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釈迦が行った生殖行為に対する憎悪

第一の質問として、これは事実でしょうか?釈迦には実子がいた。 つまり、釈迦は若い頃に生殖行為、淫蕩に耽り、女性を孕ませたということです。 自分の行ったことと、自分が説いたことが一致していませんよね。 姦淫してはならないことは教えにあったと思うのですが。 これが私が最も釈迦を忌み嫌う一因です。許せません。 第二の質問として、それでも釈迦は開き直り、節制を勧めるのは一体どうゆう訳なのでしょう? 「若い頃は私も悪かった」のような開き直る年寄りども全般に対して虫唾が走る思いです。 回答よろしくお願いします。 ※宗教のカテゴリがありません。東洋?インド?哲学ということで、哲学のカテゴリにさせていただきます。

みんなの回答

noname#150036
noname#150036
回答No.7

ああ 実子がいたようですね。釈迦にとっては泥の中を彷徨っ ていた気分でしょうか。釈迦は深い泥をくぐられたんでしょう。 しかし泥の中にいたからこそ 真理を求める気になったんじゃ ないでしょうか。 泥の中には何があったんでしょうかね。快楽あり 貪りあり。 ボクが思うには 泥の中には 妖怪が居たんじゃないかと。 そしてその妖怪との対話から現実を学んだ。 しかしその妖怪が語る現実のすべてを理解した結果 ひとつ だけ語られていない真実が残されている事に気づいた。 その妖怪にしても ひとつだけ知らない事があったのだ。 なぜなら ひとつだけ残された真実とは 人間だけに与えら れた ただひとつの真理であったからに違いない。いくら知恵 を蓄えた妖怪にしても真理は知り得なかったのだ。 そこで釈迦は泥の中から出て真理の世界へと歩みだしたので あった。 蓮華の花が釈迦の象徴とされるのは 蓮華は泥の中より出て 純白の花を咲かせるからであろう。その花は 泥が深いほどに よりいっそう白さを増すのである。 年寄を見たら妖怪だと思ってください。ただし その言葉の中に 決して語られることのない真理を見つけなければなりません。 あるいは 年寄と接することが嫌ならば 自分が泥の中に入り みずから経験を積み真理を求めなければなりません。 真理を求めない人生は 犬猫となんら変わりないのですから。 もっとも 人の形をした者がすべて人間であるとは限りませんが。 信じるか信じないかは あなたしだいです。(´ω`;) しかし 開き直りは善い行いとは言えませんね。

vgy75thn
質問者

お礼

怒りの感情を込めて質問を書き込んだので読むのを避けたいような回答があるのではないかと恐る恐る一番上にある回答をのぞいてみました。 私は「本当」を希求しております。 しかし、考えることを忘れてしまいました。 祈ることも最初から知りません。 頭の中からっぽで生きています。 牢獄の中の囚人や井の中の蛙は自らの意思でどうやって経験を積めるのでしょう、旅や旅行や観光旅行には行けません。 私はどこへ行こうと私の頭蓋骨から出ていったことがありません。 だから私の内に私の求めるべき答えがあるのではないでしょうか。 泥は嫌いです。殺人的猛毒の混じったヘドロも嫌いです。 わざわざ悪臭のする汚水に転落するのは愚者のすることです。 畢竟、私は人間としての一生涯にわたり完全に孤独を肯定して生きてゆこうとおもいます。 私ひとりで、私の心の自律を築き上げ、私の信念が認める事物のみを受け入れてゆきます。 止まない心痛も、誰にも認められないことも、私の無力さも認めてゆきます。皮肉にも仏教が言ってる事と偶然一致するような一切皆苦ですが。 釈迦のような気取り屋は無名のまま教えだけ残しておけば私の苛立ちは無かったでしょう。 丁寧に回答をくださってありがとうございました。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2910)
回答No.6

>自分の行ったことと、自分が説いたことが一致していませんよね。 姦淫してはならないことは教えにあったと思うのですが。 これが私が最も釈迦を忌み嫌う一因です。許せません。 姦淫しなくては人間が繁栄していかないでしょう。 釈迦が姦淫してはならない。とは言ってませんよ。 誰がいったんですか?もしあなたがそう聞いたのなら、 釈迦の名を語り金銭をむしりとろうという詐欺団体の陰謀です。 息子はいますね。確かに。 釈迦はもっと大きい、人間の苦について説いています。 その解釈は形骸化し、それを嫌い大乗仏教が生まれました。 そして仏教は鎌倉時代にぶっ壊れました。 あなたが釈迦を嫌うのは釈迦を知らないからです。 白人が有色人種を嫌うのとなんら変わらないと思いますが。

