ニルワーナ(涅槃寂静)とは?

このQ&Aのポイント
  • 「ニルワーナ=さとり」かどうかについての議論があります。
  • ニルワーナは「吹き消した状態」とされ、涅槃寂静とも訳されます。
  • ニルワーナは如来の死そのものを指す場合もあります。また、「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静とも言われます。
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あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか

 問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。

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noname#195588
noname#195588
回答No.16

まさかとは思いますが、 滅尽定とは気絶のことなのでしょうかね? 気絶して、意識を失って、無事に意識を取り戻す。 そして、記憶がない状態を振り返って、 やはり、自分の意識は消え去るから 不死不滅のアートマンではないなあ。 などと考える。 滅尽定の説明を読んでいると もしかしてそうなのか?などと思ったり。 ただ、これだとあまりに虚無主義的ですが。 悟りが実はただの気絶なんてことは。 仮死状態からきちんと生還しないといけないから それなりに修行体系ができたのではないか?など。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  辞書を調べました。けっきょく ヰキぺで:  ▲ (ヰキぺ:失神) ~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E7%B5%B6  (しっしん、syncope; シンコピー)とは、   大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性の瞬間的な意識消失発作である。   通常は数分で回復し、意識障害などの後遺症を起こすことはない。   通常、失神が起こる前に、目の前が真っ暗になる感じや、めまい感、悪心などがあり、その後顔面蒼白となり、ついに意識が消失する。また、失神の発作は、立っている時に起こることが多い。  ~~~~~~~~~~~~~~  《気絶》からこの《失神》に転送されます。  たぶん 《意識の消失》は 共通なのでしょうね。  《発作》かどうか。あるいは 《めまい感》などはあるのかどうか。  ◆ (藤本 晃(慈照):仏教的に正しい禅定の作り方) ~~~~~   想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。   飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。   身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。   実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。   ~~~~~~~~~~~~~  わたしは 何とも分かりません。  ところで この藤本氏によると こういう《禅定》は《さとり》にとっては必要ないとも言っています。  ◆(同上) ~~~~~~   § 第三回  ◎五力でひらく、禅定を通じた悟りの世界    6 禅定はどうやって作るの?  悟りなら第一の預流果に達しさえすれば、後はいつか必ず阿羅漢に達するのですが、禅定は、色界第一禅で止まる人もあり、無色界最初の空無辺処で止まる人もあり、本人の興味や努力や特質によって様々のようです。  しかも禅定は悟りと関係なく、悟りに達する助けにしかなりませんので、釈尊も、禅定はできてもできなくても悟れば何も問題ないと思っておられたようです。  ~~~~~~~~~~~~~  見落としていました。これもまた おどろきです。おどろきのおどろきです。  で 言うべきことがなくなってしまいました。  しかし 人騒がせな男だと言わねばならないのではないでしょうか ゴータマという人間は。言い過ぎでしょうか?

その他の回答 (28)

