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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:作文の時外国語思考と母国語思考とどちらを最優先に?)

外国語思考と母国語思考、作文の時どちらを最優先すべき?

このQ&Aのポイント
  • 日本語を勉強中の中国人が、日本語ブログと中国語版ブログを並行して書くことに困っています。中国語で書いた文章を日本語に訳すと、不自然な表現が多いです。具体的には、直接外国語で考えて話す方が自然なのに、母国語経由で日本語に訳してしまう不便さがあります。日本語で考えて書いてその後に中国語に訳すべきか、それとも逆か、どちらが良いのでしょうか?
  • 日本語を勉強中の中国人が、日本語ブログと中国語版ブログを並行して書く際に悩んでいます。中国語が母国語であり、自信がありますが、日本語に訳すと不自然な表現になってしまいます。外国語を話す際には母国語経由で考えずに直接話すべきと思いますが、作文の時はどちらの思考を優先すべきか迷っています。どの言語で考えて文章を書くべきかアドバイスをいただければと思います。
  • 日本語を勉強中の中国人が、日本語ブログと中国語版ブログを書く際に悩んでいます。中国語で書いた文章を日本語に訳すと不自然な表現になります。外国語の場合は直接その言語で考えて話す方が自然ですが、作文の時にはどちらの言語で考えて書くべきか悩んでいます。どの言語で考えるべきかアドバイスをいただけないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.12

くどいかもしれませんが前段: 文章は思考の発現であり他者に伝えるもの、書き手の教養・思想・人格の代弁者です。 言語は民族の自然環境と歴史環境の中で育まれてきたものです。 民族の思考法・感性・体質を栄養にして育まれました。 従って言語が異なる人が、同じ場面に遭遇しても、用語ばかりでなく脳と心での受け止め方が異なります。 ましてや語の選択・文体・言い回しなどの文章作法は独自の文化を持ちます。 これらに典型はあれども、感性による差異と選択基準はその言語文化で育った者に固有のものです。 同じことを書くにも、母語が異なると文脈が異なる場合もあります。 さらには、感激の対象の捉え方(一方は形に意識が向くが、一方は色に感性が働くなど)にも差異があります。 異言語環境で育った者にとって安易に超えられる壁ではありません。 外国語で文章を書く場合は、その言語文化に脳も心も置き換えることが必要です。 そうでないと、意味は通じるが心や味わいは通じません。 従って、文章は母語の文化の基盤の上で書くのが自然態です。 中文の作品は中国人の感性の発現であり、その和訳作品は原作と訳者の共同作品です。 名訳であっても、原作品の持つ母語話者の感性が完全に再現されるわけではありません。 同一人物が訳しても原作の味わいの再現は困難です。  -前段完-  ---------------------------------- さて、 ★ご質問のこと。  どちらを先に書くかとの問い、   「どちらの言語で原作を書き、他方に翻訳しても満足できない」とのことですね。  これは必然です、やはり別々に書くか、一方は翻訳作品として洗練するしかありません。  同じ対象/主題について別々に書いて、両者の内容に差異が生じても良しとします。    *中文作品は中文で書く。 *日本語作品は日本語で書く。          をお薦めします。  同じ対象/主題について    中国語脳と心 で書く    日本語脳と心 で書く         ことで興味ある、かつ有効な発見があるでしょう。 ★確認:  ブログの目的が日本語力向上で時間の余裕がないならば、  日本語で起草し中文は翻訳としましょう。 awayukiさんの文章には度々触れていますが、 些事は措いて定型文は充分修得し、 日本人の感性や文章の態度についても知識を持っていらっしゃいます。 今後の上達が楽しみです。  ---------------------------------- 西端真矢さんという文筆家(他分野でも活躍)が居られます。 参考になる記事を書いているのでご一読ください。 「外国語で文章を書くということ」   http://www.maya-fwe.com/4/000139_J.html

