• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか)

ニルワーナ(涅槃寂静)とは?

このQ&Aのポイント
  • 「ニルワーナ=さとり」かどうかについての議論があります。
  • ニルワーナは「吹き消した状態」とされ、涅槃寂静とも訳されます。
  • ニルワーナは如来の死そのものを指す場合もあります。また、「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静とも言われます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#195588
noname#195588
回答No.16

まさかとは思いますが、 滅尽定とは気絶のことなのでしょうかね? 気絶して、意識を失って、無事に意識を取り戻す。 そして、記憶がない状態を振り返って、 やはり、自分の意識は消え去るから 不死不滅のアートマンではないなあ。 などと考える。 滅尽定の説明を読んでいると もしかしてそうなのか?などと思ったり。 ただ、これだとあまりに虚無主義的ですが。 悟りが実はただの気絶なんてことは。 仮死状態からきちんと生還しないといけないから それなりに修行体系ができたのではないか?など。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  辞書を調べました。けっきょく ヰキぺで:  ▲ (ヰキぺ:失神) ~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E7%B5%B6  (しっしん、syncope; シンコピー)とは、   大脳皮質全体あるいは脳幹の血流が瞬間的に遮断されることによっておこる一過性の瞬間的な意識消失発作である。   通常は数分で回復し、意識障害などの後遺症を起こすことはない。   通常、失神が起こる前に、目の前が真っ暗になる感じや、めまい感、悪心などがあり、その後顔面蒼白となり、ついに意識が消失する。また、失神の発作は、立っている時に起こることが多い。  ~~~~~~~~~~~~~~  《気絶》からこの《失神》に転送されます。  たぶん 《意識の消失》は 共通なのでしょうね。  《発作》かどうか。あるいは 《めまい感》などはあるのかどうか。  ◆ (藤本 晃(慈照):仏教的に正しい禅定の作り方) ~~~~~   想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。   飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。   身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。   実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。   ~~~~~~~~~~~~~  わたしは 何とも分かりません。  ところで この藤本氏によると こういう《禅定》は《さとり》にとっては必要ないとも言っています。  ◆(同上) ~~~~~~   § 第三回  ◎五力でひらく、禅定を通じた悟りの世界    6 禅定はどうやって作るの?  悟りなら第一の預流果に達しさえすれば、後はいつか必ず阿羅漢に達するのですが、禅定は、色界第一禅で止まる人もあり、無色界最初の空無辺処で止まる人もあり、本人の興味や努力や特質によって様々のようです。  しかも禅定は悟りと関係なく、悟りに達する助けにしかなりませんので、釈尊も、禅定はできてもできなくても悟れば何も問題ないと思っておられたようです。  ~~~~~~~~~~~~~  見落としていました。これもまた おどろきです。おどろきのおどろきです。  で 言うべきことがなくなってしまいました。  しかし 人騒がせな男だと言わねばならないのではないでしょうか ゴータマという人間は。言い過ぎでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (28)