回答No.29

こんばんは。 お礼読みました。 今0時ほどで普段この時間はもう寝ているのですが、寝付けなくてさらに回答します。 信仰の根拠は、お互いにもうすこし議題として整理しないとケンケンガクガクだろうと考えます。 とっつきやすい涅槃の問題をこねくり回します。 >  目覚めたのなら・つまりニルワーナに成ったのなら もう二度とわたしは人間に生まれて来ないと言っています。 釈迦が言いたかったのは、涅槃にいたり死んだ気持ちが解ったならば、それ以降は人生を回顧しない。 おおむねこんな意味でしょう。 人生経験には、後悔が付いて回ります。 その、やりなおしたい気持ちが膨らんだのが、輪廻妄想であるか、または輪廻をくみ取る神の姿としての信仰なのでしょう。 弥勒菩薩的未来志向では、考え方が時間の潮流の現在よりも先に延びていて、軽薄な言葉で未来志向です。 この範疇では、「私の現在は充実している」こうなり、常にその先を求める志向があります。 生きているうちにこのプラス思考を完成したら仏陀で、死んでみれば、結局生前を回顧することはないとするならば、人類は全員救われると言う解釈です。 でも、慈悲なる弱気で釈迦は当時の信仰をくみ取りました。 そして自らは死んだならそれでお終いで、死後に生前の姿を回顧することはあり得ないと言っただけ。 > 言いかえると ニルワーナに入るとは 無明=煩悩をいっさい断つのだという意味であるらしい。 日本人にも未来を後の事だとする認識があります。 私に言わせれば、未来はあくまでも先の事です。(後先考えずと言う言い回し) この時間認識が、順観の証明で、過去を悔み未来に死を観るのが無明の実態だととりあえずしておきましょうか。 棚上げにする信仰心の根拠について少しだけ言えば、 信じているのはあくまでも私。 そう言う事だろうと考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。わたしも今夜はまだ起きています。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  信仰心の根拠について少しだけ言えば、  信じているのはあくまでも私。  そう言う事だろうと考えます。  ~~~~~~~  ☆ 根拠は 無根拠と言うごとく アミターバ・ブッダならそのブッダのほうにあります。霊ですから 人間が理解しうる根拠ではないわけです。  ただし 人間がその名を どういうわけか 受け容れる。なら そのとき人間の受け容れるという意志行為をきっかけにして 信仰が動き始める。  このように理解しています。  ○ ニルワーナに入ると もう二度と人間には生まれない。  ☆ の問題は たとえば次のようです。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>  【 第一 蛇の章 】 <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《この世とかの世とをともに捨て去る》のだそうです。  《蛇の脱皮》というたとえなら 本体――蛇の本体――がすっかりなくなるわけではないので 《二度と生まれない》というとき わたしは永遠に――霊としてなのか――生きていると言っているとも解される。  そこらへんは よく分かりません。参考程度でした。

回答No.28

こんばんは。 空観の説明は時間がかかりそうです。 肝心なことに答えていなかったので、 「あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか」 これは釈迦の心象で天国に相当する世界観に関して説明した事だろうと自説を述べています。 それならば、割とくだらないだろうと考えます。 「こいねがう」とするならば自らの信仰の根拠が自らに無く、釈迦にその根拠を置き仏にあこがれているか、そんなきれいごとでなく、浅ましくも取りすがっているかでしょう。 あなたは信仰を無根拠だとしていて、それには私も理解できるのですが、信仰の根拠を社会に依存したり、他者の言葉に自らの信仰の根拠があったりしたら、その盲従は私の喧嘩言葉で家畜人だろうと思います。 「私が私である」この言葉の内訳に信仰の根拠を自らに置く事が含まれるか否か。 ポケモンジラーチさんには発案しデザインしたデザイナーがいません。 ジラーチさんの根拠は観念世界より舞い降りています。 これと同じように神に関しては無根拠でしょう。 ただし信じると言う行為を自らが為すならば、その私が信じると言う行為の根拠は、それは自らにあるだろうと考えます。 「私が私である」この言葉はそのように解釈しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  「あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか」  これは釈迦の心象で天国に相当する世界観に関して説明した事だろうと自説を述べています。  それならば、割とくだらないだろうと考えます。  ~~~~~~~  ☆ これは 割りとむつかしく面倒な問題だと思います。  目覚めたのなら・つまりニルワーナに成ったのなら もう二度とわたしは人間に生まれて来ないと言っています。  ニルワーナに達していないから 〔どういうふうにかは知りませんが〕何度も何度も輪廻転生してしまうのだという意味なはずです。  《天国》もあるいは《死後》も どうでもよいという見方であると言ってもよいようなのです。    言いかえると ニルワーナに入るとは 無明=煩悩をいっさい断つのだという意味であるらしい。  ★ ~~~~  あなたは信仰を無根拠だとしていて、それには私も理解できるのですが、信仰の根拠を社会に依存したり、他者の言葉に自らの信仰の根拠があったりしたら、その盲従は私の喧嘩言葉で家畜人だろうと思います。  ~~~~~~  ☆ まぁ ふつうの言葉で言えば 《信仰の根拠を人間が知っているとか それを人間がみづからのチカラで得ることが出来ると言うのであれば その信仰ないし神ないしブッダは 人間がその理性や想像力によって描いた人工のものである》というようなことだと思います。  自分でつくった神を自分で拝んでいる。といったようなです。  ★ ただし信じると言う行為を自らが為すならば、その私が信じると言う行為の根拠は、それは自らにあるだろうと考えます。  ☆ 或る日或る時 わが心の窓をノックするナゾの何ものかがあった。そこまでは 義無く・ハカラヒ無く・無根拠です。ただし このまぼろしのノックする者を――霊なら霊ですが その雲をつかむような霊を―― 受け留め わが心の中に受け容れるのは ワタシでありワタシの経験行為です。受け取ったという領収証を発行するのは ワタシの意志行為です。  そんなふうに反応します。

