• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フロイトの《喪の仕事》 とは?)

フロイトの《喪の仕事》とは?

このQ&Aのポイント
  • フロイトの《喪の仕事》についての考察とは、愛する者の死とその喪失が引き起こす衝撃や症状を分析し、喪失の背景にあるリビドーの再転換の営みについて説明するものです。
  • 喪の仕事では、深刻な苦痛や不機嫌さ、外界への関心の喪失、愛する能力の喪失などの症状が現れますが、通常はリビドーを対象から解放する作業が行われます。
  • しかし、喪の仕事に抵抗を感じる理由として、愛する者に向けられた愛情や未練があり、自分を不実だと思うことが挙げられます。また、喪の仕事が長引く場合は、愛情の不釣り合いや相手からの応えがなかったことが影響している可能性があります。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.2

こんばんは。 >ひたすら 相手の心のありかや あり方をつかもうとする場合です。ありませんか?< これって、趣味の合わない只の人ですから、病気でもなければ気にもかけませんよね。 >なぜなら リビドーをも交えるようになるというのは すでに相手の気持ちや心つもりについて すでに確かめて知ったあとだと考えるからです。< ヨーガの奥義では、相手がいなくてもいいそうです。 >信仰により)人は、自己の「信じた」行いの結果として他者に感謝されれば、リピドーが大きくなることにより大きな自己愛を感じられるのだと思います。< 仏陀は、リピドー(人間の本質の潜在意識)からの解脱に成功した。 >○ リビドーを両性がチカラを合わせて よく用いることが出来たとき それこそがヒトとしての生命存在の本質であり 人間冥利に尽きる。< でも、あるがままに観て中庸に生きることを説いた。 >☆ つまり 互いに自分の《わがまま》を表現しても受け留められるかどうか その自己愛に互いに呼応しあえるかどうか。これが うつに落ち入るか そうではなく 《聖なるアマエ》のもとに自由自在にふたりの愛の核融合への道をすすめるか このいづれかを決めるのではないでしょうか?< これは、別れを意味していますね。今は、こちらが世の中の主流です。女性は、自己愛が満たされる方に進みますから。 私の考えに間違いはあると思います。前進あるのみですね   アリガト!(´▽`)ございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回は細かいところなどにはこだわらないこととします。  ご自身のお考えに沿って そのように思っておられるのでしょう。  そうですね。わたしがそれでも ひと言反応してみたいということでしたら こうお応えします。    ちょうどブッダが《犀の角のように独り歩め》と言うかのように どうも《ひとり ないし 個人》という前提が大きくのしかかっている。このように感じました。  何でもひとりでやる。といった傾向でしょうか。    わたしは 関係ないしマジワリを重く見る立ち場に立ちます。  ということで お互いにさらに自分の立ち場や考えを練って練られて行ければよいと思います。・・・

その他の回答 (1)

