芥川の蜘蛛の糸と世界宗教について

このQ&Aのポイント
  • 芥川の蜘蛛の糸について、偽善性という側面を否定する意見や世界宗教の胡散臭さに対する感想があります。
  • 一般に世界宗教は胡散臭さや欠陥があり、世界性や宗教性がないと思われています。
  • 世界宗教という用語の使用に疑問を持つ意見もあります。
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 芥川の蜘蛛の糸

 芥川の蜘蛛の糸  自治体主催のシニア芥川研究者の先生から、無論原点があるのだという解説がありました。    私は曽っては身の程知らずに変わり者、偏屈者で生きてきました。まぁ中学初学年くらいまで。  あまりの生き難くさに、折れに折れ、いつの間にか主体性もどっかに流れた、世の中に合わせた人になってしまった。(と自分では思うときもあります)    信仰(外国のある団体によるインド哲学の勉強と精進)みたいな事もやるなんて、まったく素直ななんでもない人になったかのように思っています。  ある人のために(一面おためごかしに)このOKWaveでも助言的投稿をして、後で、あぁ私はずいぶん偽善的だなと思いました。  そして私だったら、そんな投稿の助言など無視するだろうし、蹴っ飛ばすだろうし、ぐちゃぐちゃにするでしょう。    芥川の蜘蛛の糸。釈迦が犍陀多(カンダダ)に蜘蛛の糸を垂れる話ですね。  犍陀多(カンダダ)は素直に釈迦が垂れた糸を昇り始める。  でも、釈迦のいるところが果たして犍陀多(カンダダ)にとっては居場所たりうるか。  釈迦にとってはの、場所、世界ではなかろうか?  第一そんな糸になんか依拠しないで、自分で自分の行くところに行くワイ、とでも思わなかったのであろうか?  無論、誰だって先人の教えや知識、そして経験がどんなに大事かは知っていますが。  あまつさへ、後に続く人を蹴落とすとか。そんな一般的、世界宗教や信仰ってなんなんだ。と思いました。  日本に世界宗教が云々とか。  所謂る世界宗教とかいうものがしてきたこと、その信仰内容のなんと胡散臭い事か。  それが単に民俗信仰の中に居るうちはなんとか体裁も保てていたが。世界宗教なんてされてかの諸悪と罪悪の限りなさを思います。  これに反し、日本人の心性と宗教性、言語とコミュニケーションの基盤の秀抜性くらい素晴らしいものが世界のどこにあるかと思います。  私は世界宗教の胡散臭さと仏教はともかく、蜘蛛の糸の偽善性に吐き気を催うします。  そういうことで行き着いたのが42ほどやっている、インド哲学の考え方と行精進です。  ご訪問の各位は   1. 迦の蜘蛛の糸が偽善だと(文学のことではあるが、)いう側面を否定しますか?   2. http://okwave.jp/qa/q6080113.htmlのご質問にも出てくる、世界宗教というものに対して、一般に胡散臭さというか、片腹痛さを感じませんでしょうか?  つまりそんなものが世界のどこかで世界宗教とされていても、人数が多くても、少しも世界性などはないし、宗教性などは欠陥だらけだと思いませんでしょうか?  世界宗教なんて用語使用が間違っている、と思いませんでしょうか? 

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  • magga
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回答No.3

krya1998さんこんにちは^^ 僕なりに思うことを書いてみますね。 1の蜘蛛の糸をぼくはこのように解釈してみました。 蜘蛛を助けた善心を持って幾許かの理性を垣間見 理解するということがあるかもしれないと お釈迦様が蜘蛛の糸という名の法を差し出した しかし、彼はその法を見誤り道を外したゆえに 自らを苦しい境地へ追いやった・・・自業自得 外からの影響・他力もあれど 結局は自力で歩まねばならない そのような事柄をわかりやすく地獄・糸という形で表した文学かなとw 少なくともパーリ語でとかれる仏陀は俗に言う救世主ではないと思います。 最上の教師であると説かれていると思います。 生命というものの分析によって発見した 苦の原因とその原因の解決法・・・ 御釈迦様のの境地が彼にとっての目指すべき場所となりえるかは 御釈迦様の生命の分析などを鑑みて、生命にとって目指すべき境地か否か調べる必要がありそうですね。 (パーリ語仏典ファンである私の感想でしたw) 2世界宗教ですか^^; 個人的には、脱宗教・脱信仰・脱思い込みの教えと感じるパーリ仏典がスキですw カーラーマ経・無碍経・チャンキー経等^^ 師・経典・・・・・だからといって無根拠に信じるなかれ ある範囲の根拠を持って語る見解も、これこそ正しい他は間違っているとするなかれ・・・。 物事を観察し、検証するという立場において必須である態度などを「世界宗教」とするなら応援しますが。 ・・・それじゃぁ宗教といわないかな?w 梵網経の網の中で浮き沈みする概念群・・・が宗教かな? ・・・世界宗教以前に宗教ってなんでしょうね^^; 「個人的には無根拠に決め付け信仰するもの。」なんていう定義で括ってますが・・・ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

