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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか)

なぜ生きるのか?ゴータマ・ブッダの思想を考察する

このQ&Aのポイント
  • 人間の存在の意義について問いかけるゴータマ・ブッダの思想は、末法時代においても有効なのだろうか。
  • 生と死の不可解さについて、ゴータマ・ブッダは「生きる理由」や「死ぬ必要性」について言及しているが、これが人間のいのちと存在に対して失礼ではないのか。
  • さらに、寂静や涅槃といった概念についても疑問を投げかけ、ゴータマ・ブッダの思想はどれだけ真実性を持っているのか疑わしさが残る。

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回答No.23

哲学音痴ですが 私の見解も聞いていただけますか? 何故生きるのか? あらゆる生物と同じで、本能的に・・・ ただ、人間はいらぬ知識が有る為、 今回のような議論をよぶのでしょう 乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、 彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、 生きる意味も考えることは無いと思います。 ただ単純に生きようとして行くでしょう。 年頃になれば、Hもするでしょう(おそらくバックで) 子孫が50代目まで行った時言葉は生まれているでしょうか? 農作は始まっているでしょうか 幸せの観念はあるでしょうか、 争いはおそらく起こるでしょう。 争いを戒める為の教えが出てきているでしょうか 共に助けあって生きる教えがあるでしょうか その時に、神が生まれるのでしょうか? いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。 解答になってないかもしませんが、 「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で 人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ちちならべさん こんにちは。初めまして。ご回答をありがとうございます。  わたしの考えに沿って整理し応答をしてまいります。  ★ ~~~   「生きる」は意味等無く「生きている」が本来の姿で  人間の知識により、想像された物(生きる)が今あるのだと思いました。  ~~~~~  ☆ おそらくそうなのだろうと思います。  問題は その上で――このような本来の姿が基礎としてあり 現実に生きられているその上で―― 何らかの《生きる意味》を人間は持つようになるのも 実際でありましょうし 《人間の知識により 想像された物(生きる)が今ある》ことも見止めないではいられないことです。  放っておけばよいというのが正解であれば 哲学はその正解の妥当性をも問い続けます。  ★ ~~~~  乳飲み子を無人島に10人置いて帰るとして、  彼ら彼女らがどうするかが本来の形で、  生きる意味も考えることは無いと思います。  ただ単純に生きようとして行くでしょう。  ~~~~~~  ☆ すなわちこの状態から では 生きる意味をどうして問うことになったか? なのだと思われます。  ただちに分かることは 《単純に生きている》とき人は この生きることをも認識するということなのでしょう。生きるという概念が持たれれば その意味をも問い求めるものと思われます。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ そういう習性なのでしょうか。  なぜならその無人島において たとえばキノコがあればそれが食べられるかどうかを知らなければなりません。わるいものを食って消化がわるくなればそれに効く薬草を探したかも知れません。  したがって ひとは 生きることを認識し 単位体としての存在であるわれをも自覚するようになります。  こうして考えて来たとき わたしには人間の心性ないし知性には三つの段階と区分があると見ています。   -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム    0:歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在)   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。      《イリ》なる歴史知性が 《自覚を持って単純に生きている》姿ではないかと思います。それは  ★ 農作は始まっているでしょうか  ☆ というように 農耕を始めることにおいて世界の内に入ったのだと。  狩猟漁労採集で生きていたときから 人為的に食糧となる植物を栽培するという農耕が始まりそこでは その種から実が成るまでの《時間》が経過します。この時間の認識に沿って 世界の認識という行為にも歴史があると見たでしょうし また一人ひとりの存在は かなしいかな やがて死という限界を迎えるという時間過程をも知ったはずです。  世界内存在とは 時間的存在だという意味のはずです。それとしての《わたし》の自覚のはずです。   《ヨリ》なる原始心性のころには アニミズムと現在から見て捉えるのならば 到るところのあらゆるものに精霊を見たのでしょう。みづからの存在の精霊ともつながっていると見たのでしょう。  シャーマニズムでは シャーマンがその精霊じたいに憑依すると言うのでしょうか 意識という意識を脱ぎ捨て取り除くようにして 《脱自》というのでしょうか それをとおして生活に必要で大事なことのお告げを得ようとしたものと見られます。    やがて《わたし》が自覚されて来るなら 世界は晴れ上がり《精霊》にかんしては 大宇宙と小宇宙とのふたつに区分して捉えたのかも知れません。  梵我一如と言われます。  宇宙の主宰神ブラフマン(梵天)と小宇宙たる人間の〔精霊としての〕アートマン(霊我・真我)とのふたつです。  ただしこれは あくまで《神》の世界での話になります。《思考に非ず 経験に非ず》の世界です。   ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この《非思考の庭》におけるたとえば《梵我一如》なのだと見られます。つまり 信仰の問題です。  《イリ》なるふつうの歴史知性にあっては 《信じる》と《考える》とが・つまりあるいは《神と我れとの関係世界(それは 主観内面の世界)》と《経験世界》とが区別されしかもふつうに使い分けがなされると思います。  そこで《ヨセ》なる超歴史知性の問題です。  ★ ~~~~  いずれ、言葉が生まれ、社会が生まれ、格差も生まれ  そして、神が想像され、生きる意味を考えるんでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《格差》の問題そして《神》の扱いの問題に発していると考えます。束ね寄せるというのですから そういう意味での――イリ歴史知性の神とは少し違った意味での――《神》が発明されたのでしょうし 《格差》としては 一般に二階建て構造から成る国家の問題だと見ます。  ふつうの神とは違うというのは ヨセなり知性の神は すでにヨセなる知性人がその神そのものであるか神のこの世での唯一の代理人であるととなえるところにあります。アマアガリしてしまったのです。  社会が平屋建てから成る家であったときには まだ格差はそれとしてあって それが固定してしまうものでもなく流動的であり 程度問題だったと考えられます。    ところが 主宰神ブラフマンをもっぱら祀る役目をになうバラモン僧(ブラフミン)たちは 四姓なる制度を確立しました。生まれが違うのだと説きました。前世からの因縁であると。あらゆる人は梵我一如なる存在であるがこの現世では 固定された身分制のもとにそれぞれの身分に生まれて来てそのように身分を守って生きるのだと。  いや 生まれは関係ない ただおこないのみが 人生と人格を決めるのだとゴータマ氏は言ったのだと思います。  それゆえ アン‐アートマン(無我)をとなえ 《ヨセ》なるスーパー歴史知性に立ち向かいました。アートマンを否定したのなら ブラフマンをも否定します。よって 《非思考の庭》が ゴータマ説では次のようになっているのでしょう。   ゴータマ・ブッダの信仰:無無一如(空観)     無:ア‐ブラフマン(無梵。無い神)     無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂滅)  ゴータマ説が この非思考の庭を捉えた信仰であるかどうか何とも言えませんが もしこうであるとして そのあとどうなったか?  例の四苦八苦があります。病老死のほかに生も苦であると唱えました。《苦》には 悩み苦しみのほかに 思うようにならないという意味もあるようですが なぜ《生》をこの苦に入れて規定したのか? 苦からの解脱と言えば この身と心をゼロにすることだとなりかねません。ニルワーナと言い始めたのですから。  問題は 《格差ないし固定身分制》としての不自由です。それに対する世界観としての問い求めです。  言いかえるなら 《ふつうに自覚を持って生きている》ことの保持にあります。いかに生きる意味を問うたにしても その基礎ないし基本の《生きる》の持続が すでに目的です。飾りは要りませんし いかに精神のいと高きところを目指すにしても――にんげんが神になるというまでの――アマアガリは 無謀です。  言いかえると ゴータマ氏の説は人気を呼び多くの賛同者を得て今にいたりますが 果たしてそれは どういう《生きる》を目指したかに問題はあります。  どういう歴史知性のあり方を説いたか。  果たしてイリなるふつうの歴史知性にとどまっているか?  ヨセなる超歴史知性にかかわっていないか? バラモンの身分制を揚棄しようとするあまりに その《無我説》において・ということは ワタシをどう自覚し扱うかにおいて ひょっとして言わば別種のだがやはり《アマアガリ》を起こしているのでないか?  ゴータマ・ブッダの神格化のことです。  苦からの解脱あるいは無明からさとりに達し明知を得るに到るというのならば ただ単純に《ふつうに我れを自覚し単純に生きる》というイリ歴史知性に立ち帰るとだけ言えばよいはずです。  また無無一如の無神論も梵我一如の有神論も 信仰の類型としては同じものです。神がいくつかあってはたまりません。ただ呼び名がちがっているだけです。すべて非思考の庭として主観内面において成り立っていますし それとしての動態であるはすです。  考えてみれば この質問がゴータマ・ブッダ論になるのなら もっとたたき台をしっかりとしたものとして用意し 初めから原文にしたがうなどをおこなって くわしいやり取りを展開できるようにすればよかったかと思っています。  まだまだ 粗いのですが これからどしどし発展していければよいと思います。  ありがとうございました。  

