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神への感謝を音読したい

お世話になります。 私は特定の宗教はやっていないのですが、 最近、神様への感謝がつのるようになりました。 神様というのは便宜的な表現ですが、 それに相応ずる偉大な存在、といった意味です。 そこで毎朝、神様への感謝の気持ちを音読したいと 思ったのですが、良い教材はありますでしょうか? キリスト教・仏教・儒教、あるいは哲学なんでも良いです。 1分程度で終わるものであれば助かります。 毎朝朗読して、神への感謝を一日忘れないでいられるような 文章がありましたら、よろしくお願い致します。

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  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.3

あなたの心からの思いをそのまま祈ればよいと思います。 他人がつくったものではなく、あなたとだけ繋がる内なる神に、 素直にありのままの気持ちを伝えてはどうでしょうか。 自分で書き出して文章にし、付け足し、書き換えしながら オリジナルの祈りを作られてはどうでしょうか? 外側の神ではなく内なる神はそのゆえに、あなたの隠れた想いをすべて知っています。 心の内に向かって「ありがとうございます」という声なき声を すでに神は受け取っています。

jobs_0115
質問者

お礼

他の方もご回答とご教授を頂きましてありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#214476
noname#214476
回答No.5

こんにちは。 神をどのようなものだと思っていらっしゃるかは分かりませんが。 シュタイナーの、幼児のための祈りはいかがでしょうか。 私の頭も私の足も 神様の姿です。 私は心にも両手にも 神様の働きを感じます。 私が口を開いて話すとき 私は神様の意志に従います。 どんなものの中にも お母様やお父様や すべての愛する人の中にも 動物や草花や 木や石の中にも 神様の姿が見えます。 だからこわいものは何もありません。 私のまわりには 愛だけがあるのです。

回答No.4

宮沢賢治「農民芸術概論綱要」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html   序論 ‥‥われらはいっしょにこれから何を論ずるか‥‥ おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である (以下はリンク先にて)

  • oyatsuya
  • ベストアンサー率21% (111/517)
回答No.2

神社の祝詞はどうでしょう? ウィキペディアに 祝詞(のりと)は、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章。 と書いてあります。 読みやすそうなサイトがあったので貼ってみます。お好きなのにされればと。 http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/osusumenorito2.html

noname#214275
noname#214275
回答No.1

勘違いしてますね・・ 神に祈るって そういう事ではありません・・ 外国の映画等の食事シーンで その日の主役となる人が食事前に祈ってるでしょ? その時 その時の気持ちを・・ それが「神に祈る」って事・・ ( 本当は 子供が 親に挨拶するのと同じ形になる筈だったが「堕落」が 神と人間の対話を切り離す結果に繋がった・・ )

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