途中の段階としては 次のように認識しているかたちです。  すなわち 基本的には 《渇いていたなら飲ませ飢えていたなら食べさせる》という日常生活における思いやりと助け合いが 愛である。そう考えるときには では《友のために》ではあっても 《いのちを捨てる》とは どういうことか? です。  すなわち結論は分からないのですが それでもはっきりしていることは 《生活日常における助け合い》が基礎であると言うのですから 《思うようにならない苦のなかにあって その無明ないし煩悩を・そしてそれをかかえる身をも無にする》というわけではない。はずです。  《ケノーシス》というようにやはり《自己無化》という概念も その後(つまりイエスのあとに)持たれて来ているようですが 自死が勧められることはないと言ってよいでしょう。  ですから この《なぜ生きるか》という失礼な問いやその問いを推し進めることは キリスト・イエスにあってはない。こう言ってよいでしょう。  その限りで キリストは《ペテン師》だという命題には ここでは賛同しかねます。  ★ ~~~~  すべては幻です。  人間も人生も世界も幻です。  仏陀の考えも幻です。  ~~~~~~~  ☆ この場合の《幻》という表現は 言わば文学的な修辞の問題であるようで 質問者が趣旨説明において《ゴータマ・マジックは まぼろしではないか?》と表現したこととは違うように受け取られます。  《幻》として表現されたその内容は この世にうつろい行かないものごとはないといった意味合いだと思われます。  質問者が まぼろしと表わしたのは そのあとに《呪い》とか《ガン》とかと言っているように 要するにゴータマ・ブッダは 阿呆であるという意味です。どうでしょう?  (何もよいものはもたらさなかった。よいものはみな ブラフマニズムの中にある。せいぜい身分制に反対し平等をとなえたことくらいである。けれどもそういう自由をもとめる意志行為は ゴータマ氏に限ったことではない)。  ちなみに  ★ ~~~~  あなたが、自分の考えをここに公表して  賛同を得ようとするように。  ~~~~~  ☆ この言明は――それがマチガイであったなら当然のこと 当たっていた場合にも―― 無意味でしょう。  質疑応答の場なのです。  情報交換に 自分の考えを表明しないでどうするのですか。  自分自身の考えがまだかたちづくられていないなら そう言えばよいだけです。  つまりはつまり はっきりと詰まることとして そのようなあいまいな表現をわざわざ持ち出して応答するといったワザは――日本人だけなのかどうなのか―― ゴータマ氏の呪いをもろに受けている。ということではありませんか?

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  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.1

あなたがそう思うのならそれでいいんじゃないですか? 哲学の本質は実践です。 他人への強要も無ければ、他人からの強要もありません。 自分がどう考え、どう生きる(行動する)かが哲学です。 他人がどうかは余り関係ありません。 彼らはそう考えた・・・というだけのことです。 あなたがそれをどう思い、どう行動するかはあなたが決めることです。

bragelonne
質問者

お礼

 ぬる_おさんさん 初めまして。ご回答をありがとうございます。    問い求めのすすむようにと敢えて暴論でお応えしましょう。  ★ 他人がどうかは余り関係ありません。  ☆ 根本的に哲学としては マ(間)が違って来ています。  たしかに相互主観性と言っても人は互いのあいだに隙間やあるいは《主体となる人間どうしの対等性をうらづける社会的な独立性。ゆえに互いのあいだのへだたり》があります。  つまり《マ(間)》があります。  しかもこのマは 抜けてはダメでしょうしが 《いすかの嘴》のように互い違いにズレていてもダメでしょう。  要するに何が言いたいかと言えば 《他人(ひと)との関係性》を否定することは 人間の存在つまりその基礎となる前提条件を――つまり社会性を――くつがえすものであると見られるからには ご見解の内容について質問者はがえんずることがかないません。  《余り〔関係ありません〕》と言って留保つきのかたちで表明されてはいますが ここは一歩も引けません。  そうではないでしょうか?  互いに異なる意見があるからには すなおにそのまま話し合う。ということよりほかの人間のあり方は・あるいは民主制は 考えられないのではないでしょうか?  ★ あなたがそれをどう思い、どう行動するかはあなたが決めることです。  ☆ この質問は あなた自身の思想つまり生活態度をたずねています。  ふだん考え行動しておられるその内容を おしえてください。  ★ 哲学の本質は実践です。  ★ あなたがそう思うのならそれでいいんじゃないですか?  ☆ こんなことであたらしいわが国を開いていけますか。

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     問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?