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科学の先にある疑問

もしも今後、科学が究極的に発展し、森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かしたとしたら もはやそれ以上、科学的な研究をする余地がなくなり、科学という営みは完結してしまいます。 そんな完結した科学の先にある疑問は、なぜ、もしくはどうして存在するのかというものだと思うのです。 例えば、なぜエネルギーというものが存在しているのか、なぜ素粒子が存在しているのかなど 未来の人々はそれらの存在理由を探っていくと思うのです。 科学では客観性や普遍性、整合性などを拠りどころとして自然を理解しようとしますが 存在理由の探究についてはなにを拠りどころにすれば、納得できる答えが得られると思いますか? 回答よろしくお願いします。

  • 科学
  • 回答数18
  • ありがとう数15

みんなの回答

回答No.8

No.2、7さんの言うとおり、自己の矛盾性にたどり着いちゃうので、堂々巡り。 自分でこれを理解する他ない。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.7

No.2 です。 もしも仮にという話でいくと、アリストテレスに行き着きそうな気がします。 形而上学でいけるかな? 5つある。(実際には4つだけど、個性を入れた方がわかりやすいから) 1.そのものの存在の証明 (実体・「ウージア」 といいます) 2.そのものの始まり (どうやって出来たかも含む) 3.そのものの終わり (おなじく、どうやって終わるかも含みます) 4.そのものの存在目的 (ここに個性を入れてあげればいいかな「イデア」ね)  #目的に、付帯性というのがあって、電子の粒子性や波動性という特徴も入ります。 最終的な指針は哲学になると思うけど。 やはり、存在の証明や、目的は明らかにできそうにないんだけどね。 ある人はそこに宗教を見るだろう、ある人はそこに神を見るだろう。 科学者は、基本的に、それは「幻影」として、自然界自身をして、 神や仏とするんじゃないかな?  #○○の科学なる邪教もあるしね。  #当然あんなのはお話にならないのであってね。 失言、失言( ̄≠ ̄)クチチャック♪ さて、ここまでは書いたけど、存在理由のよりどころとなるものは書いていない。 逆な言い方をした方がいい。 そもそも、理由が分からないから、これまで自然科学を探求してきたのが人間なんじゃないか? 落ちるところは、ここだと思う。 自然界が何故この様にきれいに存在しているのか? それとも、人間がきれいに見えるように形式化したのか? まるで胡蝶の夢のように、そこに刃の一つも入らないと思う。  #切り分けることは不可能だと思うよ。 質問に質問を返す様でわるいけれど、 「あなたの存在理由は?」 この答えを持っていれば、この質問の答えと成りうると思うけど?  σ(・・*)は分からないから、科学をやっているだけ。 (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >理由が分からないから、これまで自然科学を探求してきたのが人間なんじゃないか? そんなことはないと思います。 だって科学者は自然を様々な概念で解釈しようとはしても、存在の理由なんて 問わないじゃないですか。 まず科学上の概念が存在することを認めることができ、それがどのようなものであるのか 納得のいく説明ができたら、考えをそこで止めてしまう。 理由なんてあろうがなかろうがきっと興味ないんだと思います。 >「あなたの存在理由は?」 >この答えを持っていれば、この質問の答えと成りうると思うけど? ならないです。例にもあげているように自然に問いたいのです。 私の存在理由にしてしまうと人生とは何かとか、きっとそんな方向へ話が 飛んでいってしまうと思います。 そういうことじゃなく、無味乾燥な科学上の概念に意味を見出したいのです。