回答No.27

こんばんは、 お礼読ませていただきました。 主に空について、焦点を当てる事となるでしょうが、考えを練り込む時間をいただきます。 またの機会だったり、自分で質問を立てるかもしれないし、1-2日で練り込めて続けるかもしれません。 これは判りません。 これに関してはESPと明記している説明困難な事柄で取りとめもなく話すと神秘趣味やオカルト趣味のモノ好きの餌になってしまいます。 仏教の座禅は死者の瞑想で、私の瞑想は不死者の瞑想だ。 生きている状態がどこまでも飛躍する。 その不死者の瞑想を憧憬するほどに不死を渇望するだろう。 本来死の儀式とは獅子舞にかみつかれる程度のものだが、不死を望んだなら願いとして手向けられてその答えが死だ。 不死を望み死が手向けられ、その死にさらに苦悩する事になるだろう。 いつものように押し問答だ。 君達はその苦悩からまたしてもサル踊りをするだろう。 と、このようにモノ好きな人たちを挑発することになる。 それはともかくまともな考え方について、取り組んでみます。 これは永遠を説明することになるかもしれない。

bragelonne
質問者

お礼

 お粗末なガミガミ説教でした。  話は かみあわせることが いちばんだと思います。  勘違いで 筋が違ってしまったとしても 問い(つまり相手の発言内容)に対してわざとでもからみを持たせるようにしていたなら 話し合いは たのしいものです。  けんかも辞さないのが わたしです。  ★ 挑発  ☆ は ほどほどに。  ★ 死 / 不死  ☆ は まだまだ一般にあきらかな表現で説明されてはいません。よ。

回答No.26

A25の補足でどうでもいい雑学です。 試しに10年ぶりくらいに教本に出ていた座禅の方を試してみたのですが、ばかばかしい事をする自分に吹き出してしまい、集中できませんでした。 そこで当時の記憶が鮮明になったのですが、仏教が教えそこで学ぶ空は生きる事の潤いがない。 動態として「私は生きている」この要素が抜け落ちている。 私の頭真っ白モードはこれと違って、表現を今になって身に付けたのですが、夢に思いをはせると言う様な要素のある事柄です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  分かりました。これとして分かりましたが ただしそれほど新知見であるとも思えないのです。  ★ ~~~~~  ・・・仏教が教えそこで学ぶ空は生きる事の潤いがない。  動態として「私は生きている」この要素が抜け落ちている。  ~~~~~~~  ☆ そうだとしたら 仏教はダメですが これだけでは まだ一個人の実験でありそれとして試験をしたに過ぎないということになるかと思います。  言いかえると 禅定から意識を取り戻してみると 世界があざやかに見えるといった効果があるそうですが これとても ぎゃくにやはり一個人の体験に過ぎないと見なしてもほとんど差し支えないはずです。《世界があざやかに見えるようになる》のは 座禅の所為だと限らないわけですから。  それと同じように 《生きる事の潤いがない》という体験についても まだまだ 説得力がうすいというふうに見なされるのではないかと考えます。  相手が納得しなければ話が始まらない。そのとき相手にマチガイがあるとこちらが示してやれる問題がないかぎりです。  そういう問題が 批判にかんしては どこまでもついて来ます。    そうしてまた 《信仰》というような非思考のことがらにかんしては 今度は 《無根拠を根拠として捉える》といったような説明になります。説得力がとぼしいと言われても そこまでの説明はしておけるし しておく。といったような手続きが求められています。  まさにそういう問い求めを この場でおこなっています。どうでしょう?