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その他の回答 (49)

noname#189751
noname#189751
回答No.40

え~と ちょっと待ってくださいよ Bさん ちょっと・・ > 《非思考の庭》にはヒラメキしかありません 上げ足を取るようですいませんが・・ 《非思考の庭》といわれるものを末尾で 《感性の原野》と仰っていますね 感性の働きうる場 といったものを指しているのだと思いますが 実際に 人における感性とは 感覚と直観の総称を言うのだと思います 感覚のみでは また直観のみでは感性とは言われない(当たり前ですが・・) 感覚と それに付随する形で直観は常に働いている、また、直観は それ自体フリーで単独でも同時に働いている このフリーな状態の直観に 何かが強く伝わった事をヒラメキというのでしょう (この辺の事は以前にやり取りをしたように思いますが・・) このヒラメキは、感覚情報に基ずく直観の働きからすれば、その量的な度合いは ごく僅かだと思います つまり 通常の直観の働きとは、感覚に依存している割合が殆どだと言うことです 《非思考の庭》や《感性の原野》なるものは、感性全体の内におけるフリーな直観のみに限定しておられるのでしょうか? でなければ >ヒラメキしかありません と言えないと思うのですが・・ また 解釈のしようで 感性とは 意志の働きにかかわらずにあるもの・・とも言えそうですが これも怪しい・・ 意志が直接 直観そのものに命ずることは困難かもしれないが、不可能な事ではないようにも思えますし 意志が明瞭に感覚に命じている事からすれば、それは同時に直観をも間接的に動かしている とも解釈できるからです 以上の事を総じて言えば フリーな直観の働きのみを感性と言うことはできず、ヒラメキという感覚外情報を感性情報の全てと言うこともできない・・・ と なるんですが さあ Bさん どうします・・ 困ったよ・・ 《非思考の庭》を 自由な直観の場 ということにしちゃおうか 《感性の原野》を 純直観のスペース ということにしちゃおうか ゴジラの 直観 なんか せつない 泣ける・・ ガオーッッ! おっおっおっ こわっ・・ それじゃ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 《非思考の庭》といわれるものを末尾で 《感性の原野》と仰っていますね     ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうではなく 《非思考》の部分と《思考・感性》の部分とが互いに隔てられています。《信じる》とそして《考える・感じる》との区別です。  ★ >ヒラメキしかありません  ☆ 《非思考の庭》には かろうじて意識しうるものとしては ヒラメキがあるだけだ。こういう意味です。  ★ 意志が直接 直観そのものに命ずることは困難かもしれないが、不可能な事ではないようにも思えますし  ☆ これは無理です。非思考の庭は 最初に想定しているのです。思考に非ず・感性に非ず。 そして意識する・しないにはかかわらない。 意志がおよぶことはないと。  そしてただし ヒラメキは けっきょく《感性》として知覚され(直感) これはさらに理性において認識されるようにもなります(直観)。そういう何らかの概念になっていればですが。  そういう意味では 《非思考の庭》と《思考の緑野・感性の原野》は 隔たっていつつ つながっているとも言えそうです。  でも混同されることは決してない。こうも言えます。

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noname#249334
noname#249334
回答No.39

題目の質問にのみ返答いたします。 結論から先に申しますと、失礼ではないと思います。 まず、正直人間には生きる意味などないとわたしは考えますが、知的生命体にとっての悲願は自分の存在意義の発見です。人生という過程を経て、人間はその問いを探求します。逆に言えば、その問いが、文化的、社会的な人生を成り立たせているとも言えます。社会的な人生が束になって社会、社会が束になって世界を形作りますので、存在意義の探求、つまり「何故生きるか」とは、世界を回している軸であるとさえ言えるでしょう。 よって「何故生きるか」は命は失礼ではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 いるぜるぜさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 正直人間には生きる意味などないとわたしは考えますが  ☆ この質問のように《なぜ生きるか?》を問うのは 人間のいのちと存在にとって失礼だと見る人は 《正直人間》だということのようです。  つまり《生きる意味などない正直人間》だけが そのように失礼だと見ているに過ぎない。  ――こういうご趣旨のようですが この正直人間をめぐっては 理由がよく分からないので ほかの文章について お応えします。  ★ ~~~  知的生命体にとっての悲願は自分の存在意義の発見です。   ・・・(中略します)・・・  存在意義の探求、つまり「何故生きるか」とは、世界を回している軸であるとさえ言えるでしょう。  ~~~~~  ☆ こういう(次のような)問い返しは かなわないとお考えになりますか?  つまり 回答No.23のちちならべさんとのやり取りを見ていただくと分かりやすいと思いますが それはそれとして    特に生きる意義を考えないけれども    生きるということを自覚し    その主体であるワタシをもふつうに自覚しているということ    こういう人びととその生活日常が 社会をつくり     その市民社会のかまどでありつづけるのだ。  というふうに考える考え方は 成らないと思われますか?  つまり早い話が 《なぜ生きる?》を問わなくても 市民一人ひとりの生活社会は成り立って行くという見方です。  ひと言多く添えるとすれば その言わば一階の市民社会の上に第二階としてそそり立つ公民圏――いわゆる《お上》ですね―― これはむしろ 極端に言えば 要らない。という見方です。  言いかえると おっしゃるような《存在意義の探究》はとうといことかも分かりませんが そのとき絶えず《なぜ生きるか?》と問うこととは 別だという見方もありうるのではないか?  なぜなら お二階さんが もっぱらの公民として社会のいわゆるクウキをつくっている。そしてそれは 一階の市民たちの《ふつうにわれを自覚して生きる生活日常》のその上に乗っかって しっかりときみたちの生きる意義をさがし求めたまえというような内容を持っている。と見る場合があり得ませんか?  つまり  ( a ) ひとりの市民がふつうにわれを自覚してふつうに生活を送る過程で《生きる意義の探究》をおこなうことと そして  ( b ) 必ずしもそうではなく 何となくお偉いお二階さんの醸し出すクウキの中でそのクウキに誘導されて 《なぜ生きるか?》を問うというコトを人びとがそれぞれ持つこと。  これらは ふたつの別のことではないだろうか? これです。  よって   ★ よって「何故生きるか」は命は失礼ではないでしょう。  ☆ という場合は 上の( a )の場合であって ( b )の問いは要らない。という見方です。  ちょっと議論が粗いでしょうか? どうでしょう。

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noname#180711
noname#180711
回答No.38