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.8

こんばんは bragelonneさん。 涅槃寂静について考えてみました。数学で10^(-26)ならば これは 「1」の中の可能無限的な思想だとすると 「1」は単なる実数における実無限的な「1」ではなく 「1」とは とても密度の濃い 質の高い「1」と考えられると思います。 私たちは 何となく普通に生活してしまうと実数の「1」 すなわち 量で物事を考えてしまうけど。それは この世界が膨張している事によるエントロピーをそのまま観てしまうと言う 私たちが 外観により 物を観ている事を表わしていると思います。 そこで 釈迦は 内観を観て質的な観方をしなさいと 言っているのではないでしょうか? 「1」とは 少数の集まりでもあるんだと。私達一人一人が自分の個性 たとえば 視覚的な物を少数的に真 善 美を追求すれば 質の高い事を為すことができる。 そして 今の世界で 各々がそれらを持ちより「1」を為せば 量的だけな物にこだわることなく 質の高い幸福に繋がると言うことだと考えました。 インドの階級社会にこだわるのではなく 各々が外観だけでなく内観を観ることにより より幸福な社会は実現できるということかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  のっけから反論をとなえます。  もし仮りにワタシ(誰でもよい)が涅槃寂静に入ったとします。  てふ_てふさんは その状態をたとえて 《10^(-26)》と言っているのだと思います。    ですが おそらくそういう数でのたとえであるならば やはり人間であるワタシは 《一》なのだと見ます。どういう状態になっても 元からの《一》である。と見ます。  また この《一》なる存在をどこまでも保つかたちにおいて ニルワーナが成就できる。こう見ます。  なぜなら もし《量的にものごとを捉えるのではなく質的に捉え また外観にこだわるのではなく内観においてものごとを見る》というときには ワタシなる存在は変わらないからです。存在についての意識をいちいち持たないでしょうし その存在のあり方が 寂静と言うからと言って極小のものになるというふうには思えないのです。    《一》でありつづけつつ その存在感が《10^(-26)》にもなるし 《10^26》にほかの人から感じられることもある。というようなあり方が 目覚めた人のワタシなのだと見るからです。ワタシには ハカラヒはないわけです。  ★ そこで 釈迦は 内観を観て質的な観方をしなさいと 言っているのではないでしょうか? 「1」とは 少数の集まりでもあるんだと。  ☆ そうぢゃなくて ワタシは何もしないのです。存在しつづけはします。何もしません。それが むしろ《内観》なのではないでしょうか?  そして存在としての元からの《一》 このあり方にも何ら飾りをつけたりぎゃくにちいさくしてみたりするということはない。そしてまた そうはならない。あるいはさらにこの《一》を《少数の集まりでもあるんだ》とわざわざ別様に思ったりしてみることも要らない。  これがつまり 涅槃寂静の状態なのではないでしょうか?  おそらく《質の低い・高い》ということにもこだわらない。のではないでしょうか?  おのづから 良質のものの見方も身についてくるでしょう。  こういったひとつの具体的なはっきりした説明を ゴータマ氏は与えているべきだった。何もない。道徳の言葉をならべているだけではなかったでしょうか? 誰でもいちどおぼえれば言えるものです。  と考えますが どうでしょう?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

自らの思うところ考えるところではなくて、題材提供です。 指摘です。 >☆ 《この手の他者の働きかけ》に答えること――あたかも自分の思いをニルワーナのほうへところして 相手に合わせること―― これはそれとして主体的な行動だと考えます。 この場合のニルワーナは個人の主観ではないか?広く世界に主観を置いてこそニルワーナではないか? ところがニルワーナは釈迦の逃げ口上で、世界に私はいない、私は精神のみに生きる。 こう言っていたのではないか? これも釈迦の説明不足かもしれない。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  じつは前回 あいまいなままに書きました。そういう方向を考えて見ようと思ったからです。その応答がどう出て来るか。とも思ったからです。  いろんな見方があるのに 一面だけを取り出してああだこうだというたぐいの議論になってしまったかも知れません。  ★ この場合のニルワーナは個人の主観ではないか?  ☆ ここでわざと ニルワーナを使ってみたというようなことですが それは確かに《個人の主観》におけるニルワーナとしての《相手へのゆづり》のことです。    あるいは   ★★(回答No.5) 期待されることであったり、流行に乗ることであったり、この手の他者の働きかけが望みを欲望とする事である。  ☆ という場合ないし情況なのですから ただしひとりの個人だけの《相手へのゆづり》ではなく 《ゆづりあい》にまで発展しているという場合もあるかと思います。  言いかえると この《ゆづりあい》もない場合には 一人ひとりがバラバラに勝手に《他者へはたらきかけている》だけであるとも考えられます。《欲望》の数珠つなぎのようになるかも知れません。  どうなんでしょう。ゴータマの場合は なにしろ出家という身分ですし それとしての社会的な位置づけですので 実際の人間関係としての実践は どういうことになったと見ればよいのでしょう?  さとりのことについてなら いくらでも言葉を費やして説明していたかも知れませんが。    こんな感じですが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「無明ないし煩悩 これが《吹き消された》と言おうとしているのだと思いますが そういう境地は くりなるさんにとっては たやすいことですか?  ふつうに日常生活の中で得られる状態ですか?  具体的にさらに みなさんに 説明してくださいませんか?」 それは「気付く(き)」とか、・・・ぶっちゃけ、「間違いは、間違いだ」ということでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  なるほど。  ★ 「間違いは、間違いだ」ということでしょうね。  ☆ マチガイをマチガイであるとみとめること このことだけでも じつはむつかしい。それこそニルワーナに達しなければ なかなか出来ない。  ★ 「気付く(き)」  ☆ も重要でしょうね。マチガイに気づくことから始まって。  いやに言葉がすくないですね。いいですけれど。  今回は 上のような内容をいただきました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.5

