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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか)

なぜ生きるのか?ゴータマ・ブッダの思想を考察する

このQ&Aのポイント
  • 人間の存在の意義について問いかけるゴータマ・ブッダの思想は、末法時代においても有効なのだろうか。
  • 生と死の不可解さについて、ゴータマ・ブッダは「生きる理由」や「死ぬ必要性」について言及しているが、これが人間のいのちと存在に対して失礼ではないのか。
  • さらに、寂静や涅槃といった概念についても疑問を投げかけ、ゴータマ・ブッダの思想はどれだけ真実性を持っているのか疑わしさが残る。

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回答No.23

哲学音痴ですが 私の見解も聞いていただけますか? 何故生きるのか? あらゆる生物と同じで、本能的に・・・ ただ、人間はいらぬ知識が有る為、 今回のような議論をよぶのでしょう 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 年頃になれば、Hもするでしょう(おそらくバックで) 子孫が50代目まで行った時言葉は生まれているでしょうか? 農作は始まっているでしょうか 幸せの観念はあるでしょうか、 争いはおそらく起こるでしょう。 争いを戒める為の教えが出てきているでしょうか 共に助けあって生きる教えがあるでしょうか その時に、神が生まれるのでしょうか? いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 解答になってないかもしませんが、 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ちちならべさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  わたしの考えに沿って整理し応答をしてまいります。  ★ ~~~   「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で  人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。  ~~~~~  ☆ おそらくそうなのだろうと思います。  問題は その上で――このような本来の姿が基礎としてあり 現実に生きられているその上で―― 何らかの《生きる意味》を人間は持つようになるのも 実際でありましょうし 《人間の知識により 想像された物(生きる)が今ある》ことも見止めないではいられないことです。  放っておけばよいというのが正解であれば 哲学はその正解の妥当性をも問い続けます。  ★ ~~~~  乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、  彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、  生きる意味も考えることは無いと思います。  ただ単純に生きようとして行くでしょう。  ~~~~~~  ☆ すなわちこの状態から では 生きる意味をどうして問うことになったか? なのだと思われます。  ただちに分かることは 《単純に生きている》とき人は この生きることをも認識するということなのでしょう。生きるという概念が持たれれば その意味をも問い求めるものと思われます。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ そういう習性なのでしょうか。  なぜならその無人島において たとえばキノコがあればそれが食べられるかどうかを知らなければなりません。わるいものを食って消化がわるくなればそれに効く薬草を探したかも知れません。  したがって ひとは 生きることを認識し 単位体としての存在であるわれをも自覚するようになります。  こうして考えて来たとき わたしには人間の心性ないし知性には三つの段階と区分があると見ています。   -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム    0:歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在)   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。      《イリ》なる歴史知性が 《自覚を持って単純に生きている》姿ではないかと思います。それは  ★ 農作は始まっているでしょうか  ☆ というように 農耕を始めることにおいて世界の内に入ったのだと。  狩猟漁労採集で生きていたときから 人為的に食糧となる植物を栽培するという農耕が始まりそこでは その種から実が成るまでの《時間》が経過します。この時間の認識に沿って 世界の認識という行為にも歴史があると見たでしょうし また一人ひとりの存在は かなしいかな やがて死という限界を迎えるという時間過程をも知ったはずです。  世界内存在とは 時間的存在だという意味のはずです。それとしての《わたし》の自覚のはずです。   《ヨリ》なる原始心性のころには アニミズムと現在から見て捉えるのならば 到るところのあらゆるものに精霊を見たのでしょう。みづからの存在の精霊ともつながっていると見たのでしょう。  シャーマニズムでは シャーマンがその精霊じたいに憑依すると言うのでしょうか 意識という意識を脱ぎ捨て取り除くようにして 《脱自》というのでしょうか それをとおして生活に必要で大事なことのお告げを得ようとしたものと見られます。    やがて《わたし》が自覚されて来るなら 世界は晴れ上がり《精霊》にかんしては 大宇宙と小宇宙とのふたつに区分して捉えたのかも知れません。  梵我一如と言われます。  宇宙の主宰神ブラフマン(梵天)と小宇宙たる人間の〔精霊としての〕アートマン(霊我・真我)とのふたつです。  ただしこれは あくまで《神》の世界での話になります。《思考に非ず 経験に非ず》の世界です。   ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この《非思考の庭》におけるたとえば《梵我一如》なのだと見られます。つまり 信仰の問題です。  《イリ》なるふつうの歴史知性にあっては 《信じる》と《考える》とが・つまりあるいは《神と我れとの関係世界(それは 主観内面の世界)》と《経験世界》とが区別されしかもふつうに使い分けがなされると思います。  そこで《ヨセ》なる超歴史知性の問題です。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《格差》の問題そして《神》の扱いの問題に発していると考えます。束ね寄せるというのですから そういう意味での――イリ歴史知性の神とは少し違った意味での――《神》が発明されたのでしょうし 《格差》としては 一般に二階建て構造から成る国家の問題だと見ます。  ふつうの神とは違うというのは ヨセなり知性の神は すでにヨセなる知性人がその神そのものであるか神のこの世での唯一の代理人であるととなえるところにあります。アマアガリしてしまったのです。  社会が平屋建てから成る家であったときには まだ格差はそれとしてあって それが固定してしまうものでもなく流動的であり 程度問題だったと考えられます。    ところが 主宰神ブラフマンをもっぱら祀る役目をになうバラモン僧(ブラフミン)たちは 四姓なる制度を確立しました。生まれが違うのだと説きました。前世からの因縁であると。あらゆる人は梵我一如なる存在であるがこの現世では 固定された身分制のもとにそれぞれの身分に生まれて来てそのように身分を守って生きるのだと。  いや 生まれは関係ない ただおこないのみが 人生と人格を決めるのだとゴータマ氏は言ったのだと思います。  それゆえ アン‐アートマン(無我)をとなえ 《ヨセ》なるスーパー歴史知性に立ち向かいました。アートマンを否定したのなら ブラフマンをも否定します。よって 《非思考の庭》が ゴータマ説では次のようになっているのでしょう。   ゴータマ・ブッダの信仰:無無一如(空観)     無:ア‐ブラフマン(無梵。無い神)     無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂滅)  ゴータマ説が この非思考の庭を捉えた信仰であるかどうか何とも言えませんが もしこうであるとして そのあとどうなったか?  例の四苦八苦があります。病老死のほかに生も苦であると唱えました。《苦》には 悩み苦しみのほかに 思うようにならないという意味もあるようですが なぜ《生》をこの苦に入れて規定したのか? 苦からの解脱と言えば この身と心をゼロにすることだとなりかねません。ニルワーナと言い始めたのですから。  問題は 《格差ないし固定身分制》としての不自由です。それに対する世界観としての問い求めです。  言いかえるなら 《ふつうに自覚を持って生きている》ことの保持にあります。いかに生きる意味を問うたにしても その基礎ないし基本の《生きる》の持続が すでに目的です。飾りは要りませんし いかに精神のいと高きところを目指すにしても――にんげんが神になるというまでの――アマアガリは 無謀です。  言いかえると ゴータマ氏の説は人気を呼び多くの賛同者を得て今にいたりますが 果たしてそれは どういう《生きる》を目指したかに問題はあります。  どういう歴史知性のあり方を説いたか。  果たしてイリなるふつうの歴史知性にとどまっているか?  ヨセなる超歴史知性にかかわっていないか? バラモンの身分制を揚棄しようとするあまりに その《無我説》において・ということは ワタシをどう自覚し扱うかにおいて ひょっとして言わば別種のだがやはり《アマアガリ》を起こしているのでないか?  ゴータマ・ブッダの神格化のことです。  苦からの解脱あるいは無明からさとりに達し明知を得るに到るというのならば ただ単純に《ふつうに我れを自覚し単純に生きる》というイリ歴史知性に立ち帰るとだけ言えばよいはずです。  また無無一如の無神論も梵我一如の有神論も 信仰の類型としては同じものです。神がいくつかあってはたまりません。ただ呼び名がちがっているだけです。すべて非思考の庭として主観内面において成り立っていますし それとしての動態であるはすです。  考えてみれば この質問がゴータマ・ブッダ論になるのなら もっとたたき台をしっかりとしたものとして用意し 初めから原文にしたがうなどをおこなって くわしいやり取りを展開できるようにすればよかったかと思っています。  まだまだ 粗いのですが これからどしどし発展していければよいと思います。  ありがとうございました。  

