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宗教と神は分離すべきではないか

MichiyaSの回答

  • MichiyaS
  • ベストアンサー率40% (34/83)
回答No.7

道徳とか倫理とかマナーとか、拘束力がある法律なんかが、神を切り離した「哲学的な教義部分」に該当すると思います。 多くの国では政教分離によって実現されています。 かつて不合理性の多い宗教が社会のすべてを決めていた時代がありましたが、神官の占いや神のお告げに社会の運命が左右されるという問題や、多民族国家では異なる宗教がぶつかりあって統治が難しいといったいろいろな問題があったからです。 しかし、政教分離政策がとられ科学によって自然のさまざまな現象が解明されてもなお、神様を信じ救いを求める人たちはたくさんいます。 科学や社会システムがどれほど発展しても、万人が神様を必要としなくなるほど世界から不安が取り除かれることな無いのだと思います。 神仏を排除しようという試みは共産主義国家において行われています。排除した側は人民を幻想にすぎない宗教から解放しのだたと言いますが、排除された側は弾圧されたと言います。 神仏がこれらの弾圧から信者を守っていない(少なくとも現世では)ことが事実である一方で、宗教を必要としない理想であるはずの社会システムが途轍もない数の人間を虐殺したことも事実です。 ソビエトの宗教に対する施策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6#.E5.AE.97.E6.95.99 中国のチベットに対する施策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E5%95%8F%E9%A1%8C 現代の日本や中国などには特定の宗教を信じない人たちが多くいます。 それはそれで人生が成立しているわけだから(問題が無いとはいえないけど)、神様を信じない人は信じなくていいと思いますが、信じる人に向かってまであえて「これからは神様なしでやっていこう」という必要はないでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は宗教はそのままに、神様だけ排除しようと考えたのですが虫がいいですかね。

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