連続でこんばんは。 お礼読みました。 >人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態 この定義が欲望の研究の結果、疑わしく思えてきた。 自己の本性から発して心が迷う事はない。 自らの望みではなくて、誰かから自らについて望まれ、その他者の望みを自らの望みにするなら欲望である。 こういう見解である。 期待されることであったり、流行に乗ることであったり、この手の他者の働きかけが望みを欲望とする事である。 心が通じる伝心が解釈する上で重要なカギで、世間で自己中と揶揄する通りが自我なら、むしろその自我は意思薄弱な、他者の望みや考え方に影響を受け過ぎて欲望が膨らんだ状態だろう。 そしてそうでない状態が乱暴に無我と対極に置かれるが、無我でなく、自らが確固としていて他者の望みや世間体に流されない状態であり、これこそ自己中だ。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 世間で自己中と揶揄する通りが自我なら、むしろその自我は意思薄弱な、他者の望みや考え方に影響を受け過ぎて欲望が膨らんだ状態だろう。  ☆ この命題には わたしも思うところがあります。同じように思うところです。  《自己チュー》という規定で他人(ひと)をあたかもさばく行為は 《他者の望みや考え方に影響を受け過ぎて欲望が膨らんだ状態》だとしか現代人のことを捉えることが出来ない。  つまり言いかえると ひとは社会の中にあってやむを得ず《他者の望みや考え方》を受け留めそれに自分の行動を合わせなければならない情況に置かれる このことはありうると見られるからです。  他人の考えや要望に自分を合わせるというのは その《合わせる つまりは 他人の要望するところを引き受ける》ことであるからには それとして主体的に行動している。  ★ 期待されることであったり、流行に乗ることであったり、この手の他者の働きかけが望みを欲望とする事である。  ☆ 《この手の他者の働きかけ》に答えること――あたかも自分の思いをニルワーナのほうへところして 相手に合わせること―― これはそれとして主体的な行動だと考えます。  そう見ることが出来ない人は それは自己チューであり ただの欲望(しかも 他律的な欲望行為)だと見るのかも知れません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#221368
noname#221368
回答No.4