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その他の回答 (49)

noname#189751
noname#189751
回答No.19

すべてを蹴散らすゴジラ復活・・ その堂々たる雄姿 向かうところ敵なし みんな壊しちゃえ 壊しちゃえ ! こっぱみじんだ !  ワッハッハ・・ ご苦労さまです 疲れを知らぬバイタリティーには敬服いたします まあ なんといいましょうか 阿修羅か夜叉か・・それとも反証役を買ってでる悪魔か・・ と失礼 こんばんわ、Bさん 挨拶が遅れました >なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか なんとなくですが なぜ生きるか? という問いに含まれているものが大切である と仰っているように思います 言葉の表面ではない 裏側というやつでしょうか この問いかけをするからには 人を掬いあげるものがなければならない それもないまま、問うことは 人を見放すようなものだ といった感じでしょうか つまり暖かみがない ということなんでしょうね 答えを用意せぬまま突き放すだけの、冷たさしかない と まあ でも 常に結論のない問いかけとは、それ自体が真実を求めるという姿勢を表している とも言えなくもない 疑わなくてもいいことを、疑わざるをえない ということだったら それも人間らしい 理性のほとばしり と見れば悪くはない そんな感じもしますが・・ >ゴータマ・マジックは まぼろしではないか? あなたにとってのゴータマ・ブッダとは? 真のゴータマ・ブッダを示してみよ? と なんにもないじゃないか・・ からっぽじゃないか・・ と そこまで言って ゴータマ・ブッダを指さしてみる 薬の効能書きは、もういいから、早く薬を出してみろ・・と 出せないんだったら処方箋は書くな・・と ゴータマ薬局は閉鎖しろ・・と まあ そんな荒々しい感じにも取れますが どうでしょう 人を掬いあげるものの有無 信仰の有無でしょうかね わずかでも あればいいと願うばかりです。

bragelonne
質問者

お礼

 うっしっし。とでも反応しましょうか。不謹慎でしょうか。  緩衝装置。一服・二服の緩和剤。  もう文面そのまま。    持つべきは ともですね。  ただの解説者ではないのですよ みなさん。  処方箋がすでに書かれていますから ようく読んでくださいよーーお。  ごあいさつ抜きになりました。  内緒話:もしたましいの声があったとするなら ここまでフルボッコで殴りつけても ヤツは浮かび上がってくるさ。

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noname#180711
noname#180711
回答No.18

 すべての発端が一つ分かりました。それは >《ひとがほかの人間の自由意志に関与しうる》という想定が いまここでの前提条件です。 申し訳ないのですが わたし自身はこの前提をみとめていません。  ということです。だから私から見れば暴言だと思う物言いも、あなたにしてみれば、全然問題じゃないのですね。関与できない。だから責任もなにも感じず、自由に放言することができる。仏教のことにせよ、何にせよ、好き勝手に批判が行える。そういう話なんでしょう。私はそんな風に思わないので、驚いています。そして理由を読むと、全然、納得できないです。 > 5. もし他人がほかの人間の自由意志に(・・・) その自由意志を左右して従わせるほどに影響しかつ制御するまでになるというのであれば あやまちにしろ犯罪にしろ人間の行為の中には 自分の意志によるのではないものがある・・・ということになります。  当然、そうなりますね。だから情状酌量などが行われるのではないでしょうか。  従ってこれは、あなたの見解を説明する理由とならないと思います。 > 6. 一般に答責性(説明責任)が 自由な自己表現にとっては 付き物であり必要であるという公理。これにもとづきアヤマチにしろ犯罪にしろ その責任を問うことができます。言いかえれば ひとは答責性にもとづき おのれのアヤマチについては 間違いました ごめんなさいとあいさつしてみづからの責任をきちんと説明する自由があたえられています。  好き勝手に批判してもよいが、理由を述べるべきだと言うことでしょうか。そして間違えたら、素直に認めるべきだと。それは「自由」なんですね。しかし「自由」ではなく、義務ではないでしょうか。そして義務を果たしたからと言って、起きてしまったことの責任を逃れられるということはないと思います。  全然話は変わりますが、私は先ほど、別のカテで、ネットでのやり取りで子供が追いつめられ、自殺してしまったという怒りの投稿を読みました。どこかのスレッドで煽られて、人生に悲観したのか、鬱が悪化したのか知りませんが、死んでしまったそうです。あなたとは直接関係のない話だと思いますが、こういう人を前にしても、滅ぶべきものは滅ぶのだから、批判者は「関与」していない、と言えますか。やはり批判も関与しうると私は思います。  あなたのおっしゃっている話は、いじめっ子の言い草と私には重なっています。自分たちはいじめただけだ。死ねと命令したわけではない。死んだのは当人の意志だ。生き死にという重要なものに、匿名の自分たちが関与できるはずがない。いや、そもそも肉親であったとしても、他人が関与などできない。そういう話に思います。しかしこれが通らない理屈であるのは、昨今のいじめ裁判の成り行きを見ていれば明らかです。いかがでしょうか。  敷居が高いという表現は、これ以上は入っていけないなと感じたということです。投稿しても平行線をたどるばかりなので、実際は敷居を飛び越えていないと思います。このまま続けても入っていけないだろうと予想します。