krya1998
質問者

お礼

 maggaさん、ありがとうございます。  【御釈迦様のの境地が彼にとっての目指すべき場所となりえるかは御釈迦様の生命の分析などを鑑みて(私も二十歳で大学に就職して、事務と教員の労組の書記長として申し入れ書で“を鑑みて”として教員の委員長から、“に鑑みて”だよ、と注意され、ひどく困惑しました。私も60を過ぎ、後輩の偉い教員がやはり“を”というので誤字訂正したら辞書やらなにやら出してきて、抗弁してました)、生命にとって目指すべき境地か否か調べる必要がありそうですね。】  その方法と気持ちが大事ですよね。それは単に理性や理論ではないでしょうね。それが生命であり、自己性というもののようですね。  生来素直でもないし、円満でもないわたしの今までの歩みはその釈尊の手を振り切って、自分の歩みを馬鹿げた労作や転びまろびながら、傷だらけできました。  それがいいとも思いませんが、自分のカルマだと思っています。君子の歩みはできませんでした。もう人生も最後に為りますが。  宗教は自己に執着するのではないが、見つめそれを偽ったり、ちゃらんぽらんにするのではないので、世界宗教ということばはやはり好きではないのです。  例示した宗教の歴史的歩みはつらいものがあります。  ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 maggaさん。  釈迦が救世主とは存在側面が一応区別される、聖なる教師だというお話は理解でき、また仏教が非常に理知的であって、単なる信仰ではないことも理解させてくれます。  私自身は仏教も同じ根になっている、インドの思弁的信仰的、行法教えを40年とはいえ、初心者として始めているのでmaggaさんパーリ語仏典に更に手を伸ばすことはできませんが、素晴らしいものにご邂逅されてよかったですね。  釈尊は私達はムニの境地といい、それ自身が此の世に生きる人間の模範と勇気付けとなって化生されている方だとされています。私達は釈尊を見習うように指導されています。  蜘蛛の糸における描写を単に読むだけですと、カンダタの昇り初めは少し、カンダタの求道の説明が足りないと存じました。  それで単純だとか、まぁ大衆的だとかいう事例としてだしてしまいました。そしてここの釈尊についても自分の気持ちとは裏腹に、自分のある人への投稿が偽善的だということの説明の材料にしましたが、本心は釈尊のいろんなお話を敬愛しております。  世界宗教はいやですね。こういうことばは嫌いです。  世界史か経営学かの方が口走るにはいいのですが、哲学の場でいうことは、私としては許容できない意識と構えだと存じました。  鱈子さんの話だと、ここに出した方は経営学のご専門のようですね。  世間の寵児である、この口走った方も経営学の分野の方なんですね。  ちょいと場違いですね。  いつも素晴らしいご回答をありがとう御座いました。今後ともどうぞお教えをいただけますように。

その他の回答 (9)

  • AXIS_
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回答No.10

おまけのおまけ  きぐるみの嘘・欺瞞を見抜けるか、見抜けないかは切実な問題ではないでしょうか。  外道の世界宗教をありがたがっている人もいます。

krya1998
質問者

お礼

 AXIS-さん、天軸さんか、地軸さんか、はたまた軸足さんか。  ご伴奏(伴走かな?)をありがとう御座います。  外道の世界宗教はやはり、素朴な真摯でありがたがっている人が居るんですよね。  そんなことを言う私もそうかも知れませんが。  木胡桃さんのことを見抜くことが、木胡桃さんへの感謝なんですが、それが今は未だできないんです。  すみません。どうぞ今後ともお願いします。  