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご丁寧に回答していただきありがとうございます。改めて母国語の重要さに気づきました。脳の体操にもなると思うので、ブログで「中国語思考回路」と「日本語思考回路」に分けて文章を綴ることにいたしました。それは「中国人的な思考回路」と「日本人的な思考回路」という意味でもなく、「中国式な思考回路」と「日本式な思考回路」という意味でもないと思います。私にとって「中国語思考回路」と「日本語思考回路」に違うのは脳のなかの単語の組み合わせだけです。つまり、「中国語思考回路」は中国語単語全員加入の思考回路で、「日本語思考回路」は日本語単語全員参加の思考回路です。全部の思考回路はたった一本だけです。私が思うには、外国語文章を書くときに、その国の人になり切って同調で考える必要がありません。外国文化を尊重しよく理解したうえで、よいと思うものを吸収し、自分がどう考えているのか自分らしさをそのたった一本の思考回路に保つのがきわめて重要だと思います。たとえ中国語で伝えても日本語で伝えてもほかの外国語で伝えても伝えようと思うそのものは同じであるはずです。ということで、煙花さんがおっしゃった「同じ対象/主題について別々に書く」についてですが、私にはとても理解不能です。日本人ならどのように感じる、思うのか、中国人ならどのように感じる、思うのかですか。しかし、結局私の文章にしたのは私はどう感じる、思うのかということになると思います。なぜ二つの文章に書けることができるのでしょうか。ここは本当にとても理解できません。外国語を勉強する目的は多角度から物事を深く認識する、他人の気持ちをよく理解するためにあるのではと考えております。いまのところ、このような感じです。ロジックはまだ混乱で申し訳ありませんが、引き続き模索します。西端真矢さんの文章は非常に参考になり、強い共鳴を受けました。ちょうど外国語の勉強年数も近いです。本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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その他の回答 (12)

回答No.2

母国語優先だと思います。日本語で誤解を招いてはいけませんので、中国語の得意な日本人に依頼する方法があります。母国語に変換する必要がないほど外国語が使えるようになれば、直接外国語で書けるようになると思います。 質問文については、平均的な日本人よりも丁寧な言葉使いだと思います。ですので、想像するに、日本語のブログも気にしなくてもいい程度の文が書けているのではありませんか? >こういうことは、イコール話をするときに、まず中国語に変換してそれから日本語に変換するというルートですね。 この文の意味が曖昧です。ただ、なんとなく言おうとしておられることは伝わります。下のように書き換えてみました。質問者さんの仰っていることと合っていいればいいのですが。 ↓ ということは、同じ話しを載せる時は、まず中国語で書いて、それから日本語に返還するやり方の方がいいとも思うのです。

awayuki_cn
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。「こういうことは、イコール話をするときに、まず中国語に変換してそれから日本語に変換するというルートですね」という文で表現したかった意味は「同じ話しを載せる時は、まず中国語で書いて、それから日本語に返還するやり方がよくないと思います。なぜなら、日常で日本語を話す時に、直接日本語で考えて話すのだと思います。いちいち中国語経由はしないと思うから。これに似ていります」です。  いまの問題は母国語で先に書くと、母国語文章は頭のなかのその意味に一番近い良品になります。しかし、母国語文章に基づいて訳された日本語文章は不良品になります。でも、さきに日本語文章を書くと日本語文章は不良品になります。さきほどの母国語文章に基づいて訳された不良品日本語文章より一応ましだと思います。でも、この一応ましの日本語文章に基づいて訳された中国語文章はさきほどの良品の母国語文章より不良品になります。つまり、母国語で考えて書くと、良品母国語文章、不良品外国語文章になります。それに対して、外国語で考えて書くと、ましの不良品外国語文章、不良品母国語文章になると思います。本当にありがとうございました。

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  • Oubli
  • ベストアンサー率31% (744/2384)
回答No.1

質問の日本語には全く問題がないと思います。特に、主語を使わない場合が多いという日本語の特徴を十分マスターしています。強いて言えば「どのブログ」ではなく「どちらのブログ」の方が良いですが、日本人でも間違えることがよくあります。このレベルの能力があれば、日本語で思考して文章を書いても、母国語でまず文章を書き、それを日本語に翻訳してもどちらでも大丈夫でしょう。テーマによって使い分けたらいかがでしょうか。

awayuki_cn
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。ふと思ったのですが、主語を使わないのは日本人の自己主張が強くないことに関係があるのではと感じました。実は、この特徴はもう私の中国語構文に影響を与えました。ご意見は大変参考になりました。本当にありがとうございました。がんばります。

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