bragelonne
質問者

お礼

 でぃーくべくさん こんばんは。少し時間をいただきました。ご回答をありがとうございます。  このご回答内容は――これまでがぜんぜんだったというわけではありませんが―― よくかみ合っているのではないでしょうか。まさに 情報交換であると考えます。    だからというわけではありませんが またまたあたらしいほうからお応えしてまいります。  ですから 《平行線をたどるばかり》ではないところをお示しします。見解の相違ということは 平行線ではありません。対話が継続していれば 無限遠点にてすでにまじわっているかも分かりません。  わたしは 無条件に  ★ 好き勝手に批判してもよい  ☆ という考えであり そういう方針を持っています。まさに表現の自由です。  ひとつにその命題を打ち出す前提には     精神は みづからがウソ・イツワリを言ったりおこなったり   してみづからが傷つけるのでなければ 決して他人の発言や   行動によって傷つくことはない。  という命題があります。すなわち    《やましさ》は いわゆるミラーニューロンの作用によって他人の   思惟や感情あるいは振る舞いなどがあたかも共有され得てその他人自   身のヤマシサも感じられるという場合などを除けば みづからの内面   からの自己背信によるのでなければ 起こり得ません。  つまり    人間どうしのあいだにおける発言や振る舞いによる《関与》は    せいぜいが《もらい泣き》(タトエとして)のたぐいであって 基本   的には 《自己による自己への関与》が問題になるのみである。  すなわち  ★ だから私から見れば暴言だと思う物言いも、あなたにしてみれば、全然問題じゃないのですね。関与できない。だから責任もなにも感じず、自由に放言することができる。  ☆ となります。責任はすでに自己表現の時点でともなわれています。そしてわたしの場合には 暴言・放言は わざとその効果をねらっておこなっています。まただいたいそのように《暴言で応えます》とか《放言をおこないますが》とかと断わっているはずです。  ★ 仏教のことにせよ、何にせよ、好き勝手に批判が行える。そういう話なんでしょう。  ☆ むろん必要で十分なだけおこなうのです。ただしそれは主観による見立てなのですから 一般に《好き勝手に》と表現しておくことになります。  ゴータマ・ブッダが美女マーガンディヤーに対してその求婚をことわるときの言葉が ふるっています。  【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 ~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html   「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女(=マーガンディヤー)が、そもそも   何になるというのだ。われはこの女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言っときますが いくら放言暴言居士のわたしでも こうはよう言いません。一般にですが(求婚の話ではなく一般にですが)根ががらっぱちでも かなり繊細な表現を用いているはずです。  ★ ~~~~    > 5. もし他人がほかの人間の自由意志に(・・・) その自由意志を左右して従わせるほどに影響しかつ制御するまでになるというのであれば あやまちにしろ犯罪にしろ人間の行為の中には 自分の意志によるのではないものがある・・・ということになります。  当然、そうなりますね。だから情状酌量などが行われるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ これは 違うと思いますよ。極端な例を挙げるなら 例の《悪魔がおれに指図したのだ》といった言い訳にもならない言い訳をする場合のことです。そういう問題ですよ。    言いかえると 他人の言動が自分に《関与》して自分はその関与のままに行動したという言い訳のことです。これは 通りません。ダメです。  心神喪失など責任能力が問われる場合を別にすれば この《関与》による弁解は とおりません。無理です。  自由意志にもとづく自己表現としての行為だという見方に立ちます。立たねばなりません。関与は基本的にあり得ないという見方に立ちます。  《情状酌量》は 当人の生活の歴史などがかかわっているのではないでしょうか。  あなたも こうおっしゃっているぢゃないですか。  ★ ~~~~  好き勝手に批判してもよいが、理由を述べるべきだと言うことでしょうか。そして間違えたら、素直に認めるべきだと。それは「自由」なんですね。しかし「自由」ではなく、義務ではないでしょうか。そして義務を果たしたからと言って、起きてしまったことの責任を逃れられるということはないと思います。  ~~~~~~  ☆ そして 権利や義務は 自由という公理にもとづくのでなければ持ち得ないと思うのですが。  ★ ~~~~  私は先ほど、別のカテで、ネットでのやり取りで子供が追いつめられ、自殺してしまったという怒りの投稿を読みました。・・・  ~~~~~  ☆ ですから 心身衰弱などの事情を考慮する部分を別にすれば 自己の行動は自己に責任があります。  そしてそれでも 人のよっては恨みつらみがたまって仕返しをするという場合も出て来ます。  先ほどのマーガンディヤーは のちにブッダの弟子となった国王の第三夫人を その大勢の侍女もろとも館ごと焼き殺しにするという報復行為に出るに到りました。ゴータマ氏にぼろくそに言われたからのようです。  ソクラテスの場合は どうですか。批判を受けた人たちは どう行動したか。  いじめの場合は 特殊です。まだ子どもの場合にです。  ただし特殊だと言っても 《他人の関与》は認めません。それがあるとは認めません。  それと 力づくの場合も 問題だと見ます。有力ということは 実効性がありますが 基本的にその行為は無効です。意味がありません。  原状に復帰させるべきだというのが 《いじめなる有力による行為》です。  けれども すでに原状復帰はむつかしい場合が 大いにあります。すでにコトは起こっています。  そういう特殊性があります。    本人がからだを張って抵抗し阻止するよりほかにないという見方をしなければならない場合が 多いように見ます。  緊急避難がゆるされる場合にもチカラを用いて抵抗することをいさぎよしとしない人は 難儀です。  ★ 死んだのは当人の意志だ。  ☆ これは分かりません。自死というなら 意志行為であるかも分かりません。  ★ 生き死にという重要なものに、匿名の自分たちが関与できるはずがない。いや、そもそも肉親であったとしても、他人が関与などできない。そういう話に思います。  ☆ これは そのとおりに考えています。そしてそこからの出発であるとも。  そして《関与》が 無効のチカラによるものであるときには いったいどういう世界のチカラがはたらいて そうなるのか。わたしにはまだ分かりません。対策は すでにささやかに触れました。  いじめ問題と直接にかかわらせて言うのではないのですが ひとが死ぬのは どうも寿命としてではないかという思いが わたしにはつよいです。理論ではありませんので 理由を述べるというほどには到っていません。寿命には《関与》し得ないという要素があるかもと思ってです。

bragelonne
質問者

補足

 みっつのご回答についてまだぜ全体にわたってはお応えし得ていないのですが どうももうそのままにしておくほうがよいのではないかと思うようになっています。  ただしその思いは流動的です。  見直したりあるいはさらにあらたなご回答を得たりして 必要を感じたなら 応答を書き込むことにしたい。こう思います。

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noname#180711
noname#180711
回答No.17

 よくわからなくなったので、確認させてください。私が書いたことが、私の意図と見当違いの方向で読まれているようですから。 >(1)そして、失礼だとか無意味とみなして、問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。 >(2)というのも、与えられた環境=家族に縛られて、自分の生き方を見いだすことができなくなってしまうでしょう。 >(3)家族を捨てないまでも、一度、自分の人生と切り離して、自分の生き方を確立することを考えるのは大切なことであり、必要なことでもあると私は思います。そうでなければ明治時代みたいに、個人は家に従属しないとならないと思います。 >(4)「なぜ生きているのか?」を考えたことがない、考える意味がないという主張は、私には全く同意できないです。  (1)の理由は(2)だと書いています。(2)をさらに説明すると(3)です。最後に結論として(4)を書きました。しかしあなたの記述を読んでいると、(1)の理由は(2)ではない。別の理由がある。という風に読めます。なぜそう考えるのですか。私の(1)と(2)のつながりがおかしいと指摘してもらった上でないと、私には理解できません。文章が伝わらない人なのかなという印象を持ちました。 >★ しかしあなたの場合は、多様性を否定しているように読めます。  ☆ 読めますけれども そこに妥当性がないという判断をくだしたのなら 放っておけばよいはずです。やがて消えて行きましょう。  「読めますけれど」という譲歩は、多様性を否定しているということはお認めになるのですか。それとも、そういう読み方もあるが、自分の意図ではないと言うことでしょうか。ここのところは大切だと思います。何にせよ、「放っておけばよいです」と言われると、お話はそれで終わってしまいますね。どうしましょうか? と、一度聞いておいて、おすすめに従って、尻切れとんぼという気持ちがしますが、放っておくことにしましょう。  投稿をしてみたのは、妥当性があるからと思ったからではなく、ムカッと来たから一言いっておいてやろう、という程度です。面白そうな見世物小屋があるから、ちょっと冷やかしてみようかなというくらいです。そのくらいでも面白い議論ができるのかなと思ったのですが、私には敷居が高かったようですね。では失礼します。