回答No.25

おはようございます。 A22についてです。 死の門をくぐると言う難関に、そもそも人々の死の門とする解釈が間違っているのではないかと考えてその関連からこのように考えた事です。 しどろもどろにときわたりESPという個人的な特技の説明をしますが、過去世、現世、来世、世界はこのように分かれていますが生きているのは現世のみ、あとは死の超克です。 でもこれは死の超克と考えていないからこそできる事です。 生きる事をどこまでも展望すると言う事です。 過去生、現生、来生、として生きる事はないと言う解釈でむしろ生きる事の超克です。 座禅の類はこの過去世のそこに生きた実際だろうと言う話で出しました。 私は弥勒菩薩気取りでむしろ未来に向かっていて、未来と言う未知に向かっていけるが、大抵はそうではないだろうと言う思弁です。 >  たとえばお墓詣りということがあります。わたしには別のかたちがありますが(つまり 身近な死者は自分の中にいると言えばいますので 墓参りをする必要がないかたちですが) 人びと一般にあっては そのときに《過去の人と一体感を得る》ことができるということではないでしょうか? これはその通りです。 わたしは、常に棺桶に片足を突っ込んだ状態だとは言えても、型にはまった瞑想はしません。 形にはまった座禅を試したら、確かに仏教的な空そのものが理解できましたがミイラになったような気分でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 形にはまった座禅を試したら、確かに仏教的な空そのものが理解できましたがミイラになったような気分でした。  ☆ この《空》つまり空についての《理解》をどのように・どこまで 言葉で表現して互いに分かり合えるか。これが 問題意識に つねにあります。つまり みなさんにとっても まったく同じなのだと見るということです。  ★ ミイラになったような気分  ☆ という気分の問題から さらにいかに思想のかたちで表現するかだと思います。  おそらく確かに主観的なものつまり すべては自己表現なのですからそのことに見合わせても 確かに主観的なものなのですが それでも少しでも哲学として誰にとっても共有しうるような表現内容が求められています。  (あ)★ 過去世、現世、来世、世界はこのように分かれていますが生きているのは現世のみ、  (い)★ 座禅の類はこの過去世のそこに生きた実際だろうと言う話  (う)★ 私は弥勒菩薩気取りでむしろ未来に向かっていて、未来と言う未知に向かっていけるが  (あ)と(い)(う)とは いくらか違った内容であるように見られます。  あるいは別様に考えるなら 《現世のみに生きている》が ふられおんさんは 特別に《過去世や未来にも向かっていて いわば必要ならばそれらの時間をも現在に採り入れることが出来る》というような内容なのでしょうか?  でもただ 考えるに 過去や未来をいま現在において想起や予期として採り入れるというのは ごくふつうのあり方であるように思うのですが このあたりが よく受け留められませんでした。  という反応になります。    

