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人格を向上させるには?
こんにちは。 私は人格を向上させたいと思っています。 その理由は、人格が向上した人は、 身の回りに起こることに心を乱されず、 苦しまないで生きていられるように見えるからです。 嘘をついたり、ヨコシマなこと、自分の利益だけを考えたりすると、 結局、自分自身が苦しむことになります。 その理屈をわかっていても、どうしても自分本位の生き方をしてしまいます。 目先の損得に囚われてしまいます。 人格者は、その方が自分にとって得だと知っているから人格者になっているのでしょうか。 どうも、そういう下心があると根本的に人格者になれないように思います。 ということは別の理由があると思うのですが、その秘密は何でしょうか。 そして、どうすれば、人格者になれるのでしょうか。 よろしくお願い致します。
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自分本位の生き方をする事、それ自体は何も悪くありません。問題になるのは、身勝手な振る舞いによって、他人を害する事です。 人格者は、何を尊重するべきかを理解しています。だから、必要なだけ物事に関わり、その後は何事も無かったかの様に身を引きます。これが配慮というものです。 彼らにも欲があるので、時には他人を害する事もありますが、それは常に必要最低限です。果実を収穫する際に、枝を折る様な真似はしません。 自分と他人の欲望を尊重し、守るべきものは守り、お互いに深く傷つかなくて済む様に配慮する。これだけで十分だと思いますよ。
- Nkfe
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人格と言いますがそれは他人からみた評価です。それを良くしたいのであれば、他人にやさしく、自分に厳しくでしょう。 それとも温厚な仙人のような人間になりたいという事でしょうか、それであれば欲望を捨てたり、競争心を捨てたりなどイロイロな目標の立て方が有りますが、一般社会にいたままそういう人間になるのは難しいです。自分自身の心の持ち方の問題ですから。 どちらにしても、まず良く自己分析をしてみる事が大切です。 あと、なんですが一般社会にいて出来る事は 色んな人、色んな年代の人、男女を含めて、話をしてみる事、色んな事を聞いてみる事。それと自身が色んな事をしてみて、経験を増やす事ですね。
- ni_si_ki
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「足るを知る者は富む」でしょうか。 分を弁え不平不満を言わないことです。 損得で判断する人は概ね強情張りです。 強情張りは知識がありません。 他人の意見に耳を貸さないからです。 上記の逆を行えば良いのです。
- yorin_1963
- ベストアンサー率15% (71/461)
人格者の話の前に、苦しみの原因と解放についてお話させて下さい。 苦しみの根本的な原因は執着心です。 若さに執着する。美しさに執着する。健康に執着する。自分の家や車に執着する。好きな人に執着する。 その執着心が強ければ強い程、苦しみは増します。 で、どうすれば解放されるかと言うと、自分の物を人に与えるんです。 自分の時間を与える。 自分労力を与える。 自分の知恵を与える。 など、機会があるごとに与えるんです。 すると、執着心が薄れると共に、苦しみも薄れるはずです。 これは、人格者になる為の方法の一つでもあります。 それから、人格者は人の話をちゃんと聞きます。 その上で自分の意見をしっかりと伝えます。 決して威張らず、媚びず、押し付けず、感情的にならずに理路整然と話します。 その為には、かなりの勉強が必要です。 歴史や文学、語学、宗教など色々な分野に精通した知識が必要です。 そして大事なのは、視野の広さですね。それを身に付ける為には、仏教や法律を学ぶといいでしょう。 あと、心が狭くてはいけません。 心を広くする為には、自分を知る事ですね。 その為にもやはり、仏教が良いと思います。 ざっと思い付いたのは、これくらいです。 人格者になれるといいですね。 頑張って下さい。
何だか、抽象的な文章で…あなたの人生経験が伴っていないような気がします。 頭でっかちに考えすぎない方が良いと思います。 人格者は“どうしたら人格者になれるか”など、考えた事もないと思いますよ。
人格者に見えるには、字が上手いこと、冠婚葬祭に詳しいこと、マナー・作法に精通していること、博学であること、…でしょうか。余分なことは言わず、謙虚な物腰でいて言うべきことは押さえておく、タイミングもスマートで気取らずなめらか。心のなかなんて判らないから、見た目がそうなら、人格者です。 孔子のような人が人格者と言うのなら、論語に学びなさい。マザーテレサを人格者と言うのなら、真似してみなさい。でも、所ジョージは人格者?北野たけしはどう?。顔が人格者顔じゃなければ、諦めなさい。 「他人がどう思うだろう」と考えない様にすれば、多少は人格者っぽくなります。誰も見ていなくても、してはいけない事はしない。すべきことはする。例えば、自分がお礼をしたいと思えばする、謝らなくてはと思えば頭を下げる、というように“自分中心”に判断する人は主体的であり、人格者っぽいです。自分の価値を自分で認められる自己完結型の人間とも言えます。他人がどう見るかを操ろうとするのは、傲慢と言うものです。