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キリスト教とその信者に反感を持つ理由

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.7

 ▲( a ) J.カルワ゛ン( Jean Calvin ):《神認識と自己認識は結び合った事柄である。それらはどのように相互に関連しているか。》・・・(ジャン・カルヴァン:《キリスト教綱要》第一編第一章の章題 渡辺信夫訳 2007)  ☆( a-1 ) まづ《神認識》という言葉じたいに疑問がつく。自己認識と同じように・すなわち経験世界のものごとに対する認識と同じように 非経験の神について人間が《認識》できると表現することに違和感がある。  ただし 神の愛(神が人を愛することおよび人が神を愛すること)と隣り人の愛(人間相互の愛)とが けっきょく同じひとつのことだと言われるからには 上のことは表現の問題にとどまると見て 読み進めよう。  第一章には三つの節があるが その第二節を取り上げるなら 章全体の趣旨が分かると思われるので そうしたい。  ▲( b ) (同上 第一章 1 の末尾)・・・自分自身〔の悲惨やその無知〕についての知覚は 各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみではなく 言うならば手を取って導くようにして 神を発見するように各々を引いて行くのである。  ☆( b-1 ) ここでは 人間が自分の知覚や能力および努力によって《神を発見する》と言わんばかりに聞こえるが これも表現の問題にとどまると見ておこう。  ▲( c )(承前としての第一章 2) その反面 人間は神の御顔を先づ凝視し 次にこれの直視から自己自身の検討へと下って来るのでなければ 曇りなき自己理解に決して到り得ないということが確認される。  ☆( c-1 ) これほどキリスト信仰について誤解に満ちた発言はない。誤解も何もなく  ○ 神の直視(=真理なる知恵を見まつること)  ☆ はこの経験世界にあって生身のからだでいるあいだは できっこない。いまは鏡に映してぼんやりと見ている。すなわちたとえ人間が予感することはあっても 肉眼ではもとより心の眼でも見えない。  たしかに終わりから始めるとも言われる。けれどもそれは 《信仰》においてである。  たしかに信仰は すでに《直視》が得られたなら すでに目で見ている当のものを《信じる》必要はもうなくなるのだから 必要ではない。希望も必要なく 愛だけが残ると言われる。  ここまでは言えるものの  ▲ 人間は神の御顔を先づ凝視し  ☆ というこれほどの表現がどうして出て来たのか? これは表現の問題におさまるとも思えないのだが どうであろう?  神があたえたまうならば ヒラメキにおいて異言や預言を得てそこから  ▲ 自己自身の検討へと下って来る  ☆ ことはありうる。けれども  ▲ 神の御顔の直視から〔自己自身の検討へと下って来る〕  ☆ ということは あり得ない。  小さなことだが  ▲ 曇りなき自己理解  ☆ は たとえ未熟でもまったくかまわないと言うべきだ。われわれは 知識の精確さによってではなく 信仰によってあゆむ。  ▲( d )(承前) すなわち (これこそ我々万人にとって生まれながらの傲慢の然らしむる所であるが) 明白な証拠を突き付けられて 己の不義 汚らわしさ 愚かさ また不純を自ら認めざるを得なくされない限り いつも自分は義であり 完全であり 賢明であり 聖であるつもりでいるからである。  ☆( d-1 ) ここも完全にまちがいである。われわれ人間は キリスト・イエスの名を心に受け容れて そのあやまちが赦されているのであって しかもすでにそのことは すべての人に実現しているのであって(エレミヤ書31:31以下の《あたらしい契約》を引いて論じるヘブル書8:1以下のくだりを参照) 《おのれの不義をまづ認めて そこから心が駆り立てられて神の探求へとみちびかれ 神の発見につながる》〔=( b )〕という見方も 正確ではない。  しかもいまここ〔=( c )( d )〕ではそうではなく《神の直視から始めて 人間の自己認識に到る》とも言っている。  ここまでの批判で批判は足りると思われる。次はおまけである。  ▲( e )(承前) しかし 我々が自己を観察しているだけで主なる神に思いを向けずにいる限りは このように己を罪に定めることはない。  ☆( e-1 ) すなわちここでカルワ゛ンは まづおのれの人間としての無力と悲惨を自覚せよ つまりはただただあやまちを自覚しその罪を深く思え そこから話が始まるのだと言おうとしている。  《主なる神に思いを向ける》のは 何も人間の学識や品行方正なる努力によって成すものではない。そうではなく あたえられるものである。しかも それはすでに――上に触れたエレミヤ書のあたらしい契約の成就によって―― その信仰の自覚の如何にかかわらず あまねく実現したと宣言されたのである。  人間としての弱さの自覚 あるいは それをもまた存在の全体をもつつんでくれる何ものかナゾなる存在 これに対するきよらかなおそれ を持つこと これだけで人びとはすべてみなすくわれている。世界との和解ができるようになっている。(するかしないかは また人それぞれである)。  ★ 反感  ☆ がなくなれば あるいは薄まれば それでよいかという問題ではないと考えましたので カルワ゛ンはお門違いかも分かりませんが イエス・キリストの出現についての理解が得られていないという点で新教各派も旧教も似たり寄ったりだと思い これを取り上げて論じ回答としました。  (《第二節》のほんの始まり部分を取り扱っただけで批判はじゅうぶんだとして切り上げたのは わたしの判断ですが 冗長をきらい いまはそのままとします)。

noname#202494
質問者

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。 私がキリスト教を信奉するのは、聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性があるからです。 喩え聖人であろうと、人間である我々はそういうわけには行きません。ギリシア、ローマ、トルコの同胞に書き続けたパオロの書簡にさえ、矛盾が見受けられます。 それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。 それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。 ご回答、ありがとうございました。

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