noname#189751
noname#189751
回答No.24

おっとっと また呼びもどされた 今度は何だろう? >死者は死者にまかせておけばよい。と思いませんか? 残念ながら、私はそうは思いません。 生と死は断絶している、どうにも手の届かない世界であるなら放っておけばよい・・・ とは思いません。 むろん、死者との交流など一般人にできるはずもないのですが 死者への感謝をこめた供養に意味がないとは思えない 現世に生きる者にとっての気休めでしかない、という考えは狭いと思うのです。 供養が死者にどのように伝わっているのか・・・は知るよしもないのですが かといって否定しきる事もできない 感謝の念が強ければ、回向という形にまで高められる供養を無意味だとは思えないのです。 お分かりだとは思いますが・・・ 涅槃も含めた死者の行方や、そこにおける供養という死者への働きかけの有効性については、業の問題でもあるようです。 業を照見する智慧がなければ分からない 専門の僧侶においても、業を語ることは、まず無い、といってもいいくらいでしょう。 語らないのか、語れないのか・・・それも聞きずらい 極楽浄土へ行かれました・・・ああ、そうですか で終わってしまう。 人の業とは語らないもの、語れないもの・・・なのでしょう。 また、聞くに及ばず・・・といった感じで、暗黙の了解みたいなものです。 この暗黙の了解が仏教を、職業僧侶を支えているといってもいいかもしれません。 暗黙の了解の先を尋ねてはいけないのです 尋ねても、まず返事は無い、と思った方がいいでしょう。 悪く言えば、供養という人の善意を仏教は食いものにしている、という見方もできます。 こうした釈然としない状況をつくり出しているのは、それだけ業の問題が大きいからだとも言えます。 涅槃についたってそうでしょう。 業が消えて涅槃に入るということと、業不滅という事を誰も説かない ここに載ってるよ、というだけです。 あとは人まかせで勉強しなさい、というだけです。 涅槃に入れる智慧だけが業を知ることができる 般若心経なんかそんなもんでしょう。 また、業あるがまま如来の体に入る、ということで他力の教えがある 大悲の信解力をもって一足飛びというわけだ。 ・・・・・・・・・ やれやれ、 こんな感じだから人は迷う 時として、仏縁というやつがあって、向こうから示されるときがある。 あなたの入口はこちらですよ、と 人が示した入口ではなく、仏様が示した入口 ・・・・・ その入口をくぐって・・・・・・・今日で丸31年と9日目です。 その間、朝夕ニ度の礼拝だけは、どんな事があっても欠かした事がありません。 仏と向かい合えば、どんな事でも答えはあると思っています。 きれいごとの方向性はあえて書く必要もないでしょう。 ・・・・・・・・・・・ あとはもういいでしょうか。 すこし力みましたが、実際そんなところです。 それではあらためて お元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あばうと72さん お手数をかけました。そして それゆえ 別の質問を立てました。  そうですね。《回向》とかについてきちんとした教義を知りません。読んだことがあったと思いますが その後は 《死者は死者にまかせなさい》で来ています。  その意味は 死者たちは けっきょく《おれたちにはかまわなくてよい。いまの現実の中に生きてくれ。精一杯生きてくれたら それが おれたちへの心遣いなのだから。死者となったら そういう思いになるよ》と言っていると思っています。  それから《業》。これは 過去にこういう行動や思考をおこないましたということですよね?  基本的に言って わが精神の軌跡といったこととして 自分のたからになるのではないでしょうか?  それ以外に考えたくないですね。だって ピカピカの自性清浄心が泉の水のごとく湧き出ているのですから。  というようなことに どうしてならないのでしょうか? 道をはづしているのでしょうか?  というふうに思っております。  ありがとうございました。