  • meinyuu
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.5

お釈迦さんが 生殖行為を否定したのでしょうか? 『すべてのことに理由がある』と説かれたのもお釈迦さんだと思っていました。 善悪の判断基準は種の保存に適しているかどうか! と自分ながらに結論付けていました。 交尾ができなければ私の存在もない 先祖には犯された者も 犯した者もいたのではと考えています。 それを悪と否定することは 自分の存在を否定することにつながります。 人はすべて いや生物はすべて自己中と思っています。 幾ら 善人ぶっても 冷蔵庫には 牛や豚 魚介類の死骸を転げているのが 人です。 白菜やキャベツの晒し首まで保管しています。 浅学な私にとって 生殖行為の否定には驚きました。 お釈迦さまも自己中で 他の者に美人を取られたくなくそのように説かれたのかも知れませんね! また不倫・婚姻と区別されておられる方も見えますが、何故に本人の意思までを否定しようとされるのかも不思議に思えます。 雄の不倫は種の保存に有効です。雌のそれは逆効果になります。 長い年月の間に淘汰洗練されて 雌雄の習性として残っています。 雌雄の差だけでなく貧富の差によって裕福な者は複数の対象を持っているということも事実です。 一夫一婦制の方が選ばれる側からすると不平等かもしれません。 愛は! 不倫は! 文学が作りだした創造物に過ぎないのではないでしょうか? ブランドに価値観を抱くのと同じように思います。 それに執着心を抱くことの方が 生殖行為を行うことより疑問を感じます。 お釈迦様の生殖行為に嫌悪感を抱かれている事は潔癖な生き方を目指されていらっしゃると感激です。 しかし、長い人生いつかは傷つく時が訪れることと思います。 相互の感情は種の保存にとって適しています。 相互にムラムラっときて 交尾して私が存在しています。 お釈迦様が 方便として説いたとしても それを心底否定してるとは思いませんでした。 どちらかと言うと 初女から生まれたイエスの方が私は嫌いです。 種の保存行為を否定できる人などいるはずがないと思いますがいかがでしょうか? 想像にすぎませんが、私も父母に おむつを変えてもらっていました。 いつのころからか 開き直って口答えをしています。 お釈迦さんも人です。 おむつを変えてもらっていただろうに いつの日からか開き直って 偉そうに講釈を述べ出したのだろうと思います。 町を歩いている人たちも偉そうなふりをしてるかも知れませんが 昨晩かいつかは分かりませんが二人で密かに励んでいるのだろうと思います。 昨晩!私は!彼と!・・・という振りで 正直に街を歩く女性がいたら楽しいですね! その事実を認めた上で 子孫がより良く生活できる社会ができると良いな! と 思います。 しかし、現実は政府関係者の独裁によって 良い社会形成に向かってると思えないことが残念でなりません。

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.4

まづ、第一の質問についてですが、息子が1人いたことになっています。 しかし、それは正妻との間に生まれた子共ですから、あなたが言うような「淫蕩に耽り」という表現には当たらないのではないでしょうか。 淫蕩に耽るというのは、多くの女性との性交渉をイメージしますが。 また、姦淫してはならないというのは、単に性交渉してはならないという意味ではありません。 姦淫というのは、不道徳な性交渉という意味です。多数の相手とか、不倫とかです。 だから、釈迦が説いたことと釈迦の行動は矛盾しませんね。 性交渉については、出家者には禁止していますが、在家の信者には禁止していません。 勿論、姦淫は禁止ですが。 釈迦が性交渉をもったのは、出家前のことであり、出家してからではないのですから、あなたの批判は的外れだと思います。 人間というのは、言葉だけで理解するよりも自分で体験した方が、身に沁みるという事が多くあると思います。 失敗した体験のある方が、より実感できるという事が多いと思いませんか。 自ら得た教訓を他人に説いたところで、あなたのように批判的にしか受け取れない人は大きな縁を見過ごしていると思うのです。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.3