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

何度もすいません。 芥川龍之介の作品って、海外のパクリが多い。 芥川龍之介の作品は、キリスト教の思想に元づいていることが多い。 このことから判断すると、蜘蛛の糸は、ペテロが地獄に落ちた母親を救おうとした「わが主とペトロ聖者」のパクリである可能性が高い。 芥川龍之介の歯車という作品の描写の中に統合失調症の初期症状にみられるような表現があったことから、彼は統合失調症だったのではないかといわれています。 彼の母親は統合失調症だったようです。 その資質があり、妄想と現実がわからなくなっていき、長い間苦しんだと思います。 だから救いを求めてキリスト教の傾倒していったんじゃないか と。 人はしかるべきところに落ち着くものだと思います。 ある人はデザイナーになりたくて長年がんばってきたが、結局花が咲かず、生活のため諦めてパタンナーの仕事についたら、めきめき実力を発揮しその世界では有名になったそうです。 最初から自分の能力の特徴を知っていれば、回り道せずに済んだわけだし、能力がすごいと認められたわけですから、世間から注目されたいという願望があったのなら、第一志望のデザイナーとしては有名にならかったが、本来の目的は達成されたわけです。 ドッグビルという作品は、オランダ人だったかな? その人がアメリカの欺瞞を表現しているらしい。 それにとどまらず、善意をする人の欺瞞を冷ややかに指摘している。 トムというのは現状だと平和な町なのに「革新が必要だ」と余計なことを考えていた。 そこにグレースが現れたので、彼女を使って町の改革を実行しようとしたわけです。 グレースにとっても自分を受け入れない人が、自分を仲間として受け入れるという改心をすることを喜びと感じ、生きがいを見出したわけです。 グレースは自分が望まぬ環境がイヤで逃げ出してきた女。 この人はマフィアのボスの愛娘。 父親の仕事を恥じており、自分は善人なのでとても父親と一緒にいられないと逃げてきた人。 そんなことはトムは知らず、グレースは犯罪を犯して逃げてきて、その犯罪を犯した人を非難せず、許し受け入れることで、グレースは改心するとし、グレースの罪を許し受け入れた住民も変わるとトムは思っていたわけです。 結局余計なことをしたため、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったようなもの。 村人はグレースに首輪をはめ、逃げないように鉄の鎖をつけ重しをつけた。 グレースは男たちによって犯され、それを子供たちはバカにしながら眺めた。 女たちは「さっさと仕事しろやボケが」とグレースを追いたて、グレースは「はい 今まいります ご主人様」と必死に命令を実行しようとした。 そんなソドムとゴモラに変貌してしまった町に、ある日グレースのパパがやってきたわけです。 トムは計画とは違う状態に街が変貌してしまい、もう自分ではどうにもできないから、元凶のグレースをグレースを探していた人に渡せば解決すると思って、トムが通報したからパパが町にやってきた。 トムはグレースを引き渡すとき、探していた人に貢献したと思ったし、自分はいいことをしたと自分に言い聞かせた。 罪を犯した人を許すという改革より、ずっといいことをしていると自分に言い聞かせた。 パパは男たちによって陵辱をされ、子供たちに虫けらのように扱われ、女たちに奴隷として扱われていた娘を保護したわけです。 娘を保護した父親は「お前は傲慢だ」と言った。 「わたくしが傲慢ですって?」とグレースはわからなかった。 ひどい目にあったのに被害者の私が傲慢だと言うの?ってわけです。 父親は人間の本性を知っている。 自分の本性も知っており、それを改革しようなんて、別人になろうなんて無理なことはしない人。 グレースの本性も父親と同じ。だが彼女はそれがわかっていない。 傲慢な女で、自分を善人だとしようとし、自分の本性を受け入れないアホのため、それでこんな災いを引き起こした。 グレースの欺瞞でこの映画は終わる。 父親のパワーを借りて、村人を皆殺しにした。 その理由は「この村人は悪で、悪はこの世に存在するべきじゃない」というのが虐殺の正当な理由だとした。 本当は復讐心なのに。 父親ゆずりの超極悪人グレースだけど、この段階では、まだ自分の本性が表向きは善人ぶった本性は極悪人だとは気づかない。 ニコール・キッドマンが演じたので、グレースのイタさ・狂気っぽさが十分表現できていた。 私からすると蜘蛛の糸のお釈迦どんはグレース。

krya1998
質問者

お礼

 木胡桃さん、お友達を連れてきているが、悲しいまでに私達の本性宿命を語る物語は興味深いものでした。  私も学び、精進している教え、インドの思想に淵源するというSelf-Realization Fellowshipも所詮、人間の二重性と欺瞞性、その偽善性を自身の中に追究し、目を逸らしてはいけない。といいます。  人間性とかいうもののいやらしさゆえに、意気揚々としていた小学校から中学に入ったときに、全てを抛擲し、滅茶苦茶な生き方をしてきた自分を思い出します。  この欺瞞性、詐欺性、偽善性と付き合いながら今は何とかやっています。  Self-Realization Fellowshipの教えをやりだした頃は、高い到達や完璧性が大事かと思っていましたが、いえ会長の女性も、創立者のグル大師も実はそんなことは一言もいってはいなかったのです。  正当化はできない、しなくても胡坐はかかない。    そんな自己分析にとても有益なお話です。  ありがとう御座いました。