 お礼を読みました。 >相手が不愉快になったなら わたしとの対話においては 自業自得です。相手の撞く鐘の音に応じてこちらは応答しているからです。わたしは 触媒です。触媒は その場の作用をうながしますが 触媒じたいは何も変わりません。中性・中立と言えば そうでしょうし ただ相手に対して鏡となっているだけだと言えば そうでもあります。  失礼ながら、それはうぬぼれに見えますね。鐘という比喩にこだわれば、西郷隆盛のマネかしら。西郷さんについて見てきたようなことは言えませんが、鏡のように反射してくるので鐘という意味ではなかったんじゃないかな。うーん、わからん。維新志士ごっこには興味がないです。ともかく、自分で自分を褒めても、説得力ないです。これは誰かに褒めてもらってください。お友達がたくさんいるんでしょう? 今こそ出番ですよ! >あなたのソコヂカラには感嘆します。  なんじゃそりゃ。ミルを知っているから驚いたんですか。それはあんまりにも人を馬鹿にしています。  知らない方が驚きです。 >多少の勇み足も知識不足もかまわないでしょう  そうかなあ。勇み足と知識不足は、あなたのことじゃないですか。  私はあなたに、説明を整理してねって言っているんですけど。最初にキーワードとなる語の定義を行うことは必要でしょう。でも、あなたはそれをしていない。しかも辞書を引けばわかる単語じゃなくて、造語に近いことをやっている。これじゃあ、誰も分からない。分かって回答しているような人がいるかもしれないけれど、それはお釈迦様の化身か、分かった振りをして話を合わせているか、あなたとリアルで知り合いか、さらには今までやり取りしてコンセンサスが出来上がっているか、なんだと思っています。  けれど、私はそうじゃない。普通の人です。  さらにもう一つ。これは哲学だという話です。仮にも普遍性を求めるのだったら、誰にでも分かるように、形式を守るべきではないか。レポートの書き方とか、論文作法に書いてあるような、最低限のマナーを守るべきではないか。しかしそれがなされていない。で。なんですって。私の勇み足と、知識不足? プライドが高過ぎるでしょう。あなたの推敲する力が足んないんじゃないか。西郷サンはこんなことは言わないでしょうね。 >ですから 用語を定義づけとともにととのえ推論を精緻なものにしていこうとするのは よいのですが それをおこなう権利があるからおこなうのではなく 権利も義務もないからおこなわないでよいわけでもなく ふつうに問い求めるその何かへと心を集中し互いの共通の了解事項を得ようとしつつ またそこにある互いの見解の相違についても その相違の中身をしっかりと捉えあっておく。  この姿勢を きちんと 身につけてからやって来いと言いたくなりますね。  えー、またも私が問題なの? プライド高すぎだなあ。あなたは知識と日本語力が足りない。知識はともかく、日本語がまずすぎる。だから正確に言っていることが伝わらない。その結果、西郷隆盛のマネということらしいですが、鏡とおなりになって、グニャグニャと意見が変わってしまう。本質的には変わっていないと言っているが、実存としての変化はなくても、言語表現としては変わっている。これでは議論にならない。私はあなたの話を分かった振りをするほど、サービス精神がない。実存を受け止めるような包容力もない。ネットの議論でそこまでできねーよ、とも思っている。だから冷淡である。こういうことだと私は理解しています。  何にせよ、対応しきれないです。逆に言えば、仮に日本語が正確無比な人に同じことを言われれば、そうか、私が悪いんだなと思います。正確無比というのは、定義などの手続きを守っているということです。こういう人に会ったことがあるみたいなことを私の質問欄に書いていましたが、そりゃ、たくさん似たような人はいるでしょう。    まあともあれ、ここは、それはそれで面白かった、ありがとう。という言葉を残し、引き上げさせてください。  他に言いたいことがあれば、私の質問の方へ投稿をどうぞ。  仏教のことは、既にお察しと思いますが、皆目分かりません。「なぜ生きるか?」の問いだと思って参加し、話が長引いてしまっていたのでした。私の最初の投稿で、すべて意見は出し尽くしています。

bragelonne
質問者

お礼

 おつかれさんでした。  事実問題として:  ☆☆ あなたのソコヂカラ  ☆ 粘り強い話し合いの継続のチカラです。  ☆☆ 多少の勇み足も知識不足もかまわないでしょう  ☆ これは 純然たる一般論です。  ☆☆ 問い求めの姿勢  ☆ これは あなたをなじっています。  ★ 西郷隆盛の鏡  ☆ は 知りません。

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noname#180711
noname#180711
回答No.37

 このスレは終わりにしようと思ったら、続いています。 >★ 基本的には、不満足な人間より、満足な豚でありたいと思っています。  ☆ こんな表現で 理論に耐えられますか?   ミルの言葉をひっくり返したのですが、面白いだろうと思っていました。  豚でいいと開き直れば、理論は作れないでしょうね。理論を作る気はありません。 >行論の途中で分かるようになると思って 先をすすめているだけです。と言えば お相子になるのでしょうか。  分かりにくいと文句を言う権利はあるかと考えていました。 >哲学としても法理論としても 無効の行為があり そのたとえば殺人行為は けれどもすでに人が殺されたという現象は起きてしまっています。原状の復帰などさらさらのぞめないまでにです。ですから その現象の問題としては 社会力学上――つまり哲学上の理論としでもなく実存行為の一環としてでもなく 社会というただただチカラ関係からして――実効性があったかたちとなっている。ということです。  見方を変えるってことですね。何となくは分かりました。しかし現実として起きていることを「無効」などと言っても、現実を認識できていないだけなのではないかと思います。ここのところがまだ分からないです。 > イジメ人間も その人間化の過程をさまよっています。それを自治しうる状態の人間に立ち帰らせること――われに還らせること――を措いてほかに 問題の解決はないと考えます。だから イジメられ人間も 踏ん張りどころなのです。  この言葉は重みがありますね。私もそう思いますよ。 > ★ 問い求めの姿勢・・・既にしていると思います。変だな。  ☆ 《和気藹々》だけでしょう?  和気あいあいと語るのが、一番大切なことだと思いますよ。相手を不愉快にしたり、ぶっ壊したりしてまで語るほどの問題は「ここ」にはないです。「ここ」というのは、あなたのスレッドがダメだというのではなく、顔も見えない、文責も匿名の、ウェブサイトの議論全般においては、ということです。

bragelonne
質問者

お礼

 あなたのソコヂカラには感嘆します。ご回答をありがとうございます。  ★ ミルの言葉をひっくり返したのですが、面白いだろうと思っていました。  ☆ ミルを知らないので鑑賞しえないとはいえ 結果が意味内容として定まらないと――ミル知らずには――結論づけられます。  ★ 豚でいいと開き直れば、理論は作れないでしょうね。理論を作る気はありません。  ☆ 作る・作らないの問題ではありません。互いのあいだに繰り広げられる問い求めにとって一歩一歩哲学として推し進めていけるための中身を成すかどうかです。この《姿勢》については すでに触れています。  ★ 分かりにくいと文句を言う権利はあるかと考えていました。   ☆ 多少の勇み足も知識不足もかまわないでしょう。(先ほどもわたしにありました)。問題は やはり前項に出た姿勢のもんだいです。《権利》などはあってもなくてもです。  ですから 用語を定義づけとともにととのえ推論を精緻なものにしていこうとするのは よいのですが それをおこなう権利があるからおこなうのではなく 権利も義務もないからおこなわないでよいわけでもなく ふつうに問い求めるその何かへと心を集中し互いの共通の了解事項を得ようとしつつ またそこにある互いの見解の相違についても その相違の中身をしっかりと捉えあっておく。  この姿勢を きちんと 身につけてからやって来いと言いたくなりますね。  身につけることなどかまっていない人のほうが その筋道に合っている場合が多いようです。  ★ しかし現実として起きていることを「無効」などと言っても、現実を認識できていないだけなのではないかと思います。  ☆ 国政選挙において一票の格差が 違憲であると判決が言うとき それが 有効である場合があります。無効だとみる場合もあります。  無効が確定すると そのとき当選した議員は 選挙も当選もなかったことになります。原状・つまり選挙以前の状態に復帰することが 絶対の命題となります。  理論上ここまでの《現実無視》が起こり得ます。  ★ 和気あいあいと語るのが、一番大切なことだと思いますよ。  ☆ それは 哲学における対話としては意味を持ちません。いいわるいの問題ではなく 意味がないということは なぜ意味を持つかを証明すべきでしょう。  ★ 相手を不愉快にしたり、ぶっ壊したりしてまで語るほどの問題は「ここ」にはないです。  ☆ それは 対話の相手の《姿勢》いかんによります。一概に決まりません。  相手が不愉快になったなら わたしとの対話においては 自業自得です。相手の撞く鐘の音に応じてこちらは応答しているからです。わたしは 触媒です。触媒は その場の作用をうながしますが 触媒じたいは何も変わりません。中性・中立と言えば そうでしょうし ただ相手に対して鏡となっているだけだと言えば そうでもあります。  わたしとの話し合いで不愉快になったら それは 自分が自分の中にあるその不愉快の要素に反応したということです。  自分の見解がぶっ壊されたとすれば もともと・あるいはそろそろすでにどうも間違っているなと思っていて そのマチガイを知るきっかけを得たということを意味しましょう。