  • Tann3
  • ベストアンサー率51% (708/1381)
回答No.6

 「この世界の存在する意味・理由は何か」を追求するのは「人間」ですね。「モノ」そのものには、存在理由を問う能力はありませんから。  それは、「科学が万物を解明した」後に出てくる疑問ではなく、はるか昔から、人間は考え続けてきていますよ。  宗教は、まさにその一つの結論です。この世は何で出来上がっているか、この世を作ったのは誰の意思によるものか。そこに「神」という存在を仮定したわけです。  「神」という超存在も含め、それを追求する人間の営みが「哲学」です。遠い古代ギリシャの時代から延々と探求され続けてきました。  繰り返しますが、「完結した科学の先にある疑問」ではなく、科学以前から、人類が「考える」ことを始めてからずっと抱き続けている疑問です。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 完結した科学の先にある疑問と書いた理由は、まず自然がどのように成り立っているのか 解らなければ、存在理由は問えないだろうと考えたからです。 つまり完結した科学と調和するように科学で存在するとされる様々な概念に 存在理由を見出そうとするには まず科学の探究に決着がついてくれなければできないことです。

noname#160321
noname#160321
回答No.5

まあ、それより先既に「お金が無いからその研究は無しね」という壁に既にぶち当たりつつあります。(ヒッグス粒子より先は今の考え方じゃ無理) なお、量子力学で極短時間を扱うと「因果関係が逆転可能」という領域に達しますが、その際の「科学の基盤」って何なのでしょう?

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • mazeran
  • ベストアンサー率42% (221/518)
回答No.4

この質問を見て思うに、 >・・・森羅万象におけるあらゆる因果関係を解き明かしたとしたら・・・ この仮定ですべて解決では? 「なぜ」とか「どうして」が解決していないと、森羅万象の因果関係の解き明かしはできないと思うのですが・・・。 ちがうかな? 存在している理由などがわかっているから、森羅万象の因果関係が解き明かされると思いますが。 仰りたいことはなんとなくわかりますが、どんなに人間の自然に対しての理解が深まっても、未知のことが解明できると必ずその先に未知の事柄が出てきますので、「完結」は存在しないと思いますョ。 自然界の中に人間や人間が人間として存在している以上、人間の知識や技術は自然の力を越えることはできないと考えます。 要するに、「土台」より大きな物は上には置けないわけです。 皆さん書かれているように、存在理由の探求については「哲学」の分野での学問になるかと。 学問も結局は一つなので、人類がもっと進化していくと、いずれはすべての学問の知識や経験が必要とされる時期が来ると思います。 決して一つの分野の学問では、未知の奥深くまで理解はできない。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >存在している理由などがわかっている 是非教えてください。 >存在理由の探求については「哲学」の分野での学問になるかと そのようにも思えますけど、私が知りたいのはあくまで自然科学で扱われるような ものの存在理由です。 科学者の方は存在理由なんて考えないのでしょうけど、扱うものが自然科学の概念で ある以上は科学で扱ってもいいんじゃないかと思います。

回答No.3

No.1です。 最先端の素粒子物理学ですら、"なぜそれが存在するのか"はわからないのです。 それがわかればノーベル賞がとれます。 頑張ってください。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.2

No.1 さんにおなじく。 自然科学に完結はないと思いますよ。 存在理由を考えていくのは、「哲学」です。 自然科学も哲学の一部でしかないよ^^; 人間がやっている以上、終わりは来ないと思うよ。 (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 完結する・しないはどうでもいいのです。 あくまで話の導入・まくらのようなものであって 私が聞きたいのは存在理由を探究するには何を背骨にすれば 納得できるだろうかということなのです。

回答No.1

何をもって完結とするのでしょうか? 数学ですら無矛盾性を追求した結果、体系内では解けない問題が出てくるという定理があるというのに。 我々からしたらそういうのは単なる『杞憂』です。

asisai888
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 完結というのはあらゆる研究をやりつくして全ての事象を 既存の理論で説明できてしまうというようなことを想定して書きました。 私が聞きたいのはあくまで存在理由を探究するには何を拠りどころにすれば 納得できるような答えが得られるだろうか 言い換えれば答えの中に何があれば説得力を持たせられるだろうかということなのです。

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