bragelonne
質問者

お礼

 でぃーくべくさん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  こちらを読みまして 先にまづお応えしようかと思いました。  取り敢えず次の一点を取り上げ 前回と合わせてあとで あらためて全体としてのお応えをいたしたいと考えています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >(No.16お礼欄) ~~~~~~~~   ★ しかしあなたの場合は、多様性を否定しているように読めます。   ☆ 読めますけれども そこに妥当性がないという判断をくだしたのなら 放っておけばよいはずです。やがて消えて行きましょう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「読めますけれど」という譲歩は、多様性を否定しているということはお認めになるのですか。それとも、そういう読み方もあるが、自分の意図ではないと言うことでしょうか。ここのところは大切だと思います。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 《「読めますけれど」という譲歩》は 前提条件に立てばという意味です。  2. すなわち ややあいまいな言いぐさだったのですが 《多様性を否定している》という表現をめぐってそれは 《他人の自由意志にひとが関与し得た》というかたちで《多様性の主題を規定し 規定は否定をふくむ。ゆえに 多様性を否定している》と読めますけれど・・・という意味でした。  3. すなわち 《ひとがほかの人間の自由意志に関与しうる》という想定が いまここでの前提条件です。  4. 申し訳ないのですが わたし自身はこの前提をみとめていません。  5. もし他人がほかの人間の自由意志に――催眠術での事例がじっさいどういう内実を持っているのか よく知らないままこの議論を言っていますが―― その自由意志を左右して従わせるほどに影響しかつ制御するまでになるというのであれば あやまちにしろ犯罪にしろ人間の行為の中には 自分の意志によるのではないものがある・・・ということになります。ですから いまの前提は認めていません。  6. 一般に答責性(説明責任)が 自由な自己表現にとっては 付き物であり必要であるという公理。これにもとづきアヤマチにしろ犯罪にしろ その責任を問うことができます。言いかえれば ひとは答責性にもとづき おのれのアヤマチについては 間違いました ごめんなさいとあいさつしてみづからの責任をきちんと説明する自由があたえられています。  7. ですから このような《自己表現と自由》という主題とその中身にかんがみて 《ひとが他人の自由意志に関与しうる》という想定は 妥当性を持つとは みとめられません。  ★ そのくらいでも面白い議論ができるのかなと思ったのですが、私には敷居が高かったようですね。  ☆ 《敷居が高かった》ということの意味がよく飲み込めないでいます。すでに敷居を踏み越えて来ておられるからには。  あとで見直し考え直したりします。

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noname#180711
noname#180711
回答No.16

 平行線をたどっていますが、応答しておきます。 >☆ ゴータマ氏の思想への批判は この《なぜ生きているのか》という問いと直接の関係があると言っているわけではなく そうではなく そういう問いが人びとの心に思い浮かんで出て来るのは そのような或る種の内省を発酵させる要素がゴータマ氏の《苦なら苦 無明なら無明 あるいはそしてそれからの解脱》といった仮説にあるのではないか?  いえ、仏教を知らなくても、子供でも思いつく問いである、と書いたつもりです。実際、私のようなものでも子供の時に考えました。仏教が直接的に、間接的に影響しているとは思わない、ということです。逆に、あなたは分別がついて、仏教を知ってから、この問いが心に浮かんだのでしょうか。  >★ ところで、なぜ生きるのかという問いは仏教特有ではありません。なぜ仏教に対する質問を立ち上げられたのですか?  ☆ ひとつに 《なぜまだ死なないのか》とまで解釈されうる《なぜ生きるのか》という問いを発することは どうもおかしい。  「解釈されうる」とありますが、全然そう思わないので、この一節は理解できませんでした。もし「なぜ生きるか」が問題ではなく、仏教の解脱が問題であると言うのなら、そう書いてくれた方が分かりやすいです。 > ★ どうやったらそのように思うのか全く分かりません。  ☆ 今回言いかえていただいたように 《なぜ生きているのか》と表わすと その―― 一面における――反語の意味合いがよく出ているのではないでしょうか? 疑問形ですから 見ようと思えば反語形に採りえます。  いえ、「言い換えた」のは私ではないです。反語の意味合いと言うのは、特有の文脈を設定して、その観点から読めば、そうかもしれないね、という範囲だと思います。そういうあやふやなものを起点に議論するのは難しいでしょう。ここまではすれ違いを確認したということになります。  > ★ なぜ生きているのか?という問いは大切な問いだと思いますよ。だって、それを考えたら、自分が生きる指針を立てることができます。  ☆ この命題にかんしては 正面から反論してさらに問い求めをすすめたい。こう思います。 ほう。それはそれは。どうぞ。 >たしかに人はものごころが着いてから そうなったらただちに《自分が生きる指針を立てる》ことをおこなっているかと問えば そうではないようです。日常生活で親を初めとしてほかの人びとからの要請のようなものに従って生きているのが ふつうです。  それはどうでしょうね。私は「ふつう」ではなかったのですかね。そういう物言いはなんか嫌ですね(笑)。おまえの言っていることは特殊であって、一般化できないという指摘のようです。しかし他にも同様の指摘をしている人がいたんですよね。特殊なのはあなたの方ではないか?と私は反論できます。  >いまのこの問いが大切な問いだという根拠は 《指針》を持てるかどうかだという論点にかぎって考えますが それはこれも五分五分ではないでしょうか? 半分の理が いづれにもある。なぜならつまり 指針を持たなくても 自分のやりたい仕事が見つかって実際にそのつとめに就くことが出来たならば じゅうぶん人はよい人生を生きることは出来ると考えられるからです。  全くそう思わないです。仮に指針を持てなかったとしても、自分のおかれた環境を客観的に考えることが大切だと私は考えています。子供がこの問いを考え、万人を納得させる優れた答えを出すとは限りません。でも子供が考えるべき問いだと思います。結果ではなく、その過程が大切だと思います。 > あるいはもうひとつの理由として 仮りにどうしても生きる指針を持つことが大切だという場合にも その指針は 《なぜ生きているのか》という問いを持ちその問いを究めていくことの中にしか見い出せないとは言えないであろうからです。  結果ではなく、その過程が大切という言葉で、反論になると思います。誰もが究める必要はありません。結果がすべてではない、過程を大切にしようというお話しになります。 > (ちなみにおぎないますが 《人間とはどういう存在か。人生とは何か。あるいは 悪とはワタシのおこなうどういう意志行為なのか》などなどの問いを持てばよいという意味です)。  (生きるのがつらい かなしい きびしいという弱音を吐くことと ならばどうせ死ぬのだから いっそのことここで人生におさらばしてはどうかと思いわざわざその考えを引っ張って行くこととは別のはずです。うんぬん)。 > 一般に《人間とその社会》についてそれは いわゆる存在論なる基礎から始めて どう成り立っているのか。こう問えば何の問題も不足もありません。  これは単なる言葉遊びだと思います。  どういう存在か。→無である。  人生とは何か。→空である。  この調子で、どの問いも仏教に還元しようと思えばできます。そうであるとすれば、その問いもすべて、一切合切を批判しないと一貫しないと思います。    また、  >一般に《人間とその社会》についてそれは いわゆる存在論なる基礎から始めて どう成り立っているのか。  という問いは、社会学の問いですね。哲学の問いを放棄してしまっているように思いました。 >《中断であるエポケー》と《滅私とでもいうような放棄》とは別のことです。  私はこの問いを仏教特有と思いませんので、このような齟齬が出ていると思います。 > ★ 逆に「なぜ生きているのか?」を全く考えたことがないという方が不思議です。与えられた道なりに生きていく(=生について何も考えたことがない)ということに思えます。  ☆ 第二文の物言いは 成り立ちません。《なぜ生きているのか》なる問いが 生きることとその哲学をかたちづくる上で唯一の道ではないと論証しました。  唯一の問いではないかもしれません。しかし簡単に反論できます。 ・「なぜ生きるか」という問いは仏教特有ではない。誰でも思いつく。 ・その他の問いの形にしても、結局、中身は同じことである。  それに第二文をあなたは別の箇所で認めているように思います。「日常生活で親を初めとしてほかの人びとからの要請のようなものに従って生きているのが ふつうです。」つまり環境の「要請」に従って生きよ、と言っているように受け取れます。 > ★ そして、失礼だとか無意味とみなして、問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。というのも、与えられた環境=家族に縛られて、自分の生き方を見いだすことができなくなってしまうでしょう。  ☆ ここでもまづ第二文が成り立たないことを確認します。つまりそれは 条件なしに第二文を取り上げた場合です。道はほかにもありますから。  第一文との兼ね合いでは 別の意味合いが提起されています。つまり 批判をしたらその批判内容にみんなが従うという前提でものを言っておられる。  《批判すること》は 《批判の対象を禁じること》ではありません。ただ意味がないと明らかにするだけです。その結果 死滅することもあり得ましょう。  批判をあなたはするが、それを続けたければ続けてよいということですか。理屈上それは可能ですが、不愉快なことには違いないですね。 > ★ 失礼だとか無意味とみなして 問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。  ☆ ひとつに もしこの場合の発想がそのままわたしの質問趣旨に合っているとすれば 《ちょっと怖いなと思います》という言い方で 趣旨説明のような発想を《禁じるという発想》を実質的に持っておられる。ことになります。  逆に、私が禁じていると言っているのですか。確かに嫌だなと意見を表明しています。しかし私の記述の仕方を見ていただきたいと思います。私は多様性を認めてほしいと言っているだけです。あなたは無意味だと思うものも、大切だと思う人もいる。そして多様性を禁止されるのは嫌ですよ、とも言っています。しかしこれが単一性を禁止していると言われれば、それはそうなのでしょう。  とはいえ、禁止の程度が違いますよね。私の場合、単一性を禁じていることになるが、多様性を認めているので、あなたの意見を根本から否定しているのではありません。しかしあなたの場合は、多様性を否定しているように読めます。  しかし話は少し脇にそれますが、もしこの程度のことで禁止を感じるのであれば、あなたは世の中のあらゆるものに束縛を受けているように感じるでしょうね。自分の意見と違うものがあれば、自分の単一性を禁止されていると感じることになるからです。 > そもそもひとの自由意志に人は関与しうるか。干渉しうるか。哲学上の質問で 何かを批判したら その批判が成った場合には 《人びとよこれからはその何かを口にすることを禁じる》と言ったことになるのか。  関与しうると思いますよ。さもなくば、議論する意味がないでしょう。関与しないというのは、自己卑下をし過ぎだと思います。 >おそらく けっきょくのところでは やはりおそらく この質問趣旨の中身が妥当であるとみとめたゆえに このような《怖いな》という感覚やそれを《禁止令》と受け取る発想が出て来たのでしょう。  いえ、誰も妥当だとは認めていません。はっきりそう書いているのになあ。自惚れた言い方ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 いま読みましたが ちょっと用事が出来ました。  今夜に補足欄にて お応えを書いてお礼の言葉を述べたいと思います。  ( a )★ 〔そもそもひとの自由意志に〕関与しうると思いますよ。さもなくば、議論する意味がないでしょう。関与しないというのは、自己卑下をし過ぎだと思います。  ( b )★ ~~~~~~~    > ・・・この質問趣旨の中身が妥当であるとみとめたゆえに このような《怖いな》という感覚やそれを《禁止令》と受け取る発想が出て来たのでしょう。  いえ、誰も妥当だとは認めていません。はっきりそう書いているのになあ。自惚れた言い方ですね。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 確かに( a )は一般論であり ( b )はわたしのたたき台としての仮説についての特殊な議論です。  ですが くらべてみてください。  一般論にて《他人の自由意志に関与しうる》と言い そしてもしわたしの特定の議論は《妥当だとは認めていない》のなら 《関与しうるが おまえ(=ぶらじゅろんぬ)の仮説は 妥当ではないから 関与し得ない》と言っているのではないのですか?  わざわざ《自惚れた言い方ですね》ということは 《関与しうる》と見たからではないのですか? 関与しうると見たということは 《妥当だとみとめた》のではありませんか?  なぜなら もし《妥当だとはみとめていない》ところの仮説について わざわざ《禁じている》気配を感じることもないはずだからです。  ★ しかしあなたの場合は、多様性を否定しているように読めます。  ☆ 読めますけれども そこに妥当性がないという判断をくだしたのなら 放っておけばよいはずです。やがて消えて行きましょう。  ★ 自分の意見と違うものがあれば、自分の単一性を禁止されていると感じることになるからです。  ☆ というのは あなたご自身のことですよ。なぜなら 《妥当性のない議論によっても 自由意志が関与を受ける》と言っているのですから。