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noname#180711
noname#180711
回答No.36

 夜中に起きだしてお礼欄を書き込まれたとのこと、ありがとうございます。 >言いかえると 文章じたいの完璧さを この視点あの観点から捉えて欲する。相手にもそうあれと指摘する。というふうにお見受けします。ですから そのことは よいことですので できれば 先ほどの《問い求めの姿勢で読み解き応答する》のとそれら両方をのぞみたい。です。定義は その道中でついて来ますから。  基本的には、不満足な人間より、満足な豚でありたいと思っています。だからあなたのご要望にそぐわないかもしれません。完璧を求めているというより、必要最小限を求めている気持ちではあります。ただしその要求が高いと、あなたは感じるのかもしれません。また矢を放ったり、ぶっ壊したりする気はないので、ああこれはまずいなと思うと、降りたいです。 > これは 違憲でも有効とされる場合がありますがそれは別として そもそもたとえば拉致行為は――ひとの自由意志を踏みにじるゆえ―― 無効です。しかもたとえいつか原状復帰がかなったとしても 拉致の時点での原状がそのまま回復されるわけではありません。それはもう無理です。つまり 拉致によってこうむった被害は 《無効の有力》として現象していると捉えられます。殺人は 無効の行為です。ですが 原状復帰は 実際問題としては かないません。社会力学上 有力な事態として推移したかたちに捉えざるを得ません。  まだわかんないですね。言葉の選択をちゃんとしてくれよー。私の推理力ばかり使わせないでくれよー。  哲学的(実存とあなたがよんだもの)に見れば無効。  現実問題(現象とあなたがよんだもの)としてみれば有効(「有効」というより、正しくは「取り返しがつかない」)。そういう捻れを言いたいのですか。  で。ここから考えて、いじめは被害者の思考に哲学的な影響力を及ぼさないが、現実問題として心を捩じれさせたりすることはある、と言いたい。そういうことでいいですか?   いじめという関与によって、自殺することがあると認めているわけですよね。 >あなたにのぞみたいことは 〔イジメ論などはあなたご自身の問題提起になるものでもあるのですから〕問い求めの姿勢で相手の文章を読み解こうとしご自分の応答をも書こうとして欲しいことです。  問い求めの姿勢・・・既にしていると思います。変だな。  しかしあなたが言っているのは、「少しくらい文章が不正確と思っても、文脈で判断して、言葉をキャッチしてくれよ。こっちもキャッチするからさ」ということでしょうか。それができたら言葉なんていらない世界が訪れるでしょう。それに精密に考えるなら、より精確な表現を模索していく態度は必要ではないでしょうか。  別の問いを開いたので、ここへの投稿はこれまでとさせてください。この問いは、もともと仏教に関する問いらしいので、他の方に道を譲るのがいいと思ってはいたのです。話の流れで連投し続けましたが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 基本的には、不満足な人間より、満足な豚でありたいと思っています。  ☆ こんな表現で 理論に耐えられますか? 行論の途中で分かるようになると思って 先をすすめているだけです。と言えば お相子になるのでしょうか。  哲学としても法理論としても 無効の行為があり そのたとえば殺人行為は けれどもすでに人が殺されたという現象は起きてしまっています。原状の復帰などさらさらのぞめないまでにです。ですから その現象の問題としては 社会力学上――つまり哲学上の理論としでもなく実存行為の一環としてでもなく 社会というただただチカラ関係からして――実効性があったかたちとなっている。ということです。  これが 《無効行為が実効性を持ったところの 無効の有力》です。  ★ いじめという関与によって、自殺することがあると認めているわけですよね。  ☆ 関与という言葉を使うなら 《人間の自由意志への関与》は――たとえおこなっても 人格の個別性によって自由意志を二人の人間が共有するなどということはあり得ないからには 意味を持たないにもかかわらず―― 影響関係を持つことはあります。    この影響関係の中に 《いじめという関与によって 自殺する》という内容が入るか? ふつうの社会的交通においては 基本的には入りません。理論上は 無理です。    物理的なチカラなどによる強要・脅迫の場合は そのような《いじめを受ける⇒自殺に到る》という影響関係があり得ます。  ただし それは 脅迫に屈したということは 自由意志のあずかり知らない領域で起きたという捉え方になります。すなわち 無効の領域でです。すなわち 無効の有力が現象として起きた。これです。  拉致被害者は その拉致されるという事態にかんしてすでに自分の自由意志を制約された状態にあったという捉え方です。  ですから 《ひとが他人(ひと)の自由意志に関与する》ということは あり得ません。有り得たなら 拉致被害者は 自分の意志で――つまり犯行者の《関与》を受けた結果 自分の意志も励起されてその意志で――拉致先までついて行った。ことになります。  すなわち 《いじめを受けた》人間は それでも決しておのれの自由意志がどうにかされたようなかたちで《関与》を受けるということはあり得ません。   それでも死をえらんだとしたら どう見るか?  ひとつは たとえば死ななければおまえの家族を傷つけ殺すぞと言われ そのことが少しづつかたちを取って実行されて来ているといった事実を突きつけられた状態に追い込まれ――それでも 誰でもいいからほかの人に助けをもとめればよいのですが そうしないときには(そしてその・そうしないのは ブディズムのニルワーナや無常観の影響があるとうたがうわけですが)―― 自死をえらぶことにつながるかも知れません。これは そうしなくてもよいことながら 錯覚の上で自分の自由意志で自殺したということになるでしょう。  あとは 意識もうろうとした状態の中で 知らず知らずのうちに 自死をえらんでいたといった場合でしょう。  これらすべてにわたって捉えて 《人が他人(ひと)の自由意志に関与することは あり得ない》という理論をとなえます。  《自由意志への関与》がありうると説いたならば イジメはなくならないでしょう。というより逆イジメが成立してしまうことでしょう。  すなわちイジメを受ける事態とそれにからんだ最終の結末とが 相手の意志と被害者の意志とのあいだで《関与》が可能であるゆえにだと説けば どうなりましょう。被害者は ただちにその最終の結末に到る前に すでにウツになったという関与があったとか 関与があったゆえにウツになったとかと表明し証明しうれば イジメ側の人間はただちに処罰されうるようになります。《関与関係可能》説にもとづけばです。  そうではありますまい。  イジメ人間も その人間化の過程をさまよっています。それを自治しうる状態の人間に立ち帰らせること――われに還らせること――を措いてほかに 問題の解決はないと考えます。  だから イジメられ人間も 踏ん張りどころなのです。  そして人間存在についての《関係の絶対性》から行けば 誰もがそれぞれ その特定のイジメ人間でありイジメられ人間であると自覚することになります。  ★ 問い求めの姿勢・・・既にしていると思います。変だな。  ☆ 《和気藹々》だけでしょう?

