• ベストアンサー

「~である」の用法

「~である」という日本語の用法について質問が有ります。 例えば (1) 「私は国語を勉強している」 を (2) 「私は国語を勉強しているのである」 というと変に感じるのは何故ですか? それとも別に おかしくないですか? 宜しくお願いします。m(__)m

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

するどい言語感覚を持っておられますね。 たしかに(2)は違和感があるはずです。 文法的に間違っているわけではありません。 単に「~である」というときは、 「吾輩は猫である。」のように、文脈に関係なく自然に感じられるはずです。 しかし、これを、 「吾輩は猫なのである。」とすると、ちょっと違和感が出てきます。 質問の例では、さらに違和感が大きくなります。 結論的に言えば、「~のである」というのは、前の文を受けて、それに対する説明を付加するような場合に用いるのが自然なのです。 「今夜は遅くまで起きている。」という前文があって、なぜ起きているのかを説明する意味で、 「国語を勉強しているのである。」といえば、自然に感じられるはずです。 この場合、「のである」は、「からである。」と同じ意味です。 同じ事ですが、さらに例を上げれば、 単に「山は厳しいのである。」というと不自然。 「山は高い。」と言った後に、「そして、厳しいのである。」と付け加えれば自然。 そういうことです。

mk7877
質問者

お礼

大変分かりやすい解説有難うございました。 おかげでスッキリしました。 日本語って感覚的には おかしいと分かるものの それを理屈で説明しようとすると中々難しくて、困ることが有りますね。 でもこれで解決出来ました。 今後とも宜しくお願いします m(__)m

その他の回答 (2)

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.3

>(2) 「…のである」というと変に感じるのは何故ですか? それは「と<いう>」からです。 このような「である体」は日常の「話し言葉」で使用するものではないので、「いうと変」になるわけです。 あくまでも「書き言葉」の中で、とりわけ客観的事実に基いて論理を組み上げ結論を導くような「論説」において、またそのような論文を読み上げる調子の「演説」を打(ぶ)つ場合などに見られる程度です。 たかが猫が「である」というと、論理性に溢れた知的言明の仕方が学者のようで滑稽で、また当時流行した尾崎紅葉タッチの洗練された口語文のお粗末なパロディとして微苦笑を誘ったものです。

noname#194996
noname#194996
回答No.2

> 「私は国語を勉強している」 ニュートラルな印象です。 >「私は国語を勉強しているのである」 あまり日常では言いませんから、目新しいというか、そう言う意味で変に(奇異に)感じるのでしょう。 おかしい(可笑しい)と思われてもおかしくはありません。 でも以前は「である」調はよく使いました。日本語として間違ってはいません。貴方が「おかしい」と思われるのはおおかたの傾向だと思います。こういった傾向を利用して文学者はむしろわざにこれを使うということもするわけです。合法的に、言葉遊びを含めて効果をねらうわけです。 NO,1 さんもおっしゃっておられますが「吾輩は猫である」というのも漱石がそんな効果を利用したという面があるのは否定できません。猫という卑小な畜生が「わがはいは、ネコ である!」と威張って宣ったという感じが読者に可笑しく感じられる効果を狙ったのでしょう(もっとも、明治初期と現代とではその効果は少なからずちがっていたことはあるでしょうが)。 この極端な例では「わしはAであるのである」とか「わしはBであるのであるのである」とか重ねる場合です。こうなるとおかしいのもおかしいですが、日本語としては間違いに近づく用法になっていくと思います。 以上のことは、日本語として正しいか正しくないかという文脈で言っているので、貴方が「である」をどこで連発してもOK であると言っているのではありません。言葉にはTPO があります。時と場所と状況に応じて適切に使い分けるのが常識です。

関連するQ&A