心にかられて、自己主張のための、おしゃべりや行動する、あなたみたいな? 「人間を厭え」 「行い正しく、知恵ある相手に巡り会ったなら、道連れとなるがよい、 そうでなければ独りでいる方がよい」 と釈迦は言っているようです。 釈迦の基本認識の一つは、人間には、心、と、知恵、があり。 心と知恵は一体であり逆のものである。 「骨にて築かれ、血と肉で固められた城(肉体)は、怒りと奢りとを宿す」 そういう、苦の起源、となっている、心=執着、を捨て(知恵に)目覚めなさい。 というのが、釈迦の教え、と言えるでしょう。 釈迦の前世、雪山童子(つまり、出家前の釈迦)の寓話があります。 妻子を連れて修行の旅をしていた、雪山童子、は山中で出会った、鬼、が。  諸行無常、 諸行に常はない。己も世界も変化してゆく過程として、今、ある。  と詠った。 感激した童子は、その次も教えてくれ、と懇願すると、 鬼は、 おまえの妻を食わせるなら(妻への愛着を捨てる事が出来るなら)教えてやる。 と言った。童子が承諾すると、鬼は妻を食った後  是生滅法  法(世界の基本的な在り方)を滅するのが、生、である。          反重力形成、植物はいつか倒れる、と決まっているのに           重力に逆らって成長し。動物は死ぬと決まっているのに           生きようと動き回る。それ故に人間の一切は苦となる。  と詠った。 童子が、その次も教えてくれ。と言うと。 鬼は、お前の子供を食わせるなら、教えてやる。と言った。 童子が承諾すると。鬼は子供を食った後。  生滅滅為  生(にかりたてる、心=欲望、を)滅せ          欲望に起因する行動を滅せ。  と詠った。 童子が、最後も教えてくれ、と言うと。 鬼はお前を食わせてくれたら教えてやる。と言った。 童子が承諾すると。鬼は 滅為有楽  心、を滅すれば、静けさ、安らぎ、の世界が訪れる         充足感は欲望が満たされた故ではなく、欲望の消滅に伴う         感情であり、満足を追い求めても欲望が満たされる事はない。 と詠った。 童子は急ぎ近くの岩に駈け登り。4っの言葉を書き記す(仏、を刻む)と 鬼の餌食になるべく岩から身を投げた。 さらなる、創作、になりますが。 岩から身を投げ、地面に激突する瞬間、眼が覚めた。 釈迦族の王子、ゴータマ・シッダルータ皇太子は夢を見ていたのです。 寝具から身を起こし、座り、うなだれ、考えた後、顔を上げ。 妻子と共に、では無理なのだ。 国も妻子も捨てる=自分自身を捨てる。しかない。 すべてを捨て、旅に出よう。と決心をします。 ゴータマ、いわゆる釈迦、29歳であった、ようです。 ご質問の生殖行動に対する憎悪は、あなたの、(自分の心を投影しての) 評価、判断、であり。釈迦には憎悪の心などありません。 姦淫するな、などと釈迦が言うことはありません。ただ慈悲、慈しみと、悲しみの目で 見ているだけです。 釈迦の話す姿勢は、 「世間の賞賛と避難を無視する」であり。 自身が会得し、この世界の、在り方、起こり方、と合致する、と考える、 (縁起の)理法に沿っているか。 話す事が、相手にとって、仏(導くもの、目覚めさせる手助けになるもの)と 成り得るか。 だけが、話す基準、なのです。余計なおしゃべりをしたりはしません。 多弁に智なし、なのです。 弟子たちに対しても、何をするな、何が悪い、かくあるべし。というような 戒律を押しつけることはありません。求める戒律は、定(静けさょ、と、知恵、につながらない事柄、を避けよ。戒、定、智、を(学ぶべき)三学、と言うように、戒は自ら学ぶべき基本であり。 知恵を求めるなら、心を想起させる、刺激し妄想の縁になる事がらを 避ける、であり。女人にかかわるな、食は抑えよ、酒を飲むな、歌舞音曲に耽るな。 というようなものになります。戒、を縁として、定、が起きる、定を縁として、智、が起きる、 智を縁として、戒、が起きる。という考え方なのです。 それも、出家修行者が自らの戒律とするものであり。一般の人に 押しつけたりする訳はありません。 女人と交接しなければ、子供は出来ない、子孫は滅びる、のです。 あなたが、姦淫するなと釈迦が言ったと腹を立てるのは、お門違い、です。 年寄りは胸くそが悪い?釈迦は年寄りを尊重しない社会に未来はない。 と言ってますけど。 年寄りはあなたのなれの果て & 目覚め成長した(人間になった?)姿     

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

第一の質問として、これは事実でしょうか?釈迦には実子がいた。 ○ 釈尊が出家する前は奥さんも、長男、ラーフラもいましたよ。後に両方とも出家して釈尊の弟子になっています。長男ラーフラは優秀な弟子の一人でしたが若くして亡くなっています。 当時のインドでは、跡継ぎができれば悟りを求めるために出家しても良いという風習がありましたからね。 第二の質問として、それでも釈迦は開き直り、節制を勧めるのは一体どうゆう訳なのでしょう? ○ 出家僧は五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒〕を守って精神修行していましたから妻帯や女性との交わりなどは許されていませんね。布施で暮らす修行僧ですから当然ですね。 弟子の中には女性にふらついた者もいたようですが、その場合は一度還俗して在家、つまり普通の暮らしに戻れば、妻帯も自由でした。在家にもどり、財を成し、跡継ぎを残してから再度出家するということも許されていました。 つまり、布施で暮らす修行僧に与えられた五戒ですから、特に女性に関して守れなければ還俗し結婚して一般の在家弟子として修行すればよかっただけですね。祇園精舎、竹林精舎、鹿母子精舎などで釈尊の説法はいつでも聞けたのですね。釈尊は出家僧も在家弟子にも分け隔てなく説法してますよ。精舎を寄進したスダッタやカランダカ長者は当時の有名な商人ですが弟子としても立派だったようですよ。 在家弟子にも同じように五戒が与えられていますが、在家の場合は妻帯者ですから不邪淫戒は不倫してはいけないという意味ですね。 釈迦仏教では出家と在家の両方があったので無理な節制を強いるという考えはありません。 これは苦楽の中道という考えの一つですね。性欲の弱い人は出家僧に向いていますが強い人はそれが煩悩になって精神修行できませんので、妻帯し在家弟子として修行したというだと思いますよ。 まあ、後代の僧は釈尊もいませんので、自分や他人にに厳しいかたもいたでしょうが、釈尊は悟りの道は「苦楽の中道」にありと明快に教えを残されていますので、そこにあなたへの回答もあるということでしょうか。