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noname#189751
noname#189751
回答No.35

こんばんわ。 >☆ これは その発想自体が わたしには欠けているとお応えしておきます。別世界の様子だという意味です。 Bさん これ このまま受け取っていいの? だとすると 悲しくなっちゃうよ・・ 信仰ゴジラだと思っていたんだが、無宗教ゴジラ ってことになっちゃう あ~あ ためいき・・ 疲れる 銀の十字架のことは、私も悪かった すこし Bさんを試したところがあった でも Bさんが ありません とはっきり言ってくれたことは嬉しく思いますよ 「みしるし」という象徴を持たない信仰の世界は、どうなんでしょうね・・ はっきり言って それが信仰と呼べるものなのか 疑問を感じるのですが もし それが信仰であるならば 言葉や概念に対する信仰ではないのか 理の信仰というものなのかもしれない そんなふうに思ってしまいますけど 信仰の象徴である「みしるし」は  それを持つ人にとって 「決定打」を永遠に表すものでしょう 「みしるし」とは、そうしたものだと思います 感性のよりどころ 大切なよりどころとして その人の精神の内で変わらぬ位置を占めるもの だと思います・・ (仏教でいえば「持仏」なんでしょう )   あ~ すこし疲れた・・ ので 空白のことを ちょっと見方を変えて というか客観してみよう 信仰の世界から一歩踏み出してみよう 信仰とは 精神の空白を否定するもの かも・・ 無宗教からみれば 精神の自由を束縛するもののように見える それは時として 自然な人間性を逸脱しているように感じられる場合もある・・ どこかおかしい? といった感じなんですが 精神の空白は あるのが自然で ないのが不自然 かもしれない 信仰とは 精神の空白を求めない それは 概念的にも 感性的にも そのような感じがする いわゆる 信仰の落とし穴・危険性みたいなものだと思います まあ これも 信仰の深さによって変わってくるような気もしますが・・ ふところの広さというか 信仰が深められてゆくと余裕が出てくる 何でも書き込める空白を持てる というか そんな感じだと思いますが ところで Bさん いつもBさんの文面を見て感じるのは 「共生における愛」 というものです それは悪くないものです 悪くないどころか 忘れてはならないものでしょう ご質問のきっかけは、やはりそこにあったのでしょうか? 私は 悪魔に身を変えた信仰者だと思っていた・・ でも どうやら見当違いだったかもしれない 最後まで正体を明かさずに行きますか? それもいいでしょう・・ね 英雄の見せどころ・・ 弁慶も ゴジラも 戦艦大和も 最後のフルパワーというか 死力というやつ 崇高にして壮絶  感動的なやつを  見せてくださいよ お願いします。 (内緒話 こ-ゆう場合は、このパターンの方がいいんじゃないか・・と思うんだが どうだろう)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無宗教ゴジラ   ☆ 組織宗教は 個人にとっての信仰が その主観内面における《無根拠を無根拠において信じる》を《オシエに換えそのオシエを理性や感性において受け留め思考する》に取り替えられているのですから 信仰の自殺行為として成り立っている。こうずっと言って来ています。  ★ ~~~~  言葉や概念に対する信仰ではないのか  理の信仰というものなのかもしれない  ~~~~~  ☆ 信仰は 《思考に非ず》です。《非思考の庭》には ヒラメキしかありません 何だか何かがあるなと思われるものは。《みしるし》もありません。それは 象徴でありかたちあるものでしょう。みしるしは 《思考の緑野》のものです。  みしるしは  ★ ~~~~~  感性のよりどころ 大切なよりどころとして その人の精神の内で変わらぬ位置を占めるもの  だと思います・・  ~~~~~~~  ☆ それは 《信念・信条》のことです。思考の緑野に属します。    ★ 信仰とは 精神の空白を否定するもの かも・・  ☆ 非思考なんだから 考えはないって言ってんぢゃん。からっぽ。天然。能天気。  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしのパワーは No.23ちちならべさんの言う《ふつうにワタシを自覚したわたしの生きるコト》です。

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noname#180711
noname#180711
回答No.34