noname#189751
noname#189751
回答No.23

追伸 なんかBさんが急に優しくなってしまったように感じます。 私が置いていった旅日記はコテンパンにされると思っていましたからね。 (今さら何を血迷っているんだ、 感傷的になったところで極楽も涅槃もありゃしない、 俺の爪の垢でも飲んでみろ・・・) とかまあ、そういった過激な言葉を期待していたんですが・・・ >人びとは ほんとうに死としてのニルワーナに入っているのでしょうか? え~と、今月に入ってもう二人ほど見送りました。 やっぱり無口ですね。 亡くなった人に話しかけても黙っている(当たり前ですが) お~い誰々さん・・・と呼びかけていると涙がでてくる 本音をいえば、極楽も涅槃も分からないのですよ。 ただ、お~い誰々さんという声の中に極楽があるような気がするのです。 南無阿弥陀仏に代えていう声の中に極楽があるような気がするのです。 感謝という極楽です。 これがきっと一方通行ではない そんなふうにも感じ思うわけです。 ステレオタイプの言葉でいえば、そりゃ、(その先に)輪廻だの、解脱だの、涅槃だのといろいろあるでしょう。 でも感謝という実感の極楽には及ばない。 人は人なんでしょうかね・・ いい意味で、そうでない時もあるんじゃないかと 無口になってしまった人が教えてくれたもの 最後に残していった極楽から、自分はまたこの世に戻ってきて、笑ったり、泣いたり、と 平然と暮らしている。 不思議ですね、馬鹿みたいに平然と暮らしている。 そして・・時折、仏様に手を合せてみると極楽がよみがえってくる。 感謝という他力の中に入れたように思えてくる。 涅槃は分からないが この他力にまかせきったところにあるんじゃないかと まかせきれれば・・極楽行きの切符が、涅槃行きの切符になる さあ、どうでしょう(ため息) たぶん、向こうへ行った人も同じじゃないかと 他力が絶対他力になれば、涅槃はあるんじゃないかと なれば、 じゃなくて、 そうと分かれば涅槃はあるんじゃないかと ・・・・・・・・・・・・ とまあそんなところです。 (私も言い方がかなり乱暴になってきたようです、Bさんに影響されたかな・・・) それではお元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 それではお元気で ったって 問いを残しているぢゃないですか。  A さん まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。  死者は死者にまかせておけばよい。と思いませんか?    ニルワーナがイメージとして持たれるというご見解に 反論はありませんが それでも方向性が違うようにも感じます。極楽も往生もみな このいまに生きるためのものだという方向性です。  たとえば最近知ったのですが 某かつて有名だったエコノミストは どうもまったくの冤罪であるという感触を得ました。(ようつべの事件の解明および自己弁明を聞いて)。  つまり 寿命を終えてであるのかそこらへんのことは知りませんが すでに《無口になってしまった》人たちのことも それとして心にあるのでしょうが この事件の事例などは《生きながら無口にされてしまった》場合にあたります。  つまり泉下の人たちとても 自分たちのことは二の次でいいから 今生きている人びとの遭遇している問題をしっかりと解決するようチカラを合わせて取り組んでくださいと言っているはずなんです。  その方向性が どうも A さんの説法を聞いていても 感じられない。こういう問題です。  ★ 感謝  ☆ があるなら そのお前さんたちのいまの現実の問題を見つめてみよと 先に往ったみなさんは答え返しているはずだ。  お経と解説書とを蔵に積み上げても 何にもならねえぞと叫んでいるのでは?    なにしろ《おのれの自我をなくして 宇宙と一体となる》なんていうセリフは 耳にタコが出来てしまっています。中身がありません。だから空と言うのかと皮肉りたくなります。  あなたは 心の声に耳をかたむける人間だ。だけれども まだ向きが違う。あさっての方向へ向かってしまっている。――と言われて どう答える? どうぢゃ?

回答No.22

一つひらめきました。 > それからヨガや座禅などの瞑想で得られる一体感とは、過去の人と一体感を得る追想の一種 これが死を知り死そのものとなる事の実際ではないか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★★(回答No.21) ~~~~~  ・・・  お釈迦様の当時の人知の基盤においては世界は多次元的宇宙観で地獄この世天国と分かれていた、涅槃と言うのはそんな当時に釈迦特有の言い回しで天国に相当する説明したものでしょう。  文献にそう無くても現代の実際としてそれが妥当な解釈ではないかと考えます。  現代の宇宙観に匹敵する壮大な世界観を持っていたと解釈する話も聞きかじっていますが、それであってもいわゆる世界観であり、解脱と言う言葉で内容はうかがい知れ、実際は地獄この世天国などと変わらない多次元的感覚に過ぎなかっただろうと考えています。  それからヨガや座禅などの瞑想で得られる一体感とは、過去の人と一体感を得る追想の一種で、そこで悟りを得たと喜んでも、それがいわゆる真理かと言うとそうでもなく、その宇宙観はいくらでも疑えるし改める事が出来ます。  そこで改めようと提示する世界観が、この世は娑婆でなく世界の全てに幸福を観る。  こういう言い回しです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それゆえ 《ニルワーナを こいねがう》のですか? それとも どうなのでしょう?  と問うています。  ★ それからヨガや座禅などの瞑想で得られる一体感とは、過去の人と一体感を得る追想の一種で  ☆ これは その種の修行をおこなう人たちの実際について認識したものでしょうか?  思弁的な推測でしょうか?  いづれにしても その認識が・つまり   ★ これが死を知り死そのものとなる事の実際ではないか。  ☆ とさらに認識すると どうして ニルワーナ関連としての知見となるのでしょうか?     たとえばお墓詣りということがあります。わたしには別のかたちがありますが(つまり 身近な死者は自分の中にいると言えばいますので 墓参りをする必要がないかたちですが) 人びと一般にあっては そのときに《過去の人と一体感を得る》ことができるということではないでしょうか?  つまり そのことと 座禅などにおける体験とどう違うということで 提出されたのでしょうか。

