死を望むという考えは鬱病なのか?

このQ&Aのポイント
  • 死を望むという考えは一過性であるのか悩んでいますが、人のために死ねるなら喜んで死んでしまうと思っています。
  • 自分を嫌いで同情を欲し、鬱病かどうかわかりませんが、常に死を絶対的な到達点と信じています。
  • 自分自身が曖昧で矛盾だらけであり、死を望むということだけで鬱病と呼ぶべきか考えています。
回答を見る
  • ベストアンサー

死を望む事

死を望むという事だけで、鬱病と言うのでしょうか。 死を望むという、この考えは一過性であるのではないかと常に悩んで、でも生きていたいかと言われれば、人の為に死ねる場面があるのなら、きっと喜んで死んでしまうと思っています。死ねるなら死にたい、しかし死ぬ事に悪を感じている、もしくは面倒。思っているだけかもしれません。生きていたいとは思えません。 自分が嫌いで、同情を欲してしまう醜すぎる生き物なのだと自分を評価しています。こうやって書き込む事にも…。 鬱病だと言われたいのかも知れないですし、そうでないのかもしれません。自分自身が纏まりきらず、文章も目茶苦茶です。申し訳ありません。 ただ、常に死を絶対的な到達点だと信じて、それに憧れがあります。善悪の考えは恐らくいびつで、生や死に善悪を問うつもりも、生が善で死が悪だというテンプレートが聞きたいわけでもありません。 私は多分破綻していて、きっと特別に見られたいクズ野郎です。自分というものが曖昧で、鬱病かと言われれば身体的な病状もありません。軽度なのか、それとも弱いだけなのか。懺悔がしたいわけではないのです。書きながら、自分がますます矛盾していくのが恐ろしくて、少し楽しく思ってしまっています。何が欲しいのか解っていません。矛盾だらけで面白くて自分自身が気持ち悪いです。 今どうにか纏められる問いは、前述の、死を望むという事だけで、鬱病と呼ぶのでしょうか?という事です。 意味不明な長文、大変失礼致しました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • purin6776
  • ベストアンサー率24% (23/93)
回答No.3

鬱病なのでしょうか?厭世感じゃないのでしょうか?厭世感と鬱病は違います。

azana25
質問者

お礼

厭世感…成程、初めて聞いた単語です。自分には学がないのかもしれません。 自分に価値がないかと問われれば、そうですね。肯定が答えになります。 やはり一過性の観念でしかないのですね。ただ心が弱いだけなのですね。 お言葉、有り難う御座いました。

その他の回答 (2)

回答No.2

あなたは現在まで、長い時間をかけて色々なことを考え抜いて、そしてその考えに至っているわけですから、それは病ではなく、あなたの哲学だと思います。 あなたがもしも鬱病と思われたがっているのだとすれば、外の世界に対しての免罪符というか、理由もわからず湧き出る死への思いに名前を付けたがっているのだと思います。 いずれはその死への願望ごと、ご自分の哲学を誇りに思えるようになればよいのではないでしょうか。鬱病なんて名前はなくても、あなたの悲しみはあなたのものです。

azana25
質問者

お礼

なかなかに衝撃を受けた内容でした。有り難う御座います。 自己の哲学、という考え方はありませんでした。形や名前を欲していたのは事実なのかもしれません。 これを誇りとして抱えるのは、どういう意味のある事なのでしょう。停滞、継続でしょうか。考えてみます。 ともあれ知的なご考察、有り難う御座います。参考になります。

