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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:旧約聖書ヨブ記について)

ヨブ記とは?神様の試練と信仰について考える

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.2

   前半の質問については、No.1のNemurinekoNyaさんの回答が正論だと思います。ところで、後半の質問、「私は思うのですが、結局このヨブ記というなんとも謎の多い書物がなぜ我々に与えられているのかということを考えると、その究極的な意味は解りませんが、・・・」について回答したいと思います。つまり、このヨブ記から何を学べるのかという点ですね。    このヨブの忍耐と1世紀(使徒たちの時代)の初期クリスチャンの忍耐とを比較してみると興味深い洞察が得られます。ヨブは確かに忍耐しましたが、「もう死んだ方がよい」というようなほぼ絶望的な状態で忍耐しました。一方、初期クリスチャンは違います。    例えば、使徒たちが迫害された時のことについて、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」と記されています。イエスご自身が、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と教えられたのです。その弟子ヤコブもまた、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と勧めました。(使徒5:41、マタイ5:11,12、ヤコブ1:2)    そうです、初期クリスチャンはヨブとは対照的に「喜びを保ちつつ」、忍耐することができました。この比較から何を学べますか。まず、試練に遭っても喜びを保つにはどんな要素が関係しているのかが明らかになります。これを(1)の要素と言うことにします。要するに「引き算」ですね。初期クリスチャンがしていて、ヨブがしなかったこと、その「差」からその(1)の要素は明らかになるでしょう。    さらに、ヨブは喜びを保つことができませんでしたが、それでも彼は忍耐をし通しました。弟子ヤコブもヤコブ5:11でヨブを忍耐の模範として挙げています。では、人が忍耐し通す(=義を貫く、確信を曲げない)にはどんな要素が関係しているのでしょうか。喜びを保つという(1)の要素とは違った別の要素が関係していることは明白です。それを(2)の要素と言うことにしましょう。それで、ヨブ記を分析するとその(2)の要素を理解することができるのです。    このように、ヨブと初期クリスチャンを比較する時に、(1)どうすれば試練の中でも喜びを保つことができるのか、また(2)どうすれば忍耐をし通すことができるのかが洞察できます。もし関心があれば、別途詳しく回答します。

tokkey
質問者

お礼

まずは、お礼が遅くなったことをお詫びしておきます。 誠に申し訳ありませんでした。 貴重なご意見感謝です。 一点、お聞きしたいのですが、回答者様は >一方、初期クリスチャンは違います。 と書かれていますが、現代のクリスチャンは、どのように考えられているのでしょうか? よろしければ、その辺りのことも教えていただけたら嬉しいです。 有難うございました。

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