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noname#180711
noname#180711
回答No.15

>なぜ死なないか? とさえ言っているようである。  どうやったらそのように思うのか全く分かりません。発端が分からないので、その先も分かりません。なぜ生きているのか?という問いは大切な問いだと思いますよ。だって、それを考えたら、自分が生きる指針を立てることができます。私も考えてみたけれど、よい問いだと思います。そして別にゴータマが考えだした特殊な問いではないと思います。少し繊細なところがある人なら、誰でも普通に思いつく問いです。  逆に「なぜ生きているのか?」を全く考えたことがないという方が不思議です。与えられた道なりに生きていく(=生について何も考えたことがない)ということに思えます。そして、失礼だとか無意味とみなして、問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。というのも、与えられた環境=家族に縛られて、自分の生き方を見いだすことができなくなってしまうでしょう。  家族を捨てないまでも、一度、自分の人生と切り離して、自分の生き方を確立することを考えるのは大切なことであり、必要なことでもあると私は思います。そうでなければ明治時代みたいに、個人は家に従属しないとならないと思います。「なぜ生きているのか?」を考えたことがない、考える意味がないという主張は、私には全く同意できないです。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ひとつに そのことは水掛け論だとして措いておくとすれば 次のように問います。  《なぜ生きているのかと問うことはこれこれの理由で 無意味と見なすがどうか》と質問するならば その《無意味だと見なした問いを発することを禁じる》ことになるのか?   そもそもひとの自由意志に人は関与しうるか。干渉しうるか。  哲学上の質問で 何かを批判したら その批判が成った場合には 《人びとよこれからはその何かを口にすることを禁じる》と言ったことになるのか。  おそらく けっきょくのところでは やはりおそらく この質問趣旨の中身が妥当であるとみとめたゆえに このような《怖いな》という感覚やそれを《禁止令》と受け取る発想が出て来たのでしょう。  みとめたのだが 他人(ひと)の考えに従うのは気に食わんと。  もしこうだとしたら それは哲学以前ですから 放っておきます。

