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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:俳句の閉鎖性について。)

俳句の閉鎖性について

kine-oreの回答

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.8

#7です。 >私は「松島やああ松島や松島や」の芭蕉をどこか馬鹿にしてきましたが、  : まだこんな「都市伝説」が蔓延っているのですね。 ここは国語の部屋なので少し注釈など。 桜田周輔「松嶋図誌」(1888年/初出文政4年)にて、古歌の一つとして列記されてある行(くだり)の誤解に始まっているのでしょう。 http://www.bashouan.com/puBashous.htm http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991518(36/44)             相模国                田原坊 松嶋やさてまつし満や枩嶌や   或云芭蕉翁此地に来りて風景を賞せしが詞の及ばざる志りて終に… (云々との前振りにて、後で作った句だとして、次の句が載っています。) 朝よさを誰(たが)ま津し毎ぞ可た古ゝろ  http://www.bashouan.com/psBashouPt16B02.htm これらを誤ってか故意にかゴッチャにしたのが、いつの間にやら…。今ではネットでPDF写真版が実見できるのだから、誤魔化しが利かないはずなんですがねえ。 「おくのほそ道」の文中の曾良の句も、当人の日記にはないことから、むしろ芭蕉当人が自作を韜晦したものとの見方もあります。 また、「船中一覧」にて「あさよさをたが松しまぞかたごゝろ」は「松島での芭蕉真蹟による」とあるも疑義は堪えません。 なお「奥の細道菅菰抄附録」には、次の句が載っています。 島々や千々にくだきて夏の海  以上為念。

thegenus
質問者

お礼

ああ松島やを広めたのはマスコミだと思いますのでマスコミが(風説の)責任を取らない企業である証拠の一つでしょう。 懇切丁寧なご指導ありがとうございました。

thegenus
質問者

補足

ご指導ありがとうございます。今回の質問をしなければそう思ったままああ死ぬところ死ぬところでした。狂歌ですよね(^^) しかし俳句に無関心の現実では都市伝説とかそんな生易しい程度ではないでしょう。公的に批判されることなくむしろ宣伝されている場面の方がわけです。そういえば松島のガイドでさらりと注釈されていた記憶もあります。伝説が無ければその商売の売り上げは激減しますね。 これを広めたのは俳句に無興味の素人や部外者ではないしそれは市民の「伝言ゲーム」による伝説化ではないと思いますよ。関係者や事実を知る人が指摘をしたり誤りを速やかに受け入れたりしないからですよね。この伝説は簡単に始末できると思いますし国語の知識が大事なら教師も文部省もしているはずですが。 それこそ国語教師が知っているのか専門家が何をしているのかです。私は専門家ではないので啓蒙に一円の利益もありませんがさっそく今日からはああ松島の迷信を積極的に否定し続けます。教えてやる気もなく事後に騙されたかいの発言では悪の一味です。 やはり回答者kineさんのような人が国語教師でなければなりませんよ。痛感致しました。 杵折賛の杵が花入になる話も教えられたものですがそういった花入の実在情報は作中以外にありますか。興味を持ってプロフィールを読む人はほぼ私のようになると思います。 ★芭蕉も歳時記の季語に制約されていたのでしょうか。主題に関する最重要の知見です。芭蕉と公式季語、季語の認定の関係をどう認識されるべき事になっていますか。 主題の方もぜひ宜しくお願いします。

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