 とりあえず、また切り取ってます。ウェーベリアンです。 >単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえら>んで用いているのですから > ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  このような態度を持ってウェーバーは、「現世逃避的」という分類をしたと思います。  しかし「現世逃避的」であるはずの人達が、そうでない「利他行為」をした事実も歴史には記されています。  これは個人的意見ですが、「そうでない行動をした人達」は、そのような利他行為も、結局は「自分の気持ちのためにやった」(自分のためにやった)という事を自覚ししつつ、行動したのではないでしょうか?。そのような人達は、口が裂けても「人のためにやった」などとは言えないはずです。  上記は自分のファンタジーです。そして極めて日本的だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ででてx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  要するにブディズムが ニルワーナをかかげることにおいて  ★ 現世逃避的  ☆ だと見られるのは 初めに苦――思うようにならぬという苦――や無明=煩悩をおいてこれらの克服を目指すかたちを採ったことにあり さらには基本的に言って出家という生活のかたちを採ったことにあると考えられます。  ただし のちのちには 在家でも同じブッダないしニルワーナの道をあゆむことが出来るとされたこと あるいは 何がどうであれ ブッダター(仏性)が 一切衆生にやどると見たことからすれば 最初の《現世逃避》の性格から脱皮したと言ってよいように考えられます。  と見られることが ひとつです。  もうひとつは  ★(要約) このあたかも自己ないし《わたしに執着すること》としてのワタシを吹き消すことをすら目指すニルワーナをかかげる人たちも 犀の角のようにひとりあゆむのでは必ずしもなく 《利他行為》をおこなったらしい。けれどもこれはすべて 《自分のためにやった》ことである。本人たちも そのことを自覚しているはずだ。  ☆ といったことでしょうか?  ★ 上記は自分のファンタジーです。そして極めて日本的だと思います。  ☆ この点 いまひとつ飲み込みかねていますが そういう場合 利他行為は 自分の修行がすすむためにおこなうものだといったことでしょうか?  つまり 自分の修行のための一環であって そのかたちとして利他行為をえらんだ。のであるに過ぎない。といったところでしょうか?  考えてみれば 自己宣伝のために寄贈をおこなったりもしますから 利他行為を自分の利益のためにおこなうというのは ありなのでしょうね。  思うに ニルワーナを必ずしも一義的に《現世逃避》だと捉えることは当たっておらず それは行き過ぎなのではないか。とは思いました。生活日常に根ざそうとする動きは あるやに受け留めています。  ケノーシスという自己無化なる理念かつ実践も 別様に(つまり ブディズムではありませんが)説かれていますから 現実性を回避しようとするだけに終わるものではないように思います。果たしてどうでしょう。   

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

つまり、「風が吹き、吹き消される」とは、こうしたことではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ こうしたこと  ☆ って どうしたこと?  無明ないし煩悩 これが《吹き消された》と言おうとしているのだと思いますが そういう境地は くりなるさんにとっては たやすいことですか?  ふつうに日常生活の中で得られる状態ですか?  具体的にさらに みなさんに 説明してくださいませんか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

こんばんは、 最近は仮面ライダー趣味の方が面白いのですが、原点をおもいい返せば、私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれて、そうしていると自らが存在し呼吸しているという事実ただそれのみに安らぎがこみあげてきます。 こい願う事ではありません。 自ら歩みたどりつく道のりです。 願いではなく自らが達成する望みです。 望むならですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 原点をおもいい返せば、私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれて、そうしていると自らが存在し呼吸しているという事実ただそれのみに安らぎがこみあげてきます。  ☆ この状態が 《ニルワーナ(涅槃寂静)》であると定義した・もしくは解釈した。ということですね。  どうでしょう。  重なるところはあるかとわたしは思いますが 一般にどのように説明し説得するか。でしょうね。  ▼(ヰキぺ:涅槃)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ どこから起こるかを別として その《真っ白な状態》にあれば 《精神の迷いがない》ということでしょうか?    わたし自身としては その真っ白で思考を離れた状態は 《空》観に通じるとは考えますが 一般にどう説明するか? ではないかと思います。  ★ ~~~~~  こい願う事ではありません。  自ら歩みたどりつく道のりです。  ~~~~~~~  ☆ つまり 《エポケー》なりあるいは《もののあはれを知る》なりの状態は たしかにふつうに人間がたどりつける境地〔の一段階〕だと思います。  ただしまだ市民権が得られていないかともおそれます。  ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

bragelonneさん、こんばんは。 「~(で)あれ」というから、苦しいのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  もうひとつ ん?  ★ 「~(で)あれ」というから、苦しいのです。  ☆ これは なぞだ。  《「~(で)あれ」という》ところは ないようなんだけれど?  《苦しい》と言ったおぼえはないのですが?  でも何かを考え違いしていて それをなおせば楽になるということでしょうか?  ううん。わっかんないなぁ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか

