蜘蛛の糸 作文

このQ&Aのポイント
  • 私は、この『蜘蛛の糸』を読んで犍陀多について、思ったことがあります。
  • 犍陀多とはあれだけ悪いことをしてきたのに、地獄から自分だけ出ようとして、死んでも悪いことをする最低な奴なんだな、と思いました。
  • 犍陀多を助けようとした蜘蛛にとってみれば、自分の命を助けてくれた犍陀多は、神の様な存在なのかなと思います。
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蜘蛛の糸 作文

作文書きました。どうでしょうか?? 「蜘蛛と犍陀多」○年△組 ×□☆○  私は、この『蜘蛛の糸』を読んで犍陀多について、思ったことがあります。  この人は、死ぬ前に悪いことをたくさんしてきましたが、一匹の蜘蛛を助ける、という善いことを一つだけしていました。そしてその雲は、糸を犍陀多のもとへ垂らしていきました。それを見た犍陀多は、喜びました。地獄から抜け出せる、もしかしたら極楽に行ける、とでも思ったのでしょうか。糸に掴まし、上へ上って行きました。この場面を読んで、私は犍陀多とはあれだけ悪いことをしてきたのに、地獄から自分だけ出ようとして、死んでも悪いことをする最低な奴なんだな、と思いました。  その次の場面では他の罪人も糸につかまり逃げ出そうとして、糸が切れてしまいました。他の罪人も犍陀多も地獄に落ちた人は、みんな同じことを思い、考えているのかと思いました。そして、在任たちが闇の底へと落ちてしまいます。私は、生きている間にたくさん悪いことをしてきた罪人、地獄に落ちても悪いことを考える罪人は、落ちて行って当然だと思います。そんな人たちが、またこの世に戻ってきたり、極楽に行ったりしてしまったら嫌なことがまた、たくさん起こるだけだと思うからです。  犍陀多は、苦しい生活をしなければならない地獄なんかは抜け出したい、と思ったのですが、地獄にいる人は誰もがそう思うと思います。しかし、自分だけが抜け出して楽になろう、という考えはだめだと思うので、そう言う人は罰を受け、苦しい生活をすればいい、犍陀多はそれでいいと思いました。でも、犍陀多を助けようとした蜘蛛にとってみれば、自分の命を助けてくれた犍陀多は、神の様な存在なのかなと思います。 【漢字の読み】 犍陀多――かんだた(生きているあいだに悪事をたくさんした男です) 蜘蛛―――くも もとの話はこれです⇒⇒⇒⇒http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html これ読んでからこの作文読んだほうがいいと思います よろしくお願いします。長くてすいません_(._.)_ 