  • AXIS_
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回答No.8

引用初め (岩井) ~~~~~~~~~~  日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。 引用終わり  この文章は、読みようによっては「世界宗教」を否定しているようにも読めます。世界的な意味でコミュニケーションを拒否するのも良いことです。日本人同士でコミュニケーションを拒否しているとは書いてないです。異質な存在とコミュニケーションをとらないことも特に悪くないと想います。 引用初め  いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。 引用終わり  人は言葉が違うとコミュニケーションが取れませんからね。でも、雰囲気を察知すると言う意味での原始的なコミュニケーションであれば、することができる。その場合の見る・見ない(察する・察しない)というコミュニケーションをする機会はあまりないですね。あっても、しにくいですね。  あと質問とは関係ないですが、原初の存在は男でも女でもないと思います。どちらかが先であれば、それは原初の存在とは言えないと思うのですが。  女は自然であり、土台を支えます。男は可能性であり、その質の差は大きく、蜘蛛以下、神(維持存続・管理を司るようになった者)以上もある。 おまけ:人間、死んだら負けだと思っています。ある意味、人間は敗北を喫するために生まれてきたのかもしれません。でも完全に「自己チュー」でなくなれば、勝利するかもしれません。

krya1998
質問者

お礼

 Axis-さん(アンダーバーがだせなくてすみません)ありがとう御座います。  紙背に徹した、原文の読解に感謝します。ご解説で原文に理解も深まりました。  原初の人間について質問を出し、ご回答を頂き、せっかちに締め切りました。ここで軸さんのご見解を教えて頂きとても嬉しいです。  何とか以前の人間とか、普遍的人間なんて想定や観念でしかないでしょうが、原初の人間の説明ですと、やはり男女とか、具体的人間の範囲を出るのでしょうね。  人間以前の日本人って日本人が人間の以前にあるというのも表現的には苦情が出るかもしれませんね。いう意味が文脈上理解できないのではないのですが。  私達の信仰哲理の教えで、キリスト教の原初人間をアダムという表現があり、アダムはイヴと対のような観念でしたが、ここではイヴやアダムの属性といういい方のようです。  でもやはり仰せのように、アダムを一応男にして説明しているが、男でも女でもないというのが、教えの正しい解釈だと存じました。そして単数ですね。  ヨーロッパ語族って、単複数、一人称と二人称が大事ですが。やはり源は一や二とかでなく、太一でしょうね。 【女は自然であり、土台を支えます。】は地母神や土偶を連想しますが、私達の教えでもそういうことです。つまり創造界ですね、ガンガの神というわけです。  【男は可能性であり、その質の差は大きく、雲以下、神(維持存続・管理を司るようになった者)以上もある。】何か卑弥呼などを使う、或いは仕える統治者の存在を空想しそうです。  それは私達も教えも、事態が多くのラージャに移って行くという叙述もあり、齟齬はないと存じました。  ありがとう御座いました。今後もどうぞよろしくお願い申しあげます。  たいへん重厚で濃密なご回答を感謝します。ありがとう御座いました。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.7

蜘蛛を見つけたら、つぶします。ぷちっ という音がしますよ。 なんで「蜘蛛の糸」なんでしょうか。不思議です。 釈迦(もどき?) は蜘蛛なんでしょうか。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#131237
noname#131237
回答No.6

補足 krya1998さまへの批判ではありません。 組合員+党員+唯物論者への批判です。 ANo2の文章にそって解釈ください。

krya1998
質問者

お礼

 すみません、読みがたりませんでした。  今朝起床して、行中に気付きました。わたしら、がきの文章しか読んでこなかったし書いてもこなかったもので。  70も半ばにになるのに成人した男がわからんもんで。いや恥ずかしい次第で。  でもインドでマハバーラタをやると、まとものまじめなアルジュナより、生誕と育ちにいわくがあり、斜めで義理堅いカルナに人気があるんですね。  そして私も人並みに、利根の川風袂に入れて、月に棹差す高瀬舟・・・の平手造酒にしびれたりして。

