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大岡政談で有名な、江戸南町奉行の大岡「越前守」につ

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.13

こんにちは。 お読みいただきありがとうございます。 >>1、喩え話や翻訳は、むずかしいものですね。ある一面では、内容を手軽に理解させることが可能であるが、他面では、誤解を与えることもしばしば。送り手と受け手が、基盤を共有していれば、問題はないのでしょうが。 その通りですね。 ですから、私たち「歴史作家」や「時代作家」は、現代に通用しないような言葉や、名称などをどのように多くの人に理解してもらえるかが重要なのです。 自己満足の範囲であれば、史料の通り書けば済むことですが、それを噛み砕いて一人でも解ってもらえるかが役目?だと思っています。 また、同じレベルの人であれば、 「ああ、それね。そうそう」 で話は通じるのですが、特に、このサイトへ質問される方は、疑問を解決できないから投稿するのだと思います。 そうした方々に少しでも解り易く、そして、一人でも歴史ファンが増えてくれれば良いな・・・との思いで、私は回答しています。 >>2、町奉行は、たったの20%、ということは驚きです。言われてみれば、武家がいたのですね。私の頭の中では、町人が生き生きと活躍し、武士の存在はまるで薄いものでした。 それ以上に、寺社地が20%もあり、寺社奉行もいたことです。アラブのイスラム教国家ならいざ知らず、寺社が勢力を持っていたことには、目を開かさせられることでした。 そうですね。 時代劇ドラマ(例えば、銭形平次など)でも多くの場合、町人同士の軽妙なやり取りで、町人の街のように思われがちですが、実際には、庶民は非常に狭い範囲に暮らしていたのです。 しかし、江戸時代の最盛期の享保年間(1716~)頃、吉宗の時代には、 僧侶、神官・・・・約6万人。 庶民・・・・・・・・・約50万人。(但し、4歳未満は数に入れていません)。 武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが、町割り図から推測して・・・・約50万人。 従って、江戸は100万人以上の大都市だったのです。 ちなみに、同じ時代のロンドンでは約90万人。パリが60万人と言われており、江戸は世界一の大都市だったのです。 また、寺院仏閣が多かったのは、将軍家を初めとして「儒教精神」が広まり、神様や仏様を大切にする・・・と言う考えから、多くの寺院や仏閣が建てられ、信仰の厚さが幕府によって手厚く保護されていたのです。 但し、寺社は多かったのですが、世間を騒がすような「暴動」などは起こしてはいませんので、「権力」を振りかざすようなことはせず、静かに、庶民の心の拠り所としてだけの立場を堅持していました。 面白い話を一つ: 徳川家は三河にいて松平を名乗っていた頃から、代々「浄土宗」を信奉するべきこと、と決められていましたが、 家康は、ご存じのように「日光・東照宮」の「神様」になりました。 秀忠以降はと言うと、 芝・増上寺(浄土宗)と忍岡(しのぶがおか=上野)寛永寺(天台宗)に交互に埋葬されました。 これなども、将軍家は宗派に関係なく神社、仏閣を保護した証しです。 従って、庶民も多少は宗派は持っていたでしょうが、どこの寺社でも大切にしたのです。 我々、現代人もある程度、自分の宗派を持っている人も多いと思われますが、どこの寺や神社に行っても、宗派に関係なく自然と手を合わせますよね。

park123
質問者

お礼

再三の回答ありがとうございました。 アラブの宗教動乱をみていると、江戸時代から続く <静かに、庶民の心の拠り所としてだけの立場を堅持していました。> に感謝したくなります。寺も神社も、穏やかに、またしたたかに存在してきたのですね。 現代人も <自然と手を合わせます> ね。この際、個別の宗教、個別の宗派にとらわれず、あるいは遡って、宗教なのか素朴な感情なのかも、区別してないようですね。

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