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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:借金取りは命までは取らない。)

借金取りは命までは取らない

noname#194996の回答

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noname#194996
noname#194996
回答No.8

NO.4 です。 あちこちに補足をいただいて申し分けなく思っています。ただ 理解力が乏しいのかいまいちピンと来ません。 どうも平行線をたどっているのか、私が間違っているのか。 >死活問題を想定するならそれにけらけらと笑えと言っている。 周囲がけらけら笑えるのは、その死に対して平静で居られるからでしょう。 どんな窮地でもなにくそといって弱らない、敗北を芳としないひとは居るのです。 そういたひとには何も助言はいらないし自力で死の壁をよけられる人でしょうね。 > 死を想定するならそれは幻だが一度あなたに死が付いて回ればそれをぬぐい去るのは死すべき時に、いまだ生きていて初めて幻と判ると言う成り行きだ。 したがって早めの解決はできないのだよ。 よくわかります。それを自殺者に、決行する前にどうして理解させるのかという問題です。 異常な死の想念にとりつかれているひとからその幻を引き剥がすにはどうしなければならないかということです。おそらく哲学的な問題ではなく、心理的な技術的な問題ではないかと思っています。 >その幻を生きている上で立ちはだかる壁ととらえるなら、死は幻と判る。 その状態では死活問題とは考えない。  死を避ける事と、生きる事は知が違うのだよ。 自殺願望者がそれを死活問題と捉えるのはあきらかに錯覚なのですが、 こういった知見を自殺防止に役立てるのはどうすればいいのか? >生きる知恵とは、死を恐れる人々からは、死にまい進しているがごとくだと見られる。 そう言うキチガイの技だ。 質問者様の質問は質問らしからぬ質問です。たとえば上記の一文は 身を捨ててこそ救われることもある といわれたさる賢人の言葉に似ているように思います。 自殺者には死を恐れさせることが最良の自殺防止策のように思います。 ご質問の趣旨から大分ずれたかもしれません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうだな。 死の予感まで至る過程は、無明に対する恐慌だ。 理解できないから対処できないのだ。 そして理性がそこでとまる。 その先がない。 死だ。 生きる意志を持って、そうして出来上がった死の幻影に立ち向かえばいいのだよ。 コツは悪魔すらも愛する意思だ。 愛から生まれる理解は強靭だ。 このような考え方に慣れると、幻影の死を超克し、私に言わせれば時間認識知性となる。 事の成り行きが先々まで読めると言う意味で、縁起を理解すると言う昔ながらの言い回しと同義だ。 恐慌に襲われ、理性的になる以前の入院患者みたいな状態なら。 人に生かされている事を理解し、自らが生きるために、今度は人を生かす事を考えよ。 こう諭す事だな。 私は生かすことばっかりで困り果てているのだよ。 救うと言う言葉は嫌いだが、人を生かすことに関しては、普通に生活して人と交われば必然的にそうなるのだ。 そして生かすばかりで生かされる事がない。 そこで出てくる面白いギャグが、死は究極の夜逃げだ。 死ぬ前に金返せ。 こうなる。 人の善性とは社会性とかかわっていて、人は自らが生きるために他者を自らと共に生かす性質がある。 善くとりもつとでも言うのだろうか。 私は仮面ライダーの暴力を持ってすらなおも、この善生の範疇を逸脱しない。 自らが生きる事は、同時に他者を生かすことである。 そこで生かされるばかりの人々は借金で首が回らなくなる。 借金返済を焦って生かす事をあわてて始めても空回りだよ。 その生かされるばかりの奴隷が、自らの意思で生きようとすれば必然的に生かすことにつながり、借金は順調に返済できるだろう。 私はそう言う愛の戦士仮面ライダー金貸しだ。 そろそろ取り立てを始めたいと思って準備体操で質問しているのだよ。

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