回答No.1

鬱々とした気持ちや、き死願望が2週間以上続いているのでしたら、早めにメンタルヘルス、精神科などを受診なさって下さい。若い頃は悩むこと(抽象的に)が多いのですが、少しでも、貴方の心が穏やかになるのでしたら、自分だけで考えず、是非専門家に相談してください。

azana25
質問者

お礼

その言葉は善意でしょうか。それとも無礼ながら「さっさと病院行けよ」という事でしょうか。考えて受け取るのは自分ですね、すみません。物言いが粗くて申し訳ない。 ですが精神科やメンタルヘルスには、正直かかりたくありません。仕事上の面倒になるのもそうですが、第一に彼等は答えや応答を返さないものだと思っています。心の病を治すには聞いてあげる事が大事だそうですね。確かに私はこの悩みを治したいとも思いますが、追求を楽しんでもいるのです。ハイハイソウダネソウオモウヨとあしらわれて吐き出してストレス解消だけをして、疑問をまるごと消してしまいたいとは思いません。それしか治す方法がないのかもしれません。治したくないのかもしれません。 お言葉、有り難う御座いました。

関連するQ&A

  • 人間6割悪4割善

    人間の6割は誰も見ていないと悪さをするといいます。 4割は誰も見ていなくても悪さはしないといいます。 科学的データです。(善悪二元論?) この事から一見悪そうな人も善だったり、善良な市民だと思えた人が悪だったりします。 たいてい悪の側の人間は、人をいじめたり排除したり、陰口、悪口が好きです。そのわりに社会的にはまっとうな人間に思わせてきますから見抜くのは難しいです。 宗教やっている人が善かといえばそうではなく、やっている人も集めれば6割悪、4割善でしょう。 しかしなんで悪が宗教やってるのかよくわからないです。教えてください。 また悪同士で友人、恋人関係を築いているわけですが、私には友情や愛といった感覚があるのか分からないです。どうやって結びついているのか・・・。 私自身、このデータにたどりつくまで、6割悪だと気づかずに人と付き合い、傷つき、損してきました。 これからは4割の方々とだけ付き合いって行こうと思っています。 これは何も悪を排除する事にはなっていないです。だって悪は6割もいて悪同士で結束しているんですから。 私は今まで悪と関わらないって事は悪を排除している事につながり、悪が善に転化するのを妨げてるんじゃないかって思っていました。 ですが最近は悪が善に転化することってないのではって思い始めています。 つまり人間は生まれたときから気質的に善と悪にわかれているのだと・・・。 まあ、ここまではデータは出ていないのですけれどね。 私のいってる事がほぼ真実に近いとしても、社会って6割悪だから、この考えは猛反対を受けて抹消されるとは思っています。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 死について

    こんにちは もうそろそろお盆の時期ですね。 少々重苦しい話題になってしまいますが、皆さんは死について考えた事はありますか? きっと人それぞれ捉え方が違いますよね。 人間、常日頃死と隣り合わせで生活しているのにも関わらず、私の死へ対する考えはまだ漠然としていて検討もつかないものです。 死についてどう思われているか、皆さんのご意見お待ちしております。

  • これは絶対善と言えないでしょうか。

    これは絶対善と言えないでしょうか。 私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • 絶対善みっけた

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • 死は恐くない!!

    こんなふうに考えれば死(自分の死)は恐くないという考えをお持ちの方がいたら教えて下さい。 *霊界とか魂のことを持ち出すのはNGとさせて頂きます。 *私は別に自殺を考えているわけではありません。

  • 尊厳死

     尊厳死が認められている地域と国。   アメリカの州の中には尊厳死が認められている州があると聞きました。自分の考えとしても人間の生と死も個人で管理できるようになるべきだと思うので、とても興味があります。   日本では認められないのでしょうか?。  現在実施されている地域を知りたいのですが・・・。

  • 人の死を

    人の死を望むのは、そんなに悪い事なのでしょうか 私は死んでくれたらいいのにと思うくらい憎む人がいます けど、常識的には生あるものの死を望むのは良くない、というのも何となくわかります 何故いけないのか、まではわかりません 呪い殺せば自分にも跳ね返るのではないか、という不安もあります でも憎しみで頭がいっぱい 死んでほしい 苦しいです どのような切り替え方があるのでしょうか? 助けてください