  • kigurumi
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回答No.5

キリスト教って「自分だけじゃなく みんなも天国に行けるようにしてあげましょう」なんですね。 「そうじゃなきゃ テメーは天国なんぞにゃいけないよ」 という脅迫っぽい匂いを含んだにっこり笑いながらも怖い言葉。 キリスト教ってヤクザみたいなもんで、島代を要求するわけです。 信者が多いほど、金がもうかって規模がでかくなるので、信者を増やしたいわけです。 「ここは俺のシャバだ」って他の宗教が入れないようにして、信者から巻き上げるわけです。 生かさぬよう殺さぬよう。 死んじゃったら「遺産寄付しないと神様おこっちゃうよー」って遺産もまきあげちゃうわけです。 ま そんなわけで、なるだけ多くの人を仲間に引き入れろって教えなので、信者は必死こいて このサイトでも布教活動するわけです。 ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるで、誰かが読んで興味を持って信者にでもなったら、天国行きポイントが1入ると思っているので。 質問を読んでいて、ドッグビルを思い出しました。 http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4427 トムもアホだし グレースもドアホウ。 マンダレイになると、グレースの天然度が痛すぎる。 私が思うにはね、カンダタは自分と同じような仲間と 楽しく暮らしていたと思うのね。 どんな悪さしたとか自慢話して「おめーもワルよのぉ」とか「俺なんか もっとすごいぞ」とか言い合って。 まあ 刑務所みたいなもんです。 そこに蜘蛛の糸が下りてくるわけです。 カンダタはウキっと思って ぶっらーーーん って遊ぶわけです。 すると仲間が「おい 俺にも遊ばせろ」とかわらわらよってくるわけです。 カンダタは 「へへーーん 俺のもんだーーい おい おめ 下つかむなよ ブランコできねーじゃないか あっちいけ」とか言うわけです。 仲間は「ずるいよー カンダタばっかり ブランコで遊んでーー」ってあっちいかない。 そして ぷちん・・・ じゃぽーん。 カンダタは「あーーー おもしろかったー」 仲間は「いいなー カンダタばっかし遊んじゃってさー 俺も遊びたかったなー」 こんな会話が続き、お釈迦どんは「・・・・・ そんなつもりじゃなかったんですけど ま いっか 楽しそうにくらしているし こっちはやつらにとって地獄だもんね」 ちゃん ちゃん。 あー ちなみにドッグビルシリーズは<欺瞞>について描かれています。

krya1998
質問者

お礼

 いずれも木胡桃さんの面目躍如たるご回答で、同感をしてファンになりそうです。  木胡桃教ですね。あぁどうもそういうお人柄でもないようで。  釈迦muniの指導者(maggaさんから仕入れてきました)性は絶大ですが、この質問では仮に自分が誰かに糸を垂らすようなことをしていれば、そりゃもう偽善にならざるを得ないという宿命を描く為に、芥川の蜘蛛の糸を使いました。  はぃ木胡桃さん、自治体で芥川の研究者の講義ありました。5回シリーズ。私は人の名前を覚えなくて、高名らしいです。  仰せのように、キリスト教にそんな話があり、それを脚色したのを芥川が神田の古本屋で見つけ、それから書き起こしたとのことでした。  木胡桃さんって、何でも知っているというかすごい読書ですね。  私はもう、講演や講義される機会を利用しての勉強です。そしてこのOKWave。  数年前、ちょいと救急車のお世話で、あぁ身辺整理という意味で、多少の蔵書はみな長くいた図書館に寄贈しました。そして今はほんの僅かなものしかここにありません。  新たに送られてくる図書も積んであるだけになりました。参加できない読書はもう勉強できないのです。  こうして木胡桃さんの成果を頂く事で、とても勉強に為ります。  ありがとう御座いました。今後ともよろしくお願い申しあげます。

krya1998
質問者

補足

 すみませぇ~んみなさん。  みんなベストアンサーなんです。どうしようもない。  皆さんに不義理ですが、私の誕生日二月三日にちなんでmaggaさんに投票します。  比例代表や党名投票があるといいのですが。許してください。とても感謝しております。  思いがけない収穫がたくさんありました。  ありがとう御座いました。