 えーと。質問を三つなさっていますね。  お引き止めになるということでしょうか(笑)?  簡単に答えると、いじめの方はどうぞご自由に。言いたいことがあったら、投稿してください。分かる範囲で応じます。  引き延ばした話ですが、お互いがあさっての方向を向いていたので、お互いの責任ということにするわけにはいかないんでしょうか。  次にシステムですが、わからないんですよ。特に言うこともないかなと思ったので、そのままにしているということです。それに他人のせっかくのシステムをぶっ壊すようなこともしたくないと思っています。当人が幸せなら、それでいいじゃない、そんな感じです。不満足な人間であるよりは、満足な豚でありたいと思います。  しかし聞いたのは私なので(システムを聞いたんじゃなく、矛盾はどうなっているんだ?と聞いたのですが)、お礼を述べるのが筋だなとは思いました。だが見解を述べろとおっしゃる。うーん。癖などと書かれるのはしゃくなので、やっておきますか。 > (1) 人と人との関係過程については 存在の階層に応じていろんな捉え方があろうかと思います。ひとつの作業仮説を示して話を継ぎます。  仮説ということで承知しました。  > 基層:社会的動物としての《関係の絶対性》なるカカワリ    実存面:社会的交通なるマジワリ:基本的に話し合い    現象面:社会力学的・心理的な影響関係:《ファッション・飾り》  なんじゃそりゃ。というところです。  この三つの分類がまず分かんないよー。実存と現象がなんで分類されてんだろう。実存が話し合い? 現象がファッション? わからん。この時点で、入っていけなくなりました。 > (2) むろん人間ないし《わたし》は 関係性からのみ成っているのではない。その社会的な関係性と同じ基礎において 一人ひとりにおいてそなわった自由意志という生きることの中軸を得てこれを用い 社会的な独立性を持ち行動する。  そうですか。 >(3) 実存面における《対話》が成り立つのは 関係性を 一人ひとりの独立主体が形成しているゆえである。合意に到るのは 互いに相手から独立した自由意志においてそのコトを互いに同じかたちで自分〔のその後の実存過程〕に課すときである。  実存の説明ですか。 > (4) さてそこで《関与》は ふつうは 実存としてのマジワリの問題である。交通・交際・接触・取引関係などを含む。  乱暴ですね。関与とは実存としての交わりと定義するんですか。実存じゃない交わりはどうなっちゃうんだろう。あとの方に書いてあるけれど、先に整理してもらった方がいいです。 > (6) すなわち《干渉》という言葉をおぎなっているのですから ふつうの実存面におけるマジワリではないと言えるはずです。  私が見落としたとおっしゃりたい? 以下、私が見落としたとおっしゃっているらしい。しかし私からのお答えは簡素です。そんな細かいことが説明なしで分かるなら、私はお釈迦様になっているわ。最初からちゃんと説明してくれないとわかんねーよ(前に書いてことですが、繰り返しておきます)。  で。なんですって。 > (10) ちなみに次の場合の《関与》は ふつうの対話交通のそれです。  ★ ~~~   さらにもう一つ大きな矛盾を感じます。「言論の力でなくす」ということは、あなたが言論の力で関与するということです。じゃあ、関与できないって言っていたのは何だったんだろうと思います。  ~~~~~  そんなことはないでしょう。実存が変わらないと、根本的な問題が変わんないんでしょう。  この関与を普通の関与として切り分けることはできないはずです(あ)。 > (11) 《イジメ》の問題についても同じようなことです。  ☆☆(No.17お礼欄) ~~~   5. もし他人がほかの人間の自由意志に――催眠術での事例がじっさいどういう内実を持っているのか よく知らないままこの議論を言っていますが―― その自由意志を左右して従わせるほどに影響しかつ制御するまでになるというのであれば あやまちにしろ犯罪にしろ人間の行為の中には 自分の意志によるのではないものがある・・・ということになります。  ~~~~~~~~~~~~~    同じじゃないと思います。  というか、「あ」の疑問によって、議論についていけなくなりました。  分からないので、検証もできないです。 >  現象面:社会力学的・心理的な影響関係:《ファッション・飾り》   において起こっています。パワ・ハラも同じくでしょう。要するに相手の意志にかかわりなく 物理的あるいは言語的なチカラを駆使して影響をあたえる。場合です。  その範疇が分からない(最初に定義や説明がない)から、何にも分かんないよー。  言葉の羅列で、説明になると思ってんのかい? 心理的な影響関係がなんで、ファッションや飾りなんだ。そしてそれがなぜ現象なんだ。実存に対する現象なら、現象学のことじゃないのか。現象学は飾りを問題とするものじゃないぞ。  ぶっきらぼうに書くと、こんな感じです。皆目分かりません。 > (15) 相手の意志との対話を省きむしろあたまからそれを無視して自己表現をするという無効の行為が 現象としては起き得るので それが社会力学上は有力を形成するようです。  やはりわからん。「 相手の意志との対話を省きむしろあたまからそれを無視して自己表現をするという行為が 現象としては起き得るので 」ここまではわかります。しかしなぜそれが無効なんだろう。そしてこれが理由となって、「それが社会力学上は有力を形成するようです。」となるのかも分からないです。  > (16) この《無効の有力》が イジメでありガミガミ放射能です。  無効なのか有力なのかはっきりせい。  さっぱりわからないです。 > (17) 防衛力は アース役がになっています。誰もにこの自衛力はあります。  あるかもしれませんね。 > (18) パワ・ハラの場合も ガミガミ役は その人の人間化の過程をそれとしてたどっていると見てマチガイないと考えますが イジメ役の子どもの場合は 特にもろに人間化の過程で起こると見られます。  はい。 > (19) その子ども本人はどうしても《無効の有力》なるふざけた行為を仕出かさないと 生きていられないと――《ファッション・飾り》の分野で・つまりはけっきょく錯覚のごとくに――思ってしまう。  わかるようなわからないような。ファッションというのは錯覚の比喩だったということが分かりました。説明を最初にしてくれ。こういう最後にされても、普通は分からない。やはり混乱したままです。 > (20) このことを 常識として共通の認識にしうるならば 本人にも語って認識させることが 第一の仕事ではないでしょうか。  19がわからないので、何も言えないです。 > (21) なぜ無効の有力なる愚行に走るか。子どもの場合は特にだと思うことは けっきょく《アース役》がつらいからではないか。そしてそれは 親から・つまり親がアース役のつらさを知っているそのことが子に伝わって行くのではないか。  アース役は辛いでしょう。それは同意します。親が辛いと思えば、子供も辛いと思うでしょう。で、どういう愚行に走っているのか分からないので、全体が分かりません。つまり無効の有力を定義しないと分からないです。 > (22) もしそうだとしたら ガミガミ電波処理班であるアース役工場での未処理案件が全国を縦断し感染列島という状態にしていると思われます。  うーん。ちょっと表現が大げさかも。 > (23) ウツもニートもヒキコモリもアスペルガーもみな 自衛力のはたらくすがただと考えられます。  そんな風にひとまとめにするのは乱暴であり、もっと議論をしないとならないと思いますが、発展の方向性として承っておきます。 > (24) 中で KY なるつよい自衛力をそなえた人間が現われました。ガミガミ電波が その場のそして列島全体のクウキとなっても それを寄せつけない。  超人が現れたというわけですか。だがリンクを読めというのは勘弁してください。これだけ読むので、???となりながら、私は律儀にやっていると思いませんか。人に読ませるのなら、それなりに整理して書いてください。まず「有効の有力」というのが分からないと始まらないから、それを定義してはどうでしょうか。  私の癖があるとすれば、意味が分かんないのを放っておく、めんどくさがりという癖でしょう。これが悪いとおっしゃる。そこで応答してみました。しかし、その一方で、いかにご自分が書いたものが、秩序だっていないかを理解してください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  【Q:大人のいじめ・・・】に門戸を開いてもらってありがとうございます。  本論の以前で足踏みしたのは お互いさまだということでしたら 飲みます。  あとは 肩すかしになりますが もし  ★ 私の癖があるとすれば、意味が分かんないのを放っておく、めんどくさがりという癖でしょう。  ☆ が通るとすれば わたしもそうなることとします。  どういうことかと言えば その場合わたし〔が同じくせを持っている〕なら 《分からなくなりましたので ここで降ります。分かるようになったら どこかほかのところででも再度投稿したりします》と断り書きを書く。ということです。  多少とも相手をなじりながら ここらでやめますというのは 《悪い》でしょう。  いかに  ★ いかにご自分が書いたものが、秩序だっていないかを理解してください。  ☆ とのご批判を頂戴したとしても  ★ ~~~~~    > (22) もしそうだとしたら ガミガミ電波処理班であるアース役工場での未処理案件が全国を縦断し感染列島という状態にしていると思われます。  うーん。ちょっと表現が大げさかも。    > (23) ウツもニートもヒキコモリもアスペルガーもみな 自衛力のはたらくすがただと考えられます。  そんな風にひとまとめにするのは乱暴であり、もっと議論をしないとならないと思いますが、発展の方向性として承っておきます。  ~~~~~~~  ☆ この点が伝わり得たならばじゅうぶんだと考えます。感謝申し上げます。  つい先ほどまでは わたし自身が いじめのボスであるかに言われていたのですから。  リンクは スレ全体にとって張っておくとよいと思われるのでそうする場合があります。  またリンクを張ってお応えに代えているのは――いちど確かあったのを思い出して触れますが―― そのときその時点であたらしく書いて応答するよりは すでに過去に書いた文章があることを示してすでに前々から考えていたことであるとうったえることが出来るからです。   ○ 無効の有力  これは 違憲でも有効とされる場合がありますがそれは別として そもそもたとえば拉致行為は――ひとの自由意志を踏みにじるゆえ―― 無効です。しかもたとえいつか原状復帰がかなったとしても 拉致の時点での原状がそのまま回復されるわけではありません。それはもう無理です。つまり 拉致によってこうむった被害は 《無効の有力》として現象していると捉えられます。  殺人は 無効の行為です。ですが 原状復帰は 実際問題としては かないません。社会力学上 有力な事態として推移したかたちに捉えざるを得ません。  ですから《実存》のほかに この《有力》なる事実が――ほとんど人びとの意志にかかわりなく ファッションや飾りや そしてあるいはシガラミとして――《現象》している。と見られます。  ★ 実存が変わらないと、根本的な問題が変わんないんでしょう。  ☆ 根本的な問題について考え変えようとするのが 実存としての意志行為です。それだけで足れりとするのではなく そこから始まると思われます。  あなたにのぞみたいことは 〔イジメ論などはあなたご自身の問題提起になるものでもあるのですから〕問い求めの姿勢で相手の文章を読み解こうとしご自分の応答をも書こうとして欲しいことです。  言いかえると 文章じたいの完璧さを この視点あの観点から捉えて欲する。相手にもそうあれと指摘する。というふうにお見受けします。ですから そのことは よいことですので できれば 先ほどの《問い求めの姿勢で読み解き応答する》のとそれら両方をのぞみたい。です。定義は その道中でついて来ますから。  わぁ ほとんどぜんぶ答えちゃった。しかも夜中に 何だか気になって起きて来て。   

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noname#180711
noname#180711
回答No.33

 お礼欄、ありがとうございました。説明は分かったような分からないような、微妙なところです。よくあの短時間で、ここまで長々と、しかもシステムを作って書けましたね。むしろそのことに驚きました。  ともあれ「関与」という言葉をめぐっての弁明ですよね。いろいろと枠組みを作っているんだなあ、私が見落としたみたいに言うけれど、そんなことを察して返事などできるもんかい、お釈迦様でもあるまいし、というのが私の感想です。しかし、これは「そうですか」と私が応答すれば終わりなのだなと思います。本当は長い長い趣旨説明が終わったここから議論をするべきかもしれませんが、引き止めないということなので、特に私の投稿が役に立ったということはないんだなあ、粘り強さに負けたとか言っているってことは本音は嫌がられているんだなあと思い、労力にお礼を述べ、こちらは去らせてもらいます。  しかしいろいろ考えたことを別の質問にしました。「関与」についてはさておき、いじめについては納得いかない点が多いのですし、それをもっと開かれた観点から考えてみたいと思うからです。訪問してくれてもいいですし、放っておいてくださってもいいです。特にあなたに向けた質問じゃないです。  あなたを出発点にはしているかもしれませんが、すでにあなたから離れたところで考えようとしています。言論の自由とおっしゃっている方ですから、それは割り切って考えてくださるでしょう。あなたを批判する意図はないこと、ご承知おきください。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ふたつ反応します。ご回答をありがとうございました。  相手の言い分あるいはすでに理論を受けても その内容についてみづからの見解を示すことを避ける。ただただ避ける。こういうクセを見届けました。  《システム》は持たないということでしょうか。《あいまいなシステム》のもとに自己表現をおこなう。  これが ゴータマ氏がもたらした《中身無しのさとり》論の影響であろうと見るところです。  イジメについては パワ・ハラにしても ガミガミ電波など《無効の有力》は無くそうと言っているのですから そのわたしの趣旨が受け留められずに はねのけられている。  この点について ご質問におけるやり取りの経過を見て 発言しなくてはと思ったときには 投稿します。  ★ 本当は長い長い趣旨説明が終わったここから議論をするべきかもしれませんが、  ☆ その前段階をここまで引き延ばしたのは どうしてわたしの側だと思われるか。これが 分かりません。  本論を俟っているのは 質問者であるに決まっています。  三つになりましたが。