回答No.21

またまたお邪魔します。 本題の前に一人で納得していて誤解されそうな文章の修正です。 > 君達は、輪廻の迷信に迷い心が娑婆と言うかりそめの地獄をさまようかのごとくであるが、私の心は安らぎを得てそれとは別の世界に解脱した。  それが涅槃だろう。 釈迦の言いそうな事として、君達は、輪廻の迷信に迷い心が娑婆と言うかりそめの地獄をさまようかのごとくであるが、私の心は安らぎを得てそれとは別の世界に解脱した。  とか何とかなのが涅槃だろう。 これはわざわざ修正しなくても解釈していただけてたかもしれませんね。 さて本題です。 私は普段は平凡に、キチガイじみた事を考えないで生活しており、普通に友達もいます。 この場ではゴルゴムの総帥を募集していますが、友達は愛の戦士として仮面ライダーの正義に目覚めるように付き合っています。 この前その友達が、仕事に集中したらものすごい集中力が出て、無心にいたり宇宙に目覚めたと語っていました。 釈迦の言葉を聞いて目覚める者が多かったという故事はなるほどで、仏陀本人から感化されれば仮面ライダーに目覚める者は出てくる。 ここで友人に宇宙と言う話が出てくるのは、現代の人知の基盤に置いてです。 お釈迦様の当時の人知の基盤においては世界は多次元的宇宙観で地獄この世天国と分かれていた、涅槃と言うのはそんな当時に釈迦特有の言い回しで天国に相当する説明したものでしょう。 文献にそう無くても現代の実際としてそれが妥当な解釈ではないかと考えます。 現代の宇宙観に匹敵する壮大な世界観を持っていたと解釈する話も聞きかじっていますが、それであってもいわゆる世界観であり、解脱と言う言葉で内容はうかがい知れ、実際は地獄この世天国などと変わらない多次元的感覚に過ぎなかっただろうと考えています。 それからヨガや座禅などの瞑想で得られる一体感とは、過去の人と一体感を得る追想の一種で、そこで悟りを得たと喜んでも、それがいわゆる真理かと言うとそうでもなく、その宇宙観はいくらでも疑えるし改める事が出来ます。 そこで改めようと提示する世界観が、この世は娑婆でなく世界の全てに幸福を観る。 こういう言い回しです。 それからポケモン遊びの実態を説明します。 難題を抱えた精霊が火だるまになって転がりこんできて、その精霊を受け止め難題を解決するお手伝いをする。 ときには悪と対峙し、その悪を愛する。 こうした実際は仮面ライダーでは無くて女の子向けのプリキュアの実践でありますが、プリキュアを男がやるのは恥ずかしいので仮面ライダーと言う事にしています。 何を言いたいかと言うと私は対話を神と進めていると、えらぶる事が出来ると言う話です。 そこで対話の在り方に何かと倒錯なり錯誤があるのは認めえます。 やがて改める事が出来るでしょう。 神、または精霊は、子供のように喜びはしゃぐのが似合っていて、題材をおもちゃ業界から引っ張り出す表現がうってつけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ここは 先輩ぶって しばらくあなたの行動を見ています。