noname#131237
noname#131237
回答No.4

基本線として確認したいことがあります。 現代人の問題は、 仕事がうざい。 出世が出来ない。 給料をもらっても感謝したくない。 自分は単細胞だと思っている。 社会は、事物が接着剤で引っ付いたものだとおもっている。 その接着剤がオカネであると信じている。 人間の生存は、衣食住だというOX主義を真実だと思っている。 「おいら以外の人間は、組織性が未熟であり、認識が浅い。」と信じ込んでいる。 1 「おいらの組織性は最高であり、認識は最深。ボーダーレス時代、世界最高の人格『おいら』。オカネをおいらに渡す人間は、おいらの存在に神大な感謝をすべきである」という傲慢振りを発揮してしまうことです。 2 「おいらの考えを認める態度こそが、社会的であり、利他的である。」という利己主義が蔓延しています。 1・2は、宗教的つながりを否定する態度の典型です。 1・2の態度をもつ人で幸福な人というのは会ったことがありません。 そういう人たちは、経験的に税金を食いつぶす拝金主義の唯物論者(国家の敵)です。 おいらは敗北してないという、無根拠な信仰だけを大事に持っている人たちです。 霊)働いたら負け・感謝したら負けwww

krya1998
質問者

お礼

 tarako009さん、ありがとう御座います。 仕事がうざい。【私の46年勤務した大学生活は、給料はみんな高くはなかったが、専門職でもあったし、上司というものが20のときからありませんでしたので、そういう思いはありませんでした】 出世が出来ない。【出世って、別に考えた事がありませんで、自分と世界のの追究だけがテーマでした】 給料をもらっても感謝したくない。【感謝はみんなにしていました】 自分は単細胞だと思っている。【いえみんなと一緒に全体の中にいると思っていました】 社会は、事物が接着剤で引っ付いたものだとおもっている。【社会は自分の存在の黄ばんだと思っていました】 その接着剤がオカネであると信じている。【おカネは今も昔も、必要なだけであまりなんとも思っていません。おかげさまで働いている間は生活できましたし、46年大学にいまして、年金は今、部課長くらいです。接着剤と思っても居ませんでした】 人間の生存は、衣食住だというOX主義を真実だと思っている。【別に思っていません】 「おいら以外の人間は、組織性が未熟であり、認識が浅い。」と信じ込んでいる。【そういうのが現代人なら、自分はだらかがいうガラパコスの生物かな。】 1 「おいらの組織性は最高であり、認識は最深。ボーダーレス時代、世界最高の人格『おいら』。オカネをおいらに渡す人間は、おいらの存在に神大な感謝をすべきである」という傲慢振りを発揮してしまうことです。【そうなんですか】 2 「おいらの考えを認める態度こそが、社会的であり、利他的である。」という利己主義が蔓延しています。【そうなんですか】 1・2は、宗教的つながりを否定する態度の典型です。【そうかもしれませんね。私はわかりません】 1・2の態度をもつ人で幸福な人というのは会ったことがありません。そういう人たちは、経験的に税金を食いつぶす拝金主義の唯物論者(国家の敵)です。【私には無関係です】 おいらは敗北してないという、無根拠な信仰だけを大事に持っている人たちです。 霊)働いたら負け・感謝したら負けwww【私には無関係です】

krya1998
質問者

補足

 tarako009さんのしぶく、品のいいお話は何度か読まないと、同じ高さには参りません。  髣髴として来る方もあり、しかも分析はとても的確で私勉強には最高です。  こういうわさび(わび、さびではない、私はわさびを利かせて烏賊ゲソ刺しでやるのがすきなんです)のあるコメントをするtarako009さんの正体に関心があります。  男のしぶさっていったら、レディだったりして。まさか。むろんそういうこともありうるのでしょうね。  私達のグルは男性という存在で此の世においでに為りましたが、神が男か女かあまり関係ないんです。  人間達への説明では男とするのですが。  いやありがとう御座いました。tarako009の味は取り込めないものか。無理だろうな。

回答No.2

「あなた」自身が、無数の命(細胞)の集合ですが、あなたが個体 として行動するのに、細胞に宗教が必要でしょうか? 要するに、社会性の発達途上に、組織性が未熟であったり、認識が 追いついてなかったりした場合に、その短絡的な自己中心的行動を 拘束して社会を維持するために、宗教やモラルが必要だったのです。 情報や産業のボーダレス化によって、国の枠組みが無意味化し、 国家的対立や軍備が百害あって一利(ぐらいはまだあるか?)なし な物になりつつある今、宗教も無用の長物となりつつあるのです。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、 そうした社会性の範囲での「利己」は「利他」を包含します (組織の順調な営為こそが、その構成員の最大の利益)。 そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命= 助け合うために集まっているものとしては、働く事が生きる事となる。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、 どれほどいるだろうか? 人がとらわれているのは“お金(&その源泉としての出世)”という 虚構であって。 本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにも かかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを 奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっている。 (その錯覚の端的な例が、取引きで役に立つものをもらう=助けられて いる方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙) その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、 人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。