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.1

こんばんは。 私は、愛は全て動態の自己愛から成りたっっていると思います。 人は自己愛を、他人に投射して愛を確認します。そして、リピドーによる喜びを感じると思います。自己を喜ばせる力は、自分の「信じた」行いに対する、他者からの感謝です。人は、多くの他者に自己愛を投射し感射されれば、大きな自己愛を得て、リピドーは大きくなります。(リピドーは人間の生命の本質なので=潜在意識に関わると思います) >【Q‐4】 愛情をめぐる自己表現に ふたりのあいだで不釣り合いがあって それが長くつづいた。このことを見ないなら 喪の仕事というような《うつ》の世界に落ち入るのかも知れない。ということではないか?< (信仰により)人は、自己の「信じた」行いの結果として他者に感謝されれば、リピドーが大きくなることにより大きな自己愛を感じられるのだと思います。=宗教的 (うつ)は、そうできなかった者が陥り。他者からの感謝があるかどうかが問題なのです。人のすれ違いも、全て自己愛に対する他者からの感謝の多さの違いだと思います。((他者から多くの感謝を得たい=大きなリピドーを感じたい)人は、指導者を目指すのでしょう) 女性の方がリピドーに関して貪欲ですから。無能な男性の後ろに女性がいることを忘れてはいけないでしょう。(怒れる者は操り易い)男性の最後の手段の暴力は、現在DVとなります。男性は、家族=同等な共同体(法律)では女性に勝てないのです。世界はアリ型共同体へと進行しています。それはリピドーが優先する社会なのです。(女王アリによる) やはり、問題は自己愛とリピドーが一体の関係にあることではないのでしょうか。仏陀は、関係を悟ったのかもしれません。そして、リピドーでなく自己の感性、理性により自己の行いを「信じる」ことでの自己愛の完成を説いた。結果として、リピドーがなくても沢山の他者の感謝を得られた。(カースト制度という階級社会からの解脱) ここで、自己愛とリピドーの関係を考察しなければならないと思います。リビドーは、五感や六感による幸福感(エスの達成感=ワクワク)だと思います。それは、心地よい振動ではないかと思います。人は、この世界の振動を安らぎとして捉えるとき幸福を得るのでしょう。幸福感が自己愛となり、さらに、より「信じる」ことに繋がるんだと思います。人にとって五感で受けた振動は、正しいものでしょうか?人の感覚はあいまいではないのか?五感には、視覚による美、嗅覚による癒し、触覚による温もり、聴覚による心地よい振動、言語による集団心理、等があります。感覚は、全て神経組織から脳に通じています。ならば、五感を制御すれば人はリピドーを大きく感じ、大きな幸福感を感じ、大きな自己愛を得るのではないのか? 自己愛は、他人に投射することにより確認できます。ならば、他人を褒めたり賞賛すれば、それがお互いの相互作用をもたらし自己に射影として感じられるでしょう。また、五感の抑制により肉体的苦痛も和らげるでしょう(思いやり)。他人が五感の制御によりリピドーの高揚(ワクワク)による信仰をさせるなら、洗脳でしょう。自分で行えば神秘体験となるかもしれません。私は、「信じる」ことにより自己愛を感じて、人と人の繋がりを感じるなら、聖霊を観れると思います。それは、儚き生命に対する慈悲の心です。 ブラジュロンヌさん、私には難しい考察でしたよお~ん。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん こんばんは。骨太にならんとするご回答をありがとうございます。  ★ 人は自己愛を、他人に投射して愛を確認します。  ☆ そういう場合だけではないと思うのです。  つまり実際として言えば こちらの愛をいっさい投射せずに まづは相手の意向や気持ちをうかがったり確かめたりするという場合です。このとき こちらの愛は いわば中立のかたちに戻している。  ひたすら 相手の心のありかや あり方をつかもうとする場合です。ありませんか?  つまりは  ★ そして、リピドーによる喜びを感じると思います。  ☆ という段階に到る前に いちどこちらからの働きかけをとめているという場合です。  なぜなら リビドーをも交えるようになるというのは すでに相手の気持ちや心つもりについて すでに確かめて知ったあとだと考えるからです。  ということは わたしの考えですが  ★ (リピドーは人間の生命の本質なので=潜在意識に関わると思います)  ☆ という見方に異議をとなえていることになると思います。  なぜなら 愛は 互いのリビドーを互いに自由にあらわしこれを自由にどちらも受け留め合うということ だからです。言いかえると   ★ リビドーによるよろこび  ☆ なのではなく そうではなく 言うなれば    ○ リビドーを互いに自分たちのチカラと知恵を発揮して自分たちのもとに使いこなすことによるよろこび  が問題なのではないか?    ○ リビドーを両性がチカラを合わせて よく用いることが出来たとき それこそがヒトとしての生命存在の本質であり 人間冥利に尽きる。  のではないでしょうか? その愛――たしかにこれも 動態――のもとに社会一般におけるコミュニケーションが さらに広がり深まる。こういうことではないでしょうか?  リビドーだのムイシキだのと 現代人は ただのファッションなる精神分析をあまりにももてあそんでいはしませんか?  すべて 哲学のもとにおさめること。これが 肝心なのではないでしょうか?  ★ (信仰により)人は、自己の「信じた」行いの結果として他者に感謝されれば、リピドーが大きくなることにより大きな自己愛を感じられるのだと思います。  ☆ これは わたしなりに受け留めて言い直してみます。  ○ リビドーと言っても 欲望という側面に注目するのではなく 心の状態として或る意味で一般的な《わがまま》という側面に焦点をあてるならば そうするならば むしろ――《信仰》を問題としているところでは―― 《甘え》の問題となる。そしてそれは 《聖なる甘え》という問題となる。  ○ つまりは この《甘え》を 先に見たようにふたりが互いにみづからの《わがまま》のし放題をしつつこれを受け留めあっている。このアマエの庭にこそ 聖なる甘えに通じるところがあると見られるのではないか。感謝は 互いが互いに対してすることになる。もうそこでは リビドーは どうでもよいことになる。  したがって 言わんとするところは こうです。   ★ =宗教的 (うつ)は、そうできなかった者が陥り。他者からの感謝があるかどうかが問題なのです。  ☆ つまり 互いに自分の《わがまま》を表現しても受け留められるかどうか その自己愛に互いに呼応しあえるかどうか。これが うつに落ち入るか そうではなく 《聖なるアマエ》のもとに自由自在にふたりの愛の核融合への道をすすめるか このいづれかを決めるのではないでしょうか?  ★ 世界はアリ型共同体へと進行しています。それはリピドーが優先する社会なのです。(女王アリによる)  ☆ これは いやなシナリオですよね? そうしたくはないケースですよね?  たしかにそのとおり これを避けるシナリオを描いておられる。  ★ 感覚は、全て神経組織から脳に通じています。ならば、五感を制御すれば人はリピドーを大きく感じ、大きな幸福感を感じ、大きな自己愛を得るのではないのか?  ☆ この《制御》とは すでに触れたようにわたしの考えでは 《たがいがそのわがままを受け留める。そこにアマエが聖なる甘えに昇華している》といった愛なるツイ(対)関係のことではないでしょうか? 規制したり抑制したりすることではないと思います。  しかもつまり 人間は 社会的人間として 関係ないしマジワリにおいて その存在の条件を満たします。もはや ひとり個人としての存在において考え行動したりする段階ではないのではないか?  そして まづは 異性間のまじわりが むしろ基礎になるのではないか。男女のツイ関係が 一般的な二角関係ないし三角関係に先行するというようにも感じられます。  ★ 私は、「信じる」ことにより自己愛を感じて、人と人の繋がりを感じるなら、聖霊を観れると思います。それは、儚き生命に対する慈悲の心です。  ☆ というように性に対して中立な一般的なニンゲン関係においては なかなか《自己愛》が一段と高い次元において互いに捉えられるというような経験は 得られないのではないか?  アマエは むしろツイ関係としての動態にこそ 聖なる甘えとして成り立つように自己の次元を挙げて行くように思えるのですが?  精一杯うけとめましたが なかなかうまくお応えし得ません。  互いにさらに練って練られて行くとよいように思いました。どうでしょう?

関連するQ&A

専門家に質問してみよう