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大岡政談で有名な、江戸南町奉行の大岡「越前守」につ

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.14

こんにちは。大分回答が混乱しているようですが、少し関連する項目について調べてみましたので、回答させていただきます。長くなってしまいましたが、参考程度に。 1については多くの方が回答しているように、江戸南町奉行大岡越前守忠相で、忠相は官名である「越前守」の後になります。 江戸時代の武士は姓+仮名(けみょう=通称)+諱(いみな=実名-じつみょう)で構成されているのが一般的でした(下級武士では諱を持たない者も多かったとされます)。これは他人への呼び掛けには諱を呼ぶことを避ける風習により、仮名を用いたことによります。大岡の諱は「忠相」で変化はないようですが、仮名については、書院番士の時に「久馬」、その後「市十郎」「忠右衛門」と変え、山田奉行となって諸大夫として「能登守」の官位名になり、それが「越前守」変わるという変遷をたどっています。官位名については将軍の許しが無ければ任官したり、名乗ったりできませんが、久馬などの仮名についても変更を含め幕府に届け出をします。(用語の意味内容等については研究者により異同があります) 仮名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_(%E9%80%9A%E7%A7%B0) 諱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%90%8D 2については実質的な役目はありません。 3については幕府(将軍)が官位に就くことを許可し、官位名については本人の希望を聞き、手続きは幕府が行い、朝廷から任命されるという手順を踏みます。 4については社会的背景や、組織原理、職務権限の広さ、複数制などから考えても、江戸時代の役職を現代の役職にあてはめることは難しいことだと思いますが、それを前提に。 「(東京)都知事」については、皆さんもおっしゃっておられるように武家地・寺社地(門前町は町奉行所の管轄に途中で変更されます)・町人地の別や、管轄が町人地だけで、面積的に全体の10~18%(平均で13%程度)の狭い範囲でも、人口のおよそ半数を管轄し、奉行の下に3人の町年寄、その下に町名主という組織を持ち、それらを通じて庶民を把握し、行政を所管していますので都知事に比定するのは適当だと思います。 警視総監等については、江戸の治安の第一義的な責任者であり、犯罪の予防、捜査、逮捕などからは警視総監に比定されるでしょうが、それだけでなく、起訴・公判維持・裁判・判決なども考えると、(東京)地検の検事正、地方裁判所の所長を兼任しているとも考えられると思います。また、評定所の主要構成員ですので、最高裁判所の判事にも比定されると思います。 町人地の割合(下部に円グラフがあります) http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html 以下、詳細や思いついたことについて。 江戸期の武家官位の制度は三つの段階を経て完成します。その第一段階が慶長十一年に、武家の官位は江戸の推挙が無ければ与えられないように前将軍である家康が朝廷に奏請し、幕府が武家官位の決定権を握ります。第二段階は慶長十六年で、やはり前将軍である家康が朝廷に奏請しています。内容は、武家と公家の官位を切り離すこと。公卿の官位補任記録(今で言えば公卿の職員録に近い)である「公卿補任」に武家を記録しないことです。そしてこれらの結果から第三段階として、元和元年の「禁中並公家諸法度」の「武家の官位は、公家当官(トウカン)の外為(タ)るべき事」の規定になります。この意味は、武家に与える官位は、公家の在官者とは別に扱うということです。わかりやすく言うと、武家の官位は定員外ですよということで、名義(飾り)だけのものですよなどの意味ではありません。 確かに鎌倉時代から室町時代にかけて国守をはじめとする国司、国守が統括する国衙の権限は守護などの武士により侵食され、実態を失い、国守などは名誉職化します。その他の律令官職も中・下級官職を中心に職務の実態を失い名誉職化しますが、そのことと「禁中並公家諸法度」の条文の解釈とは関係のないことです。 定員外だからこそ何人もの越前守が同時期にいるわけです。公家にとっても豊臣時代のように武家に官位を侵食され、就ける官位が少なくなる(特に参議以上)ことが無くなる)という利点があったのです。武家、特に幕府にとても官職の任命権を握ることは、石高だけでなく、伺候席の区別などによる大名の家格形成と大名統制策の一つでもあったのです。 ところで、江戸幕府の役職は初期のころを除くと(最後期も)整備され、老中などの大名が就く役職、町奉行のような旗本の就く役職、御家人の就く役職と明確に分かれます(御側御用取次などのような例外はあります)。また、軍事部門の番方、行政部門の役方(町奉行は役方)という分け方もあります。旗本の就ける役職の内、高家を除けば、従五位下(朝散大夫とも言います)に叙せられ、国守などに任じられる諸大夫役と呼ばれる一群の役職が、最も上位の役職となります。次に、六位相当とされ(実際に任官はしない)、布衣の着用を許された布衣役と呼ばれた役職が次になります。 町奉行は諸大夫役ですが、大岡は正徳三年(1712)に初めて諸大夫役である遠国奉行の一つである山田奉行になります。同年正月に山田奉行に任じられると共に、諸大夫を仰せ付けられ、同年3月に従五位下・能登守に任官します。この能登守(越前守)は与えられたものではなく、自分の希望です。諸大夫役の役職に初めて任じられた時に、「諸大夫仰せ出される。」の文言のある仰書きが出され、その後、本人が希望の官職を提出し(伺書)、それで問題がなければ幕府が朝廷に申請し、任官されることになります。大岡の能登守について、一月に仰せ付け、三月任官と間が空くのはこのような手続きの時間によるものです。 それに、越前守の任官理由ははっきりしていて、享保二年(1717)に大岡が町奉行に任じられた時に、同じ町奉行で、町奉行の先任である中町奉行(歴史上2名しか任じられていない)坪内定鑑が能登守だったために、越前守に変更したものです。 なお、諸大夫役で任官できる官職は、従五位(上・下)、正六位(上・下)相当の、国守(受領名)や諸寮の頭(官途名)などです。 武家官位 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 「将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」に任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま官途名として認められた位記・口宣案が発給された」 大岡忠相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E5%BF%A0%E7%9B%B8 「坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。」 なお、3000石以上の者は「○○守」と名乗ることができたと考えている方があるようですが、原則的にはそのようなことはありません。3000石以上というと旗本の寄合ですが、これは布衣格であっても、諸大夫格ではありませんので任官しません。寄合よりも格上の交代寄合(参勤交代をする旗本。)でも原則任官していません。 交代寄合 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E5%AF%84%E5%90%88 「官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはほとんどなかった」 布衣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E8%A1%A3 「また、寄合席(三千石以上)の旗本はもともと布衣相当とみなされ」 旗本寄合席 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E5%90%88%E5%B8%AD つまり、大岡忠相などの旗本が任官するのは、諸大夫役に就任した時が原則で、石高で3000石を超えたからではなかったということです

park123
質問者

お礼

長文の説明ありがとうございました。 一番眼を目を開かされたことは、朝廷の力です。 <前将軍である家康が朝廷に奏請し> のように、おそらく形式とはいえ、奏請した、あるいはしなければならなかった、という点に驚きました。武力を持たない現在のローマ法王のように、朝廷は(私には)不思議な力を持っていたのですね。そして、前将軍というのも、興味を惹かれます。いろいろ思惑があったのでしょうね。 その他、沢山の興味あることを、教えていただきました。少しずつ、消化してゆきます。

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