krya1998
質問者

お礼

 ご回答コメントを頂き感謝申し上げます。ありがとう御座います。  また何かお書き込み事項がありましたら、お待ちしております。

krya1998
質問者

補足

 psytexさんありがとうございます。宗教について私は未だに拘わり以上に関っています。  そういう私には、曽ってというと少し不遜ですが宗教に抵抗をしていた時代の自分の思考の進化と深化としてとても勉強に為り、斬新的です。  私は一応インドの思弁というか哲学というか、宗教というか教え精進しておりまして、理屈と事実としては仰せのことはよく判ります。  それでも仰せの事だけで終始するものとも思えないという今の境界です。  仰せのことで支配されそういう側面が生じ、そのとおりである事は認めます。  素晴らしいご指摘です。  ありがとう御座いました。

回答No.1

 小説、“蜘蛛の糸”に登場させられている釈迦というbeingは、善男善女の導きという役目での化生だと存じます。そういう意味では、つまり善男善女というものがいて、そういう人の宗教を称して世界宗教というのかもしれません。  宗教を質問者見たいに個人の問題とするならば、世界宗教っていうのは矛盾的表現で何を内包するのか分りません。  一般にはキリスト教とか仏教とか、ヒンドゥ教とか、ユダヤ教などは一応世界宗教といわれていると存じます。  ここにおける共通的世界や言語生活でのコミュニケーションということであれば、日本人の場合は不十分かも知れません。基盤的には神道の信仰態度が、ヒンドゥ教に通底する部分を持っているという見かたもあるようです。   普通の、善男善女でない人には、蜘蛛の糸の欺瞞的だという気持ちを持たせるとしても、まぁ小説ですからね。

krya1998
質問者

お礼

 ありがとう御座います。儒教や道教は、或いは老荘の思想は世界宗教には為りえないのでしょうね。  どんなに多くの方の精神の中に存在的になっても、みんなでいっしょにはぃ信仰というものではないということでは。  中国世界では儒教も道教も大衆化をしているようですが、基本根幹は大衆性ではないですね。  中国人の多くの方の精神性はやはり欧米や日本人の大衆信仰とは異なるものがあるようだし、そういう中で隠者的思考と生き方を泰然と持しおられる人もたくさんおられますが。  国際的コミュニケーションの場に立ち遅れているから、日本人は日本人であるだけにすぎなく人間以前のものだという思考とフレーズは奇抜で意表を衝いているようでありながら、そのいうところの国際性というものに「ちょいとまってくれ」といいたい。  或いは馬鹿馬鹿しいといいたい、という人も多いでしょうね。  ありがとう御座いました。第一、中傷的人間、想定的人間って居ないですよね。  日本人なら日本人としての歴史的心性を展開して、国際的に通じていく普遍性を醸成していくことですよね。  それはどの民族、国民、宗教にも、信仰や心性の言えることですよね。

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  • 「蜘蛛の糸」

    芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。 芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか? 、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。 青空文庫から「蜘蛛の糸」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓 『・・・カンダタの心には個我のイリュージョンがまだあった。彼は向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いの奇蹟的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。地獄とは何だろう。それはエゴチズム(利己心)に外ならず、ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。・・・』

  • 芥川の”蜘蛛の糸”

    ご周知のように芥川に”蜘蛛の糸”という短文があります。 【質問1】 釈尊が垂らした糸の蜘蛛は釈尊の手元にあるのでしょうか。 池の中のカンダタの方に垂らされたのでしょうか? もし後者だとしたら、池の外にいる雲を活けの底に落とすことになりますね。 それは釈尊としてはあるまじきことではないでしょうか? 【質問2】 池の底に蠢く亡者さんたちの行為と罪は遡り分析すると、その各人にのみ起因するのでしょうか? 創造者とかそういう人間を出した存在こそに起因するのだとは言えないでしょうか? 【質問3】 仏教の教説には門外漢ですが、 本当に苦しむ人がいるならそこに行って何とか救おうとすることこそ、聖者であり釈尊ではないでしょうか? 私は本当の聖者様はもっとも苦悩の人に寄り添うものだと思います。

  • 芥川龍之介の〝蜘蛛の糸"

    私は小学校に上がる前から"それの目的は?","それの意味性は? "と考える性格でした。 そして1943小学校入学。人生とは"向上の為"と決断しました。 中学は男子系中高一貫校で、宗教性とか建学性はなくハチャメチャでした。 立派で偉い人こそ最低の人の為に尽くすべきだと思っての入学でした。 ハチャメチャ校なら、立派で偉い人に出会えるだろうと思ったのです。 立派で偉い人に出会えたのですが、最低の人格の存在に尽くそうという使命感の人たちではありませんでした。 つまり素晴らしい人に出会えなかったのです。やがて芥川龍之介の"蜘蛛の糸"を読みました。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html 極楽の釈尊は手元で糸が切れて地獄に落ちていくカンダダにため息をついて、またいけの辺を心地よくそぞろ歩きます。私は釈尊の子の行動に疑問を持ち続けています。 極楽の立派な人は地獄に苦しむ人の救済に働くべきだと。 みずから地獄に赴いて共に解脱していこうとするべきだと。 皆様はどう思いますか?

