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批判に対して「敏感」になってしまった日本人

Daniel5013の回答

回答No.1

日本に限らず、自国の文化や習慣、伝統を批判されていい気持ちがしないのはどの国の人々も共通しています。 賞賛するにしろ批難するにしろ、他とのコミュニケーションにおいて重要なのは「相手のことを考える」ことではないかと思います。 「自分はそういうつもりで言ったのではないのに、相手が違うように受け止めた。」 これはある意味、身勝手で傲慢。 言葉を発する以上、相手がどう受け止めるかをまず念頭において言葉を選ぶべき。 相手に意に反するような伝わり方をしたなら、こちらにも非があります。 それは世界共通ではないでしょうか? あなたの文章を読んだ感想として、あまりに狭い日本人像、というか、かなり偏りがあるような印象を持ちました。 誤解されるには、誤解されるだけの理由がある。 要は「自分はこう言った」ではなく、「相手にはこう伝わった」が大事なことではないでしょうか? 悪意の言葉には反発が返り、慈愛の言葉には感謝が返ります。 もちろん互いに理解しあい、尊重しあうのならば、批難的な内容であれ耳が痛くなるようなことであれ、自らの反省材料として受け入れるべきだと思います。日本人に限らず。

noname#181693
質問者

お礼

基本的,かつ,一般的な視点での回答,ありがとうございます。 わたし自身が考えていることは,あなたのような「回答」を出すのではなく,「感情的」になり,批判にたいする反論をするのではなく,「個人攻撃」をやる人々が,いまの日本社会には多いことです。 また,あなたはわたし自身の日本日本人観を批判されましたが,わたし自身は,ひとりの「外国につながる」立場がありますので,そういった立場での日本・日本人観を主張しました。今後は,さまざまなバックグラウンドを持った日本人が日本社会を支えていくものと,わたしは考えています。ですから,このような「意見」もあるということを,ご理解してくだされば幸いです。

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