     なぜ死なないか? とさえ言っているようである。  なんで死ななきゃなんないんだよおと答えて終わりである。  また そうしなくちゃならない問いである。  何が寂静だ寂滅だ有余涅槃だ無余涅槃だ。  ニルワーナだのニローダだのって  そのどこがさとりなんだ。  勝手にほろびればいいだけではないか。  なんで家出しなきゃならないんだ。  出家ったってイエデのことだろう。  家族を見捨て  いのちを無にして成道に到るものかよ。  ゴータマ・マジックは まぼろしではないか?  つまり 《無我・無私》などという或る種の仕方による理想は それを主張する我れのおもちゃではないのか?  なぜ生きるのか? なる問いは ゴータマ氏の呪いに毒されているだけではないだろうか。    これらは すでに生まれて来て生きていること自体が そのままふつうの人間にとっての理論なのであって いちいち議論になることこそがおかしいのではないか?  ゴータマ・ブッダの思想は 末法人にとってもガンではないか?  ご見解をどうぞ。  

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • キサーゴータミーの説話について

     原典では このわが子を亡くして悲しむ母親であるキサーゴータミーは それまで人間の《死というものを知らなかった》と書いてあることが分かりました。  そうすると どう捉えるか? という質問です。        *  まづ その説話としてあらましを掲げます。  1. ようやく歩けるようになったころそのわが子は あっけなく死んだ。  2. 母親のキサーゴータミーは 《それまで死というものを見たことがなかった》ので 人びとがわが子を火葬に付すのをこばみ 《子どもの薬》を手に入れようとする。  3. 或る人の助言を得て ゴータマ・ブッダのところに行って相談するとよいと聞き 行った。  4. 死者を出したことのない家から カラシの種(または ケシの実?)をもらって来なさいとおしえられ 探しに出かける。  5. ▼ (赤松孝章:キサーゴータミー説話の系譜) ~~~    http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no34/34_001-015_akamatsu.pdf   けれども彼女は一軒の家でも白カラシの種を得ることができず,夕刻時に考えた。     「ああ,重大なことに,私は『私の子供だけが死んだ』という思い    をなしていた。しかし村全体において,実に,生きている人より死ん    だ人の方が多いのだ」  と。このように考えた時,彼女の子供に対する愛執の弱き心は固きものになった。  6. ▼(同上・承前) ~~~~~~     「子供や家畜に気を奪われて,心が執着している人を    死はさらって行く。眠れる村を大洪水が(流す)ように」   と (師=ゴータマブッダが)偈を説き終わった時,キサーゴータミーは預流果[=さとりに向かう流れに入った宗教的境地]に到達した。( p.8 )  ~~~~~~~~~~~~~~        *  Q‐1: 母親になった人が 《人の死を知らなかった》ことがあるだろうか?  Q‐2: それでも もしそのとおりに受け取るとすれば この説話は 何を語っていると受け取るのがよいか?  Q‐3: つまり 人間が死ぬということを知って さとりが得られたといった話は そのまま受け取ることが出来るか? いったいどういう説話なのか?  ☆ ちなみに漢訳経典では 母親は《老母》となっているとか。ならば Q‐1は 《ない》と答えざるを得なくなる。・・・   ・ 前掲 赤松孝章論文 § 4.漢訳経典の説話 ( p.13 )

  • 解脱を意味するムクティとニルヴァーナの違いは前者が

    解脱を意味するムクティとニルヴァーナの違いは前者が精神的に解放された幸福感に対して、後者は輪廻から解き放たれて存在そのものがなくなった幸福感を表すのではないだろうか? (もしくはムクティ(Moksha /vimoksha, /vimukti /mukti,)はジャイナ教、シク教ではnirvāṇa(ニルヴァーナ)と同一の意味合いで使われているかもしれないが?) 皆さんにとってnirvāṇa(ニルヴァーナ)とムクティ(Moksha /vimoksha, /vimukti /mukti,)はどのように使い分けされるだろうか? https://en.wikipedia.org/wiki/Moksha https://en.wikipedia.org/wiki/Nirvana https://ja.wikipedia.org/wiki/解脱 https://ja.wikipedia.org/wiki/涅槃 https://kotobank.jp/word/ムクティ-1424688

  • 《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか

     スピノザの言う    《神すなわち自然( Deus sive Natura )》  は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての    《一切衆生 悉有仏性》  と同じか?  どう同じで どう違うか?   たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。  1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい  ▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6    2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。  3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。  4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。  ▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~  神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。  ~~~~~~~~~~~~  5. 心身平行論  ▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。  6. ▲ ~~~~~  その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、  7. ▲ ~~~~~~  この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。  すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。  両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。  ~~~~~~~~~~~  8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7   § 1.1 歴史的な流れ  仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。  さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。   § 1.2 宗派による違い  さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。  ~~~~~~~~~~~  ご教授ください。