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noname#180711
noname#180711
回答No.32

>この回答でまづあなたがなすべきことは  なすべきことかあ。  でも私のNo25に答えてもらっていませんよね。答えたはずというのだけれど、それでいいのかなあ。この理屈で言えば、私も既に答えたつもりなんですけれどね。  しかしそれを言い出すと、意地の張り合いになるので、私の方からサービスで答えてみます。 > ★★(回答No.25)  大人において根本的にいじめは不可能だから、どのようなことをしても許される、というのですね。  ☆ いまもこの判断をそのまま保っているのかどうかです。  保っていない理由はないです。特に反論も受けていないので。  前に書いたことでお答えになっていると思いますが、わかっていないようなので、繰り返します。あなたはいじめをアース役と読み替えることで、「いじめ」というものがそもそも存在しないと言っているんだな、というのが私の解釈です。 >失礼かどうかを問うているのは 中身の問題としてです。道徳規範を守るかどうかの問題ではありません。  よくわかりません。失礼というからには、これは礼儀の問題でしょう。道徳規範とどう切り離せるんでしょうか。中身の問題と書いてあるけれど、何がいいたいのか、わからないです。あなたの言いたいことと、「失礼」という表現が噛み合っていないのじゃないですか。つまり語の選択が至らないのです。なので >あさっての方向を向いています。《矢》が大幅に逸れて行っています。  私からすれば、あなたがあさっての方向を向いているということになります。  お互い様ということでしょうか。  もちろん、これはあなたの立てた質問です。だから俺が向いている方向を向け、という自由もあるでしょう。しかしそうであるのなら、私は別の方向を向いているので、去っていくだけです。で、実際、去っていこうとしたんだが、その度に、何だか引き止められています。お互い、同じ方向を向くような提案をしてもらえたら、話が噛み合うかもしれません。 >★ いじめられた被害者なのであり、そういう立場に人が陥らないようにしていくべきなのじゃないかと思います。  ☆ 《いじめられた被害者》ではわたしはありませんが――アース役という位置にいたことはありますが―― このような社会的な位置関係をなくそうとして自己表現していますよ。  そうですか。私はあなたのことをよく知らないので、そうですかと承っておきます。それが礼儀というものでしょう。  しかしどう表現しているのかは、わかりません。  >この質問もそのままそうであるとお思いになりますか?  いじめをなくそうとしての表現なのかもしれませんが、他の方も阿修羅と書いているように、あなたご自身がガミガミ役になっているよ、ミイラ取りがミイラ取りになっているよ、とも思います。 >人びとは お釈迦さんとかさとりとか聞くと 何かのスイッチが入ったように よくもわるくもおとなしくなります。すなわち ひとつの事例が アース役を引き受けるということです。  私はそういう体験が無いので、わかりませんね。坊主がいえば、みんな正しいと思うという風潮なんてないのじゃないでしょうか。誰ももう、お坊さんを偉いなんて思わないでしょう?  >しかもこの慣行はなくしたほうがいいに決まっています。言論のチカラで そうしようとしています。  上にも書いた通り、すでに強制力は無いと思うんですが。それにあなたは「関与」というものがないと書いていたのじゃなかったけ。これは矛盾していますね。関与というものが無いのだとすれば、仏教の方も、あなたに関与できないし、他の方にも関与できないでしょう。じゃあ別に放っておいてもいいじゃないの、という話になる。  さらにもう一つ大きな矛盾を感じます。「言論の力でなくす」ということは、あなたが言論の力で関与するということです。じゃあ、関与できないって言っていたのは何だったんだろうと思います。うーん。前に小難しいことを書いていただけに、素直に同意できないなあ。大切なところだと思うので、説明してもらいたいです。 >おチカラをお貸しください。  力を貸せということは投稿し続けろと言うことだと判断して、投稿しています。しかしそうであれば、あなたも私に謝ったり、答えたりするべきことがあるのじゃないでしょうか。次のお礼欄で様子を見て、続けるかどうか考えます。とはいえ、言論の自由があれば、信仰の自由がありますよね。それを妨害するのはやりたくないな、と思います。憲法に書いてあることですので。

bragelonne
質問者

お礼

 ねばりづよさに半分負けて がんばってお応えしてみます。まづはご回答をありがとうございます。  (1) 人と人との関係過程については 存在の階層に応じていろんな捉え方があろうかと思います。ひとつの作業仮説を示して話を継ぎます。    基層:社会的動物としての《関係の絶対性》なるカカワリ    実存面:社会的交通なるマジワリ:基本的に話し合い    現象面:社会力学的・心理的な影響関係:《ファッション・飾り》  (2) むろん人間ないし《わたし》は 関係性からのみ成っているのではない。その社会的な関係性と同じ基礎において 一人ひとりにおいてそなわった自由意志という生きることの中軸を得てこれを用い 社会的な独立性を持ち行動する。  (3) 実存面における《対話》が成り立つのは 関係性を 一人ひとりの独立主体が形成しているゆえである。合意に到るのは 互いに相手から独立した自由意志においてそのコトを互いに同じかたちで自分〔のその後の実存過程〕に課すときである。  (4) さてそこで《関与》は ふつうは 実存としてのマジワリの問題である。交通・交際・接触・取引関係などを含む。  (5) ところが わたしがたとえば次の次の(い)のようにこの言葉を用いたのは あなたの:   (あ)★★(回答No.15) 失礼だとか無意味とみなして 問うことを禁じるという発想は、ちょっと怖いなと思います。   ☆ という表現を受けてのことです。   (い)☆☆(No.15お礼欄) ~~~   そもそもひとの自由意志に人は関与しうるか。干渉しうるか。   哲学上の質問で 何かを批判したら その批判が成った場合には 《人びとよこれからはその何かを口にすることを禁じる》と言ったことになるのか。  ~~~~~~~~~~~    (6) すなわち《干渉》という言葉をおぎなっているのですから ふつうの実存面におけるマジワリではないと言えるはずです。  (7) またそのことは あなたの上の(あ)の文章の意味するところも ふつうの話し合いを不当に飛び越えて進める《干渉》やあるいは――途中で引き合いに出されて来た――《強要》という言葉の意味合いを明らかに含むことと呼応しているはずです。  (8) その《干渉・強要》という意味が 次の場合の《関与》にはあります。  ★ ~~~  それにあなたは「関与」というものがないと書いていたのじゃなかったけ。これは矛盾していますね。関与というものが無いのだとすれば、仏教の方も、あなたに関与できないし、他の方にも関与できないでしょう。  ~~~~~  (9) わたしが《関与》についてまぎらわしい使い方をしたかについては――あなたは したのだからあやまれということを言うようですから 細かく触れますが―― 上の(い)でのように 《人間の自由意志に関与しうるか》と書いていることに留意してください。自由意志を左右するようには関与できないという意味合いが 含まれていました。以下の(11)の引用文に明らかなはずです。  (10) ちなみに次の場合の《関与》は ふつうの対話交通のそれです。  ★ ~~~   さらにもう一つ大きな矛盾を感じます。「言論の力でなくす」ということは、あなたが言論の力で関与するということです。じゃあ、関与できないって言っていたのは何だったんだろうと思います。  ~~~~~  (11) 《イジメ》の問題についても同じようなことです。  ☆☆(No.17お礼欄) ~~~   5. もし他人がほかの人間の自由意志に――催眠術での事例がじっさいどういう内実を持っているのか よく知らないままこの議論を言っていますが―― その自由意志を左右して従わせるほどに影響しかつ制御するまでになるというのであれば あやまちにしろ犯罪にしろ人間の行為の中には 自分の意志によるのではないものがある・・・ということになります。  ~~~~~~~~~~~~~    (12)  催眠術の事例は けっきょくその催眠状態が解ければ 自由意志は戻るのですから とくに条件づけすることもなかったかと思います。ですが現象としては その催眠術にかかったあいだにコトを起こしたのなら 問題になるかも知れません。  (13) けれどもイジメにおいても 脅迫などチカラを行使して有無を言わせない無効の行為をのぞけば いかなる言葉を吐いたとしても自由意志にチカラを揮って関与するという強要はありえません。と言えるはずです。大きな影響を受ける場合はありえます。そして重ねて言えば例外は たとえば人質を取って 言うことに従わなければ人質の命はないぞと脅される場合です。すなわち:  (14) 問題は (1)の    現象面:社会力学的・心理的な影響関係:《ファッション・飾り》  において起こっています。パワ・ハラも同じくでしょう。要するに相手の意志にかかわりなく 物理的あるいは言語的なチカラを駆使して影響をあたえる。場合です。  (15) 相手の意志との対話を省きむしろあたまからそれを無視して自己表現をするという無効の行為が 現象としては起き得るので それが社会力学上は有力を形成するようです。  (16) この《無効の有力》が イジメでありガミガミ放射能です。  (17) 防衛力は アース役がになっています。誰もにこの自衛力はあります。  (18) パワ・ハラの場合も ガミガミ役は その人の人間化の過程をそれとしてたどっていると見てマチガイないと考えますが イジメ役の子どもの場合は 特にもろに人間化の過程で起こると見られます。  (19) その子ども本人はどうしても《無効の有力》なるふざけた行為を仕出かさないと 生きていられないと――《ファッション・飾り》の分野で・つまりはけっきょく錯覚のごとくに――思ってしまう。  (20) このことを 常識として共通の認識にしうるならば 本人にも語って認識させることが 第一の仕事ではないでしょうか。  (21) なぜ無効の有力なる愚行に走るか。子どもの場合は特にだと思うことは けっきょく《アース役》がつらいからではないか。そしてそれは 親から・つまり親がアース役のつらさを知っているそのことが子に伝わって行くのではないか。  (22) もしそうだとしたら ガミガミ電波処理班であるアース役工場での未処理案件が全国を縦断し感染列島という状態にしていると思われます。  (23) ウツもニートもヒキコモリもアスペルガーもみな 自衛力のはたらくすがただと考えられます。  (24) 中で KY なるつよい自衛力をそなえた人間が現われました。ガミガミ電波が その場のそして列島全体のクウキとなっても それを寄せつけない。  【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html  もうこれ以上は引き留めません。