noname#219289
noname#219289

質問者が選んだベストアンサー

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  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 こんばんは、本好きなおっさんです。この質問を寄せられたあなたは恐らく小学生か中学生ですね?。 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は有名な作品です。ここに登場する「主要な人物」が先ず誰と誰であるかを先ず考えてみましょう。  質問者様の作文では、この作品の人物は犍陀多一人ですが、実際にこの物語を語っている人は誰かと考えてみたなら、登場人物が一人ということになるでしょうか。これが第一の疑問。  犍陀多が罪人であるという「事実」と他の罪人を隔てる違いはどこにあるでしょうか?。これが第二の疑問。 犍陀多も他の罪人達と同様に「人を殺したり家に火をつけたり」と現世で様々な「罪」を犯しました。それによって「現世でも」罰を受けたことも他の罪人と同様です。それが死罪だったか或いは別の罰だったかは書かれていませんが、その罪を問うたのは「現世でのルール」ですね?。  そして、ここからもう一つの「観点」が登場します。作品の冒頭に記されている「御釈迦様」という言葉からわかる様に、この作品のルーツは仏教説話であるとも説明されています(別の意見としてドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に着想を得た作品であるとの説明もあれば、鈴木大拙が、ポール・ケーラスの『カルマ』という作品を邦訳した『因果の小車』であるとも説明されています)。  話は横道にそれましたが、この作品のクライマックスから、どの様な考え方に基づいてこの作品が書かれているかがわかりますが、そのことにお気付きでしょうか?。  目の前に降りてきた一本の蜘蛛の糸を見て、犍陀多が「何を考えそして行動したか」がヒントになります。質問者様は「地獄から抜け出せる、もしかしたら極楽に行ける、とでも思ったのでしょうか」と綴っていますが、その後の部分が問題です。この時点では「蜘蛛の糸」にすがったのは「ただ犍陀多一人だけ」です。他の罪人達は糸にすがり着いていません。ですから「私は犍陀多とはあれだけ悪いことをしてきたのに、地獄から自分だけ出ようとして、死んでも悪いことをする最低な奴なんだな、と思いました」との感想はNGとなります。感想文を書く時の注意点として「物語の時系列を適切に踏まえること」が大切です。  一縷の望みを託して、極楽へと繋がっているかもしれない蜘蛛の糸にすがり、上へ上へと登っていく犍陀多が元の地獄へと堕ちていったのはなぜでしょう。  答から言ってしまえば簡単ですが、それを書くことが質問者様の「作文という名の感想文」に課せられている趣旨です。  犍陀多の発した言葉に注目してみましょう。彼がどの様な「言葉」を口にしたことで、頼りなげな蜘蛛の糸がぷつりと音を立てて断れたのでしょう。そして「なぜ断れた」のでしょう。ここがこの作品のポイントです。  質問者様は文末に「人間のエゴイズムに対する冷ややかな目線」との結論めいた文章を書いていますが、その文章か導かれる過程が不自然です。初めに結論を用意しておき、後からそこに理由付けするならば、この作文は意味をなしていないと評価されます。「誰の目線が」冷ややかであるのか、不明なままです。致命的です(芥川の視点を彼自身が御釈迦様に仮託しているのか、それとも御釈迦様の目線なのか、あるいは質問者の目線なのか)。  ただ一つおもしろい着眼点もあります。「蜘蛛にとって犍陀多は神のような存在かもしれない」。これは独自の解釈ともいえます。  この作品が意図するところは「人間のエゴイズム」であり、「誰がそれを裁くに値する資格を持つのか」が柱となっています。誰しも絶対的に正しい行為ばかりしているわけでもなく、必要悪などと呼ばれる場合や正当防衛なども実際にはあります。正当防衛が成り立つのは「規範としての法」に基づく判断ですが、それともう一つ「宗教や道徳などの価値観」に基づく判断の基準も別にあります。  仮に僕が質問者様の先生だったならば、この作文にはいいところ60点しかあげることができません。それほどにつまらない、そして学校秀才タイプの子どもが書きそうな文章だからです。 先ず第一に誤字が多すぎます。これは致命的です。 第二に、文章の論旨展開の仕方に無理がある。これも致命的です。読み手に納得を与える文章でなければ意味はありません。 第三に「作品の文章」を逐一引用する必要もありません。それを説明するならば、誰それの行為などと抽象化すれば済む話です。また文章を「です・ます」で閉じているのは字数制限がある場合ならば、それだけで無駄となります。従って第一段落のワンセンテンスは不要、また第二段落ももう少し簡素化することで自身の意見なり感想を述べるスペースを取ることができます。 第四に【】の注釈もその後に続く説明も不要です。もう一度、頭の中を整理して書き直してみてください。  ※そのために「蜘蛛にとって犍陀多は神のような存在かもしれない」を主題とし、その理由を筋立てを明確にすれば面白い文章ともなる可能性もあります。  

noname#219289
質問者

お礼

【】のなかのやつは、作文には書いてません。 勘違いさせてしまい、申し訳ない_(._.)_  回答者の方が読めるかなぁと思って書いたものなので! ごめんなさい! ありがとうございます 参考にします 長々と、どうもです

noname#219289
質問者

補足

誤字は、「掴まし」でしょうか? 間違えました(´Д`;)ヾ ドウモスミマセン。

その他の回答 (2)

  • madausa
  • ベストアンサー率28% (320/1133)
回答No.2

・あらすじ書かなくていい。 ・糸が切れた理由を考えて、それについて感想を書いた方がいい。 ・最後の方はそのままでいい。

noname#219289
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました 参考にします

  • yamasakaki
  • ベストアンサー率32% (364/1113)
回答No.1

作文ていうか感想文ですね。

noname#219289
質問者

お礼

そうですよ♪ 感想文です!!

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