bragelonne
質問者

補足

でぃーくべくさん 初めまして。ご回答をありがとうございます。  § 1 先に問い求めの前提となる事柄に触れます。  質問の趣旨説明が舌足らずだったかも知れないところをおぎなうものです。  ★ なぜ生きているのか?という問いは大切な問いだと思いますよ。・・・そして別にゴータマが考えだした特殊な問いではないと思います。  ☆ ゴータマ氏の思想への批判は この《なぜ生きているのか》という問いと直接の関係があると言っているわけではなく そうではなく そういう問いが人びとの心に思い浮かんで出て来るのは そのような或る種の内省を発酵させる要素がゴータマ氏の《苦なら苦 無明なら無明 あるいはそしてそれからの解脱》といった仮説にあるのではないか? ここにあります。あるいは特には 四苦の中に《生の苦》をも入れているというおそらく偏見のことです。  ☆☆(No.6お礼欄) ~~~   ★ ところで、なぜ生きるのかという問いは仏教特有ではありません。なぜ仏教に対する質問を立ち上げられたのですか?  ☆ ひとつに 《なぜまだ死なないのか》とまで解釈されうる《なぜ生きるのか》という問いを発することは どうもおかしい。  そしてもうひとつに それでもおかしくないという感覚や通念があるとすれば それは《煩悩から解脱するためには 身をもほろぼす》というまでの思想と生き方が ゴータマ・ブディズムにはあるようだ。  これらふたつの側面を取り上げての質問です。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとおりです。お二人から指摘されましたので 舌足らずだったようです。  § 2 《なぜ生きるのか》は《なぜ死なないのか》とさえ言っているようであるか?  ★ どうやったらそのように思うのか全く分かりません。  ☆ 今回言いかえていただいたように 《なぜ生きているのか》と表わすと その―― 一面における――反語の意味合いがよく出ているのではないでしょうか? 疑問形ですから 見ようと思えば反語形に採りえます。  ニルワーナという寂滅を標榜する思想――特にその・生を苦と規定する発想――に絡めてわざとその反語での解釈例を引き合いに出しているのではないかと言われれば どうでしょう 半分半分ではないでしょうか? つまり半分は 理がある。のではないでしょうか。  § 3 《なぜ生きているか》は よい問いか?  ★ なぜ生きているのか?という問いは大切な問いだと思いますよ。だって、それを考えたら、自分が生きる指針を立てることができます。  ☆ この命題にかんしては 正面から反論してさらに問い求めをすすめたい。こう思います。  たしかに人はものごころが着いてから そうなったらただちに《自分が生きる指針を立てる》ことをおこなっているかと問えば そうではないようです。日常生活で親を初めとしてほかの人びとからの要請のようなものに従って生きているのが ふつうです。  いまのこの問いが大切な問いだという根拠は 《指針》を持てるかどうかだという論点にかぎって考えますが それはこれも五分五分ではないでしょうか? 半分の理が いづれにもある。  なぜならつまり 指針を持たなくても 自分のやりたい仕事が見つかって実際にそのつとめに就くことが出来たならば じゅうぶん人はよい人生を生きることは出来ると考えられるからです。  あるいはもうひとつの理由として 仮りにどうしても生きる指針を持つことが大切だという場合にも その指針は 《なぜ生きているのか》という問いを持ちその問いを究めていくことの中にしか見い出せないとは言えないであろうからです。  (ちなみにおぎないますが 《人間とはどういう存在か。人生とは何か。あるいは 悪とはワタシのおこなうどういう意志行為なのか》などなどの問いを持てばよいという意味です)。  (生きるのがつらい かなしい きびしいという弱音を吐くことと ならばどうせ死ぬのだから いっそのことここで人生におさらばしてはどうかと思いわざわざその考えを引っ張って行くこととは別のはずです。うんぬん)。  ですから 《それを考えたら、自分が生きる指針を立てることができる》ゆえに ほかにあゆむ道がないと判断したりあるいはそのほかの道よりも何よりもこの上なくとうといと結論づけたりすることは やはり半分の理しかないでしょう。  そして実際問題としては その半分の理に――敢えて言えば――つけこんで 《人生は苦なり。ゆえに身を滅せよ》なる理論が幅を利かせて大通りをあるく結果となっています。これは 次に継ぎます。  § 4 《なぜ生きているのか》なる問いには まったき理があるか?  どうやら《半分の理》ではなく まっとうでただしい唯一つの道だという方向で回答なさっていましょうか?  ★ 「なぜ生きているのか?」を考えたことがない、考える意味がないという主張は、私には全く同意できないです。  ☆ この論点から入りますが これは前項ですでに触れました。《生きる》上で人が持つ問いのその中身もしくは問い方(つまり発想でしょうか)が違って来ると その後の結果も大幅に違って来るでしょう。    一般に《人間とその社会》についてそれは いわゆる存在論なる基礎から始めて どう成り立っているのか。こう問えば何の問題も不足もありません。  以下この発想の在り処をめぐってやり取りをつづけます。そうすれば 《半分の理》に過ぎないかどうかが明らかになりましょう。  § 4-1 生きる哲学には それまでの考えやその発想の一時的な中断としてあらたな時期を画するエポケーが必要であったとしても 家出や人生からの離脱が不可欠だとはとうてい考えられない  せいぜいが旅に出ることである 必要だと思われることは。  ★ 家族を捨てないまでも、一度、自分の人生と切り離して、自分の生き方を確立することを考えるのは大切なことであり、必要なことでもあると私は思います。  ☆ そういうことがあってもいいのでしょうけれど それはおそらく特殊な場合に限られましょう。つまり《中断であるエポケー》と《滅私とでもいうような放棄》とは別のことです。  むろん灰身滅智と言っていても 息を止めるというニルワーナの修行を別とすれば 全面的な《放棄》はむしろ稀れです。(出家しても ほとんどの場合 在家の人びとに食べることについて依存しています)。  ということは――つまり要するにニルワーナは けっきょく《死》を意味することさえあるわけですが―― 実際はその方向性を向くだけであってその向いた姿勢のまま 結果的には安易にもしくは曖昧の美学をやがて得てそれを身につけ シガラミの中に生きて行く。・・・だけである。  という個々の《修行人》の状態と広く社会の情況から醸し出されて来るのは わるく言えば《事なかれ》の方向を身と心とがもろに向いているといった事態です。  そのクセ(エートス)をむしろすでに遺伝子として受け継いだがごとく 人びとは やれ和を以って貴しと為せ やれ自己主張はいけないと条件反射のごとくつぶやいている。世界はまぼろしなのだから 探究もほどほどにせよと。  たしかにゴータマ流のと看板だけはかかげた《生き方を確立している》ようです。  § 4-2 ゴータマ・ヰルスは どこまで感染しているか  ★ 逆に「なぜ生きているのか?」を全く考えたことがないという方が不思議です。与えられた道なりに生きていく(=生について何も考えたことがない)ということに思えます。  ☆ 第二文の物言いは 成り立ちません。《なぜ生きているのか》なる問いが 生きることとその哲学をかたちづくる上で唯一の道ではないと論証しました。  ゴータマ・ヰルスに感染して《生きる指針を確立しようとする》ことは 問題です。  なぜなら あのこの上なく最高最善の成道というのは 中身が何もないからです。ついぞ説明はなされていません。  さとりとは さとりの中身が人間には分からないのだから おれはサトリを得たと先に言ったもん勝ちだとゴータマは しゃべり続けたのみです。  むろんそのエピゴーネンをも少なからず産出しています。  § 4-3 ゴータマ批判は ブディズムなる思想を禁じたり封じたりすることか  ★ そして、失礼だとか無意味とみなして、問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。というのも、与えられた環境=家族に縛られて、自分の生き方を見いだすことができなくなってしまうでしょう。  ☆ ここでもまづ第二文が成り立たないことを確認します。つまりそれは 条件なしに第二文を取り上げた場合です。道はほかにもありますから。  第一文との兼ね合いでは 別の意味合いが提起されています。つまり 批判をしたらその批判内容にみんなが従うという前提でものを言っておられる。   《批判すること》は 《批判の対象を禁じること》ではありません。ただ意味がないと明らかにするだけです。その結果 死滅することもあり得ましょう。  ★ 失礼だとか無意味とみなして 問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。  ☆ ひとつに もしこの場合の発想がそのままわたしの質問趣旨に合っているとすれば 《ちょっと怖いなと思います》という言い方で 趣旨説明のような発想を《禁じるという発想》を実質的に持っておられる。ことになります。  (つづく)

