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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:科学と合理)

科学と合理

moto_koukouseiの回答

回答No.7

i) ここで用いられている「合理」とは一体なにを指しているのでしょうか。 ⇒ 「筋が通っている」という日本語と同じ内容でしょう。 ii) この考え方は科学主義(科学万能主義、科学教;批判的意味)を含んでいると考えて居ます。みなさんはどう思いますか。   ⇒ 「科学者は合理的な考え方を行う」を「この考え方」で指しているのであれば、その命題は、科学者の思考の単なる説明でしょう。「科学者は合理的でなくても構わない」ということはないでしょう。科学万能主義も、科学教も関係ないでしょう。「芸術家は感覚センスを重視する」や「舞踊家は身体で表現する」と「科学者は合理的な考え方を行う」とを考えあわすといいのではないでしょうか。   大陸合理主義、イギリス経験主義、帰納的な経験的手法どれでも、理性で理解納得できる、筋が通っていると感じられるかどうかを重視しているでしょう。科学が全てであると考えるかどうかは別です。   科学とは「身の回りの出来事、事象が一体どんな仕組みで成り立ち動いているのかを探求する学問や探求する姿勢、そうした理解に基づいて何かをしようとする姿勢や知識やテクニックの体系」なのでしょう。工学や技術、政治的、市場経済活動あるいは心理的、生理学的、社会学的な知見を利用するのも科学と称する場合があると思います。宇宙天体から原子よりもミクロな世界、電気化学的なこと、触媒効果のようなこと、流行や人気者に引きづられる傾向、成長発達の過程で反抗期がでたり、感情にとらわれて引き籠もる行動などもみんな知識経験として筋道立って検討するのに使えるのなら、科学の一部なのでしょう。   「科学が全てであり、そこに普遍的な真理・理性があると信じている」人もいるでしょうが、「人類が見つけ経験してきたことを筋道立てて整理すれば、より有効な知見が得られ、失敗や想定外のこととの遭遇を少なくできる」と思うのがより筋が通るでしょう。ただ、「経験や知識を増やし筋道立てて利用できる人」の方が、「そうではない人」よりも少ないというのも、ほぼ確かなことです。 たぶん、合理性を追求できる、知識体系や思考体系を科学的に利用できる人は少数派であって、相当に心して努力しないと、そのようなことは難しいのでしょう。だから、科学者コースで学ぶことになっている人に対して「科学者は合理的な考え方を行う」ことを強調しないとならない状況があるのです。せっかく、高校、大学、大学院などの中高等教育のコースに在籍し、あるいは研究所などの機関に在籍しそれを仕事にしているはずなのに、自分の現状の感性と惰性による慣性的思考や判断にとどまり、より筋道の通る理解をmol止めようとしない人が増えてしまうのでしょう。   「科学が絶対視されすぎている」というのは、ひょっとして「‘科学者、専門家、大学教授の肩書きを持つ人'のご託宣が絶対視されるだけでなく、合理的理解や筋道だって検討するのを放棄して、権威依存の風潮が蔓延している」ということではないでしょうか。   理解力や疑問発見力、矛盾発見力が衰えると、学問的情熱は失われます。 小学校のときから学問的情熱を失う人、中学校で失う人、高校で失う人、大学専門課程になって失う人、大学院になって失う人、研究者や政策方策の検討を仕事をするようになってから失う人がいます。 本人の頭脳的限界がそこにある場合もあるし、愚直さを怠ったために脱皮出来なくなってしまった場合もあると思います。   平成18年度東京大学学位記授与式総長告辞に次のような部分があります。 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message18_06_j.html > 大学に所属しようと企業に所属しようと、研究者であろうと実務家であろうと、文系であろうと理系であろうと、それぞれの活動の場において、勇気と能力と責任感をもって、知の最先端に立ち、未知なるものに挑戦し、困難な課題を解決しようとする人はすべて、知のフロントランナーの有資格者です。皆さんは、知のフロントランナーとなるために必要な能力を、確実にお持ちです。あとは、先頭に立つ勇気と責任感を身につけて、それぞれの活動の場で知のフロントランナーを目指してください。私がこれからお話することは、知のフロントランナーを目指すうえで必要と思われる三つの勧めです。 三つの勧めの第一は「鈍の勧め」です。「鈍」とは鈍感の「鈍」です。 「運・鈍・根」のうちで私が重視するのは「鈍」、つまり愚直です。愚直とは、愚かなほどに正直なことです。より正確に言えば、周囲から愚かに見られるほど、自分の信念に忠実に行動することを指します。優れた能力を持つ人が、周囲の目には愚かに映るというのは、彼、あるいは彼女が、他人の評価や社会の流行を安易に受け入れることをせず、あくまで自らの信念に則って行動するからです。外部からの信号に同調するのではなく、自らの内部にあるジャイロスコープに従って行動する人間が、私のイメージする愚直な人です。  彼、あるいは彼女は、付和雷同しません。しかし同時に、頑なでもありません。彼、あるいは彼女の信念は、確実な根拠に基づいて考え抜かれたものであり、それゆえに単なる流行に付和雷同することはありません。しかし、自分よりも優れた見解に出会ったときは、それまでの見解を潔く変更する決断力を持っています。実は、こうした愚直な人間像こそ、私が長年理想としてきた研究者の在り方なのです。 研究者は登山家に似ています。誰も解いたことのない課題に挑戦し解答を見出すのが研究者の使命ですが、登山家も、誰も登ったことのない山に初登頂し、誰も歩いたことのないルートを初制覇することに、生き甲斐を感じるからです。そして、単に生き甲斐を感じるだけでなく、他の人々に先んじて業績をあげることによって社会から評価を受けるという点でも、研究者と登山家は似ています。  愚直な研究者を登山家に例えれば、彼が目指すのは、彼が登るに値すると確信する山です。周囲に他の登山家の姿はほとんど見かけません。余りに険しい山で、頂上がどこにあるかすら定かではなく、これまでに多くの登山家が挑戦してことごとく退けられ、膨大な時間とエネルギーをかけても登山に失敗する可能性が高いと、他の登山家たちは知っているからです。愚直な登山家も、もちろんそのことは知っています。しかし、この山は登る価値があると確信するがゆえに、ひたすら頂上を目指します。既存の常識に捉われず、思い込みを排して、ありとあらゆるルートを試み、時には迂回することも躊躇せず、一歩一歩着実に頂上を目指します。その試みが成功するとは限りません。しかし、成功したとき、それは世界的業績と称えられることになるのです。  愚直さは、研究者としてもっとも重要な要素であると私は確信しています………    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 誰にでもスランプはあるし、順風満帆・快調に進んでいるときばかりではないです。 愚直に調べ、疑問にはこだわってしっかり調べることを続けなければ、本当の疑問も発見出来ません。 先輩、先人の受け売りや解説者は、科学とはやや縁遠いものでしょう。物理学専攻で数学も、観測も、実験も地道、愚鈍にやることで、おかしさに気付き、自分なりの発見や納得に喜びが生まれて、やがて情熱が高まるのでしょう。 自分の能力や成果に気を回していては、情熱はでてこないでしょう。倦んだことを自己弁護で懐疑主義などと正当化していては科学者にはなれないです。 愚直にもどりましょう。 それが情熱を取り戻す本道でしょう。

ageedaa
質問者

お礼

回答有難う御座います。 >自己弁護で懐疑主義などと正当化していては科学者にはなれないです。 >愚直にもどりましょう。 それが情熱を取り戻す本道でしょう。 心にしみました。後半の総長告示内容も素晴らしく、引用して頂いて本当に有難う御座いました。

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