noname#176957
noname#176957
回答No.1

根本的に誤解があります。 御釈迦様が出家したのは苦を滅する(そして安らかに死ぬ)ためで、当時インドでは出家と言えば世捨て人のようなものでした。しかし御釈迦様には釈迦族の王子としての世俗の責務(世継ぎを作る)があり、それを果たした上で出家したのです。 それで、 御釈迦様の教えは、 苦を滅して安らかに死にたい という人のために説かれたものなので、何の矛盾もないでしょう。 苦を滅したい(安らかに死にたい)と思っていなければ、なんの足しにもならないのです。 淫蕩に耽りたければ、別に御釈迦様の教えを気にする必要はないのです。

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    イエスの神が天国に案内すると言うのなら断るつもり https://okwave.jp/qa/q7518543.html 掲載したHTTPの読みやすくした修正投稿 正確ではないだろうが拾ってきた文章だよ。 日本の風土に合わせて提示された、十戒の中で生きることを苦悶させている苦痛から問いかけた達成不可能な人の叫びだった。 > 『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証し てはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』 この上に書いてあることが実現に苦痛を伴うそうだ。 さてと、 「殺してはならない。」 文明の開化期の風潮なら人と人がどのように折り合いをつけて共生するかが大切だった筈で、この殺しの対象は同じ人間だろう。人と自然界との関わりなら、自然の恵みは神の恵みであり、食べる事は殺すことではない。それ以外に殺すと言ったら神の事だ。他人の神様を殺してもいいのかね? それは戒めから抜け落ちている。 どちらも殺すなんてとんでもない。 姦淫してはならない。 生殖は、神への愛を紡いでいく神聖な行いで、それ以外が姦淫と解釈するなら破る必要はない。 盗んではならない。 私は盗む事は無い。 しかし盗まれる事は多くて困り果てているが、盗む輩をとがめるつもりはない。それが生き様ならば、私はその人をとやかく言わない。 盗む輩を弁護するが、盗む事を赦さないのは人間同士の場合だけだ。 私は赦す。 偽証してはならない。 罪人を穏やかにするための、あなたを赦すと言う言葉なら何度も投げかけた。 罪人はそれを嘘だと解釈するので、その限りでは私は常に嘘をついている。 偽証ではない。私は本気なのだよ。 父と母を敬え。 敬っておるよ。 しかし全くの他人も敬っており特別に敬っているわけではない。 それって罪なんですか? あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。 他者を愛する私にぶっ殺してやると言う輩は多いよ。 このカテゴリーの回答者も大半はそうだ。 そのおかげで愛する事が自らを犠牲にしてまでも(他者を)愛することになってしまうのだが、楽勝だよ私は愛する。 こうして見解を述べると私は天国に案内されそうだが、ここだけの話だが聖書に登場する天国の実態は私にしてみれば地獄だよ。 聖書の世界への案内をする天使は私にとって悪魔だよ。 天使であり悪魔でもある聖霊たちだ。 それはともかく質問は君達はこんなくだらない事を大切にするのかい? 命題を新規作成しないと、哲学ではないから質問の本質を所感という形で提示するよ。 私は十戒をクリアできることに喜ばない。 戒律を受け入れて達成すればキリスト教徒かユダヤ教なのだけども、戒律とはそもそも不要なのだと思うから、戒律そのものを無視している。 この問題が苦悩であることを私に教えた、普通の日本人が精神汚染される類の深刻な問題ではないのだと考えている。 そういう点から、回答者様も何らかの哲学を披露してください。

  • 私の考えについて意見してほしいのですが。

    特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。 具体的に 1 物事全般における三次元性 人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。 2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論 身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。 3 最近の国際的なマルクス論の展開 身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。 (今のところ)以上から 4 我々は宇宙(=自然=神)の一端 その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。 自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。