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回答No.14

邪魔かもしれないけど書くよ。 近代以降にどんなわがままも言いたい放題になったのはともかく、世の全てが苦であるとか何とか言われても、だったら死んだ方がマシだなんてわがままは過去には無かったのではないかな。 釈迦の主張そのものは支離滅裂でも、その錯誤を解き明かす事には懸賞金がかかっていて、私はそれをめいいっぱい請求しようかと考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ その懸賞金をかけて その錯誤の拠って来たるところを明らかにしてください。  予告編と見ましたので このように。  ご回答をありがとうございました。

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  • NURU_osan
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回答No.13

No.1およびNo.11で回答したものですが、お礼文を受けて再回答します。 >この質問は どこかに挑発的な色合いが いつにも増して濃くただよっているようです。回答者もみなさんがどこか おだやかにけんか腰ではあります。 どうも自覚を持っておられないようですが、なぜ挑発的な色合いが濃くなっていくかと言うと、あなたの質問文やお礼文が挑発的(あるいはどこか不真面目な雰囲気を持っている)だからです。 正直申し上げて、あなたがここに書き込んでいる文章は真面目な質問と言うより、酔っ払いが管を巻いている口調のようにしか読めません。 ユーモアやフレンドリーな雰囲気を出したいのかもしれませんが、こういう場では避けたほうがいいでしょう。次回から気をつける事をお勧めします。 >何もかもうまく行くという意味にはなりませんが やはり基礎は・その土壌は 民主制でよいのではないでしょうか?  戦後欧州においては「民主主義の自殺」と定義されており、民主制とは明確に区別されます。 >☆ という場合も それらの根っ子は民主制であり話し合いである。こう捉えてよいのではないでしょうか?  「トムとジェリー」の「仲良く喧嘩」としてはそうでしょう。  しかし、極端に貧困な社会で生起する暴力を伴う衝突、一方が一方を確実に殲滅する類のものまで「話し合い」や「民主制」として片付ける事は強引過ぎます。  3人しか生存できない食料しかない状況で4人目が現れれば、4人目が「話し合い」の余地も無く葬り去られる事はママあることです。この場合、4人目を葬ることを結託した3人にとっては「民主制」かもしれませんが、その3人以外の視点から「民主制」を認める事は出来ません。 >仮りに溝と表現したとしてもそのミゾは ほうっておいてよいわけです。対話さえすすめることが出来れば 問題ないと考えます。  いえ、私は対話が進まなくてもいいと思っています。そこがあなたが私の回答に対して勘違いしているポイントです。  ミゾの向こう側の相手とどうしても付き合わなければならない、しかも和解しなければならないというのが前提であるならば、確かにあなたが言っていることは正しいです。しかし、人生を生きてきて出会う全ての人と必ず話し合い、和解しなければならないということはありません。すれ違ったまま、行き違ったまま、争ったままでも、それどころか無関心なままでもかまわないのです。  付き合いきれない相手、付き合っちゃいけない相手、相性が悪い相手というのは誰にでもいるものです。 > ☆ ということのようですから・つまり《混沌》も必要だということのようですから どうぞご自由にと申し述べておきます。 >こんな粗っぽい議論はこちらでごめんこうむります。 私はあなたの質問である「ご見解をどうぞ。」に対してNo.1で回答したに過ぎません。そしてそれ以後はあなたのお礼文の中にある追加の質問らしきものに「再回答」しているだけです。 おそらくここもあなたが私の回答に対して勘違いしているポイントです。 私の回答に対して誤解があるようなら、あるいは理解が足りていないようなら今回のように追加で回答しますが、私はこの場であなたと議論を展開するつもりは全くありませんし、しているつもりもありません。 ここは「質問」をする場所であって「議論」をする場所ではありません。 質問者が自分の主義主張や意見を表明をする場所でもありません。 あなたが議論をしているつもりなら、利用規約を一度ご確認されたほうが良いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★ すれ違ったまま、行き違ったまま、争ったままでも、それどころか無関心なままでもかまわないのです。  ☆ この方針で行動してください。  そうでなければ ただの押し売りです。  ★ ここは「質問」をする場所であって「議論」をする場所ではありません。  ☆ 大いなる勘違いです。  ▲ (OKWave 利用規約〕~~~~  第3条(本サービスの概要と範囲)  1.本サービスは、利用者間における質問と回答の形式による情報交換、利用者における情報収集および閲覧の機会、ならびにそれらの環境を提供することを目的とします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《情報交換》において 内容があいまいであったりよく読み取れなかったりあるいは違う見解を持っていたりすれば とうぜんたずねます。これが《議論》ということでしょう。  あとは再掲するのみです。  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~~   ★ 赤の他人に過ぎないあなたが何をしようと無闇に関与するつもりはありません。   ☆ は あたりまえです。言われなくても 内政(ないし内省)干渉には応じません。   ★ 他人に自分の考えや行動に同調するように押し付けたりはしません。   ☆ これをも民主制と言います。あたりまえです。   つまり当たり前のことを述べて 対話の中身とするということ これは逆に言って ありません。無意味です。   つまりどういうことになるか?   不必要なことを述べて 話し合いをする(回答とする)。とはどういうことか?   それは ただただ 質問に対して 要らぬケチをつけている。ということです。   そんな質問はやめとけと《押しつけたりしている》ということです。   二度も《むやみやたらに》干渉の手を伸ばして来た。ということです。  ~~~~~~~~~~~~~  ★ 回答者が自分の主義主張や意見を表明をする場所でもありません。

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回答No.12

なぜいきるか? 世界中の誰もおまえが生きようが活きまいが関心すらねえよ♪(笑) ばーか。ばーか。ばーか。 少しは社会の役に立てばーか。

bragelonne
質問者

お礼

 おお。少しはおつむをひねったぢゃないか。感心。感心。  ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  ▲(パウロ:コリント前書 4:7-) ~~~~~~~~~  ・・・  9:考えてみると、神はわたしたち使徒(=神の国の外交官)を、  まるで死刑囚のように  最後に引き出される者となさいました。  わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。  10:わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、  あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。  わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。  あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。  11:今の今までわたしたちは、飢え、渇き、  着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、  12:苦労して自分の手で稼いでいます。  侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、  13:ののしられては優しい言葉を返しています。  今に至るまで、わたしたちは世の屑、  すべてのものの滓とされています。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ほら  ★ ~~~~  ばーか。ばーか。ばーか。  少しは社会の役に立てばーか。  ~~~~~~~  ☆ 符合してんぢゃん。  ★ 世界中の誰もおまえが生きようが活きまいが関心すらねえよ♪(笑)  ☆ というまでに・つまりはねつけるまでに《関心》があるようだね。感心。感心。  そして 上から目線〔のマネ〕をわびておきましょう。  いつでも来てもいいよ。 

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  • NURU_osan
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回答No.11