  • 釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

    こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。 wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」 と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。 それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます) そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。 この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。  天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。 長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

  • 般若心経が何を伝えたいのか、どう救われるのか

    未だ良く分かりません。救われたく、般若心経を読みました。以下、自分なりの解釈を纏めました。ほぼ分かりません。長くなると思いますので、この質問の内容である、「つまり何が言いたいのか? これで何が救われるのか?」を分かりやすく、何方か教えて下されば幸いです。 一応、こういうことを伝えたいんじゃないか、という自分なりのものを置いときます 「例えば君が一番悩んでいる辛い苦しいとか、それらも含めて、全部何も動じなくて良いんだよ。感情も思考も、大事なのは「心の中空っぽ」にして、「此処には何にも無い」って、「何も考えない」って考えて、良いも悪いも、「楽しくも悲しくも全部反応しなければ、どうでも良いって捨て去れば、何にも無い、当然悩みだって無い」って、したら迷いなんてないって、心痛むこと、心病むことなんてないようにならないかい? だって、何も無いんだからさ。「君を脅かす物はない」。「君が何も無いって全てを絶つんです」。色んな事頑張らなくて良いんだよ。何にも感じない、何にも考えないって、ロボットって思われるかも知れないけれど、でも、何にも動揺しないし、傷つかないんだよ。無の境地、苦しいもの怖いものなんて「心が感じ無い」静かな世界って、安らぐよね。楽しさも嬉しさもないっていうと怖いかもだけど、そんなんじゃないよ。そうじゃないのさ。謂わば君を苦しめる、考えさせられる「現実」というものに拘りすぎないで。「そういったものを心の中から、全部、無くそう。物凄く遠ざけよう。滅ぼしたって構わない。苦しみは苦しくなくなるし、痛みは痛みじゃなくなるよ。全部掃除して無くなって、綺麗になったなら、何でも救われる、安心できる超然に辿り着けるよ」。魔法の言葉さ、「貴方には何も無い。貴方から何も無くなった」。覚えておいて」 以下、般若心経の解釈です。 この世には本来は何も無い。でも「何かある」と思うのは自分の妄想。本当は何も無い。「何かある」と勝手に思っているのは「自分という心」だけ。それに目鼻耳口などの感覚器官も本当は何も捉えていない。心も感覚器官も本当は何にも無い。 本当に何にも無いんです、最初から永遠に何も無いんです、この世には。何にも無いから生れることも死ぬことも当然成り立たず有り得ないし、何にも無いから汚れもしないし綺麗になることもない。当然増えも減りもしない。 心の動き、何かを感じる感覚、何かへの想い、こうやっていこうかという意志、こうだろうなという認識、それらも無いんです。感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身体、心にさえも実態はない。また、形も、音も、香りも、味も、触覚も、心に感じることさえも、そんなもの何も実態はない。眼にみえる実物世界から意識できる精神世界まで、「でも、ほら、ずっと其処にあるじゃないか」という現実、実態は何一つ無いんです。 (此処から何を伝えているのか分かりません) だから、そもそも迷いなんて無く、無いもんだから「迷いが無くなる」なんて工程も起きはしない。悟らなくたって良いんです。例えば今の「本当の事を何も知らない」でいることから脱しようと、その自分の考えから離れても良いし、それにそんなことしなくても大丈夫、どっちでも良い。「この世には何かが在るんだよ」という執着を捨てるだけ。「じゃあこれから頑張って悟りますよ」という考えにもやらなくて良い、執着してはいけない。老いることも死ぬことも別に、どうでも良い、感心が無い、何にも無いって考える必要も無くなるもんだから、老いと死がつきることもない(此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?)。「苦しみや、苦しみの原因もない。当然苦しみもないんだから、苦しみから解放される手段もなく、苦しみを制する方法も、そもそも成り立たず、存在しない」。「だから苦しまなくて良いんです。逃れようと頑張らなくても良いんです。だって原因も解決方法も、最初から無いんだもの」。「救いがないとかじゃない、問題なんて最初から無ければ、解決なんてしなくても良いでしょう?」、元々最初から「本当に何もない」のだから、知ることもなく、得ることもない。本当に、何にもなり立たないんです。何かあるとするなら、それは貴方の錯覚です。「貴方の中には、何も無い」。 真実を理解することなんてしなくて良い、涅槃に到達することもしなくていい、悟りを得るなんてしなくて良い。そもそも悟りである「何かから救われよう」と求める人は、日頃「例えば心をざわつかせるようなもの、本当は何にも無いんだよ。だから安らげるな、安らごうか」という安心できる意識の場所に至る知識や、それを実践していて、それを拠り所としているから、前述の「妄想な世界」に拘ることもないので、心にわだかまりがない。(多分、苦しさとか悲しさとかそういうネガティブなもの? 等に)捕らわれることもないし、だから恐れることもない。「全ての迷いから遠く離れているから、心は永遠に安らか」なのです。過去、現在、未来の仏様たちも、そういった安らぎに至る知恵、やり方を実践をすることで、妄想の世界の中から、謂わば本当の本当な「悟り」を得ることができたのです。 だから、その「大いなる安らぎの境地に至る知恵とやり方の実践」こそが、真実の言葉、悟りの言葉、最高の言葉で、一切の苦しみや虚しさを取り除いてくれるのです。じゃあ教えますね、この安らぎの境地に至るための、真実の言葉とは。「歩いて行こうとする人よ、生きていこうとする人よ、どうか、現実、妄想に捕らわれない、「あぁ、此処には何にも無いんだな。それこそ苦しさ悲しさというものさえも」という安らぎの境地へいきなさい。みんなそろって、いきなさい」。