noname#189751
noname#189751
回答No.20

Bさんありがとう。 キリスト教の言葉いただきました。 >神は あわれもうと思う者をあわれみ    いつくしもうと思う者をいつくしむ これでは神も人間も等しく変わりないように思えますね。 愛と慈悲の深さの違いのようなものを感じさせられます。 超越的無意識の限定が神であり、愛である、といった感じにもとれます。 しかしどうなんでしょうね 一応それは表向きの(神の義を表す)言葉であって、信仰に入って神の愛に触れた者においては「えこひいき」は無いようにも思えるのですが 信心の深みにおいて限定は無いのだと もし限定があるとしたならば、まだ信心は深められるのだと 信仰とは、その入口を言葉で表さなければならないものです。 義とはそうしたものではないでしょうか。 その言葉を忘れてはならないが、いつか必要としなくなる時が来るのでしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ そろそろ試合終了のゴングが鳴りそうです。 勝手ながら一足先にご挨拶をさせていただきましょう。 今回も、互いに独断と偏見に満ちたいい試合ではなかったかと思います。 失礼ながら、Bさんのスタイルは破壊型の発見といいましょうか、壊して、壊して、壊しぬいて、壊れないものを見つけようとする感じにお見受けします。 私は、というと、放浪型の発見といったところなんでしょう。 どこかにまだ何かが転がっているんではないか、という開き盲目(メクラ)の放浪者です。 涅槃をこいねがうのか? と聞かれれば ちょっとだけなら涅槃へ行ってみようか・・・などと思ったりもします。 そんなこんなで、下手な旅日記を書いて終わりにしたいと思います。 お受け取りください。 ありがとうございました。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 涅槃とは無口なものです すでに涅槃に行った人は何も語ってはくれないからです さがしても どこ という場所も見つからない 会いたくなっても 変わらぬ影が浮かんでくるばかり 寂しくなったら 一行念仏 南無阿弥陀仏 いつでも橋はかかっているよ と 確かめてみる 涅槃をこいねがったりはしない まだこの世に未練たらたら だから 南無阿弥陀仏と書いた切符をしまっておこう いつでも取り出せるようにして 誰でも持てる一枚の切符 行き先は極楽 ( )して涅槃と書いてある

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  今回は 《信仰》ということについてあまり触れませんでした。その中身としての仕組みなどなど。そもそもの初めから明らかにする説明はして来ていません。  《ニルワーナ》に未練(?)があってもよいのです。   問題は それが どういう内容であるのかです。  そのことを明らかにする作業を 人びとは 怠っている。まったくただただステレオタイプの《オシエ》を引っ張り出して来て書き込んでいる。のみではないでしょうか?  なげかわしくありませんか?  ★ 涅槃とは無口なものです  ☆ ではないのです。慈悲とは 友だち関係ということですよ。他者がいるということです。  それとも そのような世捨て人の生活が ニルワーナなのでしょうか? 人びとはまったく疑問を持つことがありません ブディズムについてです。また ゴータマ・ブッダについてです。ふつうにゴータマのマチガイを説明しても 逃げて行くだけです。  人びとは ほんとうに死としてのニルワーナに入っているのでしょうか?

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    楽に生きたい、は、だらけてなどの悪い意味ではありません。 よろしくお願いします。四諦と四法印にて、現状の苦しい辛い人生から抜け出したいです。他、何か心強いお考えがある場合、そちらも教えて下されば幸いです。 このほど、自分は四諦について調べ、腑に落ちました。此処までの人生上、自分は人より貪欲と渇愛に溺れて、故にそれらが一切満たされず強いネガティブが生まれ、また元々強いネガティブだったこともあり、苦しんでおりました。しかし四諦の二つ目である集諦に心を救われ、力強く自分を苦しめていた原因である渇愛と貪欲を捨て去っていく(自分は謂わば愛欲が一番大きく、だから好きな人と結ばれたいと、貪欲と渇愛的に、嫉妬妬み、苦しむ悲しむなど酷く求めない、恋叶わずとも、その悲しみや苦しみは欲から来るものとして四諦を思いし沈めよう他など、心の持ちようを変えようと。この考えはおかしいでしょうか)に生きていこうと思いました。八正道、参考になりました。 故に、四法印の捉え方を教えて下さい。上記の気づき加え、僕はその四法印から何を捉えれば良いのでしょう? もっと生きやすくなりたいのです。 1、一切皆苦、この世の全ては苦である。僕はこれを今までの自分であり、物見事に煩悩、貪欲渇愛とネガティブのままに「はまっていた」時期だと思います。 2、涅槃寂静、煩悩、貪欲、合わせてその苦しみから抜け出した先、今から心がけるこの平静な気持ち、その到達点だと思っております。 しかし、諸行無常と諸法無我が、あと少しで分かりそうなのですが、いまいち良く分かりません。これらは以上のものと、どう繋がりがあるのか。教えて下さい。死が例えとして挙げられていました。どんなに幸運な人生だとしても死ねば一切を失う、と参考にした各ページではそう仰いますが、何というか、死はあまりショックではないんです。 現状一番辛いのは「生きていて苦しい、辛い」ということです。これを四法印にて解決したいと思います。よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ア=ブッダのペテンの証明

     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。