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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:俳句の閉鎖性について。)

俳句の閉鎖性について

kine-oreの回答

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.5

#4です。 >横槌だった、花入になった、おごらず、云々の随筆みたいな私がその句に付随する解説文だと思ってしまった文章は、一体何なんですか。芭蕉が書いた何という文章ですか。句の銘が杵折賛なんですか。 : まずは、「槌と詠い、杵と題していますが、当時の用語として、槌=杵でいいのでしょうか。」という点だけでも説明しておこうと考えたのですが、付けたURL写真のせいもあり、逆に一層の混乱を誘引しただけだったようでお詫びします。 やや長くなりますが、現時点で分かることだけ順を追って触れてみます。 1. 原文について 「芭蕉句選拾遺」(寛治撰、宝暦6(1756)年)など。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019606/98 これには、「大津に真蹟所持の人有を文意写譲りて井筒屋に伝」との付記あり。年代未詳とされる 2. 茶道具「杵のをれ」 岩波文庫版「芭蕉俳句集」の脚注では「町人考見録上所載の自安旧蔵品に「杵のをれの花生」が見える。句は京都でこれを見た折の吟か。春季であるから貞享2(1685)年、または元禄元・3・4年のいずれかであろう。」とあります。 そこでは、「石川自安」の項に「高麗筒の花生」に続いて「杵のをれ」の記載があります。 「町人考見録 元之巻」「日本経済叢書. 巻15」(53頁:37/318) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950398/36 ここから、石川貞清ゆかりの無文の古銅花生・銘「杵のをれ」(徳川美術蔵)や、その対で使われたという浅野幸長ゆかりの「古銅杵折型花生」もあるようです。 また、長次郎茶碗でも「杵ヲレ」や「横槌」などの銘があるようです。 http://item.rakuten.co.jp/senkien/stc010-203-t-215/ 一方、芭蕉は1685から1690年頃に、京都の石川自安由来の花生け・銘「杵のをれ」についての賛を認めた。その真蹟を保持する大津の人から文意を書写したものが井筒屋に伝わってきたものの収録文であると。 ここから、芭蕉が拝見した銘「杵のをれ」は、石川貞清ゆかりの大名物に準じた、直系である石川自安由来の花生けで、しかし木製のものであったということではないでしょうか。 これについては、斯界に造詣をお持ちの識者のご教示を仰ぎます。 >和歌も簡潔だと思いますが漢詩の簡潔さとは余韻の無さですか。釈然としない俳句も勉強したのでしょうが同時に文豪らは漢詩の明け透けさに引かれたというご教示でしょうか。 : 漢文の美しさはその切り詰めた簡潔さと、それにあえて助字を交えて音調を整えるリズムの良さにあるとしていますが、漢詩においてはさらに、より厳しい押韻や平仄などの約束事において凝縮度を高めているとされますが、それはまた俳句に通じるものがあるということではないでしょうか。

thegenus
質問者

お礼

質問者を助ける誠実なご回答をいつも有り難うございます。 スポーツのルールを知るのと同じですね。ならばそう認識されるよう関係者は教えてくれるべきです。あくまでもそのスポーツのルールだと。 今回の俳句はそれ以外に広範な情報を必要とするものだったようです。俳句のシンプルさを甘く見てはいけませんね。芸事の周辺知識など知ろうとする理由もありませんでしたので今回のご教授は私にとって貴重な勉強になりました。 充実した内容をもって助けていただき、回答者様のそのご親切に重ねて感謝申し上げます。ありがとうございます。

thegenus
質問者

補足

恐縮です。混乱させたのは私の補足文の方です。数々のご教示はどれも有り難く質問者の知識を更正していただきました。一つ一つ理解の達成をご報告すると本末転倒の流れになりますので割愛し文面共々意識を第二段階の理解へと傾けた次第です。なお当方はネット環境がよくないのでリンクや検索で同じように参りません。端的には重いページや検索力は無理です。テキストや検索ワードを併記していただけると工夫のしようもあり助かります。 何から何まで教えていただきなら反対意見を言うのも成長の証であり弟子を介して知る事もあるとご勘弁ください。 回答者kineさんも一杯美酒を食わされたのではないでしょうか。 芸道になんの予備知識もない質問者ですが、杵の折れは、形態分類の俗称で、言うなれば、半杵型の花入であり、木製用具の杵や槌と無縁に思います。当方、ネット検索できませんが、おそらく杵と銘打った該当の花入は薄い銅製品か陶磁器で一つとして材木を加工した品はないのではありませんか。ましてや椿や梅の槌や杵があるのでしょうか。 つまり芭蕉の賛辞の文意の伝聞に見られる木製用具は隠語であり、加工の事実ではなく、隠語から連想した架空の加工劇に思います。伝聞ゲームにより伝説化した面もありそのまま愛されている創作の逸話。 槌=杵については、そうではないからこそ、句内の語と句の銘とのミスマッチをさせて、創作である表明をしながら、槌であり杵あり、杵型の花入が槌になるから、こそ万の品々に連想が発展するように思います。この杵型やあの槌もでは冗長なのでその時は杵の方を捨て、杵型花入を詠ってみせるという文芸。 私が言うのもですが、日本語と俳句は、連想的ですよね。凝縮については、漢文はきっと組み立て式で、和歌俳句は出来るだけ言葉数少なく、連想を広げさせ、作者の連想妄想の断片を二三、配るスタイルに思いました。 利休が言えば痘痕も笑窪的な権威同好会のフィクションを自然科学的分析から遠ざける姿勢が俳句世界の立ち振舞いを決めている面が割に強いのではありませんか。 本題の季語についても宜しくお願いします。 引用にある「春季だから」何年という理屈は何でしょうか。干支のように年ごとに春夏秋冬があるのですか? ★実は、俳句人の正体は季節マニア!?

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