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 仏教、四諦と四法印について。人生を楽に生きたい。

    楽に生きたい、は、だらけてなどの悪い意味ではありません。 よろしくお願いします。四諦と四法印にて、現状の苦しい辛い人生から抜け出したいです。他、何か心強いお考えがある場合、そちらも教えて下されば幸いです。 このほど、自分は四諦について調べ、腑に落ちました。此処までの人生上、自分は人より貪欲と渇愛に溺れて、故にそれらが一切満たされず強いネガティブが生まれ、また元々強いネガティブだったこともあり、苦しんでおりました。しかし四諦の二つ目である集諦に心を救われ、力強く自分を苦しめていた原因である渇愛と貪欲を捨て去っていく(自分は謂わば愛欲が一番大きく、だから好きな人と結ばれたいと、貪欲と渇愛的に、嫉妬妬み、苦しむ悲しむなど酷く求めない、恋叶わずとも、その悲しみや苦しみは欲から来るものとして四諦を思いし沈めよう他など、心の持ちようを変えようと。この考えはおかしいでしょうか)に生きていこうと思いました。八正道、参考になりました。 故に、四法印の捉え方を教えて下さい。上記の気づき加え、僕はその四法印から何を捉えれば良いのでしょう? もっと生きやすくなりたいのです。 1、一切皆苦、この世の全ては苦である。僕はこれを今までの自分であり、物見事に煩悩、貪欲渇愛とネガティブのままに「はまっていた」時期だと思います。 2、涅槃寂静、煩悩、貪欲、合わせてその苦しみから抜け出した先、今から心がけるこの平静な気持ち、その到達点だと思っております。 しかし、諸行無常と諸法無我が、あと少しで分かりそうなのですが、いまいち良く分かりません。これらは以上のものと、どう繋がりがあるのか。教えて下さい。死が例えとして挙げられていました。どんなに幸運な人生だとしても死ねば一切を失う、と参考にした各ページではそう仰いますが、何というか、死はあまりショックではないんです。 現状一番辛いのは「生きていて苦しい、辛い」ということです。これを四法印にて解決したいと思います。よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ア=ブッダのペテンの証明

     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。