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noname#180711
noname#180711
回答No.31

 何の問いに対して「はい」なのかわかりませんが、気持ちよく話せないのなら、切りよく止めたいなあという本音はすでに伝えたとおりです。わさわさとお友達を集められて、あれこれ言われるのは、嫌ですから。これについては、一言ちゃんと謝ってもらいたいなあ。意図していたことではないが、第三者の介入を呼び掛けて、一人を袋叩きにするような方向に話が行きかけてしまった、と。  そういうわけであまり気乗りしないのですが、「無視ですか」と聞かれたので、そのことについて答えます。まずリンクを張られても読む気がしないです。コピペされたのと同じで、手抜きのお礼だと、嫌だなという風に思うからです。それで我慢して、質問文とBAを読んだけれど、よくわからなかったです。それも仕方ないことでしょう。だってこの質問と関係ないことなので、私には反応する義務もないでしょう。好奇心を持つ義理もないと思います。  こういう風に私の方で我慢したうえでのことなので、あなたが期待するほどに正確な意見ではないかもしれませんが、感想を言わせてもらいます。昔のあなたはいじめられっこだったんだなと思います。しかし、あなたはいじめられていたとは思わない。アース役などという風に独自の意見を持っていた。それが社会を支えているとか、役に立つとも思っていた。このことを質問として掲げ、あれこれと考えてきた。そのあれこれと考えてきた内容については、割愛させてもらいます。独特の意見過ぎて、理解するのに手間を要するので。物理は関係ないのじゃないか。私はそこまでお付き合いできないです。  むしろ私が思うのは別のことです。今のあなたは「アース役はつらいよ」の合唱の音頭をとろうと考えた結果、ミイラ取りがミイラになり、あなたがガミガミ役になってしまった。さらに悪いことに、昔はアース役だったので、今、他の人がアース役を引き受ける羽目に陥り苦しんでいても、かつての自分は頑張れたのだからという理屈で、同情する気にならないない。今回のやり取りを踏まえて総合すると、そんな風に見えました。  しかし私は、自分が苦労したことは、他人にさせないようにするのが人のあるべき道だと思います。自分が苦しんだから、それを他人にも、というのはちょっと違うのじゃないか。また「アース役」などと役割として認め、それが社会に必要であるかのように認めてしまっているけれど、これは役割でも何でもないのじゃないかと思います。いじめられた被害者なのであり、そういう立場に人が陥らないようにしていくべきなのじゃないかと思います。一言でいえば、私はあなたの議論の試みを根本から有意義とは思っていないということになるようです。それなので、内容については、面倒だなあと思って及び腰です。  以上、少々冷淡かもしれませんが、私はまじめな意見を言っているつもりです。しかし他の方のお礼欄で私のことを批判し、全く私の投稿は役に立たないと考えているようですね。私はあなたとのやり取りは、鼻をつまんだようなやりとりになっているなあとあきらめてはいますが、それでもなお、屈辱的だと考えるべき場面なのでしょう。しかし、本当に哲学をやる人なら、悪口(批判ではなく、悪口。なぜなら当人に言わず、第三者に陰口として言っているので)を言ったり、第三者を巻き込んだりしなくても議論できるはずです。あなたが哲学以前であり、人間以前の方なのだなとの思いを強くしました(決め台詞をいただいてしまいました)。終わりにさせください。  しかし、私、一つ根本的なことに気が付きました。そもそもの質問は、人の命と存在を問題にして、仏教的な問いかけが「失礼ではないか?」と書いていますよね。問題は礼儀なわけです。けれど、あなたの質問文は、かなりざっくばらんで、無礼講といった印象です。礼儀なんてかまっていない。実際、私にはかなり失礼なお礼をよこしているし、お礼だけじゃなく、他の投稿者にも私の陰口をきいています。ここで礼儀というものは軽んじられている。  こうなってくると、説得力無いですよね。礼儀正しい人が、「失礼ではないか」と言えば、説得力はあります。しかし礼儀知らずの人が、失礼と言っても、それはお互い様でしょ、で終わってしまうと思います。もっともあなたからすれば、お互い様でしょ、には、私も入っているのかもしれません。が、ともあれ、礼儀を巡って、無礼者同士が集まっても生産的な議論が展開できないことは同意してもらえるでしょう。五十歩百歩、どんぐりの背比べ。初歩的な問題に、今更気が付いた私でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  この回答でまづあなたがなすべきことは  ★★(回答No.25)  大人において根本的にいじめは不可能だから、どのようなことをしても許される、というのですね。  ☆ いまもこの判断をそのまま保っているのかどうかです。  失礼かどうかを問うているのは 中身の問題としてです。道徳規範を守るかどうかの問題ではありません。  このようなふたつの《初歩的な問題》に まづ何よりも先に気づいてください。  このように《問い求めの中身について語ること》と 《対話が問いと答えから成るからには 問われたことには答えるという順序をないがしろにせずにすすめる》ということ。さしづめこのふたつです。  ★ 初歩的な問題に、今更気が付いた私でした。  ☆ というのは あさっての方向を向いています。《矢》が大幅に逸れて行っています。  ★ いじめられた被害者なのであり、そういう立場に人が陥らないようにしていくべきなのじゃないかと思います。  ☆ 《いじめられた被害者》ではわたしはありませんが――アース役という位置にいたことはありますが―― このような社会的な位置関係をなくそうとして自己表現していますよ。  この質問もそのままそうであるとお思いになりますか?  人びとは お釈迦さんとかさとりとか聞くと 何かのスイッチが入ったように よくもわるくもおとなしくなります。すなわち ひとつの事例が アース役を引き受けるということです。  もちろんその引き受け仕事がわるいとも そうする人がわるいとも言ってはいません。しかもこの慣行はなくしたほうがいいに決まっています。言論のチカラで そうしようとしています。おチカラをお貸しください。

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     問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。

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     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?