No.1で回答したものですが、御礼を受けて再回答します。 > 《余り〔関係ありません〕》と言って留保つきのかたちで表明されてはいますが ここは一歩も引けません。 > そうではないでしょうか?  全ての人と人との間にはあなたの言う「間」があり、隔たりがあります。  それは自然なことであり、故に正常な状態です。  その隔たりを埋めていく行為が能動的な意味での「生きる」ということであり、「ではそれをどう埋めていくのか?」という方針を考え実行していくことが哲学の本質です。  その結果が話し合いになるか、諍いになるか、そして第三者が話し合いや諍いをしているのを無視するか、煽るか、諌めるか・・・それもやはり他者との隔たりを埋めていく作業であり哲学の実践の結果でもあります。  そして、それらはどこまでもその人自身の自由です。 > 互いに異なる意見があるからには すなおにそのまま話し合う。ということよりほかの人間のあり方は・あるいは民主制は 考えられないのではないでしょうか?  私自身は民主主義や共和主義を理想的と思っていますが、民主制が万能であるとは考えません。民主制には常に衆愚政治のリスクを伴い、極限の状況(たとえば敗色濃厚な戦時)下では弊害のほうが大きくなる場合もあります。民主主義を金科玉条のごとく讃える米国や仏国でさえ、戦時下では様々な自由を制限し、非民主的な政策を布きます。  である以上、民主制や和解は絶対的価値を持つわけではありません。ならば、人間のあり方や哲学を論ずるにあたって、民主制や話し合いによる和解を絶対条件のように考えるのはおかしい話です。  諍い、喧嘩した方がいいこともあるのです。   >☆ この質問は あなた自身の思想つまり生活態度をたずねています。 >ふだん考え行動しておられるその内容を おしえてください。  それは既に回答しています。  哲学の本質は実践であり、「自分はどうするのか?」を追求することが究極の目的です。それはその人その人個人個人の自由です。  私はよほどのことがない限り他人に自分の考えや行動に同調するように押し付けたりはしません。  つまり、「あなたがどう考えようが知ったこっちゃ無い」のです。実際の行動で迷惑を被らない限りは、赤の他人に過ぎないあなたが何をしようと無闇に関与するつもりはありません。 >☆ こんなことであたらしいわが国を開いていけますか。  混沌と調和の両立こそアジアの特色です。  日本はそれを最も高度に実現している国です。  混沌を否定しては、日本の現在も未来もありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ぬる_おさんさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  この質問は どこかに挑発的な色合いが いつにも増して濃くただよっているようです。回答者もみなさんがどこか おだやかにけんか腰ではあります。  ★ ~~~~  私自身は民主主義や共和主義を理想的と思っていますが、民主制が万能であるとは考えません。民主制には常に衆愚政治のリスクを伴い、極限の状況(たとえば敗色濃厚な戦時)下では弊害のほうが大きくなる場合もあります。民主主義を金科玉条のごとく讃える米国や仏国でさえ、戦時下では様々な自由を制限し、非民主的な政策を布きます。  である以上、民主制や和解は絶対的価値を持つわけではありません。ならば、人間のあり方や哲学を論ずるにあたって、民主制や話し合いによる和解を絶対条件のように考えるのはおかしい話です。  諍い、喧嘩した方がいいこともあるのです。  ~~~~~~~  ☆ 戦争時においては けっきょく全体をいつもより一層重んじ 集団からの制約を課し 集団志向といった軽い自由な各自の意志行為をすでに統一的な意志のもとにみちびき従わせるということになるのだと考えます。つまり 早く言えば 全体主義ですね。  ただし――ただしです。ただし―― そのように戦争の遂行にあたってそのような統制が必要だという帰結を持つに到って そのようにする(今では したと過去形で言いたいものですが)のは やはり理論的には民主制であるでしょう。そう言ってよいでしょう。  何もかもうまく行くという意味にはなりませんが やはり基礎は・その土壌は 民主制でよいのではないでしょうか?  前提条件として・また必要条件として  ★ 民主制や話し合いによる和解を絶対条件のように考えるのはおかしい話です。  ☆ とは言えないと考えます。すなわち おっしゃるように  ★ 諍い、喧嘩した方がいいこともあるのです。   ☆ という場合も それらの根っ子は民主制であり話し合いである。こう捉えてよいのではないでしょうか?  なかなかうまく要約することが出来なくて またまた全部を引用して考えてまいります。  ★ ~~~~~~  全ての人と人との間にはあなたの言う「間」があり、隔たりがあります。  それは自然なことであり、故に正常な状態です。  その隔たりを埋めていく行為が能動的な意味での「生きる」ということであり、「ではそれをどう埋めていくのか?」という方針を考え実行していくことが哲学の本質です。  その結果が話し合いになるか、諍いになるか、そして第三者が話し合いや諍いをしているのを無視するか、煽るか、諌めるか・・・それもやはり他者との隔たりを埋めていく作業であり哲学の実践の結果でもあります。  そして、それらはどこまでもその人自身の自由です。  ~~~~~~~~  ☆ ただしここでは 細かいことです。揚げ足取りになるか わたしの考え違いになるかですが   ★ それもやはり他者との隔たりを埋めていく作業であり哲学の実践の結果でもあります。  ☆ ここでの《隔たりを埋める》という表現にこだわります。  先にこちらの結論を申せば 隔たりは 埋めるのではなく むしろそのあるがままの間隔を測り捉え そのあと互いに対等に主体性を発揮する。というふうに表現したほうが わたしには すっきりするものですから こだわってみます。  次のように表明されたことについては 受け容れられません。  ★ ~~~~  私はよほどのことがない限り他人に自分の考えや行動に同調するように押し付けたりはしません。  つまり、「あなたがどう考えようが知ったこっちゃ無い」のです。実際の行動で迷惑を被らない限りは、赤の他人に過ぎないあなたが何をしようと無闇に関与するつもりはありません。  ~~~~~~  ☆ つまり先ほどわたしが述べたところによれば 《互いに対等である民主制にもとづき 互いのあいだのへだたりは そのものとして捉えてあとはこだわらない。ただし 話し合いの中身のほうに哲学としてもこだわる》という方針になります。  仮りに溝と表現したとしてもそのミゾは ほうっておいてよいわけです。対話さえすすめることが出来れば 問題ないと考えます。  つまりは   ★ 赤の他人に過ぎないあなたが何をしようと無闇に関与するつもりはありません。  ☆ は あたりまえです。言われなくても 内政(ないし内省)干渉には応じません。  ★ 他人に自分の考えや行動に同調するように押し付けたりはしません。  ☆ これをも民主制と言います。あたりまえです。  つまり当たり前のことを述べて 対話の中身とするということ これは逆に言って ありません。無意味です。  つまりどういうことになるか?  不必要なことを述べて 話し合いをする(回答とする)。とはどういうことか?  それは ただただ 質問に対して 要らぬケチをつけている。ということです。  そんな質問はやめとけと《押しつけたりしている》ということです。  二度も《むやみやたらに》干渉の手を伸ばして来た。ということです。  ★ 混沌と調和の両立  ☆ ということのようですから・つまり《混沌》も必要だということのようですから どうぞご自由にと申し述べておきます。  こんな粗っぽい議論はこちらでごめんこうむります。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で 最後に  ☆☆ こんな粗っぽい議論はこちらでごめんこうむります。  ☆ と言ったのは 単に事後処理であると見て そう言ったのですが まだわづかにでも そちらに言い分が残っていてその機先を制してしまっとしたのなら それは わたしの本意ではありません。  分かりませんが 可能性として考え直しましたので そのように 若干のおわびの気持ちとともに お伝えします。

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回答No.10

哲学?そういうのを哲学ぶってるバカって言うんだよ。おまえが哲学語るな♪(笑) 人と社会? 人類の存続繁栄を是としただけの話だ。 だからなんだ?くだらんことぬかしてねえで社会に貢献しろばーか

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  すっとこどっこいぶりが続きます。  脳みそはあるのかよ。

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  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?