  • 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の最後の1段について

     日本語を勉強中の中国人です。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を愛読します。お伺いしたいのですが、全文の最後の景物描写の役割は何でしょうか。極楽の世界の美しさを口を極めて誉めたいのでしょうか。何かこの景物描写の意図はいまひとつよくわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。次は役割がよくわからない景物描写です。  「しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」  『蜘蛛の糸』の全文はこちらのほうへご参照ください。http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

  • 【いたす】謙譲語or丁寧語(芥川龍之介の蜘蛛の糸)

    芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。 下記の2つの「いたす」は、 謙譲語で、敬意の方向は【作者→蜘蛛】ですか? それとも、 丁寧語で、敬意の方向は【作者→読者】ですか? お願いします。 この犍陀多という男は、人を殺したり家に火をつけたり、 いろいろ悪事をはたらいた大どろぼうでございますが、 それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。 と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、 小さな蜘蛛が一匹、道端をはっていくのが見えました。 そこで犍陀多は早速足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、 「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものにちがいない。 その命をむやみにとるということは、いくらなんでもかわいそうだ。」 と、こう急に思い返して、 とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 釈迦が行った生殖行為に対する憎悪

    第一の質問として、これは事実でしょうか?釈迦には実子がいた。 つまり、釈迦は若い頃に生殖行為、淫蕩に耽り、女性を孕ませたということです。 自分の行ったことと、自分が説いたことが一致していませんよね。 姦淫してはならないことは教えにあったと思うのですが。 これが私が最も釈迦を忌み嫌う一因です。許せません。 第二の質問として、それでも釈迦は開き直り、節制を勧めるのは一体どうゆう訳なのでしょう? 「若い頃は私も悪かった」のような開き直る年寄りども全般に対して虫唾が走る思いです。 回答よろしくお願いします。 ※宗教のカテゴリがありません。東洋?インド?哲学ということで、哲学のカテゴリにさせていただきます。

  • 蜘蛛を殺すべきかの判断基準!

    家で蜘蛛を見つけました。 1時間かけて検索した結果、クロガケジグモという外来種の毒蜘蛛です。 咬まれても命に危険はないようですが、とてつもなく痛いらしく、場合によっては吐き気や目まいがするそうですが、滅多に人を咬まないらしく。 咬傷の例は日本では今のところ無いようです。(ウィキペディアによれば、、、。)(咬まれた場合の症状は英語版にしか載っていません。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%AC%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%A2 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説が好きなので、蚊はバンバン殺しても、今までは蜘蛛だけは殺さない主義でしたが、、、、、「毒蜘蛛(→怖い)」「外来種(→もともといちゃいけない種?)」ということもあり、、、、悩んでいます。 今は、箱に閉じ込めていますが、なるべく早く判決をくだしてあげたいと思っています。 よろしくお願い致します。

  • 自己に対する偽善について

    質問コーナーで何回も起こされている質問の一つに偽善ってありますね。 知的論究での西洋的哲学では自己の信条については脇においているので、偽善っていうことはあまり問題にはならないですよね。 でも信仰とか信条とかを語ったり問題にする場面では、そう簡単にその信仰や信条の通りにはなっていないし、或はじっと隠れている反対の思いなどがあると思います。 だから信仰や信条を語るのはさけるのが賢明ですよね。 でも自分で決心や硬く信仰する場合などは、自分に対して偽善になることがありませんか? 辛い話ですが、プロの宗教者、神父さんや牧師さん。或は僧侶の方はみなさんそういうことを超克しているんでしょうか?

  • 仏教を学んだ人で神を信じている人はほとんどいないのでしょうか?

    原始仏教で釈迦が最初の段階で衆生に 「信仰を捨てよ」と説いたらしいので 仏教を学んだ人で神を信じている人というのはほとんどいないのでしょうか? また、仏教以外の宗教で信仰を捨てよという教えのある宗教はありますか?